東京オリンピックエンブレム案
せっかくだから白紙撤回された東京オリンピックエンブレムの案をオレも考えてみた。
題して「全部白紙に。」
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せっかくだから白紙撤回された東京オリンピックエンブレムの案をオレも考えてみた。
題して「全部白紙に。」
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鹿児島中央駅のあたりに宿をとり、天文館通方面へ夕食に。名古屋で手羽先、鶴橋で牛肉、宮崎でチキン南蛮とくれば鹿児島では黒豚だろうと店を探した。とってもいい居酒屋が見つかり、黒豚や首折れ鯖などを肴に焼酎を。
翌朝は一路知覧へ。特攻平和記念館は長年行きたかったところ。膨大な展示物のひとつひとつに厳粛な思いがする。近くにあるほたる館も合わせて行った。
特攻作戦への怒りや若くして散った命の悲しさはしかし、飛び立った特攻基地の側からだけでは見えないものもある。それを意識したのは今年、沖縄の作家目取眞俊の著作を読んだからだ。
特攻で沖縄に飛び立って戻らなかった命と、戦闘が行われた土地で失われた命と。どちらの命も同様に、それを失わせた主体への想像力を働かせる必要があると思う。
怒りや悲しみをその現場だけでなく、直接見えない暴力的な権力への怒りや悲しみとしなければまた戦争は起こる。民主主義で戦争を止めるにはそんな想像力を誰もが持つことだ。
特攻で散った彼らは最後に母を思う。圧倒的に父ではなく母なのだ。それだけに女性の発言力が民主主義のなかで重要だと思う。死地に赴くまえに生きる選択をさせる力が女性・母性にはあると思う。男社会の暴走を止める力になって欲しい。それは戦争だけでなく原子力開発や地球破壊でも同じだろう。
知覧に長い時間滞在したため鹿児島はほぼ知覧のみで、熊本に向かった。馬肉の待つ熊本へ。
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♪無理して雇っちゃ いけないと
♪カネを渡して 追い出した
♪慰労金 どうして 二回払い?
♪噂をすれば 払わない…
♪おもいで避けて くれりゃいい
♪紅白にかかった カネを見て
♪そっとそろばん はじく彼
♪あの衣装 どうしてこの値段?
♪業者を変えりゃ 安くなる…
♪おもいつきだけで 口はさむ彼
(3番は特に替え歌にする必要なし)
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なんだか5年前に書いた「エイプリルフール廃止法案を米議会が可決」という記事にアクセスが集中してる!「卒業生、答辞」の時期が終わったら四月バカの季節だ。日々のうつろいをブログアクセス数で感じる今日この頃。オレは引きこもりかっ!
ところで、5年前に書いたそのエイプリルフールの記事で、日本の四月バカの元祖となった吉本豪三さん。すっかり有名人かと思いきや、さっき試しにGoogleで検索したら3件しかヒットしなかった!そのうち2件がこのブログひとくちメモだ。
つまり吉本豪三という名前は、世界中から情報を拾ってくるGoogleの世界でも非常に稀有な名前だったのだ。普通、同姓同名が数人みつかったりするもんだろ?でもよかった。本当の吉本豪三さんがいなくて(笑)。うそつきの元祖にでっちあげちゃったわけだからな。
んで、3つのうちの2つはオレの妄想の産物だったわけだが、もうひとつヒットしたのは「名前占い」というサイトだった。なるほど、そういうデータベースには存在するわけだ。
ということで吉本豪三さんの今日の運勢を占ってみたのだ。ヒマだろ!その結果は、
今日は、一期一会の精神で生活してみましょう。人との出会いを大切にすることが、幸運を呼び込むことにつながるのです。たとえあなたの苦手としているタイプの相手でも、真心を持って対応していれば必ず心を開いてくれるでしょう。そして、お互いがわかりあえる関係に発展していきます。性別や年令にこだわらず、気持ちと気持ちが真剣にぶつかり合ったときに、心の友情が芽生えるのです。
吉本豪三さんの今日のラッキーアイテムは「携帯電話」です。
とういうわけで、携帯電話でウソをつけ!ということですね☆
これもウソかな?
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人類が朝目覚めるのは、第一義的には排泄行為のためであることがわかった。
人類に限らず何らかのエネルギーを取り入れて体内処理し排泄する生物の“生きる意味”が排泄にあるとの学説が発表された。これまで人類は子孫を残すことが生きる究極の目的であり生きる意味と考えられてきたが、朝目覚めたときトイレに行きたくなることこそが生きる証しであり、単に個体の排泄が生きる意味とされたことにより、世界的にさまざまな動揺が広がっている。宗教上、倫理上の議論も噴出するものと思われる。
学説によると、あらゆる排泄行為によって地球環境は有機物のリサイクル、リユースが可能になっているという。地球という有機体の一部機能として生物が担う最大の役割が排泄にあり、これら生物は排泄なくして生きる価値がない。
排泄を終えたあらゆる生物はその生命を閉じる。子孫を残せたかどうかに限らず排泄の有無が生命線である所以だ。排泄を行うのは人類だけではないため、たとえ人類が子孫を残せず絶滅したとしても、排泄機能を持つ生物による有機物の循環が途絶えなければ地球の存続は可能だ。
この学説を踏まえ医療業界にも様々な変化が起きている。すでに医薬品業界では夢の不老長寿には排泄システムの延命こそが重要との認識のもと、様々な腸内環境改善の新薬開発競争が激化し始めた。
人類はこの重要な排泄行為を長い間不浄のものとして隠蔽してきた。そのため、食べる行為(インプット)を礼讃し、食べることを本能的な楽しみと考えるに至った。しかし学説によればこれは一種のすりこみ現象と考えられているという。
このすりこみ現象は、食事に興味を集中させ排泄機能を促進させる機能だという。この機能がもっとも突出した一部の人類は、生命の危険を伴ってでも食べ続けるという飽食の時代に突入している。また排泄物の質を高めるために健康という概念が生まれたとされる。
地球にとって人類の排泄物は、飽食による量の確保と健康的生活による質の向上とが同時に計られているともいわれている。まさに地球の意志を感じるが、そのような「意志」という概念は人類特有のものとも考えられており、単に地球による機能回復、自然治癒力の産物とするグループもある。
ただ、なぜこのような飽食や健康が発達したかの全容は未だ明らかになっておらず今後の研究が待たれる。一部研究者の間では、核開発により地球環境の有機的リサイクル、リユースが悪化し始めたことが原因だといわれている。さらに良質な排泄物を同時多発的に量産せざるを得なくなった地球の意志であるとの声もささやかれている。あるいはこれこそが機能不全の表出なのではないかと警鐘を鳴らす研究者もいる。
確かなことは、人類が核開発を進め自らの絶滅を早める行為は、地球による有機物リサイクル、リユースの循環を断ち切る行為であり、人類以外の機能不全をも引き起こすことだ。飽食ブームも健康ブームも地球にとってはありがたい排泄機能の向上といえるが、あらゆる有機物を死に導きトイレのないマンションともいわれる原発開発だけは地球の意志に反した行いといえるのではないだろうか。
●ニュース:排泄こそが生きる意味!?
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この時期になると毎年「卒業生、答辞」へのアクセスが増加する。卒業生諸君、あまり役に立たない記事でもうしわけない(笑)。
答辞を読む卒業生にとって卒業式は晴れ舞台でもあり、事前準備にネットを使うのは当たり前の世の中なんだろう。だけど悲しいのは、校長先生は君達ひとりひとりの顔を見ていない。君が代を歌っているかどうか教員の口元をチェックしているのだ。いまは大阪だけの話しだけどね。
大阪の公立学校の教員にとって卒業式は、君が代を歌うか歌わないかがもっとも重要かつ人生を左右する重大関心事になりそうだ。卒業する君たちに意識を集中することなんて出来ない。
だから答辞には楽に挑めばいい。先生方の気持ちは上の空だ。しかし考えてみれば主役は卒業生のはずだろ?それなのに教員の意識は君たちにない。これは失敬な話だ。
それなら、先生方に卒業生への関心を持ってもらえるよう、卒業生も教員の君が代斉唱問題にコミットしていってはどうだろうか。卒業式の主役は自分たちなんだよ。先生、私たちにもっと関心持ってくださいって心の叫びを君が代問題にぶつけてやるのだ(笑)。
どうせ聞いてないんだからトンデモないことを言ってみてもいい。ストレートに「君が代より私たちと一緒に歌ってください!」って長渕の歌を歌うとか。どこがストレートなんだか(笑)。
あるいは「長いものに巻かれる大人になんかなりたくない。私たちは君が代を強制される人生を送りません」と強烈に公立教員人生を否定してみせるとか。強制すればするほど君が代を嫌いな日本人が増えていくという教訓になるかもしれないよ。
それに関連してもうひとつ。「北風と太陽」って童話を答辞で読み上げて、「こんな風に君が代も強制するだけが効果のある方法ではありませんよ。もっとみんなが納得できる解を見つけることが教育ではないでしょうか諸先生方」と諭してみては?
逆パターンも面白いかも。君が代を礼賛して媚を売りまくるとか。「諸先生方の歌う君が代のすばらしい歌声を一生忘れません。大きな口をあけて絶叫してください。今日は無礼講で」とかさ。
「偏屈なイデオロギーを捨てて、君が代の君を卒業生の私たちひとりひとりだと思って歌ってください!」と新しい提案をしてみるのも面白い。一見歌わないイデオロギー批判に見せつつ、実は強制する側の偏屈なイデオロギーをも異化してしまう。ひねりの一発だね。
卒業式は先生方の最大関心事が「君が代斉唱」にあるセレモニーだと割り切って、そこにどう卒業生としてコミットしていくべきか。アホらしいが、アホらしさを楽しむこともまた人生には必要な技術だよ卒業生諸君!
●強制でどんどん「君が代」が遠ざかっていく
先日行なわれた東日本大震災の慰霊の式典には体調を崩されたなかで天皇が出席された。出席への強い意向を見せられた。それはたんなる公務を超えた気持ちだったように思う。
幸か不幸か天皇として生きる運命に生まれてきた。考えてみればこれほど強制され選択の自由のない人生はないと思う。私はそのことを思って「君が代」を歌う。歌うことになんのためらいもない。だが天皇以外のアホな連中に強制されるのは気に入らない。そんな「君が代」は気に入らない。
卒業式には必ず君が代斉唱があることについて天皇陛下にお手紙を出してお話を聞いてみたらどうだろう。全国の卒業生がインターネットで団結して、国民の象徴たる天皇陛下のご真意をお伺いして卒業式の答辞でご披露できればこんなすばらしい答辞はないと思う。それが出来る時代でもある。
もっとも君が代強制なんてことを言ってる人々は天皇陛下を軽く見てる。戦争遂行のときも利用し尽くした。だって持ち上げて責任転嫁すればなんでも出来るんだから。無責任国家に成長した日本の根源には責任転嫁の装置として天皇制がある。これは責任転嫁のシステムなんだ。
だから天皇陛下が「(国歌、国旗は)強制でないのが望ましい」と発言されていても関係ないようなんだ。強権的に命令して歌わせる。そんな「君が代」は誰も喜ばないよ。その歌は既に「君が代」ではなく、強権発動の道具に堕してる。
だから構造的には歌わせる歌が「カメカメハ大王の歌」でもいいはずなんだ。強権的に歌わせることが目的であって「君が代」である必要はない。卒業式で主役の卒業生を見ないのと似てる。歌う歌が「君が代」でなくても権威が保てればそれでいい。だがもっともらしい能書きが天皇の衣を借りて言える「君が代」は都合がいいのさ。ここでも利用してるだけなんだよ。
歌いたければ歌えばいい。歌いたくなければ歌わなければいい。国家公務員だろうがなんだろうが、その程度の話だよ。たかが歌だよ。国旗だってたかが旗だ。愛国心の中心はそこにない。しょせんは瑣末な話だよ。
でも責任転嫁のシステムがなくなると困る人々がいる。強権を手放したくない人々がたくさんいる。天皇陛下の言葉すら届かない「君が代」なんて、関東軍の再来かと思っちゃうよ。暴走だよ。この無責任社会を強制力でなんとか保とうとする我欲でしかないのが君が代強制ってこと。だからアホらしい話なんだよ。
先生方も面従腹背でいいじゃない。別に歌ったからってどーってことないよ。ボクは学校生活のどんなときだって歌ってたよ。君が代のアンビエントアレンジもしたよ(笑)。権威を見せつけたいああいう連中には上っ面だけあわせときゃ文句ないんですよ。どうせ戦うならそこじゃないと思うよ。
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腹が立つほど面白い。絶望的な面白さだ。宇宙人の鳩山は沖縄で何を言ったか。自分は人間じゃない宇宙人だからウソついてもかまわないとでもいうのか。米軍基地は国外、最低でも県外だったはずだろ。オレはあのウソで鳩山に「死ね」とまでいった(Twitterで直接)。政治生命を絶てと。
今回の茶番劇はこうだ。菅総理が「一定のメドがついたら若い人たちに責任を引き継ぎたい」と言ったら、これが辞任表明だってんでマスコミも色めきたった。その裏には鳩山元首相がいて、さらにその裏には平野元官房長官がいてこの発言をするギリギリまで調整していたようだ。
その菅総理の発言をうけて、鳩山は「二次補正予算決定後の6月辞任」と勝手に解釈、その後の記者会見で菅自身が「原発が冷温停止することが一定のメド」と言い放つと、岡田幹事長は「辞任表明ではない」と言い出し、鳩山は岡田に激怒し「人間ウソをいってはいけません」と発言した。というわけだ。
平野の名前が出てきた時点で、こりゃまたどーしようもない茶番になることがわかった。平野という政治家が出てきたらすべての話が茶番になる。
平野=茶番と覚えておけば間違いない。
岡田も出てきた頃は原理原則を貫く堅物ぶりがもてはやされたが、まったく原理原則のない日和見的性格なのに頭が固いだけという最悪の性格が露見してきた。我田引水の権化のような堅物だ。
岡田=我田引水と覚えておけば道をあやまらない。
そして菅だ。昔は応援もした。しかし総理大臣は務まらなかった。この期に及んで自分の出処進退を原発の冷温停止にからめてきた。冷温停止までなんていったら日本が沈没するまでと言っているようなものだ。
コイズミは自民党をぶっ壊すといいながら日本をぶっ壊していたが、菅はオレが日本を救うといいながらぶっ壊す。コイズミ時代ほどの余力がなくなっているから日本は持ちこたえられないかもしれない。
菅自身が冷温停止すべきだ!
イラ菅の頭を冷やせ!
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たまに句点(。)が一回しか出てこない長い長い文章を書きたくなる。もともと長文派なのだが、文章訓練をすると短く簡潔な文章表現を身につけさせられる。それはそれで実利に叶っているけれど、その制約を離れるための遊びがこの1文ともいえる。
シュルレアリストポップンポールの自動記述。これもいわば「ひとくち」の「メモ」ですし。もっともこの手法自体は蓮實重彦さんのマネですけど。
ただそんな文章をいきなり書くと正しい意味でヤバイ奴になってしまうので、ひとことおことわりを入れて書き始めることに(昔はそうじゃなかったのに弱っ)。いまの政治状況を見た目でも表現してみた一種のアートとして(笑)作ってみました。
私はタカ派を超えるウルトラバカ派と言われている民主党の前原さんが大臣を辞めてくれるのは大変喜ばしい事態だと思ってるんですけれども、いまの国会議員は法律も現代社会の諸問題もあまり意識になく、義理でありますとか世襲でありますとか松下政経塾出身でありますとか、そのようなわけのわからない根拠の人々ばかりになってしまっていることが非常に危うく、また官僚に底割れを見透かされる元凶でもありますので、せめて一般常識としての国会議員検定試験を実施し、その合否を最低限の立候補資格としてみたらいかがかと思う次第でありますが、その試験問題をでは誰が作れるのかと考えますに、それは官僚組織か学者にしか作れないわけでありまして、その常識からしてある種の偏りを内包してしまう危惧も持ちますけれども、基本常識というものは思想を問うものではなく、外国人から献金を貰うことの禁止でありますとか、選挙資金の事務手順でありますとか、そのような思想に左右されない本当の基本の基本とも申してもよい一般常識でありますし、現代日本の諸問題につきましては、官僚組織や学者の皆様に課題設定をしていただき、その問題についての理解度だけを問うようなものが出来ますれば、それを政治家個人の資質を測る基準として国民への情報開示ともなるように思われ、検定に合格した暁にはそれらの課題に各政治家が個人としての優先順位と取り組み手順、そしてここに来て初めて思想と申しましょうか、取り組む姿勢表明をしていただき、その姿勢に対して国民投票を行なうといった手順を踏んで国会議員を選択できることが望ましく、政党政治を超える政治家個人と政策とによる政治家同士のゆるい連携が可能となるように思う次第でございまして、外交のためでなく福祉政策だけのために特化した国会議員がいてもよいわけでありまして、その部分に対する報酬と政治資金だけで活動していただければ資金効率もよく、単なる数の論理のためだけに存在する政治家を一掃出来得る可能性もあるように考えておりますけれども、どのような仕組みをつくろうとも、それぞれに予算をつける官庁は最大権力となることが構造的に決定されておりますので、資金配分をこそ国民投票をしてみてはいかがかとすら願うところでございますのは、デモクラシーと資本主義との融合した社会では資本の配分こそが直接民意に基づくべきであるとの思想を私が持っているとも言えますし、その直接民主主義によって崩壊してしまう社会であれば、それも民意であろうとも考えておる次第でございまして、権力のありかを民意に戻し、ウルトラバカ派もウルトラ左翼もすべての権力を縛りあうとともに、中途半端な民主主義はそれほど有効ではないと思うからでもありまして、独裁政治や賢人政治への方向性も取り得ない現代資本主義社会においてはもう資本の配分において直接民主主義を導入し、その配分された資本を国会議員検定に合格した国民の代表者にゆだねて運営し、その進捗状況を逐一ご報告願うような仕組みづくりが必要なのであろうと思いますけれども、ここで平和憲法を全面に押し出し、象徴天皇と戦争放棄だけを盾に諸外国との交流を最小限としてアジアの僻地として細々と生きる選択肢もあろうかと思いますが、それもまた民意に問うてみなければ日本の行く末を描けるとも思いませんので、やはりここはまず国会議員の水準を一定以上とする仕組みづくりからはじめていただくのが賢明かと存じます。
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満のお歌の前で 泣かないでください
そこに作者はいません 作ってなんかいません
1000の風が 千の風になって
商標登録されて 流布してるだけです
というわけで、今日朝日ニュースターの「週刊鉄学」を見ていたら、新井満氏が“自身”による訳詞・作曲の「千の風になって」を歌い、この歌の誕生秘話を披露されていた。
この番組だけを見るといい話なんだけど、南風椎(はえ・しい)さんのブログを合わせて読むとちがった様相を呈してくる。
それが最初に替え歌にしたようなプチ・スキャンダラスな話だ。ネットではパクリだという説が流布してるけど、個人的にはパクリとはちょっと違う気がした。
ちょっとしたボタンの掛け違い、それが修復不可能な感情のもつれに発展したように見える。両者の考える道義の重さには雲泥の差があり、新井満氏側の考える程度の謝罪で南風椎氏側は到底納得できないだろう。商標登録までされてしまったらしいし。
だが、売れたモン勝ちの芸能ビジネスに身をおく新井氏側にしてみれば、カネ儲けに走るというコンセプトに照準をピタっとあわせた瞬間から道義なんて屁でもなくなったということなんじゃないだろうか。この問題は著作権の問題ではなく、千の風が億の金に見えたとき人はどう行動するかという行動経済学の対象となりそうだ(笑)。
他人のアイデアをパクル人はたくさんいるし、それで世の中渡っていく人もいる。昔ある有名な日本人数学者が、他人のアイデアをパクリまくってテレビに出まくっていた。最近もCMに出てたけど、著作権上の問題さえなければそういうことを平気で出来る人はいるのだ。そしてそういう人は使い勝手がいいもの確かだ。
「週刊鉄学」で新井氏本人が「千の風になって」という歌について語ってくれたおかげで、この歌になにか胡散臭さを感じて好きになれなかった理由がなんとなくわかってよかった。
でも初めてこの歌を聴いて感動する人がたくさんいることも確かだ。それが「八百長」の根源なんだよ。うまい八百長は人を感動させることもできるんだ。その裏にある話は当事者には大問題でも、一般大衆は知らずに感動していたいのさ。
吉本隆明じゃないけど、共同幻想なんだよ。八百長共同幻想論(笑)。そこに論理や倫理は存在しない。
新井満氏が最初から売らんがために動いたのか否かはわからないけど、売れると思った瞬間からの動きはあきらかにビジネス臭が漂っていくし、その胡散臭さも私には千の風になって届いてきた。
裏側を何も知らずに感動する小市民の幸せ。大衆をバカにしてるといって騒ぐ必要もない。バカになって楽しめばいいわけだし。大相撲も歌謡曲もその胡散臭さを含めて飲み込むものだ。へんな詐欺にあってバカを見るより歌舞謡曲、芸能の世界で騙されてるほうが幸せだ。
ただその裏側を知ってしまったら、その感動が怒りに変わることもあるだろう。最初から胡散臭くて好きになれない良識もあるだろう。そこは嗅覚や感受性の問題で、鑑賞者の意識や眼力が高くなれば、おのずとパクリビジネスなんてカネにならなくなる。パクる人間はカネの臭いしか感じていないから、鑑賞者の意識が高くなることだけが、パクリ防止に有効なのではないか。
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なにから手をつければいいのか わからないまま時は流れて
溜まるだけで消え行かない 燃えないゴミの山
ゴミがあんまり溜まったから ただ掃除をすると言えないで
たぶんもうすぐ 足の踏み場 無くて たそがれ...
あの日 あの時 あの場所で ゴミを捨てていたなら
ボクんちは いつまでも 快適な住空間
燃えないゴミが出せるその日を 忘れたまま掃除しないで
せんないけど 燃えないゴミは 日曜に出せない
明日になればゴミがきっと 今よりもっと増えてるはず
そのすべてが部屋のなかで 時を超えてゆく
ゴミを捨てる燃えないゴミ その日を待ち続ける
やわらかく ゴミをつつむ プチプチを巻き
あの日 あの時 あの場所で ゴミを捨てていたなら
ボクんちは いつまでも 快適な住空間
今 ゴミのひとつが崩れた...
テープ止めて 壁に寄せて
僕は忘れないその日を
ゴミを捨てる日は木曜日
ゴミを捨てる燃えないゴミ その日を待ち続ける
やわらかく ゴミをつつむ プチプチを巻き
あの日 あの時 あの場所で ゴミを捨てていたなら
ボクんちは いつまでも 快適な住空間
燃えないゴミが出せる日を忘れたまま掃除しないで
ゴミをつつむ プチプチを巻き
あの日 あの時 あの場所で ゴミを捨てていたなら
ボクんちは いつまでも 快適な住空間
こんな歌を作ってる暇があったら掃除しろ!!!!
ふぁーーーい
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