カテゴリー「書籍・雑誌」の302件の記事

2022/07/31

盛岡プチ散策 ~江口寿史「彼女」展~

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7月29日(金)朝9:32大宮駅発の新幹線はやぶさで盛岡駅にやって来た。最初の目的は山下達郎ライブのはずだったが、達郎がコロナウイルスに感染して中止となってしまった。先々週の東京公演の後、21日に発表され、その週末の札幌公演2Daysが中止になった。このときはまだ、盛岡公演には言及されず、無症状なら28日から行動可能なのかもとの淡い期待もしたが、スマチケ引き換え日の26日に正式に中止が発表された。

すでに新幹線もホテルも予約しているし、久々の旅行でもあるので盛岡に来ることにしたわけだ。都内では3万人を超える感染者が出た。今月24日までの1週間当たりの新規感染者数は日本が約97万人と世界で最も多くなっているというニュースもあり、都会を脱出しようとも思った。都内感染者数が1日4万人突破のニュースを盛岡についてから知った。

山下達郎ライブがないなら観光をと思い調べると、岩手県立美術館江口寿史イラストレーション展「彼女」が開催されていた。これは好都合。この展示に行こうと思った。

江口寿史「彼女」展の情報をtwitterで検索していたら、盛岡市に気になるレコードショップがあった。Sound Channel MUSIC STORE というアナログレコード中心に買取・販売をしている店だ。そこで配布している『CITY POP ON VINYL 2022』の表紙が江口寿史さんのイラストだったので、これも何かの縁かなとこのショップを訪ねてみた。

ビルの2階で、まさに「マニアックなレコードショップ!」という佇まい。階段をあがると目当ての小冊子が店頭に置いてあり、無言でもらって立ち去ることも出来たが、このマニアックな店の雰囲気に一期一会な感触を感じたのでドアを開けて入った。

店の男性がカウンターに独りいらっしゃるだけの小さな空間に、アナログレコードがびっしり置かれていた。山下達郎の「SOFTLY」のアナログ盤も飾り棚に置かれていてポスターも貼ってあった。

埼玉県から来て山下達郎ライブを見るはずだったことを伝え、いろいろ話した。観光だけになったのでこれから江口寿史展を観に行くことや、CITY POPの小冊子につられてやって来たことを話すと、額装された「CITY POP ON VINYL 2022」の表紙ポスターとか、大瀧詠一さんのロングバケーション40周年の江口寿史コラボポスターとか、うれしいものを見せてもらえた。旅先でのこんな出会いが大好きな私には、とても楽しい時間になった。小冊子はもちろんGETした。

その後、盛岡冷麺大同苑さんで仙台牛の幻ロース(友三角)、ネギタン塩、上タン塩、冷麺のセットランチを食べた。実はこれまで冷麺をあまり美味しいと思った経験がなかったが、大同苑さんで本場の冷麺を食べて印象が変わった。箸がどんどん進む。幻ロースもタンもすべて美味しかったなぁ。

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昼食が済んだので、このまま美術館でも良かったが、完全に逆方向なのと、個人的には岩手県民会館を見ておきたいと思っていた。開催見送りの張り紙も、ある意味で旅の記念だ。そこで県民会館に向かった。まさに山下達郎が好きそうな規模のホールだった。そっけないお知らせを記念撮影し、幻ライブが載った7月の催事案内をGETした。このとき気分はもう観光だったから、こんな行動も何気に楽しい。

その後は、中津川沿いを街ブラしながら、啄木賢治青春館などを見学し、14:30頃に流しのタクシーを拾って岩手県立美術館へ向かった。

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●江口寿史イラストレーション展「彼女」は圧巻!

美術館の入口を入った瞬間、来て正解だったと感じた。江口寿史のイラストには力がある。まさに時代のアイコンだ。だけど古くならない強さを持ってる。一枚の絵としての力と、それが一堂に介したときの圧倒される存在感。

撮影OKの展示だったので、ここでも記念撮影をした。展覧会の看板やポスターさえも作品の一部に見えてくる。場を吸引する力とでもいおうか。午前中に Sound Channel MUSIC STORE さんで見せてもらったロンバケ40周年コラボポスターも大判で展示されていた。また、吉田拓郎のアルバム「一瞬の夏」からジャケ裏と中のイラストを出力原画で鑑賞出来たのも嬉しかった。彼女というコンセプトの展覧会だからこの2枚だったんだろう。

Bornin1970昭和45年女 Born in 1970』創刊号の表紙イラストの彼女も出力原画で展示されていた。以前、『昭和40年男』で私に「中島みゆきの歌に出てくる女たち」を依頼してくれた竹部さんがこの新雑誌の編集長なのだ。いや、なんかうれしいね。

原画も複製も出力原画もあったが、最終的には商業出版物に掲載されることを前提に描かれた作品群だ。それをこうして美術館という場所に置いてみることの現代性。現代アートともなにか違うイラストレーションのわかりやすさ。だが、この展示の面白さの裏にある徹底した作家性にグッとくる。

中島みゆき、佐野元春、山下達郎、大瀧詠一らのアーティストを語ろうとするとき、いつも作家性と書いてしまうが、個性というより作家性と言いたくなる作家がいて、その作家性の在り処に興味がある。ジャンルは違うが江口寿史もそのひとりといえる。

常設展も鑑賞し、お腹いっぱいな充実感とともに盛岡駅行きの路線バスに乗った。ホテルは開運橋近くのダイワロイネットホテル盛岡駅前だったので開運橋で下車した。

バスを降りたのは17:30近くだったが、妻が行きたがっていたお菓子屋さんが18:00までだったはずと、歩いて向かった。しかし残念ながら閉まっていた。時間が遅かったからではなく、このあたりの商店街でコロナ感染者が1名出たからのようで、シャッター商店街になっていた。こんなところにもコロナ禍の時代の空気が影を落としていた。

仕方なく北上川沿いをホテルまで歩いた。川沿いはライトアップされていて、ここに屋台がズラッと並んだら博多っぽくなりそうな雰囲気の道だった。屋台はなく、オシャレなお店がいくつか並んでいた。

ホテルにチェックインしてから着替えて、夕食を食べにまた開運橋を渡って繁華街へ。この日は良く歩いた。暑さも和らぎ、さいたま市と比べるとベタつかない乾いたそよ風が気持ちよかった。

夕食はヌッフ デュ パプ (Neuf du Pape)さんで。アメリカンドラマに出てくる飲み屋な雰囲気。エビスを飲みながら、メカジキのカルパッチョやイチボステーキ、ソーセージ、締めにジェノベーゼを食べた。美味しかった。帰り際に、ビルのなかに江口寿史「彼女」展のポスターを見つけた。ほんと、どこにあっても目を引くアイコンだなと思った。

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2021/12/29

野球ファンでなくても引き込まれる『嫌われた監督』

前回、私家版ことしの漢字を「読」と書いた。それほど今年は読書も出来、読みがいのある書物も多かった。しかし、そのブログを書いた後に書店の平台で出会った書物、鈴木忠平著『嫌われた監督』は、まさに今年読んだ最高の一冊といっても過言でないほど引き込まれた。購入して毎日むさぼるように読み本日読了した。9月25日初刷、私が購入したのは12月10日発行の9刷本だった。3か月弱で9刷、かなり売れている。ファンだけが買っているわけじゃない証拠だ。

もともと私自身は個人技が好きなので団体競技やチームスポーツよりは、個人の力と理論でオンリーワンとなった人に惹かれる。子どものころから学校などで選択してきた(させられてきた)競技も、テニス、剣道、水泳、陸上(短距離、砲丸投げ)、柔道とことごとく個人プレーだった。

日本でのチームスポーツの最たるものが野球なので、もちろんプロ野球ファンではない。しかし昔から落合博満という人には何か惹かれるところがあった。というより、なぜ落合が選んだ競技が野球だったのかという疑問すら持っていた。まぁ昔の田舎の子どもが運動をしようとすれば、かなりの確率で野球に触れるのかもしれない。

なぜ野球の道に進んだのかはわからないが、高校時代に学校をサボって映画館に入り浸っていたエピソードが書かれていた。体育会的な雰囲気になじめなかったり、独自の考えをもとに自分自身を鍛え律する生き方は勝負師そのものだ。落合の才能は野球だけではなく、勝負に徹する者のディシプリン(規律)を貫く才能だと思った。

●いつもヒールが好きだった

プロレスでいうヒールの雰囲気が好きだ。たぶん昭和の映画好きは、悪役を愛する癖がある(妄想だが)。私が好きだったブルーザ・ブロディも、キムヨナもとことん強いヒールだった。落合博満もまさにヒールだったし、そこに焦点を当てた『嫌われた監督』に惹かれたのは必然だったとすら思う。

映画好きな落合自身もヒールが好きだったのではないか。その片鱗も書かれていた。落合の番記者だった著者ならではのエピソードの数々がこの作品に深い味わいを与えている。著者自身も若いころから落合博満という独特な人物を取材するなかで、陰に陽に影響を受け、物事の見方や思考の流れが変化していったのではないだろうか。

誰もが落合博満のような個の規律を受け入れることなどできないし、だから嫌われるのだろうが、これがチームスポーツでなければ、まったく違った受け入れられ方をしたと思う。

落合博満のモノの見方を読んでいくと、アドラー心理学にとても親和性がある。例えば『嫌われる勇気』を読んだことがある人だったら納得できると思う。

あらゆる悩みや迷いは人間関係に行きつく。だが、だからといって他者からの評価を目標とするのではなく、「個」としての自分自身の問題と他者の問題とは無関係であることを認め、自分自身についてのみ考え、自分自身が自分自身のために変われるかがキモになる。

自分が納得できる生き方をすれば他者評価は不要だ。承認欲求に振り回される生き方から自由になれる。この書物については前にも書いたが、再度書いてみる。人間の行動、意志、考え方を目的論で捉える。現状への不満を環境のせいにせず、「こうありたいからこうなっている」と考える。環境は常に自分自身の気持ち次第というわけだ。

そういう生き方が果たして幸せかどうかはわからないが、こと勝負師であろうとするときには、実に理にかなっている。リスクを負うのは自分自身であり、克服すべき課題も自分自身のなかにしかない。自分自身が変わることによって、とりまく環境も変わっていく。勝負に勝てるようになる。すると周り(他者)も変わっていく。良くも悪くも…。

●時代が落合博満に追いついた?

チームスポーツとはいえ個人の技術が大きな比重を占める野球、とくに個人技で報酬も変わるプロ野球の世界において、落合の個人主義は合理的だ。落合が社会(会社)とつながる唯一の制約条件は契約書であり、それ以外に拘束される道理はない。まさに大ヒットドラマ「ドクターX」の大門未知子のような生き方であり、こうして物語の主人公として読むと実に面白いわけだ。

そんな落合博満の回りにいて関わらざるを得ない人々もまた、ドクターXの他の外科医や院内政治に明け暮れる人たちのように、そんな生き方には否定的になる者が多い。通常、こんな個人至上主義者に出会うことがない日本社会ではなおさらだ。野球ファンは特にチームの絆だとか、仁義だとか、そんな物語が大好きな人々だろう(私の偏見ではあるが)。だから落合は嫌われる。表面的には受け入れがたい。

だが、落合によって変化を強いられた人々の中にも、良い変化を自分自身で選択した者たちがいた。それが『嫌われた監督』の各章の主人公であり、著者自身もその一人だと感じた。落合は変わろうと努力する意志のある選手には謎かけのような言葉をぼそっとつぶやく。一人で対峙する記者には真摯に向き合う。そして本気で変わる意志を表明した者には寄り添うが指示はしない。落合に教えを乞うと、常に自分自身で考えることを強いられるのだ。

落合がノックをするシーンが何度か出てくる。そこを読んでいて、剣道を習っていた小学生時代を思いだした。師範はいつも3人くらいいたが、切り返しではまったく人気がない師範が一人いた。その師範の列に行くと他の列の5倍以上の時間、延々と切り返しをしなければならず、へとへとになる。他の師範の列は予定調和で何回か切り返すと次々と交代していくので、楽だし回転が速かった。人気がないから時間も長いのかとも思ったが、私は何度もその師範の列(列はないのだが)に呼ばれ打ち込んでいた。剣道の思い出は、そのつらい切り返しだけしか残っていないが、あの時に鍛えられた何かが残っているのだろうか…。

それはともかく、ことごとく嫌われたはずの落合博満の監督時代を追った『嫌われた監督』が、これほど売れ、これほど魅力的なのはなぜなんだろう。個人主義的な価値観は昭和時代よりもずいぶん浸透してはいるが、集団や組織になったときの日本人のメンタリティはまだそこまで進んでいない気がする。身をもって感じる。そのはざまで、個の尊重を貫き通した落合博満がまぶしく見える現代は、夜明け前といったところか。

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2021/12/17

2021年私家版ことしの漢字

2052021年ももうすぐ終わり。年々早く感じる。今年も新型コロナウィルスは根絶されず。夏には最大級のパンデミックが発生するなか、1年遅れで東京オリンピックが開催された。学生時代に犯罪レベルの障害者いじめをしてそれを雑誌で吹聴していた小山田圭吾の過去が暴露され、開会式の音楽担当をドタキャンするゴシップで幕を開けた。

世界的にワクチン接種は進んだが(私は未接種)、年末にはオミクロン株という変異種が再び猛威を振るっている。早期ワクチン接種していた国ほどパンデミックが進行中。個人的には破裂音の多い言語の国で感染拡大しているように見える。ワクチン接種で周回遅れ、言語に破裂音も少なく多くの民がマスクをしている日本で感染は広がっていないが、感染第6波がいつ来るか予断を許さない年末を迎える。早く経口治療薬が開発されてほしい。イベルメクチンの研究も進んで欲しい。

実体経済では世界的なコンテナ物流が滞留し長期インフレが始まった様相。ここでも幸か不幸か日本は周回遅れだが、来年以降、日本はグローバル経済の渦中でスタグフレーション(不況下での物価上昇)に陥るリスクが高い。粉飾された日本株の落としどころも見つからない。先の読みずらい時代に突入している。

というわけで今年の漢字は「読」にしたわけではなく、今年は読書が豊作の年だった。その印象から「読」を選んだ画像は毎年おなじみの漢字辞典オンラインさんから引用してます)。

●今年の読書は豊作だった

結婚してから読書をする時間がずいぶん減った。音楽を聴く時間も減った。ドラマを見る時間は増えた(笑)。二人での外出もずいぶん増えた。時間の使い方が変わったわけだ。

昔は一度に何冊も購入し、斜め読みや積読状態になっていた読書習慣が、たまに読める時間にしっかり一冊を読む習慣に変わった。だから大量買いもしなくなった。それでも並行して3冊くらいは読むわけだが、読書にあてる時間が少ない分、ちゃんと読もうという気持ちになる。渇望こそ意欲の源なのだ。これは良い傾向なのではないか。最近はこの習慣に慣れてきた。

今年読んだ書物には有意義なものが多かった。ビジネス書も珍しく読み物として読める書物を読めた。

起業の天才
Dark Horse
失敗の殿堂
良い戦略 悪い戦略

ビジネス書のうち3冊が翻訳モノというあたりが、日本と私との乖離を表しているのかも。

ビジネス書以外にも、松本清張の『砂の器(上・下)』をあらためて小説で読み地図でも読んだ。昨年末の『チーム』からの流れで堂場瞬一『ヒート』も読了、清武英利『後列のひと』はいま読んでいる一冊。SF小説かビジネス書かというヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』もいまコスタに感情移入しながら読んでいる。

音楽書も豊作の年だった。1月は門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』、2月にロバート・ヒルバーン『ポール・サイモン 音楽と人生を語る』という良書で始まった今年。サイモン&ガーファンクルのCD全集とか、若きポール・サイモンの「ソング・ブック」も買ってしまった。

その後、近田春夫『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』を読み、田家秀樹『風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年』と続いて読了。松本隆さんトリビュートアルバム「風街に連れてって!」の初回特典本も重要なMOOKといえる。そしてこの年末(あるいは年始になりそうだが)に、中部博『プカプカ 西岡恭蔵伝』という分厚い書物を読んでいく予定。

おっと、忘れちゃならない、3月には『昭和40年男』Vol.66号が発売された。中島みゆきさんの歌詞に出てくる女たちについて書かせてもらった。「中島みゆきを語る」という仕事は、中島みゆきさんと深い信頼関係にあるライターさん以外には手を出しにくい“分野”なんだと思う。それ以外のライターは周辺を語ることしか出来ず、おいそれと受けられる仕事じゃないんだろう。そんな状況の中、数十年来のファンで無邪気に「書きたい!」と妄想している私は、実は稀有な書き手なのかもしれない…。

こんな感じで、読めなくなったというわりに、紹介していない本も含めて結構ちゃんと読めていた。さらに雑誌に書いてもいるわけで、「読んでくださった皆さん、ありがとう!」の思いも込めつつの、今年の漢字「読」なのであります。

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2021/04/03

『起業の天才』を読了

大西康之著『起業の天才!江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』を読み終えた。3月2日のツイッターにこう書いていた。
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昔からいかがわしい人が大好物で王長徳氏や許永中氏の評伝を読んだ。政治家では野中広務氏、最近では小池百合子氏のノンフィクションも“物語として”は大好きだ。ホンカツ信者だけど江副浩正氏も読まずにいられない。
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ちょうど一か月かかった。なかなか読書の時間が取れないので、朝のトイレで少しずつ読み進むのが最近の日常だ(笑)。それも数冊かわるがわるだからそれなりに時間がかかる。しかし、その中の一冊が脳内でグルーブしてくると、その一冊を集中して選び出す。『起業の天才!』はそんな一冊だった。

いかがわしさの中に強烈に光る個性というか人間力を感じさせる人を描いた書物がときどき読みたくなる。そう思っているとそんな書物のほうから目に飛び込んでくるのかもしれない。今回は定期購読している月刊誌『FACTA』の書評で知った。

オビにある「おまえら、もっといかがわしくなれ!」は、江副浩正氏からリクルート株を“預かった”、ダイエーのカリスマ中内功氏のことばだった。佐野眞一著『完本カリスマ』は2010年に読んだが、二人とも実に魅力的ないかがわしさだ。

企業風土が正反対に見える当時のリクルートとダイエーだが、トップどうしが惹かれ合った理想の企業、つまり「社員皆経営者主義」の突破力を実現したのが江副の作ったリクルートだった。

新入社員といえどもアイデアを出した人間に事業を任せる度量は、東大卒業後にサラリーマン生活なく経営者となり、ピーター・ドラッガーの書物だけを純粋に遂行しようとした江副ならではの痛快さだ。

私も某社に入社5年目くらい(90年代後半)だっただろうか、かつてIT系の事業アイデアで社長賞をもらったことがあったが、そのアイデアは担当部門が引き継いだ(らしい)。オレにやらせろと思ったがそういうシステムはなかった。思った通り、他部門の若造が出して来たアイデアなぞ、当時の一般的日本企業では即刻ボツになる。アイデアクラッシャーがうようよしていたのだ。まさに部門の沽券にかかわるのだろう(笑)。江副浩正の先進性は驚異的だと実感する。

そんなダイバーシティの欠片もない当時の日本社会が、江副のリクルートの快進撃を面白く思わないのは当然だ。しかしこの書物を読んでちょっと驚いたのは、日本の財界やトップ企業にも先見の明を持つ人間が江副の周りにぽつぽつといた事実だった。そんな彼らも獄の人となったが。歴史の if は語れないが、歴史とはその選択によって全く変わってしまうダイナミックなものだと気づく。

結局、日本は(いや当時のメディアが)リクルート疑獄というグレーゾーンにヒートアップし、検察も追随し、その結果として日本はグローバルなIT社会をけん引する国家から脱落し、長期停滞社会に突入していった。いまだ抜け出せない(おそらくもう抜け出せない)闇のなかにある。いま政治に興味を失っている日本人たちがしっぺ返しを受けるのはさらに20年30年後なのだろう。

日本企業にはいまだに『ティール組織』は少ないと思う。ベンチャー企業にはあるかもしれないが、ベンチャー企業が育って行く環境は実に厳しい。50年も前にさらに厳しい環境のなかでリクルートを創業した江副浩正という経営者の成功と挫折の物語は、いくつもの示唆を与えてくれる。


●これまで読んだいかがわしき人々

昔からいかがわしい人が大好物だと最初に書いたが、『闇市の帝王と呼ばれた王長徳氏についての評伝(七尾和晃著)は2007年に読んだ。許永中氏の自伝は2019年10月7日にツイートしてた。その後すぐに読了した。

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何か面白い本がないかと書店に寄ったら許永中著『海峡に立つ:泥と血の我が半生』があったので買って帰った。本物の極道の書いた本だけにワクワクする。同じワルでも安倍一味はなぜかつまらない。現在進行形だからかな?
www.amazon.co.jp/dp/4093886253/…
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野中広務氏については魚住昭著『野中広務 差別と権力』が読み甲斐あり。毀誉褒貶の激しい政治家だったが、麻生太郎のような人間を許さない信念には一目置く。昨年読んだ石井妙子著『女帝 小池百合子』もすごい。人間性にはまったく惚れないが、その父娘の生き様には物語を感じる。

ホンカツ信者という言葉も説明が必要か。令和だし(笑)。ホンカツとは元朝日新聞の記者でありルポルタージュの名手本多勝一氏のこと。『日本語の作文技術』はいまも読み継がれる名著だ。私は本多勝一氏の著書を八割方読んでいる愛読者だが、南京大虐殺ほかのルポを読んだ自称右翼の人々には本多勝一を許せない人々が多く、彼らは本多勝一ファンのことも“ホンカツ信者”と名付け蔑むことを生業としているのだ。

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その本多氏を含む朝日新聞の記者がリクルートから接待を受けて安比高原にスキーツアーをしていたという記事をめぐって、当時本多勝一氏が連載もしていた『噂の真相』という月刊誌(もちろんこれも愛読誌だった)と本多氏とが仲たがいし、最終的に決裂してしまったというゴシップが当時あったのだ。リクルート疑獄の本筋とは異なる周辺エピソードの類いではあるが、ホンカツ信者としてはリクルートや安比高原スキー場と聞くと、その当時の噂の真相をついつい連想してしまうのである。

結局、私のいかがわしさ好きのルーツはウワシン(噂の真相)にあるのかもしれない(いやそうに違いない)。そんな私の本棚にはウワシンコーナーがいまもひっそりと佇んでいる(笑)。

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2021/03/28

番外編!中島みゆき「あした天気になれ」をあらためて妄想するの巻

『昭和40年男』はもう読んでいただけましたか?!「悪女」から紐解いた、中島みゆきの歌に出てくるカッコいい女たちを僕なりの妄想で書きました。

その前半では「悪女」「わかれうた」「彼女の生き方」と来て「あした天気になれ」へと連なる女たちを、涙を縦糸にして、リミックスを作るかのごとく語ってみた次第です。

一曲の歌詞を解釈することと、複数の歌を関連づけて新しい視点を見つけていくこととは、妄想とはいえ全く違うアプローチですわ。だから、この編み方でピックアップ出来なかった単体の歌詞について、それぞれ語りたいことが出て来たりして。

そこで今回は『昭和40年男』のコラムで削った単体の「あした天気になれ」を、もう一度考えてみたいと思った次第です。なんにつけ一応は妄想的解釈をするのが癖なんです。

●あしたとあたし、天気と元気

それにしてもこの歌詞、昔ながらの言い方になりますが、一番の歌詞と二番の歌詞とでテイストが違い過ぎませんか。

一番は抽象的な自己分析で、二番はそれを具体的に宝くじに例えて解説してる感じ。だけど、それぞれのサビは逆に一番が具体的な天気の話、二番が愛や孤独と精神的な話です。

とくに唐突感があるのは『昭和40年男』にも書きましたが、二番の愛と孤独です。これが一番のサビならまだ分かりやすい気がしますが、そこは中島みゆきさんです。分かりやすくはしません。たぶん。だけど、これもコラムに書いた通り、二番のサビこそが外せない核だと僕は確信してるので、ここを起点に様々な仕掛けがあるはずだと妄想スイッチが入ってしまいます。

「あした天気になれ」は「あたし元気になれ」かもしれないと考えた人は結構いますよね。たぶん。僕もそう思います。あしたが漢字で明日だとそうは考えませんが、あえてひらがなですから。僕はおこと教室の看板をおとこ教室と見間違ったことがあります。妄想脳の宿命です。話がそれました…。

絶望的観測が癖だけど夢も欲もある主人公は、まずネガティブな思考から入って、失敗を恐れて予防線張りまくり、他人には卑屈になって謙遜しまくりの人生を送っています。だけど希望は捨ててない。夢も欲もかなうはずがないと人には言いながら、心のなかではかなえたいと強く思ってる。ここまでは一般論として共感しやすい。

と、ここで「雨が好きです 雨が好きです あした天気になれ」というタイトルフレーズが出て来ます。雨が好きなのに天気になれと願う矛盾をどう解釈しましょうか。

●涙は次へのステップという公式

『昭和40年男』のコラムでは、中島みゆきの歌の女たちの涙は次へのステップという“公式”を編み出しました。これを使ってみたい。

サビで「あした天気になれ」が出てくる直前に、泣いてばかりじゃ嫌になると感情を吐露してますよね。これは世間への投げやりな捨てゼリフにも見えますが、本心が零れた瞬間だと思うんです。

この主人公は泣いてばかりじゃ嫌になるけれど、きっと泣いてばかりの人生で、だけど泣いてる自分が嫌いではないんじゃないか。たぶん。ついでにいえば孤独な自分も嫌いじゃない。それは自分が自分でいられる時間だから。世間体ばかり気にして生きてる自分が本当の自分に戻れるのは孤独に泣いてるときだけだから。そう思うわけです。

ここまで来ると僕の妄想もグルーブします。「あした天気になれ」が「あたし元気になれ」だとしたら、「雨」は「涙」なんじゃないか。本心は「涙が好きです 涙が好きです あたし孤独になれ」なんじゃないか。さらに、この孤独な涙の先に、試練を乗り越えた強い自分が生まれると主人公は信じているのではないか。だから、いわば通過儀礼として「孤独になれ」と強い願望もしくは命令調なんだと妄想が妄想を呼びます。

「あした天気になあれ」というちばてつやさんのゴルフ漫画があります。こっちは「なあれ」というゆるい願望です。でも中島みゆきさんのこの歌詞で「なあれ」は有り得ないわけです。強く「なれ」と言わなければ済まない信念があるはずなんです。「天気になあれ」はまぁあるでしょうけど、「孤独になあれ」なんてぬるいことは言えないわけです。

そして核である二番のサビも「愛が好きです 愛が好きです あたし元気になれ」が初稿なんじゃないかと妄想は止まりません。愛は孤独では存在出来ない概念です。自己愛を除いて。主人公の好きな「愛」には自己愛ももちろんあるけれど、叫ぶほどの「愛」は人間関係のなかにしかない「愛」でしょう。孤独に泣いた「涙」の先にある「愛」は孤独ではいられない。元気になった「あたし」の前に屹立する存在でなければならない訳です。

ここまでを整理すると、論理的には一番で孤独に涙を流し、二番で元気になって愛に立ち向かうほうが、時系列に沿った物語になります。しかし面白みがない。ハッとする瞬間がない。これは日記じゃなくて大衆歌謡なんだから仕掛けが必須です。

そこでまず、涙(なみだ)を雨(あめ)に置き換える。この方が語感として「愛が好きです」と対にしやすい。そして「あたし元気になれ」を「あした天気になれ」と天気で例えることで歌詞として統一感を出せるとともに、ここに一つの矛盾した感情、つまり雨が好きだけどあした天気になれと願う感情を提示します。

その結果、「孤独になれ」が一番から弾かれたけど、これを「愛が好きです」に無理くり紐付けると、ある種のギミックというか、「愛が好きなのになんで孤独になれなんて言うんだ?」とリスナーを幻惑させる仕掛けになる。しかし一番の歌詞で矛盾した感情を天気に例えた後なので、おなじ構造でなんとなく受け入れやすい。大衆歌謡としてはそこで終わっても成立するけれど、これを聴いた僕みたいな妄想脳は「愛と孤独」という現代的なテーマに思いを馳せたり出来るわけです。

倒置とか嘘と本当の転倒は中島みゆきさんの歌詞には多い気がします。統計取ったわけじゃないけど。その裏には真実らしさと時にうらはらな人間の感情への視線や愛おしさがおそらくあって、どちらもアリだと考えていらっしゃるんではないか。だから事実と嘘とがたとえ入れ替わっても、感情(歌詞)は成立するという信念があるように思うんです。

中島みゆきさんの歌は、置き換えと比喩とがパズルのように組まれている、いやあえて完成させてないパズルをリスナーにポーンと渡されてる感覚を僕は持ってます。もしかするとパズルのピースを何個か隠し持ってるみゆきさんの姿まで思い浮かびます。その欠けたピースを自分で作って埋めていく作業が楽しい。妄想的歌詞解釈の醍醐味です。まぁ富士山のパズルがバームクーヘンの断面のパズルになっちゃうかもしれないけど、それでいいんです。

●宝くじあるあるの必然性

さて、残ったのが、宝くじあるあるの二番の歌詞です。一番が抽象的だったから、分かりやすい大衆歌謡にするための説明といえばそうかもしれませんが、二番のサビ以外を全部使って丁寧に説明してるのは、中島みゆきさんの歌詞としては異例の親切さです。そこまで噛み砕かなくても分かりますからね。そこが逆に引っかかる。

で、これは説明のためというよりも、延々と続く世間話(社会あるいは世情)の象徴としてこの冗長性を置いたのではないかと思うわけです。その下世話な世間のなかで生きていく処世術を主人公もまた延々と続けることでしか受け入れてくれないこの人間世界が厳然とあり、「愛」もまた、その世界にしか存在しないというパースペクティブを読み取りました。妄想ですけど。

世間とつながるために宝くじあるあるみたいな話を延々と続け、しかしそのなかに自分自身の真実を織り込むひとり遊びをしながら、「愛が好きです」と心の中で叫び、日々孤独に泣いては「あたし元気になれ」と自分自身を鼓舞して、また人間社会に戻っていく。あたかも「悪女」の主人公が一番電車で泣いてまた悪女を演じるかのように…。人生はその繰り返しなのです。たぶん。いつか「愛」が見つかると信じて。

 

というわけで「あした天気になれ」を妄想解釈してみました。他の楽曲、この流れでいけば「彼女の生き方」なんかも、その背景とか妄想はどんどん膨らむんですけれど、機会があればまたいつか。

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2021/03/07

『昭和40年男』で中島みゆきの歌に出てくる女たちを妄想

令和3年3月11日発売の隔月刊誌『昭和40年男』(Vol.66号)の特集は「俺たちをゾクゾクさせたカッコいい女たち」だ。この雑誌の基本は定期購読だけどコンビニや書店でもよく見かける。同世代なので目につきやすいのかもしれない。兄弟誌に『昭和50年男』もあり、もうすぐ『昭和45年女』も創刊されるらしい。ニッチだね。

毎回凝った特集が組まれるが、変わってるのは次号予告が載らないこと。次号発売日の数日前まで、どんな特集かは秘密になっていて、発売直前に編集長が公式ブログでつぶやき、読者は初めて特集を知る。メイン読者が定期購読の雑誌だからこそ出来る大胆な仕掛けかもしれない。

今回は3月6日(土)にコンテンツ情報が解禁された。表紙は小泉今日子さんだ。いや~、カッコいい女の代表にふさわしい人選だね。これは店頭でも売れそうだと直感したが、実はこの第66号がどんな特集かをボクは事前に知っていた。なぜなら今号に「中島みゆきの歌に出てくる女たち」を書いたから!

9年前に『ねこみみ』というムックが発売され、そこに「中島みゆきの歌詞に住む猫」というマニアックなコラムを書かせてもらったのだけど、そのときの編集者さんつながりで、今回のコラムを昨年12月に依頼された。その日は占星術界隈では約240年ぶりに風の時代に転換する日だった(いわゆるエレメントが変わるグレートコンジャンクション)。ちょっと風に吹かれてみたくなりお受けした(なーんて)。

今回のお題は「カッコいい女たち」の文脈で中島みゆきの歌に出て来る女たちを語ったわけだが、面白くも難しい課題だった。書いてるうちに、歌に出て来る女たちと中島みゆきさんご本人とがごっちゃになり、無意識に中島みゆき論になりがちだから。そこを意識的に書き分けることが僕なりの歌詞論でもあるので頑張った。

また、昔から(そして今回のプロフィールでも)“妄想的歌詞解釈”なんて言ってるわけだが、これはそもそも歌詞解釈に正解などないという大前提のなかで、それでもメディアに言説を流している言い訳だ。照れ隠しともいえる。

今回は「夜会」に敬意を表して、僕なりの言葉の実験劇場というか、「中島みゆきの歌に出て来る女たち」をテーマに、歌の女たちによるリミックス作品を創作する気持ちで書いた。初期の「夜会」がやろうとした構造をコラムという形式のなかでやってみようというささやかな裏テーマが僕のなかにはあった。

高校時代からこすぎじゅんいちさん(故人)や田家秀樹さんの中島みゆき本を読んできたボクにとって、文章で中島みゆきさんを語りそれをメディアに載せてもらえるなんて夢のよう。こうして昔の縁で声をかけてもらえるのは中島みゆきファン冥利に尽きる。それだけにボクなりの書き味で雑誌のバラエティに貢献したいと思って書いたつもり。ファンとして生きた時代に小さな足あとを残せた感があって…。まぁ残していいものはひとつだけなのではあるが、それも含めて今号を中島みゆきファンにも中島みゆきさんにも読んでもらいたい!

ちなみに目次を見ると、カッコいい女たち特集の各パートのなかで、中島みゆきさんとユーミンとがペアになってるのにお気づきだろう。「松任谷由実の歌に出てくる女たち」があることは、原稿を書き上げてからゲラのリードを見て知った。先に知っていたら肩に力がはいっただろうか!?うーん、早く読みたい。

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2020/06/18

『女帝 小池百合子』を深掘りするための映画5選

購入してから一週間、『女帝 小池百合子』(文芸春秋刊)を読了。久々にぐいぐい惹きこまれるノンフィクションを読んだ。現時点で15万部を超えるヒット作となっている。私が購入したときも、ナショナルチェーンといわれる大書店では品切れで、駅前の書店に行ってようやく買えた。平台に3冊残っていた。初刷だ。あまりに面白かったので何度かツイートもし、そのツイートへのインプレッションも想像以上に多い。そこで、久しぶりにブログに書き残しておこうと思った次第。

昭和・平成・令和と生き抜いてきた女の一代記。このようにしか生きられなかった宿命の親子の物語。小説だったらその迫力と行動力に圧倒されて読み終わるわけだが、これが現実のニッポン社会でまさにリアルタイムに進行している話題とリンクしているとなると背筋が凍る。

現東京都知事にまで上り詰めた主人公(もっとも初の女性総理の芽がなくなっての都知事転身だが)は、今年の7月の都知事選挙にも立候補を表明している。マスメディアも圧倒的に有利だと報道している。前回掲げた7つの公約はほとんど実現していない。築地移転問題や拉致被害者家族、あるいは過去に主人公が所属した政党の政治家など、直接この主人公とかかわった人間はこの主人公の非情さ、裏の顔に皆さん直面してきたようだが、メディアが拡散する姿は英語交じりのキャッチフレーズで視聴者を飽きさせない元キャスターの華やかな政治家だった。

21世紀に世の中を欺いてこんな生き方が出来てしまうことに驚くが、読んでない方にも、この機会にこの主人公の有り様を理解してもらう方法がないかと考え、「○○を理解する10の方法」的なノリで、いくつかの作品を紹介してみたい。『女帝 小池百合子』を読んでからこれらの作品に触れてもいいように思う。

●映画『パラサイト

 言わずと知れた、2019年度アカデミー賞受賞作であり、アカデミー賞初のアジア映画だ。格差社会の闇を描いているわけだが、パラサイトする家族を『女帝 小池百合子』の主人公家族(父娘)、金持ち家族を日本社会と置き換えるとどうだろう。

パラサイトすることの是非と、パラサイトせざるを得ない状況を作り出した社会への憤りと、異なる位相のなかで善悪を超越した物語の力に圧倒される。虚構だからこそ「面白い!」と言えるわけだが、パラサイトされた側に自分が属している気分はどうだろう。金満大国だった日本は“今は昔”で、貧困大国アメリカと相似形を目指す格差社会だ。そんな落ちぶれた日本国民を笑い飛ばすようにこの国にパラサイトする政治家こそが『女帝 小池百合子』の主人公なのだ。そんな主人公をなぜか愛国者が支持するという捻じれた社会にも戦慄が走る。


●映画『砂の器

松本清張原作の1974年の見本映画の傑作だ。故郷に居場所のなくなった父子の旅。心温かい人との出会いと別れ。そして子は自らの過去を改ざんし有名になっていく。大きな宿命を背負って。過去の改ざんを原点に生きる和賀英良の姿が、『女帝 小池百合子』の主人公に重なる。

1974年といえば、まさに『女帝 小池百合子』の主人公がエジプトで暮らしていた頃だ。1971年の秋にカイロに渡った『女帝 小池百合子』の主人公は、1973年秋にカイロ大学2年生に編入する。時は第四次中東戦争の頃だ。そして父が破産し中東に活路を得ようともがいていた時代でもある。その父が朝堂院大覚に助けを求めたのは1976年だった。

朝堂院大覚という名前が出て来て俄然興味が湧いた。『女帝 小池百合子』の主人公の父は小物で俗物だが、朝堂院大覚という大物フィクサーや石原慎太郎といった政治家にツテを辿ってつながっていく。その細い糸に全人生を賭ける姿は物語としてはとてつもなく面白いのだが、映画『砂の器』の公開と同時期にこんな生き様の父娘が実在していたとは…。

●映画『人間の証明

「父さん、私の卒業証書どうしたでしょうね?」と問うたかどうか定かでないが、『女帝 小池百合子』の主人公の父は、ツテを頼ってカイロ大学に入れた娘の自慢話をしまくり、娘もその父親の敷いたレールを自ら走る決意をする。誰も知らない過去を作り上げ、混乱のなかその物語を最大限にアピールしてのし上がっていく。

映画『人間の証明』の岡田茉莉子とは異なる隠し事とのし上がり方ではあるが、女の一代記という点で重なるところがあるような気がするんで。『砂の器』もそうだけど、過去を書き換えてのし上がるという物語の力には人を惹きつけるものがある。しかし、最終的には裁かれなければならない宿命とセットだ。

『女帝 小池百合子』の主人公は、前回の都知事選で「ジャンヌ・ダルクになります!」と叫び都民を熱狂させた。しかし築地女将の会との対話のあと、ひとりの女将に「ジャンヌ・ダルクになってくださいね」と言われて、「ジャンヌ・ダルクはね、火あぶりになるからイヤ」とささやいたそうだ。こういう二枚舌こそがこの主人公の証明。

●映画『羅生門

黒澤明監督の名作。人間のエゴとか、真実とは何かとか、とにかく見れば見るほどに様々な気づきがある。特にデジタルリマスター版の画質で観るとモノクロ映像の美しさに息を飲む。

もはや『女帝 小池百合子』を理解するためというよりも、こういう映画をしっかりみて物事を自分で考えるクセをつけることが大切だと思う。昭和世代なら誰でも知ってる映画かもしれないけれど、平成以降の日本人にはこの映画は必見の古典だろう。


●映画『スポットライト

最後はメディアの有り方について問うという意味でこの映画を。『ニュースの真相』と迷ったけど、エンターテインメントというよりはジャーナリスティックな視点を重視したいと思ってこっちにした。

新聞記者』という選択肢ももちろんあったけれど、この日本映画は安倍政権という闇をフォーカスしているので『女帝 小池百合子』の文脈では除外した。

安倍にしろ小池にしろトランプ大統領にしろフェイクがまかり通る、いや、どちらかと言えばあえてウソを積極的につき通す体質の政治家が実権を握ってしまったこの世界の危険な方向性は、もはや右だの左だのといったイデオロギーの問題ではなく、人間としての品性の問題だ。品性下劣な人間の舵取りは下劣の連鎖を生み出す。ただでさえ腐敗する権力が完全に腐臭のする肥溜め国家に国民を沈めることになる。

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2019/10/14

王道はないって話 〜 The Third Door 〜

話題のベストセラー的な書籍はあまり読まないのだが、この翻訳本は読んでみた。世の中には3つの扉がある。誰にも開かれた第一の扉、特定のVIPだけに開かれた第二の扉、そしていつでもそこにあるのに誰も教えてくれない第三の扉がある...。

まるで裏口入学みたいな話かオイシイ裏道があるかのようじゃないか(笑)。そんな道があるんなら知ってて損はないでしょ。くらいの感覚で読み始めた。人の行く裏に道あり花の山だ。

コンセプトは「著名人が成功の鍵を掴んだ人生の分かれ道」をインタビューで解き明かすみたいだったから、なるほど目の付け所が面白いと思った。おそらく皆さんサードドアを発見して成功してるんだろう、それをハイティーンの著者もサードドアを見つけてインタビューにこぎつけたんだろう、その成功譚なのかなと。

しかし読み進めていくうちに、これは成功譚というよりも、私小説のようだなという感覚になっていた。ビジネス書だと思って読み始めていたらあまりの内容の落差に驚いただろう。アマゾンのレビューをいま読んでみたが、まったく宣伝と内容が違うという怒りのコメントもいくつかあった。

基本的には成功譚ではなく失敗談だ。8割失敗し続けるバナヤン青年。途中からは「もー、バナやん!」とやんを愛称風に読んでいた。簡単にいえば「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という古くさい格言を実践した若者の私小説なのだ。

つまりサードドアとは苦労した先に開く未来の扉であり、誰にもある人生の選択をしっかり選択して行動しろって話だった。これ、もう何万回も言われ続けたような手垢つきまくりの生き方指南みたいなものなのだけど、それでもこの書籍は面白かった。それは実際に行動した若者の話だったからだと思う。

世の中にはあふれる成功譚は、功なり名を遂げた著名人が人生を振り返りながらする自慢話が多い。行動しろという説教も聞き飽きた。しかしこれを書いたバナヤン青年は若い。そして行動した。失敗の中で何を考えるかを若者が書いた。その同時代的な部分がウケたんじゃないか。

王道はない。あるとすれば行道。そんなの当たり前と思うのは私がそれなりの年齢になってしまったから。「やってみたらやっぱりそうだった」というのは説得力がある。若者がそれをピュアに書くことにも選択と行動の実践をみることもできる。さらに未来は思い描いたとおりでなくてもいいっていう希望(現実)もある。

軽く読める450ページの書物ってのは、それなりに稀有だし後味もいい。ビジネス書としてでなくオイシイ話を求めるのでもなく、ただただ若い著者の奮闘ぶりを楽しむエンターテイメント私小説ってのがこの書物のジャンルなのではなかろうか。この書物をビジネス書棚に置いてる書店は内容を読んでない。そんな書店を仕分けするのにも使える。

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2017/11/23

勤労感謝の日に勤労酷使の世を考える

勤労感謝の日ということで、『経済成長という呪い』(ダニエル・コーエン著・東洋経済新報社刊)を肴に、「アベノミクスのこの世では、本当に勤労者が感謝されているのか?」をテーマに少々書いてみたい。ツイッターネタにしても良かったが140文字じゃ書ききれないと思ったので、久々にブログに書くことにした。かつてのひとくちメモファンにはうれしいはずの()、小賢しいヨタ記事である。

●150年の官僚支配へのクーデターで生まれた安倍政権

安倍晋三によって保守のイメージが大幅に修正された。息するように嘘をつき、身びいきえこひいきのお友達政治をやりながら、反対意見を汚い手段で封じ込め、疑惑にはだんまりを決め込み、寛容さの欠如した部族的ポピュリズムを体現し続ける安倍晋三。まさに歴史修正主義者の面目躍如だ。

何度辞任してもおかしくない安倍だが、内閣府によって官僚の人事権を掌握した権力は絶大だ。辞職覚悟でなければ誰も内閣総理大臣様にモノ申せないシステムを作り上げた。明治以来、150年に渡る官僚政治の日本国はここに崩壊したといえる。システムの変更こそが国家のカタチを変えるのだ。

安倍政権は「革命」という言葉が大好きなエセ保守政治だが、確かにクーデターに等しい制度変更により、官僚の手足を縛り、いまや新しい日本国が誕生している。もちろんその背景には150年続いた官僚支配に対する国民の反発があったわけだが、官僚退治をこんなネトウヨに託してしまった多数派日本人の浅はかさ。政治が生活を変えるという実感を喪失してしまった戦後日本。平和の代償はこうして出現するのか…。歴史が繰り返される所以だ。

そして安倍政権が続けば、憲法を改悪し国民の手足も縛ろうとするだろう。憲法は支配者を縛る呪文だったが、ついにその呪縛から解き放たれた権力が官僚と国民を縛り鞭打つSM政治が始まる。そして安倍とその取り巻きだけがフリーハンドでこの世を謳歌するニッポンが生まれるのだ。

そんな知性と品性の欠片も持ち合わせないこの大首相様の治世で、株価だけが独り歩きしているこの世の中。だが資本主義という概念そのものも修正を余儀なくされている。

●もはや資本主義ではない

新しい保守像は安倍にねつ造されているだけだが、資本主義のほうはもっと深刻だ。こちらもまったく異なる概念になっている。1970年代前半までの資本主義と同じ原理で21世紀の世の中が動いていると思うと大間違いだ。同じ「資本主義」という言葉でくくれない世の中になっている。

それを強欲資本主義とか新自由主義といえば、多少差別化できたような気分になるが、それらが示現出来てしまうもっと基礎的な部分での大きな変化があった。『経済成長という呪い』にそれを指摘している箇所がある。

著者はフランスの経済学の大家なので、その人文系の知性がいたるところに飛び散り、読みものとして面白かった。その割には200頁程度でコンパクトなので読みやすい。現代社会を概観するにはとてもいい。

なかでもアベノミクス批判に通じると思えたのは、「ダブル・バインド〔二重の拘束〕」の章だ。ここにもっとも共感した。

1913年から1973年までフォーディズムに代表される工業資本主義の時代は、(特に米国で)まさに勤労感謝の時代だ。資本家は労働者の勤労意欲を高めるために賃金の上昇を行い、それが生産性の向上につながり、富の再配分を促すという循環を生んでいた。

階級社会ではあっても、あらゆる階級で未来の生活の向上を目指せる資本主義の時代だったといえる。とくに1945年から1975年の黄金の三十年は日本の戦後復興に当てはめても納得が行くだろう(もちろんどんな社会にも闇はあるにせよ)。

そんな資本家と労働者との関係性が、1980年代以降、完全に断絶しはじめる。なぜなら会社そのものが機関投資家のものとなっていくからだ。経営者が賃金制度から抜け出し、自社の株価によって報酬を得るようになった。

従業員の賃金をあげることで経営者自身の賃金も上がるというシステムから、従業員の賃金を出来るだけ削減し、株価を引き上げることで経営者の報酬が上がっていくシステムに大転換してしまった。まさに資本主義が真逆の方向性を目指し始めたわけだ。

それを可能にしたテクノロジーがコンピュータであり、金融であり、グローバリゼーションだったというわけだ。著者はこう書いている。「硬直的だが効果的だったセーフティネットをもつ社会が大切に培ったバランスは砕け散った。企業の労働者を保護する機能は消え失せたのである。

●もはや勤労酷使の世。労働者は保護されない

こうなるともはや勤労感謝ではなく勤労を強要する資本主義となる。従業員にどんな仕打ちをしようとも、目先の株価さえあげることが出来れば自身の報酬も上昇していくのだから、他人の生活など知ったこっちゃない経営者が続出し、首切りが利益目標になっても当然だ。

従業員とは使い捨ての道具であり、蹴落とすための競争相手だ。そのストレスを強いることで働かせるというマネージメント。派遣法改悪、過労死、ブラック企業などに通じる資本主義の闇は、株主資本主義が生み出したともいえる。

そのような労働者の現実の対極には、株高を謳歌する富裕層、富の独り占めを可能にする社会システムや税制、グローバリズムで表に出ないプライベートバンクなどの現実がある。人命よりも私利私欲の世の中が進行中なわけで、粉飾の株高に湧くアベノミクスの目指す社会の枠組みがとてもよくわかる。

それはまさに自分の足を食べるタコのような企業経営に思えるが、経営者をコントロールする投資家は、投資先を変更するだけで生き残ることが可能だ。会社はいくらでもある。つくることも出来る。奪うこともできる。これは単なるゲームなのだ。人命など吹けば飛ぶようなコマなのだ。次々と会社をぶっ壊しながら流れ歩く経営者が日本にもいるが、そういう輩は会社がなくなることを屁ともおもっていないどころか、それが目的なのではないかとすら思える。

●ダブル・バインドが民主主義も破壊する

民主主義は独裁主義よりもセーフティに思えてきたが、大勢を占める労働者が(無意識に)セーフティネットを破壊された労働を強いられ、過度でエゴ丸出しの競争やストレスのなかで生活していると、民意そのものがあらぬ方向を向いてしまうリスクも、とてつもなく高いのではないだろうか。

経済危機がポピュリズムや差別主義を引き起こすことは、『経済成長という呪い』のダブル・バインドの章にも書かれていたが、現代日本はまさにその真っ只中にあり、その中心に安倍晋三という現時点でもっとも危険な男を据えてしまったわけだ。時代が彼を選んだのかもしれない、と書くと無責任すぎるか。

現時点でというのは、今後この安倍的な政治が継続した場合、安倍の劣化版が出てくる余地が充分にあるからだ。目ざとい詐欺師がここに目をつけて政治家を目指す可能性もあるだろう。すでに詐欺師のような政治家はひとりやふたりではないだろう。

民意はもはや真っ当な政治を選ぶ余裕がなくなっているように思う。強いリーダーによる性急な結果を求め、すぐに結果が出なければ徹底的にバッシングする。そういう政治のなかでポピュリズムを頼みに舵をとる困難さが安易な戦争を求める。民意が戦争を始めさせる。そんな流れを止める方法がいまのところなく、繰り返された人類の愚行とともに限界を感じさせる。

ダブル・バインドと聞くといつも祖母のことを思い出す。戦時中、大人やいじめっ子に口答えすると、両耳をつまんで身体を持ち上げられ「富士山が見えるか!」と問われたそうだ。見えないというと「まだ見えないか!」と叱責される。耳がちぎれそうに痛いので「見えます!」と答えれば「嘘をつくのか!」と叱責されるのだ。いま、誰もがそんな袋小路の世界で生きてる。


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2017/01/04

『ジェームズ・ボンドは来ない』そしてボクは間に合わなかった…

昨年の夏、直島に行ったときにはまだ文庫化されてなかった『ジェームズ・ボンドは来ない』(松岡圭祐著・角川文庫)。正月休みの復路の新幹線で読み終わりました。

直島訪問当時はこの本の存在も知らなかったけれど、帰って来て後輩に直島の話をしたときに、007映画を誘致するっていう面白い本があるという情報を聞きました。その後、書店で文庫のタイトルに「ジェームズ・ボンド」という名前を見た時ピンと来て、手に取ったらビンゴだったというわけです。

文庫化にあたり、「まえがきにかえて」という著者の解説が書かれていますが、読み終えてみて、確かにこの物語を何の説明もなく読めば、フィクションのように思えてしまいます。それほどまでにストーリーは面白く、登場人物が魅力的で、荒唐無稽な村おこしのお話なのです。

直島にコンビニや診療所が出来るよう自分も何か役に立ちたいと思っている直島の女子高生遥香が主人公。そんな彼女の日常に、たまたま直島を007映画のロケ地として誘致しようという話が持ち上がります。そしてその誘致活動にのめり込んでいく高校生の遥香。そこで巻き起こる誘致活動の紆余曲折の物語は、まるで高校生が大人になるまでの清々しい青春小説のよう。

何の産業もない(と思われた)島から出て行くのか、留まるのか悩む若者の苦悩。降って湧いたロケ地誘致話に島の未来を夢見つつ、目の前の受験や親との確執、観光協会の仲間達や友人との信頼関係を通して、挫折を味わいつつも幸せをつかみ取っていく様子は、これが小説でないことを忘れさせてくれます。そこは著者のうまさでしょうか。

また、地方行政のいやらしさとか、村おこしのための涙ぐましい努力とか絶望とか、地方のいろんな問題も見え隠れします。村おこしに尽力しても成功しそうになったらもっと大きな行政の長がしゃしゃり出て来て、おいしいところを全部持って行こうとしたり…。しかしいざ頓挫しそうになると、さーっと引き上げる地方行政のえげつなさ。

途中、すべての取り組みが急展開を見せるのですが、後半の畳込むような“イタさ”の連続はまるでコメディ映画のようですらあります。これが実話だというのが本当に可哀そう…。だけど、直島観光協会の人々の真剣さが逆に笑いを誘ってしまいます。

誘致活動を始めた頃、高校1年生だった遥香は6年後、短大を卒業しています。ジェームス・ボンドはまだ来ません。それはこの文庫本のタイトルもそうだからネタばれじゃないですよね。それどころか誘致活動そのものが頓挫しそうです。だけど、ただ来ないだけで終わらなかったところがすごい。

終盤のこの展開には、遥香自身の6年間の集大成として書いた手紙が奏功したのでしょうか。はたまたひょんなことから出場することになったコンテストでの演説が奏功したのでしょうか。いずれにしても、まさに事実は小説よりも奇なりです。ヒトの思いって、たとえ全部じゃなくてもその痕跡を残すものなんですね。その痕跡を掘り起す面白さがノンフィクションにはあるように思います。

時代背景としては、第1回瀬戸内国際映画祭が始まったり(3年に1回開催で2016年は第3回でした)、AKB48のオーディションがあったり、東日本大震災の前後数年でもあり、ノンフィクションとして同時代性も感じることができました。

最後にはほろっと泣かせるいい話だし、どんでん返しのような展開も待っていて、この物語こそが映画になりそうなお話でした。直島がある香川県出身かつ青春映画の名作「幕が上がる」を撮った本広克行監督が映画化してくれないかなぁ。ジェームズ・ボンドもチョイ役で出てくれないかなぁ(

昨年の夏旅の前に読めていれば、必ず訪れたであろう直島の「赤い刺青の男記念館」はまだ続いているのでしょうか…。直島を再訪した暁にはぜひ訪れてみたいものですね。この文庫本を持って写真を撮りたいものです。たとえ跡地であっても。昨年は間に合わなかったな~!

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