カテゴリー「書籍・雑誌」の296件の記事

2021/03/07

『昭和40年男』で中島みゆきの歌に出てくる女たちを妄想

令和3年3月11日発売の隔月刊誌『昭和40年男』(Vol.66号)の特集は「俺たちをゾクゾクさせたカッコいい女たち」だ。この雑誌の基本は定期購読だけどコンビニや書店でもよく見かける。同世代なので目につきやすいのかもしれない。兄弟誌に『昭和50年男』もあり、もうすぐ『昭和45年女』も創刊されるらしい。ニッチだね。

毎回凝った特集が組まれるが、変わってるのは次号予告が載らないこと。次号発売日の数日前まで、どんな特集かは秘密になっていて、発売直前に編集長が公式ブログでつぶやき、読者は初めて特集を知る。メイン読者が定期購読の雑誌だからこそ出来る大胆な仕掛けかもしれない。

今回は3月6日(土)にコンテンツ情報が解禁された。表紙は小泉今日子さんだ。いや~、カッコいい女の代表にふさわしい人選だね。これは店頭でも売れそうだと直感したが、実はこの第66号がどんな特集かをボクは事前に知っていた。なぜなら今号に「中島みゆきの歌に出てくる女たち」を書いたから!

9年前に『ねこみみ』というムックが発売され、そこに「中島みゆきの歌詞に住む猫」というマニアックなコラムを書かせてもらったのだけど、そのときの編集者さんつながりで、今回のコラムを昨年12月に依頼された。その日は占星術界隈では約240年ぶりに風の時代に転換する日だった(いわゆるエレメントが変わるグレートコンジャンクション)。ちょっと風に吹かれてみたくなりお受けした(なーんて)。

今回のお題は「カッコいい女たち」の文脈で中島みゆきの歌に出て来る女たちを語ったわけだが、面白くも難しい課題だった。書いてるうちに、歌に出て来る女たちと中島みゆきさんご本人とがごっちゃになり、無意識に中島みゆき論になりがちだから。そこを意識的に書き分けることが僕なりの歌詞論でもあるので頑張った。

また、昔から(そして今回のプロフィールでも)“妄想的歌詞解釈”なんて言ってるわけだが、これはそもそも歌詞解釈に正解などないという大前提のなかで、それでもメディアに言説を流している言い訳だ。照れ隠しともいえる。

今回は「夜会」に敬意を表して、僕なりの言葉の実験劇場というか、「中島みゆきの歌に出て来る女たち」をテーマに、歌の女たちによるリミックス作品を創作する気持ちで書いた。初期の「夜会」がやろうとした構造をコラムという形式のなかでやってみようというささやかな裏テーマが僕のなかにはあった。

高校時代からこすぎじゅんいちさん(故人)や田家秀樹さんの中島みゆき本を読んできたボクにとって、文章で中島みゆきさんを語りそれをメディアに載せてもらえるなんて夢のよう。こうして昔の縁で声をかけてもらえるのは中島みゆきファン冥利に尽きる。それだけにボクなりの書き味で雑誌のバラエティに貢献したいと思って書いたつもり。ファンとして生きた時代に小さな足あとを残せた感があって…。まぁ残していいものはひとつだけなのではあるが、それも含めて今号を中島みゆきファンにも中島みゆきさんにも読んでもらいたい!

ちなみに目次を見ると、カッコいい女たち特集の各パートのなかで、中島みゆきさんとユーミンとがペアになってるのにお気づきだろう。「松任谷由実の歌に出てくる女たち」があることは、原稿を書き上げてからゲラのリードを見て知った。先に知っていたら肩に力がはいっただろうか!?うーん、早く読みたい。

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2020/06/18

『女帝 小池百合子』を深掘りするための映画5選

購入してから一週間、『女帝 小池百合子』(文芸春秋刊)を読了。久々にぐいぐい惹きこまれるノンフィクションを読んだ。現時点で15万部を超えるヒット作となっている。私が購入したときも、ナショナルチェーンといわれる大書店では品切れで、駅前の書店に行ってようやく買えた。平台に3冊残っていた。初刷だ。あまりに面白かったので何度かツイートもし、そのツイートへのインプレッションも想像以上に多い。そこで、久しぶりにブログに書き残しておこうと思った次第。

昭和・平成・令和と生き抜いてきた女の一代記。このようにしか生きられなかった宿命の親子の物語。小説だったらその迫力と行動力に圧倒されて読み終わるわけだが、これが現実のニッポン社会でまさにリアルタイムに進行している話題とリンクしているとなると背筋が凍る。

現東京都知事にまで上り詰めた主人公(もっとも初の女性総理の芽がなくなっての都知事転身だが)は、今年の7月の都知事選挙にも立候補を表明している。マスメディアも圧倒的に有利だと報道している。前回掲げた7つの公約はほとんど実現していない。築地移転問題や拉致被害者家族、あるいは過去に主人公が所属した政党の政治家など、直接この主人公とかかわった人間はこの主人公の非情さ、裏の顔に皆さん直面してきたようだが、メディアが拡散する姿は英語交じりのキャッチフレーズで視聴者を飽きさせない元キャスターの華やかな政治家だった。

21世紀に世の中を欺いてこんな生き方が出来てしまうことに驚くが、読んでない方にも、この機会にこの主人公の有り様を理解してもらう方法がないかと考え、「○○を理解する10の方法」的なノリで、いくつかの作品を紹介してみたい。『女帝 小池百合子』を読んでからこれらの作品に触れてもいいように思う。

●映画『パラサイト

 言わずと知れた、2019年度アカデミー賞受賞作であり、アカデミー賞初のアジア映画だ。格差社会の闇を描いているわけだが、パラサイトする家族を『女帝 小池百合子』の主人公家族(父娘)、金持ち家族を日本社会と置き換えるとどうだろう。

パラサイトすることの是非と、パラサイトせざるを得ない状況を作り出した社会への憤りと、異なる位相のなかで善悪を超越した物語の力に圧倒される。虚構だからこそ「面白い!」と言えるわけだが、パラサイトされた側に自分が属している気分はどうだろう。金満大国だった日本は“今は昔”で、貧困大国アメリカと相似形を目指す格差社会だ。そんな落ちぶれた日本国民を笑い飛ばすようにこの国にパラサイトする政治家こそが『女帝 小池百合子』の主人公なのだ。そんな主人公をなぜか愛国者が支持するという捻じれた社会にも戦慄が走る。


●映画『砂の器

松本清張原作の1974年の見本映画の傑作だ。故郷に居場所のなくなった父子の旅。心温かい人との出会いと別れ。そして子は自らの過去を改ざんし有名になっていく。大きな宿命を背負って。過去の改ざんを原点に生きる和賀英良の姿が、『女帝 小池百合子』の主人公に重なる。

1974年といえば、まさに『女帝 小池百合子』の主人公がエジプトで暮らしていた頃だ。1971年の秋にカイロに渡った『女帝 小池百合子』の主人公は、1973年秋にカイロ大学2年生に編入する。時は第四次中東戦争の頃だ。そして父が破産し中東に活路を得ようともがいていた時代でもある。その父が朝堂院大覚に助けを求めたのは1976年だった。

朝堂院大覚という名前が出て来て俄然興味が湧いた。『女帝 小池百合子』の主人公の父は小物で俗物だが、朝堂院大覚という大物フィクサーや石原慎太郎といった政治家にツテを辿ってつながっていく。その細い糸に全人生を賭ける姿は物語としてはとてつもなく面白いのだが、映画『砂の器』の公開と同時期にこんな生き様の父娘が実在していたとは…。

●映画『人間の証明

「父さん、私の卒業証書どうしたでしょうね?」と問うたかどうか定かでないが、『女帝 小池百合子』の主人公の父は、ツテを頼ってカイロ大学に入れた娘の自慢話をしまくり、娘もその父親の敷いたレールを自ら走る決意をする。誰も知らない過去を作り上げ、混乱のなかその物語を最大限にアピールしてのし上がっていく。

映画『人間の証明』の岡田茉莉子とは異なる隠し事とのし上がり方ではあるが、女の一代記という点で重なるところがあるような気がするんで。『砂の器』もそうだけど、過去を書き換えてのし上がるという物語の力には人を惹きつけるものがある。しかし、最終的には裁かれなければならない宿命とセットだ。

『女帝 小池百合子』の主人公は、前回の都知事選で「ジャンヌ・ダルクになります!」と叫び都民を熱狂させた。しかし築地女将の会との対話のあと、ひとりの女将に「ジャンヌ・ダルクになってくださいね」と言われて、「ジャンヌ・ダルクはね、火あぶりになるからイヤ」とささやいたそうだ。こういう二枚舌こそがこの主人公の証明。

●映画『羅生門

黒澤明監督の名作。人間のエゴとか、真実とは何かとか、とにかく見れば見るほどに様々な気づきがある。特にデジタルリマスター版の画質で観るとモノクロ映像の美しさに息を飲む。

もはや『女帝 小池百合子』を理解するためというよりも、こういう映画をしっかりみて物事を自分で考えるクセをつけることが大切だと思う。昭和世代なら誰でも知ってる映画かもしれないけれど、平成以降の日本人にはこの映画は必見の古典だろう。


●映画『スポットライト

最後はメディアの有り方について問うという意味でこの映画を。『ニュースの真相』と迷ったけど、エンターテインメントというよりはジャーナリスティックな視点を重視したいと思ってこっちにした。

新聞記者』という選択肢ももちろんあったけれど、この日本映画は安倍政権という闇をフォーカスしているので『女帝 小池百合子』の文脈では除外した。

安倍にしろ小池にしろトランプ大統領にしろフェイクがまかり通る、いや、どちらかと言えばあえてウソを積極的につき通す体質の政治家が実権を握ってしまったこの世界の危険な方向性は、もはや右だの左だのといったイデオロギーの問題ではなく、人間としての品性の問題だ。品性下劣な人間の舵取りは下劣の連鎖を生み出す。ただでさえ腐敗する権力が完全に腐臭のする肥溜め国家に国民を沈めることになる。

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2017/11/23

勤労感謝の日に勤労酷使の世を考える

勤労感謝の日ということで、『経済成長という呪い』(ダニエル・コーエン著・東洋経済新報社刊)を肴に、「アベノミクスのこの世では、本当に勤労者が感謝されているのか?」をテーマに少々書いてみたい。ツイッターネタにしても良かったが140文字じゃ書ききれないと思ったので、久々にブログに書くことにした。かつてのひとくちメモファンにはうれしいはずの()、小賢しいヨタ記事である。

●150年の官僚支配へのクーデターで生まれた安倍政権

安倍晋三によって保守のイメージが大幅に修正された。息するように嘘をつき、身びいきえこひいきのお友達政治をやりながら、反対意見を汚い手段で封じ込め、疑惑にはだんまりを決め込み、寛容さの欠如した部族的ポピュリズムを体現し続ける安倍晋三。まさに歴史修正主義者の面目躍如だ。

何度辞任してもおかしくない安倍だが、内閣府によって官僚の人事権を掌握した権力は絶大だ。辞職覚悟でなければ誰も内閣総理大臣様にモノ申せないシステムを作り上げた。明治以来、150年に渡る官僚政治の日本国はここに崩壊したといえる。システムの変更こそが国家のカタチを変えるのだ。

安倍政権は「革命」という言葉が大好きなエセ保守政治だが、確かにクーデターに等しい制度変更により、官僚の手足を縛り、いまや新しい日本国が誕生している。もちろんその背景には150年続いた官僚支配に対する国民の反発があったわけだが、官僚退治をこんなネトウヨに託してしまった多数派日本人の浅はかさ。政治が生活を変えるという実感を喪失してしまった戦後日本。平和の代償はこうして出現するのか…。歴史が繰り返される所以だ。

そして安倍政権が続けば、憲法を改悪し国民の手足も縛ろうとするだろう。憲法は支配者を縛る呪文だったが、ついにその呪縛から解き放たれた権力が官僚と国民を縛り鞭打つSM政治が始まる。そして安倍とその取り巻きだけがフリーハンドでこの世を謳歌するニッポンが生まれるのだ。

そんな知性と品性の欠片も持ち合わせないこの大首相様の治世で、株価だけが独り歩きしているこの世の中。だが資本主義という概念そのものも修正を余儀なくされている。

●もはや資本主義ではない

新しい保守像は安倍にねつ造されているだけだが、資本主義のほうはもっと深刻だ。こちらもまったく異なる概念になっている。1970年代前半までの資本主義と同じ原理で21世紀の世の中が動いていると思うと大間違いだ。同じ「資本主義」という言葉でくくれない世の中になっている。

それを強欲資本主義とか新自由主義といえば、多少差別化できたような気分になるが、それらが示現出来てしまうもっと基礎的な部分での大きな変化があった。『経済成長という呪い』にそれを指摘している箇所がある。

著者はフランスの経済学の大家なので、その人文系の知性がいたるところに飛び散り、読みものとして面白かった。その割には200頁程度でコンパクトなので読みやすい。現代社会を概観するにはとてもいい。

なかでもアベノミクス批判に通じると思えたのは、「ダブル・バインド〔二重の拘束〕」の章だ。ここにもっとも共感した。

1913年から1973年までフォーディズムに代表される工業資本主義の時代は、(特に米国で)まさに勤労感謝の時代だ。資本家は労働者の勤労意欲を高めるために賃金の上昇を行い、それが生産性の向上につながり、富の再配分を促すという循環を生んでいた。

階級社会ではあっても、あらゆる階級で未来の生活の向上を目指せる資本主義の時代だったといえる。とくに1945年から1975年の黄金の三十年は日本の戦後復興に当てはめても納得が行くだろう(もちろんどんな社会にも闇はあるにせよ)。

そんな資本家と労働者との関係性が、1980年代以降、完全に断絶しはじめる。なぜなら会社そのものが機関投資家のものとなっていくからだ。経営者が賃金制度から抜け出し、自社の株価によって報酬を得るようになった。

従業員の賃金をあげることで経営者自身の賃金も上がるというシステムから、従業員の賃金を出来るだけ削減し、株価を引き上げることで経営者の報酬が上がっていくシステムに大転換してしまった。まさに資本主義が真逆の方向性を目指し始めたわけだ。

それを可能にしたテクノロジーがコンピュータであり、金融であり、グローバリゼーションだったというわけだ。著者はこう書いている。「硬直的だが効果的だったセーフティネットをもつ社会が大切に培ったバランスは砕け散った。企業の労働者を保護する機能は消え失せたのである。

●もはや勤労酷使の世。労働者は保護されない

こうなるともはや勤労感謝ではなく勤労を強要する資本主義となる。従業員にどんな仕打ちをしようとも、目先の株価さえあげることが出来れば自身の報酬も上昇していくのだから、他人の生活など知ったこっちゃない経営者が続出し、首切りが利益目標になっても当然だ。

従業員とは使い捨ての道具であり、蹴落とすための競争相手だ。そのストレスを強いることで働かせるというマネージメント。派遣法改悪、過労死、ブラック企業などに通じる資本主義の闇は、株主資本主義が生み出したともいえる。

そのような労働者の現実の対極には、株高を謳歌する富裕層、富の独り占めを可能にする社会システムや税制、グローバリズムで表に出ないプライベートバンクなどの現実がある。人命よりも私利私欲の世の中が進行中なわけで、粉飾の株高に湧くアベノミクスの目指す社会の枠組みがとてもよくわかる。

それはまさに自分の足を食べるタコのような企業経営に思えるが、経営者をコントロールする投資家は、投資先を変更するだけで生き残ることが可能だ。会社はいくらでもある。つくることも出来る。奪うこともできる。これは単なるゲームなのだ。人命など吹けば飛ぶようなコマなのだ。次々と会社をぶっ壊しながら流れ歩く経営者が日本にもいるが、そういう輩は会社がなくなることを屁ともおもっていないどころか、それが目的なのではないかとすら思える。

●ダブル・バインドが民主主義も破壊する

民主主義は独裁主義よりもセーフティに思えてきたが、大勢を占める労働者が(無意識に)セーフティネットを破壊された労働を強いられ、過度でエゴ丸出しの競争やストレスのなかで生活していると、民意そのものがあらぬ方向を向いてしまうリスクも、とてつもなく高いのではないだろうか。

経済危機がポピュリズムや差別主義を引き起こすことは、『経済成長という呪い』のダブル・バインドの章にも書かれていたが、現代日本はまさにその真っ只中にあり、その中心に安倍晋三という現時点でもっとも危険な男を据えてしまったわけだ。時代が彼を選んだのかもしれない、と書くと無責任すぎるか。

現時点でというのは、今後この安倍的な政治が継続した場合、安倍の劣化版が出てくる余地が充分にあるからだ。目ざとい詐欺師がここに目をつけて政治家を目指す可能性もあるだろう。すでに詐欺師のような政治家はひとりやふたりではないだろう。

民意はもはや真っ当な政治を選ぶ余裕がなくなっているように思う。強いリーダーによる性急な結果を求め、すぐに結果が出なければ徹底的にバッシングする。そういう政治のなかでポピュリズムを頼みに舵をとる困難さが安易な戦争を求める。民意が戦争を始めさせる。そんな流れを止める方法がいまのところなく、繰り返された人類の愚行とともに限界を感じさせる。

ダブル・バインドと聞くといつも祖母のことを思い出す。戦時中、大人やいじめっ子に口答えすると、両耳をつまんで身体を持ち上げられ「富士山が見えるか!」と問われたそうだ。見えないというと「まだ見えないか!」と叱責される。耳がちぎれそうに痛いので「見えます!」と答えれば「嘘をつくのか!」と叱責されるのだ。いま、誰もがそんな袋小路の世界で生きてる。


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2017/01/04

『ジェームズ・ボンドは来ない』そしてボクは間に合わなかった…

昨年の夏、直島に行ったときにはまだ文庫化されてなかった『ジェームズ・ボンドは来ない』(松岡圭祐著・角川文庫)。正月休みの復路の新幹線で読み終わりました。

直島訪問当時はこの本の存在も知らなかったけれど、帰って来て後輩に直島の話をしたときに、007映画を誘致するっていう面白い本があるという情報を聞きました。その後、書店で文庫のタイトルに「ジェームズ・ボンド」という名前を見た時ピンと来て、手に取ったらビンゴだったというわけです。

文庫化にあたり、「まえがきにかえて」という著者の解説が書かれていますが、読み終えてみて、確かにこの物語を何の説明もなく読めば、フィクションのように思えてしまいます。それほどまでにストーリーは面白く、登場人物が魅力的で、荒唐無稽な村おこしのお話なのです。

直島にコンビニや診療所が出来るよう自分も何か役に立ちたいと思っている直島の女子高生遥香が主人公。そんな彼女の日常に、たまたま直島を007映画のロケ地として誘致しようという話が持ち上がります。そしてその誘致活動にのめり込んでいく高校生の遥香。そこで巻き起こる誘致活動の紆余曲折の物語は、まるで高校生が大人になるまでの清々しい青春小説のよう。

何の産業もない(と思われた)島から出て行くのか、留まるのか悩む若者の苦悩。降って湧いたロケ地誘致話に島の未来を夢見つつ、目の前の受験や親との確執、観光協会の仲間達や友人との信頼関係を通して、挫折を味わいつつも幸せをつかみ取っていく様子は、これが小説でないことを忘れさせてくれます。そこは著者のうまさでしょうか。

また、地方行政のいやらしさとか、村おこしのための涙ぐましい努力とか絶望とか、地方のいろんな問題も見え隠れします。村おこしに尽力しても成功しそうになったらもっと大きな行政の長がしゃしゃり出て来て、おいしいところを全部持って行こうとしたり…。しかしいざ頓挫しそうになると、さーっと引き上げる地方行政のえげつなさ。

途中、すべての取り組みが急展開を見せるのですが、後半の畳込むような“イタさ”の連続はまるでコメディ映画のようですらあります。これが実話だというのが本当に可哀そう…。だけど、直島観光協会の人々の真剣さが逆に笑いを誘ってしまいます。

誘致活動を始めた頃、高校1年生だった遥香は6年後、短大を卒業しています。ジェームス・ボンドはまだ来ません。それはこの文庫本のタイトルもそうだからネタばれじゃないですよね。それどころか誘致活動そのものが頓挫しそうです。だけど、ただ来ないだけで終わらなかったところがすごい。

終盤のこの展開には、遥香自身の6年間の集大成として書いた手紙が奏功したのでしょうか。はたまたひょんなことから出場することになったコンテストでの演説が奏功したのでしょうか。いずれにしても、まさに事実は小説よりも奇なりです。ヒトの思いって、たとえ全部じゃなくてもその痕跡を残すものなんですね。その痕跡を掘り起す面白さがノンフィクションにはあるように思います。

時代背景としては、第1回瀬戸内国際映画祭が始まったり(3年に1回開催で2016年は第3回でした)、AKB48のオーディションがあったり、東日本大震災の前後数年でもあり、ノンフィクションとして同時代性も感じることができました。

最後にはほろっと泣かせるいい話だし、どんでん返しのような展開も待っていて、この物語こそが映画になりそうなお話でした。直島がある香川県出身かつ青春映画の名作「幕が上がる」を撮った本広克行監督が映画化してくれないかなぁ。ジェームズ・ボンドもチョイ役で出てくれないかなぁ(

昨年の夏旅の前に読めていれば、必ず訪れたであろう直島の「赤い刺青の男記念館」はまだ続いているのでしょうか…。直島を再訪した暁にはぜひ訪れてみたいものですね。この文庫本を持って写真を撮りたいものです。たとえ跡地であっても。昨年は間に合わなかったな~!

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2016/10/08

『若冲になったアメリカ人』を読んだボク日本人

10月1~3日に箱根を再訪した。ポーラ美術館の企画展「ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ」のハガキが届いていたのと、岡田美術館で若冲と蕪村の特別展があったから。伊藤若冲にどはまりしている友人に声をかけるとぜひということで。

若冲は今年生誕300年でNHKほかでも特集され俄かに注目されている。岡田美術館では若冲と同年齢の与謝蕪村を中心に、同時代の江戸美術を堪能した。

日本画は学校美術でもあまり採り上げることがなく、歴史的な流れとか、世界史のなかでの位置づけがすっぽりと抜け落ちてる感じがする。

そんな日本美術は皮肉なことに海外で評価を得て生き延びてきたともいえる。ただし明治時代の浮世絵や版画のように二束三文で流出したり、投資商品となったりしたものも数知れない。

そんななかで伊藤若冲コレクターとして知られる、ジョー・D・プライスさんは大変な日本美術通であり、かつ作品本位にコレクションして来た稀有なコレクターで、こういう人のもとで守られて来た日本美術の作品群は幸せだったと思う。

生誕300年に向けて伊藤若冲について書かれた書目や図録も大量に出版されたが、個人的に購読したのは、東京都美術館と日経新聞社による若冲展の図録『若冲』と、プライスさんへのインタビュー『若冲になったアメリカ人 ジョー・D・プライス物語』(小学館)の2点だけだった。愛好家とかキュレーターなどの裏話が好きなもので。

●コレクター魂のお手本!プライス・コレクション

プライス・コレクションがもしなかったら、若冲がこれほど注目されたかどうかわからない。この人は作家の名声などとは無関係に自分の目で作品を見て、たまたま持ちえた財力で購入して来た人だった。日本人学者くらいしか知らないような作品を次々と購入していくわけだが、人気のない日本美術だからかなり安く買えていたようだ。

しかし安く買って高く売るといった投資目的ではなく、コレクター魂そのものに突き動かされて買い付け、その作品がもっとも美しく見える見せ方を工夫し、学者や愛好家を自宅に招待して好きなだけ研究してもらうというオープンな考えの人だった。

特に日本画は電気のない時代、自然光で見えることを想定されて作られたはずという信念で自然光にこだわったり、屏風の凹凸への意識、画材(素地)と着色や線の交わりへの洞察などなど、さすがコレクターと思わせる解説をしてくれる。また、研究者でもないため、ときには大胆な推察で絵画を楽しむ方法を教えてくれる。

若冲はルーペで細部を見ても揺らがない精密な描写がひとつの魅力で、岡田美術館でもルーペの貸出をしてくれた。友人はルーペ持参だった()。そういう確かな技術に裏打ちされていることは重要だか、遊び心のある画もたくさん残している。

●日本画の独自性をもっと学びたい

そもそも鳥獣、虫、草花などを主なテーマにする日本画には根底にやさしさと観察力があり、同時に豊かな自然への畏怖の念もあり、それらが時空を超えて表現されるわけで、このオリジナリティを西洋人が見たら唖然としたことだろう。

特に屏風画などに見られる想像力は、ジャポニズムと出会うまでの西洋絵画にはまず見られない独創性だと思う。春夏秋冬天地人花鳥風月、あらゆる対象が時間も空間も飛び越えて共存し、西洋人には余白と見えるであろう空間によってつながれ、遠近感など無視して隣り合う世界。

モチーフには大陸からの影響もあっただろうが、それでもやはりガラパゴス的な極東の島で独自に発展した“極み”の技は唯一無二のものだろう。それが西洋列強の圧力で開国したとたん、西洋こそが正解といった風潮に支配された日本の美術教育。嘆かずにはいられない。

ただ西洋絵画のなかでも印象派が日本人に大人気なのを見ると、西洋絵画の亜流として始まった印象派のなかに日本人的な感覚がうずく何かを日本人は見ているのかもしれない。そのあたり、日本画家の平松礼二さんの新書『モネとジャポニズム』(PHP新書)が面白い考察を展開していらっしゃる。研究者ではなく画家だからこそ気づける部分はとても面白い。美術教育への一家言もお持ちだ。

いま日本社会は右傾化などといってナショナリズムの台頭が危惧されているが、あんなものはまったくナショナリズムでもなんでもない。たんなるマッチョ思想であろう。日本独自の自然観や哲学とは相いれない、ある種西洋かぶれした明治以降の勘違いナショナリズムだ。そんなものは横に置いて、本物の日本文化と真正面から向き合う機会を増やすことが教育にも必要だろうし、日本人として世界と向き合う精神的指針となりうる。

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2016/08/21

『島はぼくらと』~夏旅2016番外編~

Naoshima今年の夏旅に出かける前、世間はポケモンGO一色に染まっていた。誰もがポケモンを探して市中を徘徊していた。これなら映画館も空いてるだろうと7月最後の日曜日、話題の映画「シン・ゴジラ」を朝一で鑑賞した。思った通り映画館はずいぶん空いていた。都会の夏休みのシネコンはお子様映画の長蛇の列が常なのだが、すんなりチケットが買えた。ポケモンGO解禁直後のおかげだと思う。田舎で観ようか迷っていた「シン・ゴジラ」だったがIMAXで鑑賞出来て良かった。

映画を見た後、書店に立ち寄った。旅先や実家で読む本を探すためだ。読みかけの書籍はたくさんあったが、どれも旅の気分には合わない気がして、今夏の旅専用文庫本を物色しようと思ったのだった。

今年の夏旅は東京湾からフェリーで四国の徳島港まで行き、そこから明石の宿に泊まり、翌日は岡山県の直島観光をするというところまで漠然と決まっていた。前半は海がテーマのような感じだ。

そこで目に留まった文庫本が辻村深月さんの『島はぼくらと』だった。元来島好きでもあり、今回の旅先に直島が入っていたこともあって、平積みになっていたこの文庫本に目が留まった。

直木賞作家、辻村深月さんの小説は読んだことがなかった。小説そのものをあまり読まなくなり、読んでも城山三郎などの経済小説、企業小説が多かったが、最近は美術関係や手軽な新書ばかり読んでいる。

久々に小説が読みたくなった。それも流行りのミステリーのように殺人事件がどうのこうのとか、企業小説のようにギスギスした駆け引きみたいなものじゃない小説。そういうややこしい虚構には感情移入出来ない(いや、したくない)という気分でもあった。

『島はぼくらと』の文庫本表紙は五十嵐大介さんのイラスト。高校生らしき男女2人ずつ。そしてオビには「17歳。卒業までは一緒にいよう。この島の別れの言葉は『行ってきます』。きっと『おかえり』が待っているから。」とあった。

フェリーで本土の高校に通う冴島の高校生4人の卒業までの青春ストーリー。他愛ない青春小説(ライトノベル)かとも思ったが、どうやら殺人事件やギスギスした大人の世界とは無縁の物語のようだと思い、島の若者の話だし夏旅向きかもと思ってこれに決めた。

●謎解きあり島の人間関係あり…。期待を裏切る面白さ!

読み終えてみると、最初に選んだ条件のうち、殺人事件はなかったものの、ミステリー仕立てのストーリー展開もあり、企業小説ではないものの、行政やマスコミ、一枚岩でない島民間のいざこざ、人間関係の機微などがしっかり描かれていて、ライトノベルなどとは呼べない作品だった。

それだけに読み応えもあったが、全体に漂う清々しさは作者の目線が常に島の生活を肯定的に描いているからだろう。4人の高校生だけでなく、Iターンで冴島を選んだ人々の思い、島の伝統を重んじ代々島で生きてきた家庭の思い、様々な思いで島を離れていった人々…。それぞれの立場で生きる冴島内外の人々を暖かく見つめる作者の意図が伝わった。

またこの小説は2013年に刊行されていたものの文庫化だった。それは東日本大震災から2年後の世界であり、文学が震災とどう向き合うかが問われていた、そしてそろそろ答えが出始めてしかるべきと思われていた頃だ。もっとも文学から遠のいている私などが言える立場じゃないけれども。

そんな時代背景を重ね合わせると、この小説がさらに重要な作品に思えてくる。冴島が火山島でかつて避難した人々がいたことも重要なファクタとなっており、また冴島の活性化に欠かせない仕事をしていたヨシノが福島に向かうところも同時代性を感じさせる。

「幻の脚本」もひとつの柱になっているが、この謎解きのところで印象的な言葉があった。「今は、子どもは三人しかいないかもしれないが、いずれ、一人、二人と戻ってくるだろう。噴火で散り散りになっても、子どもは絶対に戻ってくる。」

この信念による仕掛けこそ、「幻の脚本」が幻たる所以につながるわけだが、その思いを引き継いでいく島の高校生矢野新や、その新を叱咤激励する気鋭の脚本家赤羽環の存在は、作者の未来に対する意志表明を感じさせた。創作物が時代を超えて人々を楽しませ勇気づける。

これらの同時代性や未来志向が単なる描写上の工夫ではなく、ひとつのテーマとなっていることは瀧井朝世さんの文庫本解説でも読み取れた。辻村深月さんは地方都市を重要なテーマとしているそうだ。

ただし常に肯定的なわけではなく、『島はぼくらと』が異色作ということだったが、地方都市の未来がバラ色だとは誰も思っていないこの日本で地方都市万歳とばかり言っていられないのが当然だろうし、そうでなければ信頼できない。

そんな危うい世の中であっても、清濁併せ飲んで生活し、コミュニティの生活を良くしていこういこうとする意志こそが貴いわけだ。その体現が冴島の村長だったりヨシノだったりする。島の高校生女子のふたり、朱里と衣花もきっとその意志を継ぐ者になるのだろう。

解説でもうひとつ、この小説が瀬戸内国際芸術祭での島めぐりやインタビューから構想されたことを知った。ちょうど今年旅した直島も瀬戸内国際芸術祭2016の只中にあった。こんなめぐりあわせもちょっと嬉しい。

読み終わって「辻村深月、いいじゃん!」と思い、別の作品も読んでみようと思った。赤羽環が登場するという『スワロウハイツの神様』がいいかなと思った。同じ登場人物が別の作品にも登場するというのは手塚治虫から藤子不二雄へと受け継がれる伝統芸だが(笑)、藤子ファンという辻村深月にも受け継がれているのか?

それはともかく、この作品は上下巻と長いのでもう少し先にとっておき、短編集の『ロードムービー』を実家の近所の書店で購入して帰宅した。短編集というのが手軽でいい。“気弱で友だちの少ないワタル”という登場人物も親近感が持てて。ボクの名前もワタルなので。

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2016/07/18

箱根で美術鑑賞~川瀬巴水の新版画と遭遇~

先週の箱根プチ旅行ではポーラ美術館と彫刻の森美術館を訪問しました。ポーラ美術館ではモダンビューティ展という企画展を鑑賞。フランス絵画と化粧、ファッションの歴史を辿れます。かつてのファッション誌やその挿絵など個人的には実に興味深い展示でした。

この企画展のアイキャッチとなっているエドゥアール・マネの「ベンチにて」をはじめ、常設の絵画も含めて非常に質の高い展示になってると思いました。初めて訪問したのですが箱根という場の力も得てすばらしい美術館です。箱根には今後も何度も行きそうなので、その都度訪問してみたい美術館になりました。今回の企画展は9月4日まで。

アンケートに答えると絵はがきが1枚もらえるというのでアンケートに答えてレオナール・フジタ(藤田嗣治)の「ラ・フォンテーヌ頌」をいただきました。他の絵はがきも5枚購入。購入したのは、マネの「ベンチにて」、クロード・モネの「サン=ラザール駅の線路」と「散歩」、野獣派キース・ヴァン・ドンゲンの「乗馬(アカシアの道)」、そしてアンケートでもっとも好きな作品と答えたアメデオ・モディリアーニの「婦人像(C.D.夫人)」です。

印象派も野獣派も、その命名はマスメディアや業界人らによる皮肉が起源なわけですが、保守的な業界に生まれた革命的な仕事は、常にこのような批判や嘲笑から始まるわけですね。そして一つの流れを作り古典と共存していく。保守と革新とは対立軸ではなく多様性の獲得となってこそ進化につながると、絵画を見ながら考えてしまうご時世なのであります。


●彫刻の森美術館にて

彫刻の森美術館は20年以上ぶりの訪問だと思います。こちらでは「横尾忠則 迷画感応術」という企画展をやっていてそれを目的に行きました。しかしポーラ美術館からの流れで来てしまうと、その作品のふり幅にかなり混乱してしまいました。

80年代から親しんできた450(ヨコオ)アートなのですが、だんだんボク自身の趣味が保守化してきたのか、その秘宝館的な作品群にときめきはなくなっていました。でも彫刻の森美術館をテーマに描かれた新作「At Box Roots」の絵はがきを買いました。絵の中に「大涌谷通行止」という文字があり、2016年という同時代性をそこに感じたので。

その後、彫刻の森を散策がてら緑陰ギャラリーの「日本の風景 日本のわざ」というコレクション展 の会場に入りました。ここで川瀬巴水(かわせはすい)の新版画に初めて遭遇し、その素晴らしさにしばし立ち止まって見入ってしまったわけです。

この展示では「見南山荘風景(箱根)」の連作(1935年)を鑑賞できました。なかでも「あけび橋の月」という作品が浮世絵とは明らかに異なるモダンな版画で、ジブリ作品の背景画をも想起させるような美しくも静かな風景画だったのです。

川瀬巴水という名前を忘れないようにと絵はがきを探しましたが、残念ながら販売されていませんでした。

●川瀬巴水の新版画に出会う

とりあえず展示作品の一覧がプリントされた用紙を持ち帰り、川瀬巴水について調べました。そして新版画というジャンルが浮世絵以後の大正・昭和時代に始まったある種の芸術運動だったことを知ります。

新版画は渡邊庄三郎という版元が明確な意思を持って始めた新しい版画制作であり、渡邊庄三郎なくしては川瀬巴水と出会うこともなかったと思えるようなジャンルでした。渡邊庄三郎については高木凜著『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』が決定版だと思います。これを読み終わってからこのブログを書こうと思ったくらいに必読の書でした。

ただ川瀬巴水についての記述はそれほど多くないので、川瀬巴水本人や作品について知るには(いま入手可能な書籍としては)清水久男著『川瀬巴水作品集』(東京美術)がとても参考になりました。

川瀬巴水は天才肌ではなく職人的な画家だったのではないかと思います。1918年(大正7年)に鏑木一門のなかで年下の伊東深水が描いた「近江八景」という木版画を見て感激し、「これなら自分にも出来る!」と思って版画の道に入ったそうです。もともと美人画が苦手だった巴水が風景画の木版画に活路を見出したわけですが、この消極的なスタートに親近感を覚えます()。

そんな巴水でしたが最初に作った「塩原おかね路」が好評で、2つ年上の渡邊庄三郎とも意気投合し、風景版画の川瀬巴水として続々と作品を発表していくわけです。

●新版画と創作版画を音楽業界に例えると…

新版画は、浮世絵と同じく版元、絵師、彫師、摺師の分業でひとつの作品が完成します。同じ時期に創作版画というジャンルも生まれましたが、こちらは画家が一人ですべてを行うものだったようです。これを読んだとき、音楽業界でいえば、新版画はレコード会社、歌手、作詞家、作曲家、編曲家、エンジニアによってつくられる大衆歌謡であり、創作版画はシンガーソングライターだなと思いました。

どちらが正解というわけではないですが、専門技術を要する彫り・摺りを画家が自身でやるのは完成度に影響するような気がします。創作版画支持派からすれば、画家の個性を最重視するには全部ひとりでやらないと純粋芸術とは言えないとなるようなのですが、昭和歌謡の名曲で育った私には作品の完成度は分業であっても、いや分業だからこそ成立するという気もしています。

話はそれますが、これはマーク・コスタビへの批判のときにも感じました。コスタビは自身の工房でプロデューサー、あるいはアイデアマンとして君臨し、実際の絵は工房のスタッフが描いていました。それを公表して作品も発表していたわけです。それはコスタビ作品といえるのか、単なる商業主義ではないかと叩かれました。しかしコスタビ作品の独創性はそのような批判とはズレたところにあったと思うわけです。

新版画は版元(渡邊庄三郎)がプロデューサとなり、絵師の意図を再現するために職人の彫師・摺師をスタッフとしてディスカッションしながら、完成品のイメージを共有していったようです。版元の考える売れるモノと絵師の描きたいモノとの葛藤もあったようです。それを乗り越えてひとつのジャンルを形成していった「新版画」というジャンルそのものにも興味を惹かれました。

●そして川瀬巴水の新版画を購入

Kawase_hasui_yuki_no_mukoujima新版画の始まった時代は20世紀初頭です。浮世絵に影響を受けた欧州の印象派絵画(19世紀)から後期印象派(19世紀後半)、そして野獣派ほかへと展開していった20世紀初頭、西洋で大きな美術史的転換が進んでいた時代に、日本では「新版画」が生まれ、そしてそのほとんどが海外で評価されていきました。

私は知らないうちに、箱根の2つの美術館で20世紀初頭の東西の美術のうねりを感じて帰ることが出来たのでした。

新版画は関東大震災(1923年・大正12年)と第二次世界大戦(1941-45年・昭和16-20年)という2度の震災と戦災で版木や道具が焼失してしまいます。しかし版元の渡邊庄三郎の驚異的な働きで「新版画」は世界に認められる芸術作品となります。

箱根で絵はがきが買えなかったからというわけではないのですが、渡邊庄三郎が起こした渡邊木版美術画舗のWebサイトから川瀬巴水の木版画の後摺り作品が購入できると知り、1枚購入しました。ほとんどの作品は品切れだったのですが購入したのは「雪の向嶋」という作品です。構図の良さ、雪景色の美しさ、そこに挿す仄かな明かり。とても心落ち着く作品です。

後摺りというのは、初摺りと同じ版木を使って摺られた作品で復刻版とは異なります。初摺りとは異なりますが、オリジナルの版木から摺られた版画です。『最後の版元』にも感銘を受けた私は、版元の渡邊木版美術画舗が後摺りで売っている川瀬巴水作品なら買ってみたいと思った次第。実に良い買い物でした。

今後も新版画の展覧会などがあれば鑑賞したいと思います。美人画は西洋好みの私ですので(笑)、新版画は川瀬巴水のような風景画が好きです。

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2016/06/03

ブラバンキッズ・リターンズ!まさかのドラマ化に寄せて

はじめにことわっておきますが、「ブラバンキッズ・リターンズ」なんてドラマはありません(笑)。今年の夏、TBSで始まるドラマ「仰げば尊し」への期待をここに表明しておきたいと思い書き始めた次第です。

なぜブラバンキッズ・リターンズなのか?

それはひとくちメモの2009年の記事「復刊!ブラバンキッズ・ラプソディー」から7年目にして、このノンフィクションがドラマで甦るからでございます!私が個人的にリターンズと騒いでるだけでございますが、騒ぐだけの価値がある原作のドラマなわけですわ。

最近、書店でも『ブラバンキッズ・ラプソディー』と続編の『ブラバンキッズ・オデッセイ』が平積みになっているのは気づいていました。しかしそれがドラマ化につながっているとは思ってもみなかったわけです。

ボクはこのノンフィクションの面白さをよく知ってるので、復刊後にロングセラーになって嬉しかったですし、新学期のこの時期に口コミで売れる書籍なんじゃないかくらいに思っていました。ひとくちメモの記事も多少は貢献できてたかなとひとりほくそ笑む的な(

ひとくちメモの記事は7年経ったいまでも結構読まれてはいたんですが、それが今日になっていきなりのアクセス数急上昇。どういうことだろうと検索してドラマ化を知りました。

それもTBSの日曜夜9時ドラマですよ。ドラマの王道…。そんな言葉すら浮かんでくるドラマ枠です。

ブログ書いてて良かった~。こうして情報が入ってきてくれる。ほんとアクセスしてくださる皆さんのおかげございます。ありがとうございます!

そしてキャスティングにもまたクラクラ来てしまいますね。中澤忠雄先生の役を寺尾聰さん!そう来るかTBS!まいった。素晴らしい。素晴らしすぎる。

ボクは寺尾聰さん主演の『優しい時間』ってドラマも大好きでDVD-BOXも買ってるわけですが、ブラバンキッズ・リターンズ(違うって!)の主演もやってくれるなんて…。もう感動で泣きそうですわ。でももっと悲しい瞬間に涙は取っておきます(松本隆かよ!)。

2009年にも書きましたが1991年初版の『ブラバンキッズ・ラプソディー』が2016年夏のドラマになるなんて。四半世紀の時を超えてドラマ化なわけですよ!

復刊されて良かった~。著者さん、編集者さん、そして八郎右エ門さん(ご無沙汰しております…)、おめでとうございます

すべてはそこから始まってるんじゃないかな。

復刊からドラマ化までをスピンオフドラマ化出来るよ。そこにオレも出たいな。いやブログを書くオレを六角精児さんに演じてほしいな(笑)。

そんな妄想はおいといて、とにかく必見のドラマなのです

DVD-BOXも買う気満々!でもTBSがくれたらもっと嬉しい(笑)。

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2016/04/29

『フェルメールになれなかった男』 嫌いじゃない!むしろ好き!

ショーンKの学歴詐称問題のニュースがあったタイミングでこの書籍のことを書こうと思ったのだが、ずいぶん時間が経ってしまった。ちなみに学歴詐称問題については2004年に「ポスト古賀?」というヒット記事を飛ばしたひとくちメモ。様々なところからリンクされたけれど、結局タモリの学歴問題は12年経ったいまもうやむやなままである。それがタモリの偉大なところでもあると思う今日この頃。ショーンKにも見習ってもらいたい。

さて、本題。フェルメールになれなかった男とは、世紀の贋作師ハン・ファン・メーヘレンというオランダの男だ。フェルメール他の贋作をいくつも描き世間を欺いた男だが、欺いた相手の中にナチスのゲーリング元帥がいたことでナチスに贋作を売りつけたオランダの英雄のように持ち上げられた男でもある。そして贋作したという自白を信じない人々のために裁判で贋作制作を実演してみせた男、ファン・メーヘレン。

こういう書物も評伝といっていいのだろうか。ノンフィクションというのだろうか。構成もよくミステリーのように読み進められる。そしていまもフェルメールの贋作論争は続いており、芸術とは何かを我々に問いかけ続けている。

私は贋作師が嫌いじゃない。世の中をペテンにかけて批評家が適当な言説を述べるのをひとり嗤い軽蔑する人間。自分で贋作であると名乗り出なければその作品は他人の名声とともに永遠に生き残る。その倒錯した喜びとむなしさの狭間で生きる、その生もひとつの芸術の在り方かもしれないと思う。

絵画に付されたサインや売買記録、展示記録のような枝葉末節が最も重視される美術界の在り方もある意味ペテンのようなものだ。作品の本質というものは実は重要ではなく、商品価値を決めるのは流通経路といっているようなものだ。

真作か贋作かが重要なのは流通する価値、経済的価値でしかない。この絵は誰の絵かを当てるクイズを楽しんでるようなものだ。そこにジョーカーを紛れ込ませるのが腕のいい贋作師だ。ただ答えを教えないまま永遠に続くクイズがいまも世界中に地雷のように潜んでいる。その現象こそまさにアートじゃないかとすら思ったりする。

メーヘレンはもともとは素晴らしい絵画を描く技術を持ち、絵の具の研究に余念がなく、ボタンの掛け違いがなければ画家として成功していたかもしれなかった。だが世間が自分の存在を認めないと分かったとき、17世紀の絵の具について研究し、キャンバスを自作の窯で焼いて古さを演出し、美術評論家の弱点を見抜き、そこをくすぐるような作品を描いた。贋作ではあっても渾身の作品が出来上がってしまった。そこにフェルメールと署名してしまったことだけが罪だった。

贋作が贋作と呼ばれるのもそこに経済的価値が付随するからだ。メーヘレンは大金持ちになった。そして堕落する。女に酒にと生活も荒れていく。そして終戦後逮捕されたメーヘレンは親ナチスの大金持ちとして糾弾されるよりも、贋作師であると自白することで自分の技術を世間に認めさせることを選んだ。このときのカタルシスはどれほどだっただろう。贋作師としてこれ以上の舞台はないように思う。

学歴詐称と決定的に違うのは、そこに作品というリアルな実体を伴うところだ。偶然や人脈や様々な要素によって芸術が、芸術家が、世の中に認められるかどうかは紙一重であり、そうやって出てきた作品はもちろん素晴らしいけれども、出てこなかった芸術や芸術家の思いを物語る贋作というジョーカーにも切ない感情を喚起されることがある。何らかの感情の起伏を伴う作品、それもまた芸術と言ってもいいんじゃないか。

オーソン・ウェルズはかつて「フェイク」という映画を作った。贋作師をドキュメンタリータッチで追い、しかしその映画もどこまでが本当はわからないような映画だった記憶がある。当時はあまりちゃんと見てなくてもう一度見たい映画のひとつだ。贋作であるという、まさにそこに惹き込まれる人々もいる。ボクもどうやらその一人だ。贋作はバレなきゃ贋作になり得ない。贋作が贋作として認められると作品としての経済的価値を失う。だがメーヘレン作品のいくつかはいまも美術館で見ることができそうだ。贋作であることに価値がある珍しい作品として。

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2016/02/11

『親なるもの断崖』を『断崖~親愛なる者へ~』を聴きながら読了

週刊金曜日の1月15日号の書評は珍しく漫画を紹介していた。曽根富美子『親なるもの断崖』の新装版だ。宝島社の「このマンガがすごい!2016」の第9位で、電子書籍版もヒットして新装版が発売された。

このタイトルを見て中島みゆきファンならきっと「断崖~親愛なる者へ」を連想すると思う。もうタイトルだけで半分は惹き込まれてしまった。

更に舞台は北海道だ。明治末期から昭和初期の室蘭。日露戦争の頃から東洋一の兵器工場と言われ重工業で栄えた男の飯場。そこには当たり前のように遊郭があり、女衒に連れられて売られてくる少女たちがいた。

室蘭にある地球岬という断崖。地球岬をポロ・チケウといい、アイヌ語でポロ=親である・チケウ=断崖という意味らしい。ポロは大きいといった意味だが、そこにある大小の断崖の大きいほうを親、小さいほうを子に見立てて女衒が連れてきた娘にこう話す。ここから室蘭がお前の親だ。死にたくなったらこの断崖に来いと。

このとき連れられてきた娘は4人。松恵、お梅、武子、道子。この物語は彼女たちそれぞれの一代記といえる。世間の厳しさを凝縮したような幕西遊郭の只中にほうり込まれた壮絶な人生の物語。

長く生きながらえる者も短い生涯を終える者もいる。厳然と存在する世間の不条理やむき出しの本能。獣のように、いや獣以上に非情な人間社会。その営みと併存してもの言わぬ断崖がある。人々はその断崖を畏怖しつつ人生の岐路でその断崖の前に立つ。

読んでいる最中、中島みゆきの「断崖~親愛なる者へ」が何度も頭の中でBGMに流れてしまった。以前、この曲についてこんなことを書いていた。

断崖って聞くと断崖絶壁から身を投げるようなイメージが浮かぶ。でもこの断崖は決意表明を叫びに吹雪のなか出かけた場所なんだ。海に向かって、春の服を着て走り続ける決意をひとり叫んだんだ。叫ばなきゃいられなかったんだ。きっと。

断崖の前でその断崖の深い部分まで共鳴しようとする心は北海道人特有のものだろうか。北海道の断崖を観光でしか体験していない私には、その深層心理にまで共鳴することが正直難しい。中島みゆきの断崖も、曽根富美子の描く娘たちの断崖も、あらゆる感情を飲み込みあるいは抱きしめ、日常と非日常の境界に存在するかのようだ。

『親なるもの断崖』新装版は第1部と第2部の全2巻。第2部は、第1部で遊郭に売られて来た4人娘のなかのひとりが女郎として生き、壮絶な人生の果てに産み落とした道生という名の女の子の物語だ。そして昭和33年、売春防止法が完全施行されて幕西遊郭が消えるまでの物語でもある。

道生の目ぢからに圧倒される。第1部とは違う戦争の時代。強く生きようとする道生の愛おしさ。断崖と同じく、男の私にはどこまで登場する女性たちの心情に迫れたか分からないけれども、動乱の時代に息づいた女の系譜を中島みゆきのBGMとともに読み終えた充実感が残った。時代背景もうちの祖母、曾祖母の時代と重なる。7年前(2009年)の今日は祖母が亡くなった日。女系の家庭で育った私にはそういう部分での不思議な親近感もあった。

余談だが、これを読み終えたころには、似た境遇の映画『大地の子守歌』がブルーレイ化される予定だった。しかし発売直前にまさかの発売延期。素九鬼子原作、増村保造監督、そして原田美枝子主演。なんとかもう一度見たい映画だ。限定版でもいいから発売してほしい。オンデマンドでもいい。よろしくお願いします。

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