番外編!中島みゆき「あした天気になれ」をあらためて妄想するの巻
『昭和40年男』はもう読んでいただけましたか?!「悪女」から紐解いた、中島みゆきの歌に出てくるカッコいい女たちを僕なりの妄想で書きました。
その前半では「悪女」「わかれうた」「彼女の生き方」と来て「あした天気になれ」へと連なる女たちを、涙を縦糸にして、リミックスを作るかのごとく語ってみた次第です。
一曲の歌詞を解釈することと、複数の歌を関連づけて新しい視点を見つけていくこととは、妄想とはいえ全く違うアプローチですわ。だから、この編み方でピックアップ出来なかった単体の歌詞について、それぞれ語りたいことが出て来たりして。
そこで今回は『昭和40年男』のコラムで削った単体の「あした天気になれ」を、もう一度考えてみたいと思った次第です。なんにつけ一応は妄想的解釈をするのが癖なんです。
それにしてもこの歌詞、昔ながらの言い方になりますが、一番の歌詞と二番の歌詞とでテイストが違い過ぎませんか。
一番は抽象的な自己分析で、二番はそれを具体的に宝くじに例えて解説してる感じ。だけど、それぞれのサビは逆に一番が具体的な天気の話、二番が愛や孤独と精神的な話です。
とくに唐突感があるのは『昭和40年男』にも書きましたが、二番の愛と孤独です。これが一番のサビならまだ分かりやすい気がしますが、そこは中島みゆきさんです。分かりやすくはしません。たぶん。だけど、これもコラムに書いた通り、二番のサビこそが外せない核だと僕は確信してるので、ここを起点に様々な仕掛けがあるはずだと妄想スイッチが入ってしまいます。
「あした天気になれ」は「あたし元気になれ」かもしれないと考えた人は結構いますよね。たぶん。僕もそう思います。あしたが漢字で明日だとそうは考えませんが、あえてひらがなですから。僕はおこと教室の看板をおとこ教室と見間違ったことがあります。妄想脳の宿命です。話がそれました…。
絶望的観測が癖だけど夢も欲もある主人公は、まずネガティブな思考から入って、失敗を恐れて予防線張りまくり、他人には卑屈になって謙遜しまくりの人生を送っています。だけど希望は捨ててない。夢も欲もかなうはずがないと人には言いながら、心のなかではかなえたいと強く思ってる。ここまでは一般論として共感しやすい。
と、ここで「雨が好きです 雨が好きです あした天気になれ」というタイトルフレーズが出て来ます。雨が好きなのに天気になれと願う矛盾をどう解釈しましょうか。
●涙は次へのステップという公式
『昭和40年男』のコラムでは、中島みゆきの歌の女たちの涙は次へのステップという“公式”を編み出しました。これを使ってみたい。
サビで「あした天気になれ」が出てくる直前に、泣いてばかりじゃ嫌になると感情を吐露してますよね。これは世間への投げやりな捨てゼリフにも見えますが、本心が零れた瞬間だと思うんです。
この主人公は泣いてばかりじゃ嫌になるけれど、きっと泣いてばかりの人生で、だけど泣いてる自分が嫌いではないんじゃないか。たぶん。ついでにいえば孤独な自分も嫌いじゃない。それは自分が自分でいられる時間だから。世間体ばかり気にして生きてる自分が本当の自分に戻れるのは孤独に泣いてるときだけだから。そう思うわけです。
ここまで来ると僕の妄想もグルーブします。「あした天気になれ」が「あたし元気になれ」だとしたら、「雨」は「涙」なんじゃないか。本心は「涙が好きです 涙が好きです あたし孤独になれ」なんじゃないか。さらに、この孤独な涙の先に、試練を乗り越えた強い自分が生まれると主人公は信じているのではないか。だから、いわば通過儀礼として「孤独になれ」と強い願望もしくは命令調なんだと妄想が妄想を呼びます。
「あした天気になあれ」というちばてつやさんのゴルフ漫画があります。こっちは「なあれ」というゆるい願望です。でも中島みゆきさんのこの歌詞で「なあれ」は有り得ないわけです。強く「なれ」と言わなければ済まない信念があるはずなんです。「天気になあれ」はまぁあるでしょうけど、「孤独になあれ」なんてぬるいことは言えないわけです。
そして核である二番のサビも「愛が好きです 愛が好きです あたし元気になれ」が初稿なんじゃないかと妄想は止まりません。愛は孤独では存在出来ない概念です。自己愛を除いて。主人公の好きな「愛」には自己愛ももちろんあるけれど、叫ぶほどの「愛」は人間関係のなかにしかない「愛」でしょう。孤独に泣いた「涙」の先にある「愛」は孤独ではいられない。元気になった「あたし」の前に屹立する存在でなければならない訳です。
ここまでを整理すると、論理的には一番で孤独に涙を流し、二番で元気になって愛に立ち向かうほうが、時系列に沿った物語になります。しかし面白みがない。ハッとする瞬間がない。これは日記じゃなくて大衆歌謡なんだから仕掛けが必須です。
そこでまず、涙(なみだ)を雨(あめ)に置き換える。この方が語感として「愛が好きです」と対にしやすい。そして「あたし元気になれ」を「あした天気になれ」と天気で例えることで歌詞として統一感を出せるとともに、ここに一つの矛盾した感情、つまり雨が好きだけどあした天気になれと願う感情を提示します。
その結果、「孤独になれ」が一番から弾かれたけど、これを「愛が好きです」に無理くり紐付けると、ある種のギミックというか、「愛が好きなのになんで孤独になれなんて言うんだ?」とリスナーを幻惑させる仕掛けになる。しかし一番の歌詞で矛盾した感情を天気に例えた後なので、おなじ構造でなんとなく受け入れやすい。大衆歌謡としてはそこで終わっても成立するけれど、これを聴いた僕みたいな妄想脳は「愛と孤独」という現代的なテーマに思いを馳せたり出来るわけです。
倒置とか嘘と本当の転倒は中島みゆきさんの歌詞には多い気がします。統計取ったわけじゃないけど。その裏には真実らしさと時にうらはらな人間の感情への視線や愛おしさがおそらくあって、どちらもアリだと考えていらっしゃるんではないか。だから事実と嘘とがたとえ入れ替わっても、感情(歌詞)は成立するという信念があるように思うんです。
中島みゆきさんの歌は、置き換えと比喩とがパズルのように組まれている、いやあえて完成させてないパズルをリスナーにポーンと渡されてる感覚を僕は持ってます。もしかするとパズルのピースを何個か隠し持ってるみゆきさんの姿まで思い浮かびます。その欠けたピースを自分で作って埋めていく作業が楽しい。妄想的歌詞解釈の醍醐味です。まぁ富士山のパズルがバームクーヘンの断面のパズルになっちゃうかもしれないけど、それでいいんです。
●宝くじあるあるの必然性
さて、残ったのが、宝くじあるあるの二番の歌詞です。一番が抽象的だったから、分かりやすい大衆歌謡にするための説明といえばそうかもしれませんが、二番のサビ以外を全部使って丁寧に説明してるのは、中島みゆきさんの歌詞としては異例の親切さです。そこまで噛み砕かなくても分かりますからね。そこが逆に引っかかる。
で、これは説明のためというよりも、延々と続く世間話(社会あるいは世情)の象徴としてこの冗長性を置いたのではないかと思うわけです。その下世話な世間のなかで生きていく処世術を主人公もまた延々と続けることでしか受け入れてくれないこの人間世界が厳然とあり、「愛」もまた、その世界にしか存在しないというパースペクティブを読み取りました。妄想ですけど。
世間とつながるために宝くじあるあるみたいな話を延々と続け、しかしそのなかに自分自身の真実を織り込むひとり遊びをしながら、「愛が好きです」と心の中で叫び、日々孤独に泣いては「あたし元気になれ」と自分自身を鼓舞して、また人間社会に戻っていく。あたかも「悪女」の主人公が一番電車で泣いてまた悪女を演じるかのように…。人生はその繰り返しなのです。たぶん。いつか「愛」が見つかると信じて。
というわけで「あした天気になれ」を妄想解釈してみました。他の楽曲、この流れでいけば「彼女の生き方」なんかも、その背景とか妄想はどんどん膨らむんですけれど、機会があればまたいつか。
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