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2017.11.23

勤労感謝の日に勤労酷使の世を考える

勤労感謝の日ということで、『経済成長という呪い』(ダニエル・コーエン著・東洋経済新報社刊)を肴に、「アベノミクスのこの世では、本当に勤労者が感謝されているのか?」をテーマに少々書いてみたい。ツイッターネタにしても良かったが140文字じゃ書ききれないと思ったので、久々にブログに書くことにした。かつてのひとくちメモファンにはうれしいはずの(coldsweats01)、小賢しいヨタ記事である。

●150年の官僚支配へのクーデターで生まれた安倍政権

安倍晋三によって保守のイメージが大幅に修正された。息するように嘘をつき、身びいきえこひいきのお友達政治をやりながら、反対意見を汚い手段で封じ込め、疑惑にはだんまりを決め込み、寛容さの欠如した部族的ポピュリズムを体現し続ける安倍晋三。まさに歴史修正主義者の面目躍如だ。

何度辞任してもおかしくない安倍だが、内閣府によって官僚の人事権を掌握した権力は絶大だ。辞職覚悟でなければ誰も内閣総理大臣様にモノ申せないシステムを作り上げた。明治以来、150年に渡る官僚政治の日本国はここに崩壊したといえる。システムの変更こそが国家のカタチを変えるのだ。

安倍政権は「革命」という言葉が大好きなエセ保守政治だが、確かにクーデターに等しい制度変更により、官僚の手足を縛り、いまや新しい日本国が誕生している。もちろんその背景には150年続いた官僚支配に対する国民の反発があったわけだが、官僚退治をこんなネトウヨに託してしまった多数派日本人の浅はかさ。政治が生活を変えるという実感を喪失してしまった戦後日本。平和の代償はこうして出現するのか…。歴史が繰り返される所以だ。

そして安倍政権が続けば、憲法を改悪し国民の手足も縛ろうとするだろう。憲法は支配者を縛る呪文だったが、ついにその呪縛から解き放たれた権力が官僚と国民を縛り鞭打つSM政治が始まる。そして安倍とその取り巻きだけがフリーハンドでこの世を謳歌するニッポンが生まれるのだ。

そんな知性と品性の欠片も持ち合わせないこの大首相様の治世で、株価だけが独り歩きしているこの世の中。だが資本主義という概念そのものも修正を余儀なくされている。

●もはや資本主義ではない

新しい保守像は安倍にねつ造されているだけだが、資本主義のほうはもっと深刻だ。こちらもまったく異なる概念になっている。1970年代前半までの資本主義と同じ原理で21世紀の世の中が動いていると思うと大間違いだ。同じ「資本主義」という言葉でくくれない世の中になっている。

それを強欲資本主義とか新自由主義といえば、多少差別化できたような気分になるが、それらが示現出来てしまうもっと基礎的な部分での大きな変化があった。『経済成長という呪い』にそれを指摘している箇所がある。

著者はフランスの経済学の大家なので、その人文系の知性がいたるところに飛び散り、読みものとして面白かった。その割には200頁程度でコンパクトなので読みやすい。現代社会を概観するにはとてもいい。

なかでもアベノミクス批判に通じると思えたのは、「ダブル・バインド〔二重の拘束〕」の章だ。ここにもっとも共感した。

1913年から1973年までフォーディズムに代表される工業資本主義の時代は、(特に米国で)まさに勤労感謝の時代だ。資本家は労働者の勤労意欲を高めるために賃金の上昇を行い、それが生産性の向上につながり、富の再配分を促すという循環を生んでいた。

階級社会ではあっても、あらゆる階級で未来の生活の向上を目指せる資本主義の時代だったといえる。とくに1945年から1975年の黄金の三十年は日本の戦後復興に当てはめても納得が行くだろう(もちろんどんな社会にも闇はあるにせよ)。

そんな資本家と労働者との関係性が、1980年代以降、完全に断絶しはじめる。なぜなら会社そのものが機関投資家のものとなっていくからだ。経営者が賃金制度から抜け出し、自社の株価によって報酬を得るようになった。

従業員の賃金をあげることで経営者自身の賃金も上がるというシステムから、従業員の賃金を出来るだけ削減し、株価を引き上げることで経営者の報酬が上がっていくシステムに大転換してしまった。まさに資本主義が真逆の方向性を目指し始めたわけだ。

それを可能にしたテクノロジーがコンピュータであり、金融であり、グローバリゼーションだったというわけだ。著者はこう書いている。「硬直的だが効果的だったセーフティネットをもつ社会が大切に培ったバランスは砕け散った。企業の労働者を保護する機能は消え失せたのである。

●もはや勤労酷使の世。労働者は保護されない

こうなるともはや勤労感謝ではなく勤労を強要する資本主義となる。従業員にどんな仕打ちをしようとも、目先の株価さえあげることが出来れば自身の報酬も上昇していくのだから、他人の生活など知ったこっちゃない経営者が続出し、首切りが利益目標になっても当然だ。

従業員とは使い捨ての道具であり、蹴落とすための競争相手だ。そのストレスを強いることで働かせるというマネージメント。派遣法改悪、過労死、ブラック企業などに通じる資本主義の闇は、株主資本主義が生み出したともいえる。

そのような労働者の現実の対極には、株高を謳歌する富裕層、富の独り占めを可能にする社会システムや税制、グローバリズムで表に出ないプライベートバンクなどの現実がある。人命よりも私利私欲の世の中が進行中なわけで、粉飾の株高に湧くアベノミクスの目指す社会の枠組みがとてもよくわかる。

それはまさに自分の足を食べるタコのような企業経営に思えるが、経営者をコントロールする投資家は、投資先を変更するだけで生き残ることが可能だ。会社はいくらでもある。つくることも出来る。奪うこともできる。これは単なるゲームなのだ。人命など吹けば飛ぶようなコマなのだ。次々と会社をぶっ壊しながら流れ歩く経営者が日本にもいるが、そういう輩は会社がなくなることを屁ともおもっていないどころか、それが目的なのではないかとすら思える。

●ダブル・バインドが民主主義も破壊する

民主主義は独裁主義よりもセーフティに思えてきたが、大勢を占める労働者が(無意識に)セーフティネットを破壊された労働を強いられ、過度でエゴ丸出しの競争やストレスのなかで生活していると、民意そのものがあらぬ方向を向いてしまうリスクも、とてつもなく高いのではないだろうか。

経済危機がポピュリズムや差別主義を引き起こすことは、『経済成長という呪い』のダブル・バインドの章にも書かれていたが、現代日本はまさにその真っ只中にあり、その中心に安倍晋三という現時点でもっとも危険な男を据えてしまったわけだ。時代が彼を選んだのかもしれない、と書くと無責任すぎるか。

現時点でというのは、今後この安倍的な政治が継続した場合、安倍の劣化版が出てくる余地が充分にあるからだ。目ざとい詐欺師がここに目をつけて政治家を目指す可能性もあるだろう。すでに詐欺師のような政治家はひとりやふたりではないだろう。

民意はもはや真っ当な政治を選ぶ余裕がなくなっているように思う。強いリーダーによる性急な結果を求め、すぐに結果が出なければ徹底的にバッシングする。そういう政治のなかでポピュリズムを頼みに舵をとる困難さが安易な戦争を求める。民意が戦争を始めさせる。そんな流れを止める方法がいまのところなく、繰り返された人類の愚行とともに限界を感じさせる。

ダブル・バインドと聞くといつも祖母のことを思い出す。戦時中、大人やいじめっ子に口答えすると、両耳をつまんで身体を持ち上げられ「富士山が見えるか!」と問われたそうだ。見えないというと「まだ見えないか!」と叱責される。耳がちぎれそうに痛いので「見えます!」と答えれば「嘘をつくのか!」と叱責されるのだ。いま、誰もがそんな袋小路の世界で生きてる。


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2015.11.14

パリ同時多発テロの起った日

今朝、パリで同時多発テロが起った。ニュースによるとコンサートホールやレストランなど少なくとも6ケ所で同時多発的に発砲事件などがあり、127人以上の死者が出ている。時間がたつごとに報道される死者数が増えていった。自爆テロも7人ほど確認されているという。

今朝こんなツイートをした。
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2年前の今日はパリにいた。もしあれが二年後の今日だったらボクもテロの街にいたんだ。今日平和だからって2年後も平和だとは限らないってこと。特にいま、ロシアのプーチン、中国の習近平、米国のオバマ、そして日本の安倍。火種はテロリストでもそこに息を吹きかけたい連中がたくさんいる。
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2年前のパリ旅行はフィギュアスケートのエリックボンパール杯を観に行ったのだった。オリンピックイヤーでその後ソチ五輪で金メダルを取った羽生結弦も出場した国際大会。もしあれが2年後の今日だったらフィギュア国際大会の会場は狙われていた可能性もある。

フランスでは年頭にもテロがあった。イスラムを侮辱するような風刺画を掲載した「シャルリ・エブド」が襲撃され死傷者が出た。今回のテロとの関連性はわからない。しかし「狙われた街パリ」という印象が残る。そして憎悪は連鎖する。

自称イスラム国が犯行声明を出しているという。シリア問題が背景にあるとも言われている。真相はまだわからない。だが21世紀に入ってから、テロリズムの素地はじわじわと醸成され拡散しつつある。戦争の世紀といわれた20世紀からテロリズムの21世紀へ。世の中がまた嫌な空気に覆われはじめている。

国際テロは国家と違い姿が見えない。ゲリラ戦のグローバル化だ。そして国家はゲリラ戦に弱い。第二次世界大戦では日本軍が特攻という自爆攻撃を仕掛けた。行き詰った軍部の精神論的作戦行動であり国家の命令で国民が散った。しかし大勢に影響はなかった。21世紀のテロでも「自爆テロ」と呼ばれる自爆攻撃をゲリラ的に仕掛けてくるが、追い詰められての作戦ではなく、宗教的信念を持って初めから自爆してくる。それだけに戦争末期の自爆とは根本的に異なるような気がする。個人の強い意志による自爆だとすると神出鬼没だ。

自爆テロは宣戦布告した戦争相手国にではなく、起こしたいところで突然起こる。パリはイスラムの敵の象徴となってしまった。テロがいかに反社会的信念であろうと筋違いであろうと起ってしまう。パリにはそのための組織的バックアップ体制も作られているんだろう。自爆する側にとってもパリはブランド化され「自爆の都」となってしまったのかもしれない。

●ふたつのテロリズムを生んだ資本主義の21世紀

憎悪の連鎖は同時多発的に起り場所を選ばない。だが狙われる地域には特徴があり、世界的な貧困や格差社会が根底にある。それらを生み出してきた資本主義への攻撃ともいえる。資本主義の敵は共産主義などではなく資本主義が内包していた格差拡大と貧困が生み出したテロリズムだった。宗教はただ寄り添うだけで、どんな行動をしている人をも癒す人類の発明でしかない。

貧困や社会からパージされた勢力がテロとしてゲリラ化していくいっぽうで、資本主義を謳歌している多国籍企業もある種のテロ組織といえる。人類の生命もカネに換算しグローバルに拡大していく様は帝国主義の新しいカタチだ。米国で顕著だが格差確定社会を目指すために国家を手足として使い自社に有利な法律を次々に作っていく。それを地球規模で推し進めようとする。

つまりテロの世紀で私たちは多国籍企業と暴力的組織とから攻撃を受けている。多国籍企業の植民地や奴隷になるか運悪く暴力的テロの餌食になるか、いずれにしてもテロの網のなかで生活せざるを得ない。グローバル化していくテロの網は地球規模であり逃げ場がない。

パリの事件で海外旅行をやめたという声もよく聞く。だが日本も危険な地域のひとつになろうとしている。多国籍テロ企業にとってこれほどおいしい手つかずの地域はなく虎視眈々と狙っている。もう一方の暴力的テロ組織も安倍首相の「テロには屈しない」という不用意な発言によって目覚めた。標的の島としての日本を認識してしまった。既に犠牲者も出ていることにもっと自覚的であるべきだ。

テロは生命と財産を狙ってくる。多国籍テロ企業と暴力的テロ組織とによる日本争奪戦も充分あり得る。いずれのテロも資本主義が生み出しただけにカネのためならあらゆる手段をとる。

日本は長年の平和ボケによってかなり無防備だ。しかし守りを固める前に米国の意志によってある種の“開国”を迫られ、無防備な政治家によって準備する前に“開国”してしまった。暴力的テロへの無防備な挑発を繰り返しながら、TPPや安保法制によって多国籍テロ企業にも国民の生命と財産を差し出す準備を整え始めた。

どこまで略奪されるかわからないが、そういう時代に突入した日本に暮らしていることをあらためて考えた日だった。日本にとってはかつての備蓄を吐き出させられるふたつのテロと自然災害に翻弄される21世紀かもしれない。少子化も10年20年で解決できない問題だが、日本のために生きられる政治家もそれに輪をかけて生まれにくい世の中だ。ある種の愚民化と、今後国家の上位概念となっていくテロリズムによるテロリズムのための衆愚政治に突入していく可能性が充分にある。

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2015.09.21

他の誰にも語れない!Mr.KEIのDVDも鑑賞

今年のゴールデンウイークにひとくちメモで「他の誰にも書けない!Mr.KEIのアメリカ獄中記」を書いた。4か月経ってもこの記事へのアクセスが途絶えない。さらにこれまでの人気記事と大きく異なるのは滞在時間の過去にないくらいの長さ。たぶん平均4分、最長20分くらい。滞在時間の長さでは「復刊!ブラバンキッズ・ラプソディー」と並んで、読んでもらえてる感がハンパなくうれしい(wink)。

ネットでのMr.KEIへの興味は相当高い気がする。TBSの「クレイジージャーニー」で紹介されてから。もっともアクセスワードでは昔の組を知りたいのかなという感じの語句もあったりして、どんな興味かはわからないが…。チカーノファッションやローライダー、タトゥといったギャングファッションの認知度も確実にアップしているんじゃないだろうか。ということで、シルバーウィークの中日にDVDのほうも書いておこうと思った次第。

2009年に2本のDVDが発売されている。ゴールデンウィークにMr.KEIの著書を読み終わった後、すぐにDVDも両方購入して見た。シルバーウィークの今日も再度見た。著書の内容と重複する部分はもちろん多いわけだが、Mr.KEIへのインタビューをメインにして、当時刑務所内で撮影された写真なども多数紹介されているので、読書とはまた違った興味深さがある。

2本の違いだが正式なタイトルは、

日本が生んだギャングスタ チカーノ・KEI アメリカの刑務所に10年服役した男
チカーノ・KEI & HOMIE アメリカの刑務所に10年服役した男

となっていて、この順でPART1、PART2という構成になってる。各55分なので、あわせてひとつのドキュメンタリー映画だといえる。

PART1は主にKEIの生い立ちやチカーノとの出会いなどがインタビューで構成されている。子どもの頃のかわいい写真もあれば、果物ナイフで詰めた小指の後処理の話もあり盛りだくさんだ(coldsweats01)。これ一本でも十分にMr.KEIについてよくわかる。

PART2では、アメリカ刑務所での生活やチカーノ文化を現在のイベントなどを絡めて広く紹介している。チカーノ伝統のジェイルライス(刑務所飯)もKEIが直々に作ってくれる。ローライダーやタトゥのイベントに興味がある人はこちらも合わせて見るといいかもしれない。

Mr.KEIが出所したのは2001年なので、DVDはその8年後の制作、現在はそのさらに6年後(出所後14年後)だ。今年は山口組の分裂もあり極道の世界も様変わりした。

Mr.KEIはバブル時代に若くして大金を手にし、バブル崩壊とともにアメリカの獄につながれ、そのなかで人生を決定づけるチカーノのビッグ・ホーミーと出会い、出所後は日本に強制送還されたがチカーノの伝道師として日本で様々なイベントを仕切っている。

Mr.KEIは野獣の世界といえるアメリカ刑務所のなかでも最高レベルの刑務所で更生したわけだ。部族間抗争に明け暮れ、看守との裏取引は日常茶飯事、女性看守の売春も当たり前、出所後に女性看守と結婚する囚人も少なくない。そんな世界に10年以上いて、しかしそこで様々な更生プログラムや職業プログラムを受講して出てきた。めちゃくちゃな世の中にも生きるための理があり、理を通さなければ殺される。そういう環境でも人が更生できるというのは実に興味深い。

30年も獄中にいて出所日に出たくないと隠れた老受刑者や、出所したその日に戻りたくて強盗してしまう元受刑者などオモシロ(?)話も出てきた。レベル5(最高レベル)の刑務所のほうが静かな受刑者が多く、レベルが低いほどやんちゃな受刑者が多いというのも実社会とつながる気がする。極めた人間は静かなものだ。

欲望と抑圧と自由のふり幅が極端に大きいアメリカ刑務所は実社会の究極の縮図なのかもしれない。一般社会では隠された様々な動物性が表出する刑務所社会のなかで生き抜く能力に魅力がある。

この男の一代記は映画かドラマにしなきゃいかんだろうTBSさん!極道ドラマは得意じゃないですか。遠藤憲一さんを主演にぜひドラマ化してほしいなぁ。究極のヤメゴクなんじゃないだろうか。

と思っていたら、2016年公開予定でドキュメンタリー映画が作られていた!『HOMIE KEI』という映画。それもクラウドファウンディングで資金を集めていた。すでにファウンディングの応募期間が終了していた。残念!出資したかったなぁ。でもこの映画は観に行きたい。日本語字幕版が出来ますように。

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2015.07.19

今度の新しい趣味は経済性工学に。

経済性工学の教科書久しぶりにブログを書いてる。このところ戦争法案とか新国立競技場問題などでツイッターのほうが忙しく、なかなかブログに気持ちが向かなかった。やはり手軽さではブログよりツイッターのほうが圧倒的に手軽で早い。ただ短いのと推敲や修正がしずらいから両方使い続ける。

ツイッターでも好きな書物や音楽についてつぶやくこともある。この前、文庫化された『ウォール街の物理学者』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の面白さをつぶやいていたら、この書物の翻訳者高橋璃子さんやトレーダーのウルフ村田さんがリツイートしてくれた。それでアフィリエイトの売上も伸びた(wink)。ツイッターはこういう双方向性がいい。それだけに炎上問題もあるわけだが。メリットとデメリットと常に意識しなければならない。しかし市民の意思表明の場として大きな可能性を感じる。教科書をデジタル化なんて国益に反することをやるより、こういうデジタルメディアリテラシーをきっちり教育したほうがいい。

さて、それに味をしめたわけでもないが、その後もいくつか昔読んだ書物を紹介した中に『新版 経済性工学の基礎―意思決定のための経済性分析』(日本能率協会)があった。新国立競技場問題は格好の教材じゃないかと揶揄してみたわけだ。

この書籍は学生時代の教科書だった。当時はまだ新版にはなっていなかったので表紙が地味だ(上写真の左の本)。経済性工学という言葉も知らない学生だったが、職人気質なので工学的な思考には漠然とした憧れもあり、他の学部の授業だったが履修してみたのだった。

するとこれがとんでもなく大変で(笑)、なんだか思考が迷子になりそうな感覚に囚われた。経済性工学は身近な問題に応用も出来るのだが、学生にとって経営とか経済といった概念は非常に抽象的だ。そういう抽象的な世界の具体例の損得勘定とはもう異世界の出来事のようでまったく頭に入って来ず…。

しかも苦労してどっちが得かを計算してみるのだが間違えることが多い。説明を聞いても狐につままれたような感覚になった。損得勘定なんだから感覚的にどっちが得かわかりそうなものだが、これが魔法かというくらい逆だったりする。もちろん設問がそういう事例を選んであるのかもしれないが、とにかく「ほんとかよ!?」という結論に頭が「???」となった記憶は鮮明に残っている。

この授業のボクの評価はCだった。C評価をとった科目は2つだけだったのでこれも鮮明に覚えてる。もうひとつは論理学だった。あの記号の羅列を見ただけで気分が悪い(笑)。

そんな経済性工学だったが、損得勘定のそのあまりにも不思議な結論がゆえに納得できず教科書も捨てずにいたのだ。そして今回ようやく手放す書物の箱に入れていたのだった。それが新国立競技場を揶揄する目的で思い出したらちょっと読んでみたくなった。そして箱から引っ張り出してみたのだった。

するとどうだろう。いま読むと理にかなった内容じゃないか。もちろん前提条件などを文章で読むと頭がこんがらがるけれど、図示されたものやグラフを見ながら可変費用と不変費用(変動費と固定費ではない)について考えるといちいちもっともな話なのだ。

どうしてこれが学生時代に理解できなかったのか不思議だ。やはり現実社会のなかにいないと身近な問題とリンクしないからかな。

『経済性工学の基礎』はこの分野では先駆的名著としていまでも売れているロングセラーだというのも当時は知らなかった。またゴールドラット博士のTOC理論やスループット会計にも通じる内容だった。遠回りしたがようやくこの教科書の世界に戻ってきたような感覚になった。新国立競技場問題サマサマだな。

この教科書は手放さないことにした。書き込みもたくさんしているし。解答がない問いも多いのだが、授業で使っていたので解法も書き込んでいる。真面目な学生だったのだよ。

同時に、著者の他の書物も検索してみた。そうやって書物が増えていくわけだが。すると千住鎭雄博士は亡くなっていたが、共著者の伏見多美雄博士の『おはなし経済性分析 (おはなし科学・技術シリーズ)』(日本規格協会)という書物が見つかった。さっそく注文して読んでみたら、これも面白い。そしてわかりやすい。

問題解決の技術というのはとても魅力的なのでいろんな本を読んできたけれど、やはりコンサル系の書物よりも工学的アプローチの書物のほうが説得力があるように思う。昔の教科書を引っ張り出してまた読み始めることなどないと思っていたが、趣味としていろんな損得勘定の世界にトリップしてみたくなった。

経済性工学は何にでも応用がきくように思うけれど、一番難しいのは課題を設定することじゃないかと思う。教科書に載っている問題を解くことは出来ても、現実世界では問題そのものを自分で設定しなければならない。そこを間違えると結果も間違える。常に解ける問題ばかりでもない。インタンジブル(非金銭的)な要因も多い。ここはやはり経験が必要だと思う。

でも、さまざまな課題を設定して損得勘定してみるというのはなんだか面白そうじゃないか。知的ゲームとして。紙と鉛筆と電卓があればどこでも出来るゲームだ。なんとか身に着けたい。

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2015.05.24

戦後70年目にしてポツダム宣言否定首相を生んだ日本

今年は戦後(第二次世界大戦後)70年だ。終戦の年に生まれた子どもが70歳を迎えるわけだ。戦争の記憶は確実に失われていく。

20世紀は映像の世紀とも言われメディアが発達した。NHKのドキュメンタリー『映像の世紀』は戦争の世紀とも言われる20世紀を映した記録として素晴らしい作品になっている。DVD-BOXは高価だがNHKオンデマンドで視聴することも可能だ。

しかし映像で見る戦争と実感としての戦争とには、どうやっても埋めることの出来ない物理的・精神的な痛みに乖離があるだろう。どれほど悲惨な体験を自分がし、また相手にもさせたという想像力は急速に廃れてきている。メディアも技術は進歩し続けているが報道姿勢(ジャーナリズム)のほうは明らかに後退している。

日本はこの70年間戦争で兵隊を殺していない(自軍も敵軍も)。日本国憲法が他国との戦争を放棄しているからだ。しかし民間人では安倍首相の不用意な演説をトリガーとして2名の民間人が自称イスラム国によって殺害された。今年の1月のことだ。

いま日本は急速な右傾化が進行中だ。その中心に安倍晋三がいる。しかし安倍は右翼の大物ではなく単なる神輿だ。ポツダム宣言をつまびらかに読んでいないと告白した。戦後レジームからの脱却をことあるごとに吹聴してきた本人が、その起点となったポツダム宣言について何もしゃべれないのだ。戦後70年談話を出そうという年にである。

日本は戦後70年の苦難と繁栄の過程でポツダム宣言について発言もできない総理大臣を生んでしまった。これを究極の平和ボケと言ってもいいかもしれない。しかしそんな首相が日本国憲法を改悪し戦争の出来る国にしようとしている。TPPを実現させ日本を強欲資本主義の草刈り場にしようとしている。格差拡大確定社会を生み出そうとしている。沖縄との対話を無視し米軍基地の沖縄県内移転にまい進している。メディアへの圧力を続け報道自粛に追い込んでいる。

これらすべてが米国追従路線のもとに進められているのだ。ポツダム宣言を日本に認めさせた米国に気に入られるためにやっている。安倍晋三はアメリカの道化を演じているわけだ。そのストレスが右翼的言動として表出しているのかもしれない。矛盾のかたまりといえる「親米右翼」であるためには、ここまで馬鹿にならなければ精神が持たないのだろう。

そんな人間がまともな独立国の総理大臣になることは通常ありえない。日本が現在もなお米国の占領下にあるからこそ可能なのだ。右翼的発言もアメリカの庇護のもと発言の自由を謳歌しているだけである。アメリカが右と言ったら右を向く人形でいれば何を言っても概ね許される。安倍の意向でNHK会長についた籾井と安倍との関係はまさに日本政府とアメリカ政府との関係を戯画化したようなものなのだ。

しかし安倍は誰からも信頼はされていない。米国にも右翼勢力にも使い道がある人形だから使われているだけだ。橋本龍太郎元首相のように「米国債を売る」などと安倍は言わないし、ポツダム宣言による無条件降伏も承知しない。親米右翼人形だ。米国議会演説もまさにお人形のようだった。コウモリ野郎とはこういう人形のことを言う。

pencil
右翼のよりどころである英霊をも裏切る無知蒙昧な安倍首相の危険な振る舞いを戦後70年目の現実として記録しておきたい。

5月20日から今日までツイッターで呟いた党首討論関連の内容を時系列に書き写す。この機会に誤字は修正した。自分なりに強調したいところは色付きにした。

5月20日(党首討論当日)@hitokuchimemo

後方支援(兵站の活動)でやられたときは最小限の応戦をして逃げるんだといっているこの男は誰だ!? 首相補佐官の礒崎陽輔(自由民主党参議院議員)か。磯崎、どっかで聞いた名前だなと思ったが、前もテレビで能天気な平和ボケ発言をしていた政治家だ。 #bsfuji #primenews
posted at 21:08:37

総理大臣を排出(輩出)するまでに政治的なステップアップ装置といったものがあるからこそ政党政治は成り立っているんじゃないのか。ポツダム宣言を承知してなくて総理大臣が務まるような野蛮国家でいいのだろうか…。 #primenews #bsfuji
posted at 21:33:10

痛切な反省もどっちを向いて反省しているのかが分からない。国力が月とすっぽんほど格差のあるアメリカ様に楯突いたことへの反省なのかもしれない。だからこそいま親分アメリカ様にへーこらして反省し続けているともいえる。国民に対しても政府からの謝罪が必要だ。犬死を強いた国民への反省が見えん。
posted at 21:39:50

岡田民主党党首と安倍自民党党首とは似てるな。猜疑心が強く揚げ足取りを極度に恐れるがゆえに発言に自信がない。違うのは権力を持っているかいないかだけだ。これでかつては二大政党を目指していたというんだから笑うしかない。アメリカの属国だから政治が劣化するのは当然とはいえ衆愚はまだ続くな。
posted at 21:45:47

どんな戦でも撤退は戦術のひとつとして重要な作戦行動だ。しかし撤退ありきと相手にも筒抜けの軍隊のリスク管理を安倍は最高指揮官としてどう考えているんだろう。
posted at 22:02:25

野党がすべきなのはもはや安倍と議論することじゃなく、日本の政治家は全部が全部アホじゃないんだよ、一応政治家としての基礎知識は持っていていまはポピュリズムの波のなかで苦労してるだけなんだよ、だから同じ地平で議論できるまでもう少し待ってねと世界に向けてメッセージを発信することだ。
posted at 22:09:33

外国のナショナリストの政党や党首を見るとちょっと異様な雰囲気を感じてしまう。バランス感のなさがテレビを通して増幅される。きっと安倍もあんな風に映っているんだろうなと思う。オバマが生理的に受けつけない程度に。
posted at 22:18:13

5月21日@hitokuchimemo

また誤変換してた。総理大臣は排出じゃなく輩出するもんだった。事実としては排出されてるわけだが文脈からは輩出が正しい。ポツダム宣言を承知していない安部首相が脱却したい戦後レジームとはもしかしたら第二次世界大戦じゃないのかもしれない。明治以来の官僚国家からの脱却だったらすごいけどな。
posted at 07:34:58

首相にポツダム宣言について問うには戦後70年談話を出そうとしているこのタイミングの党首討論がもっとも良い機会であり安倍が自分で転けたわけだが、悲しいかな相手が日本共産党というだけでキーッとなっちゃう人々は思考停止に陥っている。戦争を呼び込む世論はそういう人々から醸成される。
posted at 12:54:40

ポツダム宣言への見解を率直に聞かせろとの質問には何の他意もない。これほどド直球な質問は戦後70年といったイベント絡みでなければ聞けない気恥ずかしさすらあり、戦後レジームからの脱却を高らかに謳うからにはその根拠の重要な一部たるポツダム宣言受諾について一家言あってしかるべきなんだよ。
posted at 20:45:24

しかし安倍はそこで口ごもった。ポツダム宣言受諾を知らなかったわけじゃないだろう。揚げ足を取られるのを回避しなければという臆病な性格がイデオロギー抜きにした知性では叶わない志位から投げかけられて動揺したはずだ。国際世論に反する自説も軽軽に口走れない屈折右翼の姿がそこにあった。
posted at 20:50:33

議論には共通の土台が必要で意見の相違はその次のレベルの話だ。特に政治家、それも党首討論ともなれば思わず唸るような深い洞察と知性を感じたいと思うのは国民の自然な意識だと思う。それすらなく騎馬戦のような言葉遊びを続けているのは本当に悲しい現実。政治の劣化は民度の表れでもあるけれど。
posted at 21:03:48

間違った戦争ばかりかといえばやるべき戦争もある。正しくはやらざるを得ない戦争だ。例えばベトナム戦争。侵略者アメリカの戦争は間違った戦争だが祖国を守るために敵に抗戦するベトナム側の戦争はせざるを得ない。日本ではシャクシャイン戦争も松前藩に対するアイヌの正しい戦争。いまの沖縄もだ。
posted at 22:48:45

5月22日@hitokuchimemo

戦後70年の節目にポツダム宣言について学ぶ機会を与えてくれた志位委員長と安倍首相に感謝して中学生は社会科の教科書を読み直そう。知らなくても総理大臣になれるんだと思ってはいけない。ポツダム宣言を流行語大賞にもノミネートしたらいいと思う。戦後70年目にふさわしい。
posted at 12:52:08

戦争は悪だという論理はポストモダンな価値相対主義的気分であってちょうどバブル期に学生だった我々世代に多いように思う。だが「戦争が悪い」というのは危険な考え方だ。侵略戦争には加害者がいて被害者がいる。帝国主義者同士のドンパチしか想像できない平和ボケ世代特有の浅さこそ悪かもしれない。
posted at 21:20:32

平和ボケで勇ましく生きられたのは戦後70年日本国憲法によって平和が担保されていたからだ。戦争を知らない子どもたちという究極の平和が戦争の悲惨を現実レベルで想像する力を奪った。ボク自身も戦争の悲惨さを実感として知らない。謙虚さと理性でこの平和に対して保守的であることしかできない。
posted at 21:26:57

5月23日@hitokuchimemo

党首討論7分間

戦後70年記念にメモ。ポツダム宣言について安倍が時間稼ぎしようと口を滑らせた部分よりも後半の志位発言のほうが重要なことに気づいた。客観的判断力のない指揮官の元で米国の戦争に参加する国になるかがもうじき決まる。
posted at 17:48:59

日本は株主資本主義を明確に目指しているが、その株式の多くは海外資本に握られている。日本は収奪のための装置、草刈り場になろうとしておりアベノミクスはその先兵としての役割を立派に果たそうとしている。労働者にトリクルダウンはない。海外資本は収奪し終わり次第次の獲物を探し去っていく。
posted at 17:55:22

TPPは収奪のための装置というよりリスクヘッジだと思う。収奪する側とされる側との永久不変の関係を作る装置といってもいい。強欲資本主義とTPPはセットで機能する。だからアベノミクスでは両者が同時進行する。格差確定社会も日米安保もすべてつながってる。パッケージだから各論賛否はない。
posted at 18:04:33

5月24日@hitokuchimemo

礒崎陽輔首相補佐官がポツダム宣言について「少し精査してみないと何とも言えない」と述べた。そういうことであれば戦後70年談話を出すのは安倍首相には時期尚早なのではないか。安倍首相は補佐官の言うことをよく聞いて中学校の教科書から読み直し戦後80年あたりで研究発表会でも開けばよい。
posted at 10:20:45

ついでに安倍首相は首相の任期中にもう一回アメリカ議会に行ってポツダム宣言については承知していないと追加演説してきた方がいい。そうしないとアメリカ議会の全議員とまったく異なる世界認識であることが伝わらずアンジャッシュのすれ違いコントのような外交関係を延々続けることになる。
posted at 10:24:28

トルーマンの善悪二元論を受容する安倍と志位は同類だ(小林よしのりチャンネル) #blomaga

賛否は置いといて小林よしのりの言ってることは安倍首相よりまともな回答ではあると思う。ポツダム宣言への言及を回避するなら首相を辞任すべきだろう。戦後を語れない。
posted at 10:40:40

pencil

今日までの4日間のツイートだけど、まとめると結構なボリュームだったな。地上波のテレビメディアはほとんどこの党首討論を報道しなかった。安倍の圧力が怖いのだろうし、大マスコミもまた安倍の権力補完装置になってしまっているからだろう。

とはいえ党首討論7分間のYouTubeもあるし偏向報道されるくらいなら何の加工もコメントもない動画を自分で見るほうがいいかもしれない。

新聞は取らなければいずれ消えゆくメディアだが、テレビはスポンサーと一蓮托生だ。そのスポンサーも大企業中心で、その大企業は日本を食い物にしようとしている海外株主のアンダーコントロールにある。そんな構造に支配されない生活を目指せれば幸いだが。スポンサーがどんな企業かも気にしながらテレビを視聴することも必要だろう。

メディアが報道しない大問題は今後も増え続けるはず。戦後70年目の節目にこんな椿事が起きた機会にポツダム宣言をもう一度読み直してみるとか、安倍首相を祭り上げている人々について考えるとか、自分が無意識に戦争加担をしていないかとか、そういうことを考えるきっかけにしたらいいと思う。ポツダム宣言がどれほど短い文章かを知るだけでも、安倍首相が政治家としての要件を満たしていないことがわかると思う。

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2015.05.04

他の誰にも書けない!Mr.KEIのアメリカ獄中記

食い入るように読み始め一晩で読み終えてしまった。KEI著『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人』だ。連休前にたまたま見ていたTBSのクレイジージャーニーに出演されたKEI氏はもとヤクザ。FBIにはめられて12年8か月のアメリカ刑務所生活を送った。アメリカ刑務所モノというだけでピピっと来て録画し著書も購入したのだった。番組の影響か一時的に品切れだったが届かないはずだった連休中に届いた。念が通じたか。

2007年に井口俊英著『刑務所の王』を読みかなり興奮した。自分でもどうしてこんなに刑務所ものが好きなのだろうと思う。刑務所ものというよりアウトローや任侠全般に愛着を感じる。一本義なところだろうか。

おそらく複雑な社会を単純なルールと動物的勘に従って生き抜くシンプルさに惹かれるんだと思う。長期間自由を拘束されることへの嫌悪が大前提にある。日本の閉塞感をそこにダブらせることで生きるために必要なことって何だろうという問いにヒントを与えてくれるような気がする。

『刑務所の王』はアーリアン・ブラザーフッド(AB)というプリズン・ギャングの創設者かつ生き残りのジョージ・ハープ氏とたまたま刑務所で出会った井口氏が、その壮絶なサバイバルについて聞き書きした著作だった。客観的に書かれているものだ。今回読んだKEI氏のほうはまさにプリズン・ギャングの一大勢力チカーノの構成員として生き抜いた生の声であり主観的にプリズン・ギャングの生活を伝える(それも本人が日本語で伝える)貴重な内容だった。

アメリカの刑務所で一般常識が通用しないのは今も昔も同じようだ。勢力争いも続いているのだろうが、チカーノという一大勢力はその絆の強さにおいてひとつの部族ともいえる。貧困や環境からギャングにしかなれない宿命を背負って生まれてくる。その悲しい運命がすでに拘束された人生であり、当然のようにプリズン・ギャングとなり、その掟のなかで生きていくしかない。

KEI氏とチカーノのボス(ビッグホーミー)との出会いは一触即発だったが、ここで生き延びたKEI氏は孤独な日本人受刑者からチカーノへと変貌していく。刑務所のなかではプリズン・ギャングとしてグループに所属するか、いっさいの関係を絶って刑期を全うするかしか生きる道はないように思える。短い刑期なら後者が安全かもしれないが、KEIは10年の刑を喰らっており孤独な日本人のままでは生きられなかったかもしれない。もっとも命と引き換えに抗争頻度が上がり刑期も伸びたりしているのだが…。

●真っ裸な人間になったときどう生きるか学んだ

刑務所生活の非常識を読むだけでも興味津々だが、それ以上にグループの絆であるとか、ここ一番で筋を通すことの重要さなど金言が多い。生きるための選択といってもいい。やるときはやらなければならない。もっとも卑劣なのは中途半端に生きることだ。真面目なら真面目に、悪なら徹底した悪に。中途半端な悪をKEIはもっとも嫌う。

群れなきゃ何もできない中途半端な悪が日本には昔から多い。それは後述する中途半端な正義とも表裏一体だ。現代は更に姑息な悪や正義が蔓延してる。アメリカ刑務所のプリズン・ギャングはそういう中途半端な群れとは根本的に違う。そこを見誤らないことが重要だ。

もちろんグループを作るという本能は相互扶助という側面を持っている。人間は群れなければ生きられない動物なのだ。だが重要なのは何がその群れをつなぎとめているかであり、本当の人間力はそこにある気がする。極悪非道な群れにも厳格なルールがあり道徳すらあるんじゃないかと思う。

中途半端なメンバーも多いのだろうがそれらはみな淘汰されていくわけだ。中途半端に群れるくらいなら孤高に生きる。群れるならとことん絆を深める。そのふり幅と覚悟が人間力の根幹になるような気がする。

生き延びたKEIには人間的な魅力もあったんだと思うし、商才もありクレバーな人なんだろうなと思った。少年ヤクザから若くして任侠の世界に入り国際ヤクザとなっていくなかで身に着けた処世術も人間力だと言える。

たぶん私は動物としてどれだけ生きられるかに魅力を感じるのだ。動物としての人間はオオカミに似ている。前にオオカミのボスになった研究者の記録『オオカミと生きる』を読んで興奮したが似たような感覚で読んでいるところがある。仮面をかぶって生きてる人ばかりの日本(もちろん平和でとても素晴らしいのだが)で鈍っていく動物的感覚への郷愁がこれほど興奮を覚える原因かもしれない。

●堅気になったKEI氏の今後の活躍にも注目

2001年に刑期を終えて日本に戻ったKEI氏はタクシードライバーになったという。ここで湯けむりスナイパーを地で行く人がいたんだとマジで感動した。映画化するとしたらKEI役は遠藤憲一さんにやって欲しいッス!顔もなんとなく似てるし…。

だがそこでもヤクザ者といざこざになってしまい半年でクビになる。その後紆余曲折の末、湘南でチカーノファッションのブランド店ホーミーを開業された。いまではチカーノカルチャーの伝道師、日本のビッグホーミーとして認知されているようだ。

同時にボランティアでDVや児童虐待などの問題を抱える家族の悩み相談に乗るサイトグッドファミリー.orgも運営されている。虐待する側の心の闇に寄り添う。戸塚ヨットスクールで働きたいと思っていたというから、体罰肯定派だ。

私自身も体罰は否定しない。子どもの頃は教師に往復ビンタもされたしデコピンも日常茶飯事だった。それに対してまったく恨みもないしどっちかというとそういう先生のほうが良い印象として残っている。

ただ現在は教師の側や世間の側に体罰=悪という短絡的な思考停止があるために下手に体罰は出来ない。またそういう意識こそが中途半端な正義であるため、この環境での体罰は教育的効果がほとんどなく怨恨だけを残す気もする。悪いことをする子どものほうも、真正面から叱られないために余計にねじ曲がる。姑息になる。大人と子どもとの断絶によって表向き何も起こらないが分かり合うこともなく子どもは成長する。

待ったなしの成長過程に本気で叱られなかった子どもは本気の人間的(動物的)対峙の体験がないまま大人になり子どもに無関心になっていく。そういう接し方しか知らないで育ったのだから仕方がない。この負のスパイラルが出来上がってしまったのが現代日本じゃないかと思わずにいられない。体罰はする大人のほうの覚悟が必要だ。中途半端な正義がもっとも逆効果であることをKEI氏は身を持って知っているのだと思う。

井口氏の『刑務所の王』を読んだのは第一次安倍政権が無責任に放り出された頃だった。そしていままた勇ましくも姑息で視野の狭い安倍政権のなか、KEI氏のプリズン・ギャングものから人間としての生きる力を学んだ。偶然ではない気もする。さっそくDVDも注文した。これも連休中に届きそうで待ち遠しい。

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2015.04.19

科学ビジネスの進歩は反知性を目指す

安倍政権が目指すものを一言で「反知性主義」とまとめると、ものすごくわかった気になる。白井聡の文章のなかにこの言葉を見つけたとき、世の中に蔓延しつつあるモヤモヤとした嫌な空気を説明できる言葉を見つけたと思った。

だが違った。いやおそらく違うと思う。説明できていない。世相を示すひとつの言葉ではあるけれど、反知性主義といって片づけてしまうにはこの危機があまりに現在進行形に思える。いまはまだこの政権がやろうとしているひとつひとつの政策について個別具体的に考えることが必要だろう。

そう思えたのは『日本の反知性主義』(内田樹編)を読みながらだった。10人が反知性主義をテーマとして与えられながら、この言葉に逡巡したり悶絶したりしながら反知性主義の周辺をぐるぐる回っている。その悩み多き文章に「反知性主義」を語ることの妙な気恥ずかしさを感じた。

しかし収穫もあった。映画作家の想田和弘さんと生命科学者の仲野徹さんの文章には共感を覚えた。知性の在り処のヒントがあったと思う。反知性の罠と恵みは誰もが意識するかどうかに関わらず付き合っていくべき業なのではないだろうか。

●反知性的生活の甘美な誘惑

かたくなな宗教家以外の多くの現代人は科学の進歩を好意的に受け入れてきたと思う。科学は未知の事象を既知の事象に置き換えるオセロゲームではないかと思う。どこまでも続くこのゲームだが、いったん既知となった事象は一部の科学者を除いてブラックボックスと化していく。それを使ったビジネスが生まれる。

一度科学の進歩がビジネスになるとこの流れは止めることが困難になる。たとえこのオセロゲームが白から黒に反転するような事象(例えば原発のシビアアクシデント)があったとしても、科学の成果を信奉する者は意識を転換できない。ここに反知性的態度が生まれるのではないだろうか。

反知性を主義として推し進める政治家とは別に、態度として無意識に生まれてくる反知性の危険性が高い。政治家はそれを利用する。科学の進歩が物事の原理を覆い隠し、人類の直感や認識の限界を超える。

個人の限界を超えた知性の集積として製品なりサービスが生まれ、それらをためらいなく利用できる。この利便性の魔力のなかで知的生活、発想し検証し議論し変化していくことが困難になっていく。いやその必要性を感じなくなっていく。健康食品から原発まであらゆる生活の局面が反知性で生活できてしまう。

これはまことに幸せなことかもしれない。人類の英知を誰もが享受できる。だが認知限界を超えた世界が進むと暴走を始める。まるで美人局のように。その暴走に対峙できる知性はもはや個人にはなく、違和感のなかで生活するか知性を捨てて受け入れる(無関心を含む)かの選択を迫られる。

この選択はどちらも反知性的だ。知性の萌芽はこの地平には存在できない。すでに世の中はそのレベルまで反知性的なのだ。新しい発想や発見の頻度は確実に減少傾向にある。科学が既知の蓄積である以上、これは当然の帰結だ。

また想田和弘さんが言う「台本至上主義」は、時間と期待とのプレッシャーのなかで成果を出さざるを得ない人々の生活の知恵ともいえる。結論ありきで収集される情報。それらがSTAP細胞事件のような悲劇を生むこともあるだろう。

だがこの状況のなかで悪あがきと分かっていても発想する志、認知限界を超えた科学にNoを突きつける志、そういった感情のなかに知性は宿るように思う。分からない世の中を楽しむ余裕があれば知性的態度で生活できる。そのために何かを失うとしても、そこに選択の余地があるならばいまよりも生きやすいかもしれない。

●生活中心主義が知性の萌芽に

知性はコンピュータにはない。それは生活と直結しているものだと思う。人間が生活するために利便性を求めることも知性だが、その利便性の先に生命の危機を感じた時、その直感を信じて回避行動をとることもまた知性の萌芽だ。生きようとすることが知性の原点でなければどこまでも反知性的生活(生かされる生活)に侵食されていく。生かされる生活は殺される生活と表裏一体といえる。反知性による死を拒否すること。それが知性だと思う。

安倍政権に対しては「反知性主義」ではなく明確に「ファシズム」として認識することが重要だ。ツイッターに書いたが繰り返す。国家権力による独裁とそれを磐石とするための道徳教育の推進、軍隊・警察権力の拡大と反独裁主義者のパージ、それらにシンパシーを感じさせる美学・物語の導入、格差確定社会による厳格な階級制度などが日本における古くて新しいファシズムだと考える。

これらが無意識に生活に溶け込んでしまうことが反知性的生活態度の危険性だ。ひとつひとつ個別具体的に進行していないかを注意しなければならない。無意識に生きると反知性の罠にはまる。そんな困難な時代に突入している。

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2015.04.11

稀有な政治家ゴルバチョフのいた時代に学ぶ

ロシア料理を食べる前から(confident)読んでいたNHK新書『ゴルバチョフが語る 冷戦終結の真実と21世紀の危機』を読み終えた。私が生きてきた昭和から平成の時代においてもっとも大きな社会変革は冷戦終結だったと思う。東西ドイツが統一するなんて当時の国際政治学者ですら想定外だった。そしてソ連崩壊…。その裏話には興味が尽きない。

時代はいままたキナ臭くなり始めている。ソ連崩壊後のロシアはNATOの東方拡大に危機感を募らせ、アメリカ一極支配の世界へNOを突きつける。強いロシアを掲げてクリミア半島を編入したプーチン大統領はウクライナの西側入りに警戒感MAXだ。核兵器の使用すら視野に入っている。東西冷戦の悪夢がいままた燻り始めている。

ゴルバチョフという政治家が生まれソビエトの最高権力の座に着かなかったなら冷戦があんな風に終わることはなかった。歴史のめぐりあわせだ。当時ゴルバチョフの側近はゴリゴリの共産党官僚ばかりであり、このソビエト大統領は自分で歴史を調べノートを取った。レーガンアメリカ大統領の眼前でそのメモをめくりながら、またレーガンの言葉をメモしながら対話をしたという。レーガンもその姿勢にこれまでのソビエト大統領と異なる資質を感じ始める。

「冷戦が自然に終わることはない」とゴルビーは言った。その通りだと思う。軍事費の増大と国民生活の疲弊を終わらせるためには冷戦終結が必須だった。簡単に言えば対話の動機はそんなことかもしれない。だがいったんこのプロセスを始めると民主化の波が東欧諸国から吹き上がった。かつてのソ連ならそれを軍事力で抑圧してきたし、ゴルバチョフにはその権力(軍事的指揮権)もあったが行使しなかった。「自国の将来は自国で決めるべき」という信念がゴルビーにはあった。

冷戦終結と同じく、開戦もまた自然に生まれることはない。火だねがありそれが開戦へつながる。いまもそんな時代だ。ロシアにとってウクライナはほとんど自国という意識があるらしい。それほど近い。老いたゴルバチョフもそう感じている。だからこの問題に関してはプーチン支持でもある。私にはあのゴルビーですらとの思いもある。それほど国家・国境というものは危ういバランスの上に成り立っている。

●対話からしか始まらない

国境と故郷。小さい「っ」がくっつくだけで政治的イデオロギーや民族主義や諸々のエゴが前面に出てくる。東西ドイツの統一を認め統一ドイツのNATO加盟を認めるか否かの瀬戸際、西ドイツのコール首相をゴルビーは自身の故郷であるスタブロポリ地方でもてなした。そこはかつてナチスのドイツ軍に攻められた土地でもあり慰霊碑がある。両者同世代で戦時下の少年だった。お互いの国から攻撃された過去を持っていた。ゴルバチョフはこの故郷で最終決断をする。「統一ドイツのことは統一ドイツで決めるべきだ」と。主権とはそういうものだという信念を貫いた。

ゴルバチョフの誤算は民主化の拡大スピードの速さとアメリカ一極支配の世界による裏切りだった。抑圧された者は解放のためならなんでもする。たとえそれが行き過ぎた暴力であっても。そして民主化とは行きつく先のないエゴの暴走ともいえる。

冷戦は共産主義陣営の敗北と間違われることが多い。しかし冷戦を終結させたのはソビエト大統領ゴルバチョフの意志と粘り強い対話あってこそであり、資本主義陣営が勝利したわけではなかった。

資本主義の本質は功利的なものであり拡大主義と簡単に結びつく。軍事力を伴う権力によって抑圧し統治してきた共産主義とは異なり、自由主義と結びついて排他的にどんな卑劣さもいとわない資本主義もまた平和の実現に敗北したと言える。

ゴルバチョフのように自由を求め実現させた政治家が共産主義の国から生まれた不思議さを感じたこともある(それも大統領として!)。おそらく主たる目的が経済政策に関する資本主義も共産主義も人間の本質とは無関係なんだろうと思う。それらのイデオロギーは本来の人間性とは別次元にあるのだろう。だからこそお互いを認め合うこともまた可能だ。自らの拡大主義を押し付けようとするから争いになる。ゴルバチョフはそこに歯止めをかけようとした。

人類が「自由と平等」を求めお互いに他者に「寛容」になり、そしてどちらも裏切らなければどのような経済政策を取ろうとも戦争は起きない。寛容さは相手に求めるものではなく自らがまず身に着けなければ広がらない。

権力者も一人の人間であり、対等な立場で疑心暗鬼を少しでも減らす努力をしなければ常に戦争の影はちらつく。それをゴルバチョフの冷戦終結に向けた対話力が教えてくれる。約束事には認識の違いを内包するリスクがある。その小さな認識の違いが大きなわだかまりにつながることもある。一度裏切ったり裏切られたりしたら信頼を取り戻すのは大変難しい。しかしお互いに疲弊し崩壊することを防ぎたいと考えている限り不可能ではないのだ。

人類は基本的に功利的で好戦的でまず主義主張を通そうとする。この性向は未来永劫変わらないだろう。過ちを起こしてはまた反省する。その繰り返しの歴史だ。ただ原子力の開発やグローバリズムによって、一回の過ちが取り返しのつかない崩壊につながる。この巨大なリスクをコントロールせねばならない。そのためには対等な立場での対話が必要だ。

集団的自衛権の議論が華やかな日本だが、他国との基本的な対話をおろそかにして勇ましいだけの議論が目立つ。対話の後方に武力ありきという大時代的な意識もまだまだ根強い。おもてなしは何もオリンピック誘致だけに使えるツールではないはずだ。「和」の力を知っている日本人が、あらゆるイデオロギーを超えた平和主義を憲法に明記している意義は計り知れない。真の意味で平和外交を求める政治を。日本を取り戻すとはそういうことだと思う。

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2014.11.30

見せかけの勤勉だけを生んだ成果主義という病い

3連休の先週から始めた大片づけ大作戦。今週末も継続中だ。今日は書籍を箱や収納袋に入れてレンガ積みにしている。やってもやっても押し寄せる書籍の山。収納袋も不足し途中で出かけて買い占めてきた。それでも、先週資源ゴミ(雑誌類)や燃えないゴミを廃棄出来たこともあり、60%程度のスペースが出来た。ここを作業場としてさらに別の部屋の書籍やメディア類をユニット化しつつ、雑誌や紙ごみを捨てていかねばならない。

この大片づけはクリスマスイブあたりを最終局面と考えてそこから逆算して進めているが、休日だけしか出来ない。そうなると後10日ほどしか猶予がない。週一回しか出せない資源ゴミと燃えないゴミに至ってはあと3~4回しか捨てるチャンスがない。

だが期限のある仕事のほうが燃える(笑)。さらに片付いた部屋は気分がいい。それがモチベーションにもつながる。混沌のなかでは見えなかったゴールが見えるのはやる気につながる。もっとも一般論からいえばまだ全く片付いていないと思うが。

すべてが自分でコントロールできていることも重要かもしれない。やろうがやるまいが自己責任の世界。相場の世界に似ている。だがリスクはずいぶん少ない。押しピンを踏んでしまうくらいだbearing

こういったやる気と成果の関係が、日本の一般社会、特に企業のなかに入るとまったく機能不全に陥っているらしい。その実態を教えてくれるのが『日本人ビジネスマン「見せかけの勤勉」の正体』(太田肇著、PHP研究所刊)だ。あと少しで読み終えるところだったので、今日の大片づけおが終わって読み終えた。この本も収納可能となった(笑)。

●どうやっても失敗する成果主義

見せかけの勤勉は“やらされ仕事”にはつきものだろうし、成果主義の裏返しでもある。成果主義なんてのは当初からまったく信用してこなかった私だが、結局何一つ有益な成果が残せなかったのが成果主義である。成果主義なんて皮肉な命名だったな。

しかしこれだけ日本が疲弊していても、いまだに成果主義、やる気主義を金科玉条のように考えている人々もいるようだ。ソニーの凋落などもそうかもしれない。経営者は首切りを自らの成果だと考えているのか、自らには数億円の報酬を与え社員の首を斬る。それを成果というなら簡単でおいしい生活が可能だ。そういう組織では失敗を極度に恐れ見せかけのやる気と「これだけやりました」という言い訳のための勤勉とごますりが横行する。

個々人の成果を誰かが評価出来るという妄想を抱いていることが成果主義の失敗の本質だろう。成果の定義も曖昧ならば、組織にとって部分最適を構造的に誘発する危険な思想でもある。そもそも成果が上がってすらいない企業なら、何をもって個々人の成果を個別評価できると考えているのか。評価している経営者こそがまず組織としての成果を上げてから言えって話だろう。

組織としての成果が上がらないとき、その失敗のプロセスを共有することが急務だが、成果主義のもとではそれも困難になる。下手に共有すると自分自身の成果(部分的成果)が圧迫される人も出てくるからだ。その可能性を回避しようと行動する人が次々と出てくる。経営者もできる限り失敗を過小評価したがる。成果を担保するために失敗から目を背ける。そして本質的な議論のないままトカゲの尻尾切りが行われる。あるいは逆に失敗隠蔽のため問題を持つ人間を取り込んでいく。成果主義のもとで改善の余地はどんどん狭められていくのだ。

おそらく成果主義などという言葉もコンサル的な戯言に過ぎず、その詐欺的な手法に乗せられたアホな企業人の悲しい自慰行為のひとつであり、それに付きあわされる多くの人々はその火の粉を払うためだけに心血を注ぐようになる。

何度も使ってきた例えだが、そのような環境で生きる被評価者は脱北主義に陥らざるをえない。横暴な圧力や権力からいかに逃げるか、あるいは取り入るかが最優先の課題となる。それはまさに北朝鮮から逃亡する脱北者のごとく。はたまた権力者の太鼓持ちのごとく。いったい何が成果なのかすらわからなくなっていくのだ。

組織には取り入った成果として権力を持った人々が跋扈し腐敗を拡散していく。そして腐敗した企業から残り少ない富を奪って逃げ切ろうとし始めるのだ。本来の仕事が出来ていれば生み出せたはずの企業価値が失われていく。合わせて個人の尊厳も失われていくのだ。

成果(部分的成果)を上げ続けることは不可能と言っていい。成果主義を導入すると常にプラス評価を求められる。これも相場を知っていれば自明だがそのような相場が一番危ない。バブルが続くという妄想とともに、落ちたときには再起不能になる恐怖が常につきまとう。それもやらされ仕事だから自分自身でコントロール不能な仕事も多い。そこで不正に手を染める人間も出てくる。会計処理で逃れようとする輩もなかにはいる。

「成果を上げ続ける」というゴール無き幻想が正常な判断(相場で言えば損切)を困難にする。そもそも損切に慣れていない経営者が多い日本企業に成果主義という妄想的劇薬は悲劇しか生まない。バブルも急落もせずに安定した経営を続けていくには成果主義は最悪の選択だ。個人にとっても健康で文化的生活を破壊する。生身の人間が壊れ、法人というサイコパスだけが肥大化しいずれ崩壊する。それを繰り返すのが本当に資本主義の目指すべき社会なのだろうか。株主資本主義のもっとも醜悪な部分だけが幅をきかせている。

●承認欲求とモチベーションが渦巻く社会

では見せかけのやる気主義や成果主義を脱するために何が出来るのか。完璧な処方箋などないし、だからこそ人間社会というのは面白くもあるわけだが、それでも組織運営手法として考えると何らかの方策はありそうだ。著者はそこを承認の方法論で説く。簡単にいえば個々人の承認欲求を満たし仕事の所有感を与えることで組織を円滑に機能させる方法論だ。

また話は若干逸れるが、いまこの社会は「承認欲求」が様々な分野で重要視されているように感じる。認められたい、評価されたいという渇望が強い社会のようだ。それは人間の持つ本能なのだろうか。

逆にいえばそれほどまでに渇望しなければ承認されているという充実感が満たせない世の中ともいえる。誰に承認されたいのかはあまり問わない。援助交際やAV女優、風俗で働く女性に非合法売春まで、性産業が貧困問題とともにこの承認欲求で語られるようになった。納得できる説だ。

性を売ることでカネと引き換えにバランスを欠いた精神が崩壊していくという従来解釈は間違っているという。実態は承認されたい、認められたいという承認欲求を満たされる場として性産業に入っていく女性が増えているそうだ。AV女優の収入もどんどん下がっており、普通の就職と変わらない。ただ自分自身の持っている能力次第で認められる(という気持ちになれる)場がそこに存在する。

時の首相に輝くことを強制される女性の仕事環境の悪さが突出して目立つわけだが、この承認欲求は女性に限らないだろう。長期停滞社会のなかで人心が荒み仕事環境は悪化している。そこにつけ込むようにブラック企業が簡単に取り替え可能な労働力を酷使する世の中だ。

私はこんな社会をDV社会だと思っている。あるいはネグレクト社会と言ってもいい。精神的に豊かな社会では親や世間から安定した承認を受けながら子どもが育ち、承認を受けて育った世代が親となりさらに社会を豊かにしていく。教育も承認を基本として組み立てられる。

しかしいまの世界にそんな理想郷はどこにも存在しない。紛争地帯でない先進国においても強欲資本主義が労働者を酷使する。内向きの精神構造が排外主義的な行動になって表出し更に内向きになっていく悪循環。展望なき酷使や排外主義に日々さらされている人々は、ちょっとした承認や仲間内だけで承認にすがりつく。

その危うい承認がモチベーションとなったとき、テロリズムにもつながるだろうし、危険な成果主義につながる可能性もある。

承認欲求が本能ならば、それをうまく使って組織を運営していくことは有益かもしれない。しかし根拠のない承認は腐敗の拡大にもつながる諸刃の剣だ。『日本人ビジネスマン「見せかけの勤勉」の正体』の著者はそれも重々承知して、どういう過程や心持で承認を与えるかという方法論を書いている。その通りに出来ればいいが万人にそれが出来るわけもなく、不条理な承認も無くなることはない。人間力を高めるには教育が重要になるが、アベノミクスの世の中が続けばそれも望めない。

こういう社会では自分自身で何がコントロールできるかを常に考え行動することが大切だと思う。そこにしか打開策がない。自分自身をコントロールすることで精神の崩壊を防ぎ、出来る限り承認の質を見極め判断できるようになることも重要なスキルになる。脱北社会はまだまだ続くようだが、脱北した先を見据えて自分自身に恥じない生き方、自分が自分を承認できる生き方を目指せればまだ救いがあるといえる。

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2014.10.26

コンサル曰く『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』

たまたま書店で見つけて読んだわけだが、面白かった。このぶっちゃけたタイトルがいいね。サブタイトルまで書いとくと『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。 コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』(カレン・フェラン著、大和書房刊)だ。

一言で言えば元大手コンサル社員の著者が「王様(コンサル)は裸だ!」と言った書物である。私はビジネス書も結構読んできた。様々なツールや手法についても読んできた。もちろん批判的にだ。それだけにこの書物の突いてくるコンサルのまやかしにはいちいち納得できた。業界内からの声だから余計に面白い。

ただし著者はいまも独立系のコンサルタント事業者であり、あらゆるコンサルタントを否定しているわけではない。時代とともに流行しては廃れてきたコンサルタントの盛衰を踏まえて、その内部で経験したからこそ書ける問題点と、実際に機能するコンサルタントのあり方について述べている。

私が社会人になりたてのころはバブル末期だった。テレビではマッキンゼーだかアンダーセンだかの社名を後ろ盾に顔の大きな(態度も大きな)某氏が幅を利かせていた。その後エンロン事件が起きてからはその経歴は表に出さなくなったようだ。当時はコンサルがもてはやされ、次々と怪しげな手法が開発されていた。

そしてこんな長期不況と強欲資本主義、株式会社の危機という時代を迎え、ようやくコンサルのやってきた負の遺産と罪についてまとめる人が出てきたということかもしれない。

日本企業はどの程度コンサルを利用しているのだろう。日本企業は長いこと家族経営的な会社が多かったから、西欧のコンサル手法を鵜呑みにする企業は少なかったかもしれない。しかしグローバル企業とかIT企業とか、外国好き、新し物好きの企業にはコンサル的業績評価や人事評価を導入している企業がありそうだ。でなければいまの日本にこれだけ多くコンサルタントを名乗る人々がいる説明もつかない…。

この書物を読むと、雨後のタケノコ状態のコンサル連中が日本企業の長期停滞を招いていないことを祈るばかりである。多くのコンサルはとっちらかしてずらかるだけの戦国ロックのような輩なのだ。

コンサルタントをコンサルと呼ぶとき、ほとんどはそのいかがわしさ、胡散臭さに気づいている人が多いと思う。しかし経営者なり親会社なりが雇ったコンサル様(笑)に楯突いても仕方がない。嵐が過ぎ去るのを待つばかりだろう。あるいは火事場泥棒のごとく評価基準を逆手にとって自分さえよければと無法を働く輩も出てくるだろう。その災難が経営の根幹まで根こそぎぶっ壊す大型台風でないことを祈る。

●コンサル手法の栄枯必衰はまさにダイエット手法なみ!

コンサルを雇うとき、手詰まり感を感じている経営者は多いと思う。儲かってカネの使い道がないからコンサルでも雇うか、なんて会社はまずない。現状の課題を打破するためにコンサルを雇ってしまうのだ。従業員の知恵を結集するよりも、最新のカタカナ用語で武装したコンサル様に安易に手を突っ込ませる。そして最新理論の実験台にされてポイっと捨てられる。

「戦略計画」「数値目標による管理」「業績管理システム」「マネジメントモデル」「人材開発プログラム」「リーダーシップ研修」、etc...

次々と開発されるコンサルツールはまさにダイエットブームに似ている。この著者はなかでも「業績管理システム」と「人材開発プログラム」には猛烈に反対し辛辣に書いている。これらには思想的にも機能的にも実務的にも何の意味もないどころか、ほとんど有害でしかないためだ。

ただ日本の場合はここでもやはり日本的バイアスがかかる。日本の場合、コンサルが持ち込むのはいかにもなカタカナツールだけでなく、人格無視のみそぎ研修というのがいっとき流行ったことがある。いまどきやってる会社があるのかどうか知らないが、富士の裾野を行進させてみたり、駅前で大声を張り上げさせてみたり、頭のおかしな連中が企業研修と称してそんなことをやっていたのだ。そりゃ長期停滞にもなるわな。

本書を読むと、これまでに流行したコンサルツールがどのように宣伝され、導入され、失敗してきたかを概観できるのがいい。懐かしさすら感じる。

元大手コンサル社員の著者も最初はそれらが有効に機能すると信じていたようだ。しかし実際に導入すると機能しない。あるいは独自に従業員のヒアリングをしてうまく行きそうな流れを実感しはじめたにもかかわらず、単にコンサルティングファームの方針というだけで自社のツールによる分析を強いられ疑問を感じる。

コンサルティングツールを絶対視し、それを導入し実践することが目的化してしまう。経営者もツールがあれば安心してしまうのかもしれない。そしてツールが王様となり従業員との対話は減り、誰もがツールの評価に沿って損をしないよう行動するようになってしまう。会社の目標のためのツールが会社を分断し疑心暗鬼を招く。まさに組織をぐちゃぐちゃにするわけだ。

そうはいってもそこはコンサルの著者、批判だけでなく著者なりの処方箋も随所に出てくる。結局はそこに働く人間だけが回答と行動力を持っているのであり、それをいかに引き出すかを著者なりの方法論で説く。意地悪く言えば、これまでの最新ツール重視の大手コンサルの方法論を否定し、自身の手法を売り込んでいるコンサルの本ともいえる。

結局のところ、コンサルはコンサルでありツールはツールであり、彼らを生かすも殺すも結局はこちら側の意識しだいということだ。ツールは定規ではなく鏡だと私は思う。ツールの通りに線を引くのではなく、その鏡に映った自身の姿を見てどうすべきか考える。考えるのは当事者の仕事でありツールやコンサルの仕事ではない。

●日本には以前からある使えるツール

対話を重視するという点では外国人のコンサルに教えられなくても、日本には以前から「まじめな雑談」を奨励しているコンサルタントもいる(あえてコンサルと書かないのはリスペクトしてるからである)。

会社の風土改革の方法論として対話を重視する「まじめな雑談」を書いた柴田昌治さんの著書を読んだのはもうずいぶん昔のことだ。企業風土の病いを判断するひとつの指標として雑談がある。

単なる噂話とかグチや悪口の類いではなく建設的な雑談を自然にできる風土があるかどうか。あるいはそういう場を設定出来ているかどうか。日本人はどうしても場を設定されなければ発言しない人が多いが、その場はいかにもセレモニーのような場になることも多く、さらに発言しずらくなる。実はまじめな雑談ができる場を作るのは難しいのだ。おばちゃんの井戸端会議のようにまじめな雑談が出来る企業風土にはコンサル的手法はまったくマッチしないだろう。

あるいは、KJ法という発想法ツールがある。私がKJ法に出会ったのは高校生くらいの頃だったと思う。川喜田二郎先生が『発想法―創造性開発のために』(中公新書)を出されたのは1967年というから私が生まれるより前だ。先生のイニシャルを取ってKJ法という。KJ法はその後、クリエイティブの現場で生き続け進化し続けている。コンサルの提案する資料のなかにもKJ法的な手法が紛れ込んでいるかもしれない。

著者カレン・フェランがKJ法を知っていたか否かは不明だが、例えば「第2章『最適化プロセス』は机上の空論」のなかに、“単純な「話し合い」が効果を発揮する”という見出しの項がある。ブラウンペーパー・メソッドについての記述だが、これなどはKJ法を使ってまじめな雑談をするかのようなメソッドである。

勤勉な日本人の発想力は昔からグローバルに通用するものだったのだ。そしてそれらは単に導入して数値化すれば勝手に評価が算出されるようなものではなく、そこに結集する人間の力が方向性を決定する。コンサルの入り込む隙などないのだ。

しかしだんだん日本企業から勤勉さが失われ、楽してうまくやろうとする風潮が蔓延し始めていると感じる。コンサル的な単純化、モデル化によって責任逃れをする輩も出てくる。アメリカ型の強欲資本主義から学び美味しい生き方を目指すのが株主資本主義の本質であろう。企業人が学ぶべきでない現代企業経営の罪を映す鏡として効果的な一冊だ。

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