google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2023年9月

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2023年9月の5件の記事

2023/09/17

夏旅2023 夫婦編(21)~ 最終日に元祖ソーキそば ~

●国際通りを歩きホテルを移動

首里城近くのぶくぶく茶屋で一服して、バスで国際通りに戻って来た。まだ15:00過ぎだったのでその足でアーケード街へ。明日はほとんど買い物をする時間がないため、実質今日が観光最終日。買い物なども済ませたい。お互いの実家に何か贈ろうということになり、マンゴーの店に。ちょうどよさげなマンゴーの詰め合わせを2つ選んだ。ついでに100%ギャバジュースを購入して店先で飲んだ。美味かった。

7月28日(金)の午後、台風6号が徐々に近づいていた。売り場からヤマト運輸に連絡して聞いてもらったが、今日飛べれば発送は出来るとのこと。ただもし今日飛べなかったとしても、お店に同レベルのマンゴーを送ってもらうという約束をして購入し送付状にお互いの実家の住所を書いた。結果的には選んだマンゴーが予定通り届いたようだった。

その後、ドンキホーテなどを巡って土産のお菓子類を購入し、チェックアウト後にスーツケースを預けていたハイアットリージェンシー那覇で荷物を受け取り、最終日の宿泊先、ホテル・ロコア・ナハに向かう。ロコア・ナハは国際通りの入口にあり県庁前のゆいレール駅に近い。翌日は早めに那覇空港に行く必要があるので近いホテルを選んだ。朝食ビュッフェの評判の良さも魅力的だった。部屋のサイズはハイアットの半分だったがそれは仕方がない。

スーツケースをガラガラ引いて歩くので出来るだけ短距離を行こうと Google Map でルートを検索したのが大失敗だった。斎場御嶽への道のりで学習したはずなのに、街中でまたGoogle Mapのトラップに引っかかった。近いことは近そうだが、記された経路に舗装された道はなかった。下手すると私道かという感じの路地裏の坂道に連れていかれそうになった。

スーツケースを引いて途中まで行って妻に「さすがにここは無理じゃない」と言われて引き返し、国際通りのなかを歩いた。

●最終日に元祖ソーキそば

16:00過ぎにホテル・ロコア・ナハに着きチェックイン。少し休んで夕食はソーキそばを食べに行くことにした。ここまでホテルの朝食ビュッフェの沖縄そばは少し食べたが、いわゆる本物は食べていなかった。そこで我部祖河そばでソーキそばを食べようということになった。探すと久茂地店という新しい店舗が出来ていたのでそこにした。清潔な店舗だった。元祖ソーキそばを食べることが出来て良かった。宿題をひとつ終えたような気分だった。

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食べ終わると20:00くらいだった。沖縄旅行最後の夜だしちょっと散歩しようと、サガリバナの樹という街路樹を目指して歩き始めた。もうあたりは暗くなっていたので、夜だけ咲くサガリバナも咲き始めるころだろう。ここは地図にも載っているくらいなので、きっと綺麗なサガリバナが見られるんじゃないか。そんな思いで徒歩18分ほどの街路樹を目指した。

サガリバナは2013年に石垣島の群生地で見たことがあった。そのときの美しさに感動したので妻にも見せたいと思ったわけだ。

行ってみると街路に1本だけサガリバナの樹があった。それもあまり綺麗ではない。旬の季節も終わりごろではあったし、街路樹でまわりも明るいし、なんとなく思い描いていたサガリバナとは違っていた。石垣島のサガリバナ(下の円囲み写真)は群生地でもあり昼にロケハンまでして夜中に懐中電灯を準備して向かったわけで比較は出来ないけれど…。

とはいえ、妻に本物のサガリバナを初めて見せることはできた(萎んだものは名護のガジュマルの大樹の側で遭遇済みだったが)。いつか石垣島の群生地も見せたいと思った。

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サガリバナを見終わってホテルに戻ろうと歩き出した。道端に竜頭の置物があった。歴史的に由緒正しい建造物かと期待したが「くにんだなかみち」と書かれた新しいものだった。最終日なのに Google Map で通り抜け不可能な路地裏に連れて行ったり、結構歩いて見に行ったサガリバナがいまいちしょぼかったり、なんとなくついていない感じだった。

しかしタイムスビルあたりまで戻ってくると、FIBAワールドカップ2023沖縄大会の大きなラッピングなどが見えて来て、少し気持ちが楽になった。このときはまだバスケファンになっていない私だったが、妻は沖縄に来た時からゆいレールのラッピングを写真に撮ったりしてバスケットボールも好きだったので、このビル柱のラッピングで少し気分も上がったようだった。

こうして沖縄旅行最後の夜は過ぎていった。

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翌7月29日(土)朝、ホテル・ロコア・ナハの朝食ビュッフェは評判通り美味かった。沖縄観光目線での食材の種類も豊富でここぞとばかりに食べ過ぎた。食べ終わって部屋に戻ろうとしたら、泡盛の瓶を発見。そういえば泡盛もこの旅行で飲んでいなかった。従業員さんに聞くと試飲できるように置いてあるという。朝っぱらではあったがもうあとは飛行機で帰るだけだしと、瑞穂と海人と両方試飲した。

個人的にはシチュエーションも手伝ってか「海人」(まさひろ酒造)という泡盛が断然気に入った。クセは強くなくスッキリ飲みやすい。帰りに空港の売店で探し回ったがその店にも置いていなかったのが残念だった。

10:00にチェックアウトした。ルートビアと遭遇したA&Wもすでに懐かしい。その1階にあるシーサークッキーでも土産を購入。その後、国際通り入口にある宝くじ売り場でサマージャンボを購入して那覇空港に向かった。

12:00頃発のJAL906便で羽田へ向かった。隣の席には小学生低学年っぽい男の子がひとりで乗っていた。かなりぐずっていてバタバタさせる靴が妻に当たる。離陸時もシートベルトをしていられずすぐに外して歩き回ろうとする。CAさんが複数名で声をかけたりグッズをあげたりして、妻も話しかけたりアニメの見方を教えたりして何とかなだめていた。

こうして2023年の夏旅(夫婦編)は終わった。6泊の旅行だったが、ゆいレールとバスとタクシーそして徒歩だけでもかなり充実した沖縄旅行になったような気はした。埼玉県に帰宅した二日後の7月31日から台風6号が沖縄、奄美地方に上陸し、そこから一週間居座り大きな爪痕を残した。少し日程がずれていたら大変な旅行になっていたかもしれない。

日本の夏はこれからどうなっていくのだろう。年々勢力を増す猛暑、豪雨、台風。これを書いているのは9月17日だがいまだ気温30度あたり。長崎県では線状降水帯がまた発生している。夏の旅行はこれらの気象状況の間を縫っていくギャンブルのようなものになりそうだ。

【完】

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夏旅2023 夫婦編(20)~ ぶくぶく茶 ~

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首里城公園を出て沖縄県立芸術大学の側を通って向かったのはぶくぶく茶屋の嘉例山房(かりーさんふぁん)。那覇バス首里城公園入口バス停の近くにある。入るとアンティーク(?)な空間。階段をあがってすぐのテーブルに通された。

ぶくぶく茶を飲んだことがないと伝えると手順を教えてもらえた。いろんな味のお茶や飲み物が選べる。これらがどれも泡立つのだろうかと不思議に思っていたのだが、飲み物自体が泡立つのではなく、好きな飲み物(アイスでもホットでも)を選んで、その上に別の器で泡立てた泡を乗っけて飲むという二段構造の飲み物だった。

妻は薬草茶のホットを選択。私はレモングラスだったかハイビスカスだったか冷たい飲み物を選んだ。どちらもぶくぶく茶は1200円だった。

しばらくして私のぶくぶく茶セットが来た。最初はお手本のようにお茶に泡を乗せてもってきてくれた。その泡の量は山盛りだった。つかみはオッケーだ。しかしそれだけの山盛りの泡を自分たちで立てることは最後までできなかったが…。

妻のお茶が来る前に、別の器に泡立て用の液体が入って来た。これを専用の茶せんで素早く表面だけをシャカシャカ泡立てる。立った泡を横によけつつその作業を繰り返し、それなりに泡が溜まったところでお茶の上に茶せんで掬って乗せるというシステムだ。

なかなか難しい。泡立つことは立つのだが、あまり大きな泡にならない。混ぜ方の問題だろうか。それでもそこそこ泡立ったところでお茶に乗っけて口をつける。伝統の様式美を体験する。

泡がなくなればまたシャカシャカ泡立てて乗っける。この泡立つ液体は何なのだろう。山盛りには出来なかったが最後まで泡立った。黒糖なども泡にまぶして飲んだりも出来る。

お茶そのものが美味いかどうかというよりも、琉球伝統のぶくぶく茶を体験できるというアトラクション的な楽しさがあった。セットには素朴なお菓子や南国フルーツも添えられていてとても美味しかった。

小一時間、ぶくぶく茶を飲みながらお菓子やフルーツを食べ、次のバスの時間が近づいたところで店を出た。店の近くにバス停があるのはありがたい。バスで国際通りまで戻った。15:00頃だった。

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夏旅2023 夫婦編(19)~ 修復中の首里城へ ~

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7月28日(金)沖縄観光最終日だ。朝はハイアットリージェンシー那覇の朝食ビュッフェ。さすがに美味い。ここまで早起きばかりの日々だったので、ちょっと遅めに9:00過ぎに食べ、11時まで部屋でまったりした。何から何までホスピタリティの高いホテルだった。

最終日なので近場かつ最大の観光地のひとつ首里城へ行くことにした。首里城正殿は2019年10月に火災で失われていた。いまも復旧作業が続いている。この復旧作業への支援はふるさと納税でも出来るため、当時は私も寄付していた。その現状を視察に行った感じだ。

国際通りにまた戻ってくるため、ホテルをチェックアウトした後もスーツケースはホテルに預かってもらい出発。ホテルの目の前が壺屋やむちん通りだった。店はまだほとんど閉まっている時間だったが通りを歩いてみたくて壺屋バス停に向かうことにした。古風だが美しい通り、美味しそうなカフェもありそうだ。

壺屋バス停にバスはほとんど止まらない。そこでバスを待つ人もほとんどいないような気がする。そんなバス停だったが平日11:29発で11:40に首里城公園入口に着く17系統があったのでそれを待った。バス停前の道路は結構な交通量だった。少し遅れてバスが来た。

●再生を望む首里城

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首里城を訪れたのは昭和53年以来だ。当時は小学生だったのでほとんど覚えていない。日本返還6年後のことで蛇とマングースの戦いを見たことと当時のバスガイドさんが左右逆になって交通事故が多いという話をされていたことだけハッキリ覚えている。

首里城公園についてまずレストセンターに入った。首里城の歴史や行事などがパネル展示されていた。その後、焼失した本殿方面へ。高台なので景色がいい。琉球の香りは失われていなかった。

復旧作業も歴史の一里塚なのでこれはこれで興味深く見学した。城跡公園として残すのではなく、あくまでも城郭を再生しようとすることの意味を考えたりした。明らかに日本の城とは異なる大陸風の建築様式に近い風情だ。レプリカとなってもその琉球建築をカタチとして残していくことは観光的にはもちろん重要なのだろう。それ以上に首里城は琉球だけに存在した歴史・文化そのものだからだと思う。

●沖縄県立芸術大学

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首里城からの眺めでもっとも近くに目立つ建物は沖芸こと沖縄県立芸術大学だろう。沖芸は1986年創立という。その色合いやフォルムに名護市役所と同じ匂いを感じた。設計は㈱石本建築事務所・㈱二基設計・近代設計の設計企業体だという。沖縄を代表する建築のひとつだと思う。

名護市役所は1981年の建築だから沖芸とほぼ同世代の建築だ。名護市役所が老朽化ということはこちらも老朽化の時期に入っていく。今後が心配だ。名護市役所のように建て替えの話なども出てくるのだろうか。首里城と周辺の緑地と混然一体となった景観を残して欲しいと思った。

しかしもともとは自然を破壊して大型建築を作ったわけで、それが長い時間とともに歴史となり景観となり、今度は残したくなるんだから人間というのは勝手なものではある。おそらく大型建築というものはそんな人間の身勝手さの上に成り立っている。それだけに説得力が重要になってくる。

2023年9月現在、都内では神宮外苑を再開発という名のもとに破壊し商業施設の建設が始まろうとしている。今年亡くなった坂本龍一が開発阻止を求めて遺言のように残した東京都知事への手紙は波紋を呼び、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が樹木伐採などを阻止するよう東京都や事業者に事業計画の撤回・見直しを求めたりしている。

開発が阻止されても進められても100年後にはそれが歴史となり文化となる。そこに豊かさがあるかどうかとは別次元で物体として何らかの結果が残る。そのうつろいのなかで身勝手に生きるのが人類なのだ。それを承知のうえで、建築好きとしてはせめてそこに単なる金儲けというだけない説得力を求めたい。

沖芸の建物にもっと近づいてみたくなり首里城を出て沖芸まで降りて行った。さすがに中にまでは入らなかった。沖芸食堂は一般人にも開放しているそうなのでそこで食べたい衝動もあったが、この日はその後ぶくぶく茶を飲みに行く予定があったのであきらめた。

私は高校生時代に芸術大学を目指したことがあった。合格した私立の芸術大学もあったが結局はそちらの道はあきらめた。そのとき、沖芸も候補に挙がってもおかしくなかったはずだが山口県から東側にしか意識が持てなかった。当時創立間もない沖縄の芸大なんて、いま考えると非常に魅力的に思える。あのとき沖芸の存在を知っていたら未来は変わっていたかもしれないなとちょっと思ったが、まぁないかと思い直した。インターネットなどない時代、情報は都会でしか得られないと思っていた。

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2023/09/09

夏旅2023 夫婦編(18)~ 那覇に戻って散策 ~

佐喜眞美術館から那覇に戻って来た。名護から那覇に帰って来た時はとりあえず県庁北口を目指したが、途中の駅前で降りることを学習した我々はゆいレールのある古島駅前でバスを降り、ゆいレールに乗り換えた。宿泊地のハイアットリージェンシー那覇はゆいレールの牧志駅が最寄駅だが、この日は牧志駅を通り越して美栄橋駅まで行った。妻の行きたいスイーツ店を目指して…。

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ゆいレール内はFIBAバスケットボールワールドカップ2023沖縄大会一色だった。これを書いているのは9月なのですでに大会は終了している。人生においてこんなにテレビでバスケットボールを見て日本チームを応援したことはなかった。熱狂した。今回の沖縄旅行で広告に触れていたからというだけではない。ほんとにハラハラドキドキの逆転勝ちという展開続きだった。その結果48年ぶりに自力でパリ五輪出場権獲得(前回東京五輪は自国枠で参加)。そんな日本チームの物語に熱狂したのだった。やはり物語を背負うとスポーツは強いコンテンツだ。

●サーターアンダギーの名店うなりざき

美栄橋駅でゆいレールを降りると雨が降っていた。傘をさして若狭公園方面に向かって川の側の道をまっすぐに12分程度歩き左に曲がるとサーターアンダギーの名店うなりざきがある。他のサイトで見ていた写真とくらべて店の看板が新しくなっている。文字がクッキリしていた。

着いたのは14:40頃だった。15:00頃には閉店なので急いで行った。人気店なので完売していたら早めに閉まってしまうこともあるそうだが、店の前には「営業中」の札が見えた。

中に入ると販売カウンター越しにお店の方と対面する小さなお店。カウンターの上に紅いもサーターアンダギ5個入が5袋程度あった。不愛想なおばさんだという噂を他のサイトで仕入れていたが、そういうときこそ話しかけたい衝動に駆られる。

「15:00で閉店と聞いて急いで来たんですよ。あってよかったです。」
「今日は雨だからね。」
「あーそうかぁ。雨でも来てよかった。」

そんな会話(?)をしながら2袋購入した。ホテルに戻ってから1袋あけて食べた。確かに美味い。これは人気が出るわけだ。

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佐喜眞美術館で購入した「平輪ちんすこう」も他にはない美味しさだったが、ちんすこうにしろサーターアンダギにしろ、正直なところ記憶にあるのはパサパサしてるだけのイメージだった。やはり本物を食べなければダメだな。記憶のなかのパサパサした沖縄菓子が次々と美味しい沖縄菓子で上書きされた旅行でもあった。

●国際通り・平和通り・市場中央通り

うなりざきを出てゆいレールで美栄橋駅から牧志駅へ。ハイアットリージェンシー那覇に戻り、朝預けたスーツケースを受け取りようやくチェックインした。このときフロントで爪切りを借りたいと伝えて部屋に届けてもらったのだが、その爪切り「匠の技」がめっちゃ切れ味が良く、帰宅後購入してしまった。

雨の中を出歩いていたせいもあるが、ハイアットリージェンシーは本当に快適だった。部屋で紅いもサーターアンダギを食べながら、もう出歩かなくていいんじゃないかと思ったりしていたが、しかしは腹は減る。ホテルの近くに石垣牛ステーキが食べられる琉球ステーキ究があったのでそこに食べに行った。カジュアルな店で良かった。

沖縄の家庭には必ずあるというA1ソースも言えば出してくれると書いてあった。ウエイトレスさんにどんな味か聞いてみたら、外国人のウエイトレスさんで「うーん、ちょっと酸っぱい…?」といった反応。ものは試しでA1ソースを出してもらったが、まぁ家庭用中濃ソースみたいなソースでせっかくの石垣牛ステーキには合わなかった。一口だけA1ソースで食べたが、やはりステーキはワサビに塩がいい。

琉球ステーキ究を出て少し散策した。明日が沖縄観光ラストデーなので、お土産関係は明日購入する予定だったが、多少アタリをつけておきたくもあった。国際通りのれん街の前に人だかりが出来ていた。近づいてみると獅子舞が踊っていた。若いエイサーの集団だった。

しばしその踊りと太鼓の音を気持ちよく聞いていた。その数曲の中になんとも懐かしいようなセンチメンタルな楽曲があった。少女がひとり中心で踊り、左右をガタイのいい青年が固めて太鼓をたたきながら3人で踊る楽曲だった。あの曲のタイトルを知りたいと思ったがいまだわからず仕舞いだ。

国際通りを歩いているとハワイアンらしき楽曲をよく聞く。いや音楽だけじゃない。沖縄の様々な場所で似非ハワイを感じるときがある。しかし沖縄のコンテンポラリーとか琉球民謡、琉球文化にもっと誇りを持っていい。ハワイの代替で沖縄に来ているわけではなく沖縄、琉球を求めて来ているのだ。もっと琉球らしさに触れたい。そんな思いのなかで聞いたエイサーの音色がやけに美しかったのだった。

国際通りから分岐しているアーケード街も歩いた。中央市場通りや平和通りだ。作ろうとしても作れない迷路のような路地だ。沖縄の小説家目取真俊に『平和通りと名付けられた街を歩いて』(影書房)という作品があるが、その平和通りだ。目取真俊さんは2016年に浦和を来訪し講演会をされた。一触即発の後援会だった。今年10年ぶりの短編集『魂魄の道』が発行された。アーケード街を歩くと私の故郷徳山の元気だった頃の銀南街を思いだす。徳山にも平和通りと名付けられた道があった。20230727_195619_3p

アーケード街のなかで土産物をひと通り物色して、妻の大好きなドンキホーテも覗き、ホテルに戻って来た。ウェルカムドリンクを飲んでいなかったので展望バーにウェルカムドリンクを飲みに行った。夜景を見ながらのウェルカムドリンクも実に美味しい。ウェイターが何度か注文を取りに来たが、ウェルカムドリンクだけを飲んで部屋へ戻った。次回はちゃんとディナーで来たいと思う。部屋でオリオンドラフト氷点下貯蔵ビール缶を空けた。

 

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2023/09/03

夏旅2023 夫婦編(17)~ 佐喜眞美術館 特別展 ~

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7月27日(木)の正午前、佐喜眞美術館最寄りの上原バス停に近づく頃、雨が降り始めた。バスを降りて美術館まで徒歩5分。美術館の玄関に着くころに大雨になった。今回の旅行でもっともザアザア降りの雨に降られたのがこの時だと思う。

当初、佐喜眞美術館には草間彌生の絵画が所蔵されているのでそれが見られればいいなと思っていた。直島博多、さらに都内と草間彌生さんの南瓜を見てきたので引き続き草間彌生つながりで目にした美術館だった。

ただ今回の旅行期間中は特別展をしていたため草間彌生の作品展示はなかった。それは残念だったが常設可能なのでまた来ればいい。今回の丸木位里、丸木俊夫妻による「沖縄戦の図」全14部の原画特別展に出会えたのは偶然ではないような思いが残った。

●丸木伊里・俊「沖縄戦の図」の原画を鑑賞

佐喜眞美術館はこじんまりとしているが、とても個性を感じる美術館だ。普天間基地に突き刺さったトゲのように、基地の土地をえぐり取るようにして建っている。美術館を建てることを前提に返還された土地だという。そこに丸木伊里、丸木俊夫妻による「沖縄戦の図」が所蔵されており今回は2年ぶりにその原画14点が一挙公開されていたのだった。

丸木夫妻は「原爆の図」で知られている。夫婦共作で戦争の悲惨さを伝える絵画を描き続けてこられた。埼玉県には原爆の図丸木美術館がある。我々は埼玉県に住んでいるのに行ったことがなく、佐喜眞美術館を先に訪問したわけだ。丸木美術館も必ず行かなければ。

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特別展以外にも丸木夫妻の個々の作品も展示されていて見ごたえがあった。丸木伊里さんの圧倒的な水墨画「今帰仁大関」や丸木俊さんの色彩豊かな「赤シーサー」他も展示されていた。これらの異なる画風の二人が戦争画という重いテーマに生涯共作で取り組まれたわけだ。そこには戦争の時代を過ごした丸木夫妻のひとつの強い思いがあったのだろう。

美術館で購入した図録を読むと、1941年太平洋戦争が始まる直前に二人は結婚されている。そして1945年原爆投下の直後に広島に向かい一か月間の救護活動をされ、1950年からのちに連作となる「原爆の図」を発表されていた。沖縄訪問は1978年から。その後「沖縄戦の図」を描く必要性(必然性)を感じ1980年代に連作を発表された。

原爆と沖縄。このふたつの戦争をどちらも描かれたところに丸木夫妻の信念を感じる。原爆は被害者側の日本人の視点で戦争と向き合うが、沖縄戦では被害者と加害者とどちらにも日本人の視点で向き合わなければならない。米軍という鬼と日本軍という鬼による惨劇。沖縄戦には二手に分かれて逃れた洞窟の選択によって生死がわかれた史実もある。チビチリガマでの集団自決とシムクガマでの降伏による生存という明暗をどちらも描く。

私には生きている人々がより黒く描かれ亡くなった人ほど明るい光を帯びているように見える絵もあった。生き地獄という現実の闇の深さと同時に死してようやく地獄から解放される仄かな光にさらなる悲劇を見た。また絵画というメディアを通して死んだ人々による声なき声が永遠に響き続けるようにという願いもあるだろうと思った。

この「沖縄戦の図 全14部」のドキュメンタリー映画も制作されて公開されている。この日は東京都で上映中だったが、美術館ではDVDも販売されていたのでそれを購入して帰宅後に鑑賞した。その中で丸木伊里さんが「沖縄戦では日本人が撮影した写真は残っていない。だから日本人が描かなければならない」ということを話されていた。戦争の本質的な愚かさ、誰もが加害者にも被害者にもなり得る怖さを現代の日本人も日本人の立場で、ヒロシマ・ナガサキとオキナワとを知り、立体的に捉える責任があると思う。

●佐喜眞美術館の屋上に上る

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DVD以外に絵葉書と「沖縄戦の図」の図録(映画館で販売されているものと同じ)、ジョン・W・ダワーによる小冊子『戦争と平和と美 ー丸木伊里と丸木俊の芸術』、そして手作りの平輪ちんすこうを購入した。このちんすこうは人気でこれだけを買いに来る人もいるという。ジョン・W・ダワーの著書『敗北を抱きしめて』(増補版上下巻)を持っているがまだ読み終えていない…。この機会にまた読み始めようと思ったが読み始めるのに気合が必要なのだ。

ひと通り鑑賞し買い物も終え、エントランス横の受付の方に佐喜眞美術館についてもいろいろ聞いた。外に置かれた作品やこの美術館の成り立ちなど。そのうえで屋上に上った。このときすでに大雨は降り止んでいたが滑りやすいので注意しながら階段を上った。

沖縄の地上戦が終結したことにちなみ6月23日は「慰霊の日」とされるが普天間基地を眺められる屋上の階段も6段と23段になっている。この段数は6月23日にちなんで作られたわけではなく偶然だとのこと。逆にゾクッとした。ただ6月23日の日没に照準をあわせた向きに階段が設置されているようだ。

外には沖縄県立盲学校卒業生の生徒作品(1980年)が置かれている。これは危うく廃棄されそうだったところを引き取って置かれたそうだ。どれも面白い。当時の先生は今年85歳で亡くなられた山城見信氏だったのではないかと思う。

佐喜眞美術館にいた1時間あまりの間に、普天間基地から飛び立つ米軍のヘリコプターと基地に向かうオスプレイを目撃した。ここはそういう土地だ。その一角に丸木夫妻の「沖縄戦の図」が鑑賞できる美術館があることに気概を感じて美術館を後にした。

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