野球ファンでなくても引き込まれる『嫌われた監督』
前回、私家版ことしの漢字を「読」と書いた。それほど今年は読書も出来、読みがいのある書物も多かった。しかし、そのブログを書いた後に書店の平台で出会った書物、鈴木忠平著『嫌われた監督』は、まさに今年読んだ最高の一冊といっても過言でないほど引き込まれた。購入して毎日むさぼるように読み本日読了した。9月25日初刷、私が購入したのは12月10日発行の9刷本だった。3か月弱で9刷、かなり売れている。ファンだけが買っているわけじゃない証拠だ。
もともと私自身は個人技が好きなので団体競技やチームスポーツよりは、個人の力と理論でオンリーワンとなった人に惹かれる。子どものころから学校などで選択してきた(させられてきた)競技も、テニス、剣道、水泳、陸上(短距離、砲丸投げ)、柔道とことごとく個人プレーだった。
日本でのチームスポーツの最たるものが野球なので、もちろんプロ野球ファンではない。しかし昔から落合博満という人には何か惹かれるところがあった。というより、なぜ落合が選んだ競技が野球だったのかという疑問すら持っていた。まぁ昔の田舎の子どもが運動をしようとすれば、かなりの確率で野球に触れるのかもしれない。
なぜ野球の道に進んだのかはわからないが、高校時代に学校をサボって映画館に入り浸っていたエピソードが書かれていた。体育会的な雰囲気になじめなかったり、独自の考えをもとに自分自身を鍛え律する生き方は勝負師そのものだ。落合の才能は野球だけではなく、勝負に徹する者のディシプリン(規律)を貫く才能だと思った。
●いつもヒールが好きだった
プロレスでいうヒールの雰囲気が好きだ。たぶん昭和の映画好きは、悪役を愛する癖がある(妄想だが)。私が好きだったブルーザ・ブロディも、キムヨナもとことん強いヒールだった。落合博満もまさにヒールだったし、そこに焦点を当てた『嫌われた監督』に惹かれたのは必然だったとすら思う。
映画好きな落合自身もヒールが好きだったのではないか。その片鱗も書かれていた。落合の番記者だった著者ならではのエピソードの数々がこの作品に深い味わいを与えている。著者自身も若いころから落合博満という独特な人物を取材するなかで、陰に陽に影響を受け、物事の見方や思考の流れが変化していったのではないだろうか。
誰もが落合博満のような個の規律を受け入れることなどできないし、だから嫌われるのだろうが、これがチームスポーツでなければ、まったく違った受け入れられ方をしたと思う。
落合博満のモノの見方を読んでいくと、アドラー心理学にとても親和性がある。例えば『嫌われる勇気』を読んだことがある人だったら納得できると思う。
あらゆる悩みや迷いは人間関係に行きつく。だが、だからといって他者からの評価を目標とするのではなく、「個」としての自分自身の問題と他者の問題とは無関係であることを認め、自分自身についてのみ考え、自分自身が自分自身のために変われるかがキモになる。
自分が納得できる生き方をすれば他者評価は不要だ。承認欲求に振り回される生き方から自由になれる。この書物については前にも書いたが、再度書いてみる。人間の行動、意志、考え方を目的論で捉える。現状への不満を環境のせいにせず、「こうありたいからこうなっている」と考える。環境は常に自分自身の気持ち次第というわけだ。
そういう生き方が果たして幸せかどうかはわからないが、こと勝負師であろうとするときには、実に理にかなっている。リスクを負うのは自分自身であり、克服すべき課題も自分自身のなかにしかない。自分自身が変わることによって、とりまく環境も変わっていく。勝負に勝てるようになる。すると周り(他者)も変わっていく。良くも悪くも…。
●時代が落合博満に追いついた?
チームスポーツとはいえ個人の技術が大きな比重を占める野球、とくに個人技で報酬も変わるプロ野球の世界において、落合の個人主義は合理的だ。落合が社会(会社)とつながる唯一の制約条件は契約書であり、それ以外に拘束される道理はない。まさに大ヒットドラマ「ドクターX」の大門未知子のような生き方であり、こうして物語の主人公として読むと実に面白いわけだ。
そんな落合博満の回りにいて関わらざるを得ない人々もまた、ドクターXの他の外科医や院内政治に明け暮れる人たちのように、そんな生き方には否定的になる者が多い。通常、こんな個人至上主義者に出会うことがない日本社会ではなおさらだ。野球ファンは特にチームの絆だとか、仁義だとか、そんな物語が大好きな人々だろう(私の偏見ではあるが)。だから落合は嫌われる。表面的には受け入れがたい。
だが、落合によって変化を強いられた人々の中にも、良い変化を自分自身で選択した者たちがいた。それが『嫌われた監督』の各章の主人公であり、著者自身もその一人だと感じた。落合は変わろうと努力する意志のある選手には謎かけのような言葉をぼそっとつぶやく。一人で対峙する記者には真摯に向き合う。そして本気で変わる意志を表明した者には寄り添うが指示はしない。落合に教えを乞うと、常に自分自身で考えることを強いられるのだ。
落合がノックをするシーンが何度か出てくる。そこを読んでいて、剣道を習っていた小学生時代を思いだした。師範はいつも3人くらいいたが、切り返しではまったく人気がない師範が一人いた。その師範の列に行くと他の列の5倍以上の時間、延々と切り返しをしなければならず、へとへとになる。他の師範の列は予定調和で何回か切り返すと次々と交代していくので、楽だし回転が速かった。人気がないから時間も長いのかとも思ったが、私は何度もその師範の列(列はないのだが)に呼ばれ打ち込んでいた。剣道の思い出は、そのつらい切り返しだけしか残っていないが、あの時に鍛えられた何かが残っているのだろうか…。
それはともかく、ことごとく嫌われたはずの落合博満の監督時代を追った『嫌われた監督』が、これほど売れ、これほど魅力的なのはなぜなんだろう。個人主義的な価値観は昭和時代よりもずいぶん浸透してはいるが、集団や組織になったときの日本人のメンタリティはまだそこまで進んでいない気がする。身をもって感じる。そのはざまで、個の尊重を貫き通した落合博満がまぶしく見える現代は、夜明け前といったところか。
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