東京オリンピックの思い出
疫病が蔓延の兆しをみせるなか、7月23日に一年遅れの東京オリンピック開会式が行われた。菅義偉政権は東京オリンピックはバブル方式(関係者は徹底管理された環境のなかだけに行動を制限する)で運営するため新型コロナウィルスの蔓延にはつながらないと言い、小池百合子都知事も、オリンピックはステイホームを促し人流を減少させると述べた。
しかし、飲食店を休業に追い込み、一般人の旅行も外食も制限していながら、海外からやってくる選手は日本中で合宿をしていた。終わってみれば昨日(8月9日)時点で458人の関係者が感染した。バブル方式は最初から絵に描いた餅だった。
小池百合子都知事の言い分もまったく的外れだった。五輪の視聴がステイホームに有効ならその理屈で延期などせず東京オリンピックを開催すればよかった。感染防止のために。
当時はまだ現在の100分の1程度の感染だった(発表ベースで)。都内で34人の感染者が出た2020年6月2日、東京アラートが発動し、都庁とレインボーブリッジがレッドライトで赤く染まった。20人以上が東京アラート発動の基準だったからだ。東京五輪が開催された今年、7月28日には都内感染者数が3177人と3000人を突破、五輪も後半戦の8月5日には5042人を記録した。いま「記録した」と書いているが、これで治まるかどうかわからない。
首都圏はもはや見えない敵に襲われていた。嬉々とした大衆は五輪万歳と叫び、同じ阿保なら踊らにゃ損損状態。興味のない大衆は別の娯楽を求めて街に繰り出し、これ幸いと帰省や旅行も増加した。摩訶不思議な屁理屈によって徒手空拳で戦っている政治家の戯言が続く。「政策を間違った」とは間違っても謝らない政権と官僚。検査数も病床数も一向に増えない。(平時ならほとんど重症レベルの)中等症者は自宅療養せよと医療放棄の状態。2年も無策でこの状態に追い込まれた大衆は、ほとんど政府の発言は聞かず、メディアやSNSの情報(噂話)で自ら判断する。まるで未開の地だ。
海外ではワクチン接種済みという免罪符をもって出歩く人々が、さらに疫病を広げている。疫病のほうも次々変異し、現在はデルタ株という感染力の強い新型コロナウィルスが主流となった。こちらもいたちごっこだ。日本も周回遅れでこの道に進もうとしている。
この状態は戦争だと思った。ミサイルは飛んでこないが、無能な政府と未知の生物との戦争状態にある。不織布マスク、石鹸手洗い、アルコール消毒、換気の徹底、そしてワクチン(打ってないが)。これが現在の人類が持っている武器。ほぼ防戦一方だ。未知の生物は実態が見えず次々と変化しDNAの転写エラーを起こしながら急速に進化しては人から人に感染拡大していく。
この後、どんな世界が訪れるのかわからない。グローバル資本家はこの惨事に便乗して信じられないほどに儲けている。日本の超長期停滞を尻目に米国はインフレ懸念。気鋭の哲学者斎藤耕平は東京オリンピックを「祝祭資本主義」と断罪した。
疫病と五輪とを別問題だとしても、どちらも対応を失敗した日本政府だと思う。ツケは必ず来る。歴史が証明している。しかし歴史をイノベーションの連続(つまりは失敗の連続)と捉えるならば解決先もきっと見つかると信じたい。そのベクトルが現代に蔓延る強欲資本主義の延長にはないという思いを強くした東京オリンピックだった。
バブル方式で行われたオリンピックが終了した翌日、IOCのバッハ会長は銀座を散策。終わればバブルもなくなったというわけではない。選手は帰国するまではったりバブルのなかで行動制限されていた(もちろん違反者は出た)。さらにパラリンピックもこの後始まるのだ。バッハ会長の行動を丸川珠代五輪担当大臣は「不要不急かは個人が判断すべきだ」と発言した。
私はバッハを五輪貴族と呼んだが、オリンピックは五輪貴族にとってのコロッセウム、選手は古代ローマ帝国の剣闘士だ。その構図をもはやオブラートに包みもしない強欲資本主義の時代。運動万博はその役割を終えた(いやもはや役割すらなかったか)。
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