「万引き家族」にボクの心も盗まれた…
第71回カンヌ映画祭パルムドールを受賞したこの作品を見ようと決めたのは、受賞より少し前、板橋区のイオンシネマでチラシを見つけたときだった。この色彩、構図、ライティング、そしてキャスト。このチラシの訴求力は完璧だった。
その後、音楽を細野晴臣さんが担当していることを知り、日本映画界21年ぶりのカンヌ映画祭大賞を知り、それによって6月2日(土)の先行上映が決まったのを知った。
先行上映を知ったのは、前日の6月1日(金)だった。今日6月3日(日)に妻が友人とランチに行くというので、それならオレは映画でも見るかと映画館のサイトを眺めていたときだった。
二日間だけの先行上映、ドラママニアの妻に「万引き家族は観たい?」と聞くと食い気味でうなずく。それなら先行上映の初回に一緒に行くしかないと、土曜初回の上映を予約したのだった。そしていま、妻はランチに、オレはブログに…というわけだ。
●女優陣が好き過ぎる!
是枝監督の映画に初出演の2名の女優、安藤サクラと松岡茉優。ひとくちメモでも何回か熱い想いを書いた2人の女優だ。
松岡茉優に最初に注目したのは、NHKドラマ「限界集落株式会社」でだった。その時のひとくちメモにこう書いた。
ちょっとした相槌とか、そういうとこに才能感じる。深津絵里や山口智子に感じたような。ボクの好きになるポイントをついてくる女優っていうか(笑)。
その感覚はいまも変わらず、「万引き家族」でも松岡茉優の魅力が引き出されていたと思う。内面にある愁いを目で語る女優だ。
安藤サクラは、園子音監督「愛のむきだし」が最初だった。その時のひとくちメモでは作品の圧がすごくて()、安藤サクラについては「顔が好き」としか書いていない。
ただ、安藤サクラを知ったことが名作「百円の恋」の鑑賞につながり、NHKドラマの「ママゴト」を観るきっかけにもなり、安藤サクラ好きが決定的になった。
この二人が共演する、もっといえば樹木希林さんと家族を演じるというだけで見る価値がある。現代の日本映画、そして未来の映画界を豊かにする女優陣であることは間違いない。
●細野晴臣の映画音楽が聴ける!
細野さんの音楽って、ボクの人生に常に伴走し心の中でいつも伴奏つけてくれてた。一筋縄ではいかない音楽家だ。ヒットソングの作り手であることは間違いないが、もっともっと異形の音楽家だ。
映画の劇伴のイメージはあまりないけれど、細野さんの音楽はとても映像的だと思う。ご本人も映画好きだから、映画からインスパイアされて曲を作られることも多いのだと思う。
この映画に音楽を付けるにあたり、映像に仮音を入れないで見せてほしいと言われたそうだ。映像から自分のイメージの音を紡ぎ出す細野さんだから、そのほうがインスピレーションが湧きやすいのだろう。それだけに映像に溶け込んだ細野晴臣の音楽は映画と一体化する。
映画の冒頭からいきなり音楽に惹きこまれた。決して主張するような音ではないのだが、そこには確かに細野晴臣の音楽らしさが漂っていた。
ツイッターでそのことをつぶやいていた時に、こうも書いた。
細野さんの音楽にある異形感みたいなものがとっても効いてたと思いましたね。
そういうところで私が連想したのは、細野さんの曲ではないですが、新藤兼人監督の「裸の十九才」でした。音楽の捻れと情感の捻じれのシンクロが似てたなぁ。
「裸の十九才」もひとくちメモで書いた名作映画だ。そして犯罪者(永山則夫)が主人公の映画だった。
●家族を考えさせられる!
家族は祖母の年金をあてにして生活し、父は日雇い労働、母はパートタイマー、性風俗で働く娘がいて、小学校に通わせていない男の子には親が万引きを仕込む。祖母も離婚した夫(既に死亡)の家族にカネをせびったりする。
ある意味、とんでもない家族なのだが、現代日本にこの貧困はリアリティがある。もしかすると近代化する以前の日本の貧農生活はこうだったのではないかとも思った。明治維新、戦争、高度経済成長を経て、日本はまた貧困への道に迷い込みつつある。
土着の日本人の姿がこの映画のなかには描かれていて、そのリアリティがヨーロッパでシンパシィを感じられた所以かもしれない。この日本人観は35年前のパルムドール「楢山節考」ともつながっているような気もする。
家族とは不思議なものだ。結婚してから余計にそう思うようになった。ふと妻を見て「この人、他人だったよな」と思うことがある。お互いに同意して婚姻届けを出して夫婦となったけれど、もともとは赤の他人。それなのに愛おしい。
血のつながりが家族なら、親子以外は家族じゃないが、近親相姦は人類を滅亡へ導くタブーであり、人類はリスクを背負ってでも飛躍し、近親者以外と子孫を残すしかない。それでも血のつながりを特に重視する血縁の関係性とは何なのか?それは自己愛の投影でしかないのではないか。そんなことも考えた。
カネだけでつながっている「万引き家族」のもとにやってきた少女への愛が、血のつながりのある少女の家族によるネグレクトなどと対比され、社会が押し付けてくる正義や法律のもとに断罪される。
万引きへの疑問を感じた男の子の行動が、この家族の崩壊をもたらすが、それでもつながっていたいと思う心の問題は、この家族の土着的なつながりに現代日本の社会問題を投影する。
法律だけのつながりの家族と、カネだけのつながりの家族と、どちらかが尊くてどちらかが正しいのか。
本人の生命にとって大切な人間関係を家族と呼ぶ自由がなく、不自由でも法的関係性だけを尊重する家父長制的家族制度の限界を突きつけられている日本社会や政治の現実がある。
以前、「『誘拐』 犯罪者は社会的弱者である」という書評を書いた。倫理の狭間で人間や社会を問うという意味ではドラマや映画にもなった「八日目の蝉」にも心を揺さぶられた。
「万引き家族」で親元に戻った少女が、ふと何かに目を止めたようなしぐさを見せるラストシーン。そこに希望を見出したくなるが、それは実は絶望的な社会のなかでの救いでしかないと気付く。
法的な正しさが幸せをもたらすとは限らないが、本来の姿を幸せだと思える日本が実現できればそれが一番いいとも思う。
世の中の捻じれが貧困を生み、貧困が犯罪を生む。それは高度成長の時代もいまも、実は同じなのだろう。世の中の環境はどんどん変化していくが、貧困のカタチはいつも同じだ。そこへの視線を忘れた社会は滅ぶ。
この映画がインディーズでも単館系でもなく、ロードショー公開される商業映画でパルムドールを受賞したことの意義はとてつもなく大きかったと思う。世界的な貧困や複雑化する家族の問題から日本の映画が逃げていないことも評価されたんじゃないかと思う。
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