« March 2018 | Main | September 2018 »

2 posts from June 2018

2018.06.10

松田聖子コンサート Merry-go-round2018

Seiko_merrygoround2018昨日6月9日(土)、松田聖子の芸能生活39周年目のコンサートツアー初日を妻と観に行った。

微妙に聖子世代ではない妻に聖子バイブルDVDを見せ、午前中にはradikoタイムフリーで、前日放送された「松田聖子のオールナイトニッポンゴールド」を一緒に聞いて予習した(笑)。

さいたまスーパーアリーナで聖子を見たのは16年ぶり。前回は2002年のジュエリーボックスツアーだった。SAYAKAが初めてステージに立ったあの日だ。その頃はまだブログがなく、オレはホームページで熱く語っていた

その後、2010年の武道館30周年、2014年の武道館プレ35周年と観に行き、今回またさいたまスーパーアリーナへとメリーゴーランドのように(happy01)巡って来た。プレ40周年ともいえる。

聖子はさいたまスーパーアリーナを初日に選ぶことが多い。どうしてだろう。基本的に始めたことを継続するのが好きな性格のようだから、ツアー中の食事はこれ、トレーニングはこう、初日はここ、みたいなルーティーンがあるのかもしれない。イチローを連想させる聖子のストイックさ。

コンサートは新作アルバムの「Merry-go-round」からの新曲と、アコースティックコーナー、往年のヒットメドレーという感じで、もはや大御所の貫禄すら漂う黄金律のステージとなっている。

新作はここ最近の聖子アルバムのなかでも評価が高くなるんじゃないか。もはやシンガーソングライターとなって作詞作曲も聖子がやっているが、アレンジャーさんが聖子ワールドに仕上げてくるのでコンサートのオープニングを飾るいい楽曲が揃っていた。バラードもいいけど、やっぱキラキラサウンドをたくさん聴きたい。

アコースティックコーナーは、ギターがエレアコなだけでバンドが入っているので、かなり幅広く選曲でき、自由度の高いコーナーで毎回楽しい。武道館で見た時はリクエストコーナーになっていて、リクエスト曲を垂れ幕で書いてくる猛者が数多くいて引いたが(coldsweats01)、さすがにアリーナレベルではそうもいかないのだろう。

赤いスイートピーのガラパゴス的な進化は特筆に値する。北朝鮮のマスゲームに匹敵するのではないか。アリーナが真っ赤なお花畑になってしまう。

「赤いスイートピーについては皆さん、プロでいらっしゃるから~」と聖子も舌を巻く風物詩となっている。オフィシャルグッズにも造花の赤いスイートピーがある。改良に改良を重ね、今回専用ケースも開発された(ケースだけの単品売り有り)。カバンから取り出すのも仕舞うのも素早い聖子ファンのお家芸。その進化を確認するのも楽しい。

後半のヒットパレードは何回聴いても飽きない。こちらも年を取ったせいだろう、青い珊瑚礁には年々グッと来てしまう(confident)。

そして聖子のMCは特筆すべきだ。コンサートDVDには残らない部分だけに貴重な語りだが、映像化でここを落とすのはもったいない気もする…。まぁそれを面白がってるぶっちゃけトークだから面白いという面もあるけれど。

昔のフォークソングの歌手には、語りがメインの人がいた(笑)。語りと語りの合間に歌うかのようなステージで客もその語りを楽しみにしてる。聖子のステージには、そんなしゃべりの面白さ、客いじりの面白さもある。初めて聖子のコンサートを見た妻も、聖子のしゃべりにゲラゲラ笑っていた。

heart04

松田聖子の健全さは、ステージへの責任感からめっちゃ感じる。十代でアイドル歌手になりちやほやされて生活が乱れて消えていく少女はたくさんいる。トップアイドルの中にも変なお仲間とつるんで落ちていく人が何人もいた。20代までのトラップはそういうところにあるが、聖子はまったく健全にアイドルを全うした。

アイドルとして堕落しなくても、今度は人気商売特有の問題が待っている。特に女性アイドルの場合は、そこから女優転身だったり、様々な資格を取って本でも書いてみたり、結婚して子どもを産んでママタレになったり、芸能界の居場所を探して模索する時期が来る。ここでも聖子は歌手だった。

アメリカ進出とかバッシングとかいろいろ芸能ゴシップ的にメディアで取り上げられる時期もあったが、本人のなかではきっと歌手という線からはまったくブレてなかったんじゃないだろうか。そしてバッシングをかいくぐった先に圧倒的な女性支持が待っていた。普遍的な愛を歌うバラード群は、働く女性に夢の体現と癒しとをもたらした(気がする)。

昨日のコンサートについてのツイートを観ていると、奥さんが聖子ファンで連れていかれる夫のつぶやきもあった。いまでこそ女子のアイコン的アイドルは成立しているが、80年代に活躍した元女性アイドルでは考えられない。誰も想像できなかったはずだ。そういう意味でも聖子の切り開いてきた地平は唯一無二のパイオニアだったと思う。

芸能史のなかでは、松田聖子こそが美空ひばりの正当な後継者なんじゃないかと思う。時代そのもの。この時代に生まれて松田聖子のコンサートに参加できた幸せ。40年に渡りアリーナを埋め尽くし、会場がみんな歌える歌があり、しゃべりで会場を笑顔に出来る歌姫。

来年は40周年なのでチケットがとりにくい可能性はあるが、もし取れたら来年も行きたい。

この日のさいたまスーパーアリーナはDVD化される。オモシロトークはほぼカットのようだが、聖子が言った「皆さんとの思い出映像」を妻とホームシアターで楽しみたいと思った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2018.06.03

「万引き家族」にボクの心も盗まれた…

Manbiki_kazoku第71回カンヌ映画祭パルムドールを受賞したこの作品を見ようと決めたのは、受賞より少し前、板橋区のイオンシネマでチラシを見つけたときだった。この色彩、構図、ライティング、そしてキャスト。このチラシの訴求力は完璧だった。

その後、音楽を細野晴臣さんが担当していることを知り、日本映画界21年ぶりのカンヌ映画祭大賞を知り、それによって6月2日(土)の先行上映が決まったのを知った。

先行上映を知ったのは、前日の6月1日(金)だった。今日6月3日(日)に妻が友人とランチに行くというので、それならオレは映画でも見るかと映画館のサイトを眺めていたときだった。

二日間だけの先行上映、ドラママニアの妻に「万引き家族は観たい?」と聞くと食い気味でうなずく。それなら先行上映の初回に一緒に行くしかないと、土曜初回の上映を予約したのだった。そしていま、妻はランチに、オレはブログに…というわけだ。

●女優陣が好き過ぎる!

是枝監督の映画に初出演の2名の女優、安藤サクラと松岡茉優。ひとくちメモでも何回か熱い想いを書いた2人の女優だ。

松岡茉優に最初に注目したのは、NHKドラマ「限界集落株式会社」でだった。その時のひとくちメモにこう書いた。

pencil
ちょっとした相槌とか、そういうとこに才能感じる。深津絵里や山口智子に感じたような。ボクの好きになるポイントをついてくる女優っていうか(笑)。

その感覚はいまも変わらず、「万引き家族」でも松岡茉優の魅力が引き出されていたと思う。内面にある愁いを目で語る女優だ。

安藤サクラは、園子音監督「愛のむきだし」が最初だった。その時のひとくちメモでは作品の圧がすごくて(coldsweats02)、安藤サクラについては「顔が好き」としか書いていない。

ただ、安藤サクラを知ったことが名作「百円の恋」の鑑賞につながり、NHKドラマの「ママゴト」を観るきっかけにもなり、安藤サクラ好きが決定的になった。

この二人が共演する、もっといえば樹木希林さんと家族を演じるというだけで見る価値がある。現代の日本映画、そして未来の映画界を豊かにする女優陣であることは間違いない。


●細野晴臣の映画音楽が聴ける!

細野さんの音楽って、ボクの人生に常に伴走し心の中でいつも伴奏つけてくれてた。一筋縄ではいかない音楽家だ。ヒットソングの作り手であることは間違いないが、もっともっと異形の音楽家だ。

映画の劇伴のイメージはあまりないけれど、細野さんの音楽はとても映像的だと思う。ご本人も映画好きだから、映画からインスパイアされて曲を作られることも多いのだと思う。

この映画に音楽を付けるにあたり、映像に仮音を入れないで見せてほしいと言われたそうだ。映像から自分のイメージの音を紡ぎ出す細野さんだから、そのほうがインスピレーションが湧きやすいのだろう。それだけに映像に溶け込んだ細野晴臣の音楽は映画と一体化する。

映画の冒頭からいきなり音楽に惹きこまれた。決して主張するような音ではないのだが、そこには確かに細野晴臣の音楽らしさが漂っていた。

ツイッターでそのことをつぶやいていた時に、こうも書いた。

pencil
細野さんの音楽にある異形感みたいなものがとっても効いてたと思いましたね。

そういうところで私が連想したのは、細野さんの曲ではないですが、新藤兼人監督の「裸の十九才」でした。音楽の捻れと情感の捻じれのシンクロが似てたなぁ。

「裸の十九才」もひとくちメモで書いた名作映画だ。そして犯罪者(永山則夫)が主人公の映画だった。

●家族を考えさせられる!

家族は祖母の年金をあてにして生活し、父は日雇い労働、母はパートタイマー、性風俗で働く娘がいて、小学校に通わせていない男の子には親が万引きを仕込む。祖母も離婚した夫(既に死亡)の家族にカネをせびったりする。

ある意味、とんでもない家族なのだが、現代日本にこの貧困はリアリティがある。もしかすると近代化する以前の日本の貧農生活はこうだったのではないかとも思った。明治維新、戦争、高度経済成長を経て、日本はまた貧困への道に迷い込みつつある。

土着の日本人の姿がこの映画のなかには描かれていて、そのリアリティがヨーロッパでシンパシィを感じられた所以かもしれない。この日本人観は35年前のパルムドール「楢山節考」ともつながっているような気もする。

家族とは不思議なものだ。結婚してから余計にそう思うようになった。ふと妻を見て「この人、他人だったよな」と思うことがある。お互いに同意して婚姻届けを出して夫婦となったけれど、もともとは赤の他人。それなのに愛おしい。

血のつながりが家族なら、親子以外は家族じゃないが、近親相姦は人類を滅亡へ導くタブーであり、人類はリスクを背負ってでも飛躍し、近親者以外と子孫を残すしかない。それでも血のつながりを特に重視する血縁の関係性とは何なのか?それは自己愛の投影でしかないのではないか。そんなことも考えた。

カネだけでつながっている「万引き家族」のもとにやってきた少女への愛が、血のつながりのある少女の家族によるネグレクトなどと対比され、社会が押し付けてくる正義や法律のもとに断罪される。

万引きへの疑問を感じた男の子の行動が、この家族の崩壊をもたらすが、それでもつながっていたいと思う心の問題は、この家族の土着的なつながりに現代日本の社会問題を投影する。

法律だけのつながりの家族と、カネだけのつながりの家族と、どちらかが尊くてどちらかが正しいのか。

本人の生命にとって大切な人間関係を家族と呼ぶ自由がなく、不自由でも法的関係性だけを尊重する家父長制的家族制度の限界を突きつけられている日本社会や政治の現実がある。

以前、「『誘拐』 犯罪者は社会的弱者である」という書評を書いた。倫理の狭間で人間や社会を問うという意味ではドラマや映画にもなった「八日目の蝉」にも心を揺さぶられた。

「万引き家族」で親元に戻った少女が、ふと何かに目を止めたようなしぐさを見せるラストシーン。そこに希望を見出したくなるが、それは実は絶望的な社会のなかでの救いでしかないと気付く。

法的な正しさが幸せをもたらすとは限らないが、本来の姿を幸せだと思える日本が実現できればそれが一番いいとも思う。

世の中の捻じれが貧困を生み、貧困が犯罪を生む。それは高度成長の時代もいまも、実は同じなのだろう。世の中の環境はどんどん変化していくが、貧困のカタチはいつも同じだ。そこへの視線を忘れた社会は滅ぶ。

この映画がインディーズでも単館系でもなく、ロードショー公開される商業映画でパルムドールを受賞したことの意義はとてつもなく大きかったと思う。世界的な貧困や複雑化する家族の問題から日本の映画が逃げていないことも評価されたんじゃないかと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« March 2018 | Main | September 2018 »