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2017/11/23

勤労感謝の日に勤労酷使の世を考える

勤労感謝の日ということで、『経済成長という呪い』(ダニエル・コーエン著・東洋経済新報社刊)を肴に、「アベノミクスのこの世では、本当に勤労者が感謝されているのか?」をテーマに少々書いてみたい。ツイッターネタにしても良かったが140文字じゃ書ききれないと思ったので、久々にブログに書くことにした。かつてのひとくちメモファンにはうれしいはずの()、小賢しいヨタ記事である。

●150年の官僚支配へのクーデターで生まれた安倍政権

安倍晋三によって保守のイメージが大幅に修正された。息するように嘘をつき、身びいきえこひいきのお友達政治をやりながら、反対意見を汚い手段で封じ込め、疑惑にはだんまりを決め込み、寛容さの欠如した部族的ポピュリズムを体現し続ける安倍晋三。まさに歴史修正主義者の面目躍如だ。

何度辞任してもおかしくない安倍だが、内閣府によって官僚の人事権を掌握した権力は絶大だ。辞職覚悟でなければ誰も内閣総理大臣様にモノ申せないシステムを作り上げた。明治以来、150年に渡る官僚政治の日本国はここに崩壊したといえる。システムの変更こそが国家のカタチを変えるのだ。

安倍政権は「革命」という言葉が大好きなエセ保守政治だが、確かにクーデターに等しい制度変更により、官僚の手足を縛り、いまや新しい日本国が誕生している。もちろんその背景には150年続いた官僚支配に対する国民の反発があったわけだが、官僚退治をこんなネトウヨに託してしまった多数派日本人の浅はかさ。政治が生活を変えるという実感を喪失してしまった戦後日本。平和の代償はこうして出現するのか…。歴史が繰り返される所以だ。

そして安倍政権が続けば、憲法を改悪し国民の手足も縛ろうとするだろう。憲法は支配者を縛る呪文だったが、ついにその呪縛から解き放たれた権力が官僚と国民を縛り鞭打つSM政治が始まる。そして安倍とその取り巻きだけがフリーハンドでこの世を謳歌するニッポンが生まれるのだ。

そんな知性と品性の欠片も持ち合わせないこの大首相様の治世で、株価だけが独り歩きしているこの世の中。だが資本主義という概念そのものも修正を余儀なくされている。

●もはや資本主義ではない

新しい保守像は安倍にねつ造されているだけだが、資本主義のほうはもっと深刻だ。こちらもまったく異なる概念になっている。1970年代前半までの資本主義と同じ原理で21世紀の世の中が動いていると思うと大間違いだ。同じ「資本主義」という言葉でくくれない世の中になっている。

それを強欲資本主義とか新自由主義といえば、多少差別化できたような気分になるが、それらが示現出来てしまうもっと基礎的な部分での大きな変化があった。『経済成長という呪い』にそれを指摘している箇所がある。

著者はフランスの経済学の大家なので、その人文系の知性がいたるところに飛び散り、読みものとして面白かった。その割には200頁程度でコンパクトなので読みやすい。現代社会を概観するにはとてもいい。

なかでもアベノミクス批判に通じると思えたのは、「ダブル・バインド〔二重の拘束〕」の章だ。ここにもっとも共感した。

1913年から1973年までフォーディズムに代表される工業資本主義の時代は、(特に米国で)まさに勤労感謝の時代だ。資本家は労働者の勤労意欲を高めるために賃金の上昇を行い、それが生産性の向上につながり、富の再配分を促すという循環を生んでいた。

階級社会ではあっても、あらゆる階級で未来の生活の向上を目指せる資本主義の時代だったといえる。とくに1945年から1975年の黄金の三十年は日本の戦後復興に当てはめても納得が行くだろう(もちろんどんな社会にも闇はあるにせよ)。

そんな資本家と労働者との関係性が、1980年代以降、完全に断絶しはじめる。なぜなら会社そのものが機関投資家のものとなっていくからだ。経営者が賃金制度から抜け出し、自社の株価によって報酬を得るようになった。

従業員の賃金をあげることで経営者自身の賃金も上がるというシステムから、従業員の賃金を出来るだけ削減し、株価を引き上げることで経営者の報酬が上がっていくシステムに大転換してしまった。まさに資本主義が真逆の方向性を目指し始めたわけだ。

それを可能にしたテクノロジーがコンピュータであり、金融であり、グローバリゼーションだったというわけだ。著者はこう書いている。「硬直的だが効果的だったセーフティネットをもつ社会が大切に培ったバランスは砕け散った。企業の労働者を保護する機能は消え失せたのである。

●もはや勤労酷使の世。労働者は保護されない

こうなるともはや勤労感謝ではなく勤労を強要する資本主義となる。従業員にどんな仕打ちをしようとも、目先の株価さえあげることが出来れば自身の報酬も上昇していくのだから、他人の生活など知ったこっちゃない経営者が続出し、首切りが利益目標になっても当然だ。

従業員とは使い捨ての道具であり、蹴落とすための競争相手だ。そのストレスを強いることで働かせるというマネージメント。派遣法改悪、過労死、ブラック企業などに通じる資本主義の闇は、株主資本主義が生み出したともいえる。

そのような労働者の現実の対極には、株高を謳歌する富裕層、富の独り占めを可能にする社会システムや税制、グローバリズムで表に出ないプライベートバンクなどの現実がある。人命よりも私利私欲の世の中が進行中なわけで、粉飾の株高に湧くアベノミクスの目指す社会の枠組みがとてもよくわかる。

それはまさに自分の足を食べるタコのような企業経営に思えるが、経営者をコントロールする投資家は、投資先を変更するだけで生き残ることが可能だ。会社はいくらでもある。つくることも出来る。奪うこともできる。これは単なるゲームなのだ。人命など吹けば飛ぶようなコマなのだ。次々と会社をぶっ壊しながら流れ歩く経営者が日本にもいるが、そういう輩は会社がなくなることを屁ともおもっていないどころか、それが目的なのではないかとすら思える。

●ダブル・バインドが民主主義も破壊する

民主主義は独裁主義よりもセーフティに思えてきたが、大勢を占める労働者が(無意識に)セーフティネットを破壊された労働を強いられ、過度でエゴ丸出しの競争やストレスのなかで生活していると、民意そのものがあらぬ方向を向いてしまうリスクも、とてつもなく高いのではないだろうか。

経済危機がポピュリズムや差別主義を引き起こすことは、『経済成長という呪い』のダブル・バインドの章にも書かれていたが、現代日本はまさにその真っ只中にあり、その中心に安倍晋三という現時点でもっとも危険な男を据えてしまったわけだ。時代が彼を選んだのかもしれない、と書くと無責任すぎるか。

現時点でというのは、今後この安倍的な政治が継続した場合、安倍の劣化版が出てくる余地が充分にあるからだ。目ざとい詐欺師がここに目をつけて政治家を目指す可能性もあるだろう。すでに詐欺師のような政治家はひとりやふたりではないだろう。

民意はもはや真っ当な政治を選ぶ余裕がなくなっているように思う。強いリーダーによる性急な結果を求め、すぐに結果が出なければ徹底的にバッシングする。そういう政治のなかでポピュリズムを頼みに舵をとる困難さが安易な戦争を求める。民意が戦争を始めさせる。そんな流れを止める方法がいまのところなく、繰り返された人類の愚行とともに限界を感じさせる。

ダブル・バインドと聞くといつも祖母のことを思い出す。戦時中、大人やいじめっ子に口答えすると、両耳をつまんで身体を持ち上げられ「富士山が見えるか!」と問われたそうだ。見えないというと「まだ見えないか!」と叱責される。耳がちぎれそうに痛いので「見えます!」と答えれば「嘘をつくのか!」と叱責されるのだ。いま、誰もがそんな袋小路の世界で生きてる。


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