映画「ラ・ラ・ランド」が描く“ベタ”な人生の素晴しい機微
封切られたばかりの映画「LA LA LAND」を観てきた。アカデミー賞14部門ノミネートで話題の作品。往年の映画好き、音楽好きにはたまらないオマージュがちりばめられた映画だったような気がする。
右隣の席に白髪のお婆さんがひとりで見に来ていて、ずっとハミングしてた。それをいびきと感じた観客もいたようだが、あれは歌っていたんだ。確かに耳障りなハミングだったが、ご本人は歌っていると意識せずにハミングしていたようだった。気にはなったが注意できなかった…。
さて、「ラ・ラ・ランド」だ。音楽もプロットも、かなり“ベタ”なのだが、それがたまらなくいい。ミュージカルというより、インド映画へのオマージュのような感覚を持った。オープニングからしてインド映画っぽい()。
エンドクレジットの挿入歌に「JAPANESE FOLK SONG」とあり、滝廉太郎の名前があった。どの曲が滝廉太郎だったのかよく分からなかったけれど、日本人好みの楽曲群が満載だったことは確かだと思う。
「スターの街」なんかもそんな気がした。日本人にとっては実にフォーキーなコード進行だったように思う(フリージャズにそういう側面があるんだろうか)。そのセンチメンタルな響きがグローバルに受け入れられてるんだと思うとちょっとうれしい。外国映画なんだけど()
この映画をハッピーエンドというのは語弊があるだろうか。おそらく人生経験の長さや深さによって感想は異なると思う。もし私が20代前半で社会人になりたてでこの映画を見たとしたら、ハッピーエンドだとは書かない気がする。だけど、いまの私にはこの映画はハッピーエンドに思える。それだけ人間が描けている映画だったとも思える。
夢をかなえる場所としての映画産業や音楽産業。その裏側にある過酷な競争。そしてカネ儲けの誘惑。何が成功で何が挫折なのか、わからなくなる。でも、実はみんなある程度の年齢になると痛いほどわかってるこの感覚。夢と生活のはざまに生きる人間の在り方は永遠のテーマであり、そして“ベタ”なテーマでもある。だけど真正面から描かれると、やはりグッとくる。
オーディションに落ちまくるミア(エマ・ストーン)が、観客の少ない場末の劇場で一人芝居をやって、数少ない観客の帰り際の感想を聞いてしまうところがいい。脳内BGMは「浅草キッド」だね。その数少ない観客のなかに、キャスティング・プロデューサーがいたというのも“ベタ”だけど、夢をかなえる人の一面の真実を描いてた。行動する人だけが得ることのできるチャンスをミアがギリギリつかんだ瞬間。ある意味シンデレラストーリーだけど、その夢によって失ったものがある。
セブ(ライアン・ゴズリング)の夢のかなえ方もまた、多くの共感を呼ぶんじゃないだろうか。ビジネスという割り切りでビッグマネーを手に入れていく音楽家セバスチャン。ミアとの共通の夢を実現するための手段が、ミアとの共通の夢を遠ざける。葛藤にもがきながら、ひとつの夢を実現し、そしてセブもその夢の実現によっておおきなものを失った。こっちは「22才の別れ」だな(脳内BGM)。
夢のカタチはひとつじゃないし、夢の実現方法もひとつじゃない。二人で叶えようとした夢でも、その道のりまで常に同じ時間軸にあるとは限らない。ミアとセブもまさにそうだ。実現しようとした夢までの距離もかかる時間も違ってた。
だけどある瞬間に出会ってしまった。おそらくそこで出会わなければ、お互いの夢への道のりも違ったものになっただろうけれど、二人が失った片方の夢のおかげで、もうひとつの夢が実現したのかもしれない。なにが正しいのかなんて誰にも分からない。出会ってしまったことだけが真実なんだ。
かなった夢の裏側にいくつもの失った夢がある…。それでもなにかを選択し成し遂げた先にあるひとつの人生を受け入れることが出来れば、それはハッピーな人生なんじゃないかと思う。二人にとってのバットエンドだったとしても。人生の選択にはこういうときが誰にもあるもんだよね…。
これらの“ベタ”な人生の選択をミュージカル仕立てで見せようとしたデイミアン・チャゼル監督。この物語を学生時代に構想していたというが老成してるな(笑)。
ミュージカルとジャズとオリエンタルな響きとが絶妙にブレンドされた面白くて切ない映画だった。でもそれって“映画”って言葉がもつメタファーのど真ん中、まさに“ベタ”な映画のど真ん中だろ。大人がキュンと来る映画です。同じ夢を見ていた仲間や恋人のことをちょっと思い出してセンチメンタルな気分になってみよう。それが映画の醍醐味じゃないか。
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