google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2016年12月

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2016年12月の3件の記事

2016/12/29

ひとくちメモ的今年の漢字で振り返る2016年

Ten_374驚くべきことに、このひとくちメモ的今年の漢字で振り返るシリーズが3年目を迎えた。これもひとえに応援してくださるファンの皆さまのおかげではまったくなく、ネタを考えるのが面倒な年末の慌ただしさの露呈だ。

過去の漢字を振り返っておくと、2014年は「捨」2015年は「盗」だった。ならべるとシャトーだ。BGMはブルーシャトー。どっちかと言えばネガティブと取られがちな漢字だったが、いま振り返ると気持ち的にはそればかりでもなかった。ゴミを捨ててスッキリ、バイクも盗まれてスッキリ…。降りていく生き方に共感する身にはどちらの漢字も決して100%ネガティブではない気がした。

そして今年、選んだ漢字は「転」だ。今年も漢字画像は漢字辞典オンラインさんから。

「転」という漢字、訓読みは「ころぶ」ということで、直近では全日本フィギュアスケートの女子フリーで樋口新葉が転んで200点に届かず残念だった。キス&クライで「あー!あと一点もない!」と悔しがる声がテレビマイクに拾われていた。そんなお転婆な15歳だが、2位で世界選手権の切符を手にした。キムヨナの流れを汲むスピードと安定の樋口新葉は今後も大注目だ。

お転婆も「転」だからついでに書いちゃうと、昔からお転婆な子が好きだった()。だからフィギュアでも樋口以外だとラジオノワが好きだったが、成長とともにおしとやかになり演技も少し大人しくなってしまったのが残念だ。

●アレッポ、沖縄、そして日本。絶望からの転換を

世の中に目を向けると、今年明らかに世界は転換した。英国のEU離脱、そしてドナルド・トランプ氏が米大統領選挙でヒラリー・クリントンに勝利。このふたつは2016年に専門家の予測や予想が大外れした2大椿事だった。

しかし歴史が転換するとき、思いがけない事件がきっかけになることもまた歴史が証明している。

中東情勢も収拾不能ではないかと絶望的になる。シリアのアレッポ虐殺の残した禍根はそうそう消え去ることはないだろう。難民を生み出す構造の転換がなければ、世界各国で台頭している排他的、右翼的な空気や政治がさらに増長増幅し憎しみの連鎖は止まらない。そんな気持ちのツイートも書いていた。


2016年12月03日(土)
ポップンポール@hitokuchimemo
世界中の極右が集まって難民を出さない世の中を造り出すなら素晴らしいと思うが、そこを放置して受け入れ拒否の内向きポピュリズムばかりなのが右翼という思想の限界で、グローバル化した地球にはいまひとつマッチしてない。グローバル化した問題を解決可能な右翼思想が出てきても良さそうなものだが。
posted at 17:40:25

沖縄では高江にヘリパッド工事問題、辺野古埋め立て問題、オスプレイ墜落事故、こちらはまったく転回せず、一直線に米国占領下の政治が続く。ここでは「転」を目指す市民の力がますます重要になっていく。目取真俊さんが来訪された浦和での講演会が紛糾したのも、沖縄と日本との距離を感じた事件だった。その日のツイートもあらためて残しておきたい。


2016年06月05日(日)
ポップンポール@hitokuchimemo
目取真俊氏の講演会@浦和から帰宅。つまらない質問者に烈火のごとく怒った目取真氏。あの質問者に限らず質問と称して自説を延々と述べただけの全質問者にボクは苛立ちを覚えた。いわゆるサヨクの悪い面が全部見えた会だったけれど、沖縄が戦場だという実感を首都圏で持つことの絶望的な難しさもある。
posted at 23:06:30

ポップンポール@hitokuchimemo
目取真俊氏の思いはシンプルだ。数十人でゲート前に座り込みをしても排除されるが千人で座れば止められる。そこに座る人か座らない人か。それを問うために講演をされていた。それだけを皆迫られてると言ってもいい。沖縄の基地で座らない人間には何も求めていなかった。とても厳しいがそれが戦闘だ。
posted at 23:12:58

イデオロギーの限界はもうずっと前から言われているだろうが、世界が劇的に転換しようとしているとき、つまり2016年以降の世界を俯瞰してみるとき、視野の狭い保守は右翼に転じ、意固地な頭の反体制サヨクも暗躍しはじめる。きな臭さが世の中を覆う。必要悪だとは思わない。転換した社会が少なくとも、より良い社会になるためにどう動くべきかを両者も含めた地球人全体で考えるときが来てる。

●個人的には転機の年だったか?

私的な方面では、いろいろ転機といえそうなこともあった。書けること、書けないこと含めて…。出会いの数だけ別れもあるのが人生だ。だって最後には必ず死という別れが待っているのだから。だけど出来れば別れは人生の後回しにして、単年度では出来るだけ出会いの数を多くしたいものだ。

今年はうれしい出会いがいくつかあった。ヒトとの出会いもそうだけど、芸術面で今年は思いのほか美術館や美術系の作品に出会う機会が多かった。川瀬巴水の新版画との運命的な出会いに始まり、夏の瀬戸内国際芸術祭2016ホキ美術館での超絶写実絵画との出会い、そしてダリ展より正直面白かったDOMANI明日展、12月には三島のクレマチスの丘にあるビュッフェ美術館も訪問した。

また足利市で見た平原綾香さんのコンサートについて書いていたら、そのスタッフさんから平原さん本人に知らせてもらえて、ご本人からツイッターでコメントをもらえたのもうれしいニュースだった。

読み直してみると(最近はツイッターで満足してブログを書く回数も減ってるから読み直しが楽!)、今年の最初のブログは富士山の写真で幕を開けた。暖冬で雪の少ない富士だった。そして今年の終わり、ひとつ前のブログ記事は雪を纏った美しい富士の姿を掲載できた。同じ富士山の姿も環境でこれだけ変化する。

来年も心機一転、すべてが良い方向に転がっていけばいいが。転がる石のように=ライク・ア・ローリング・ストーン、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した年でもあったな。時代は変わる、か…。生生流転。

なにはともあれ、酉年を飛翔の年に致しましょう。

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2016/12/23

富士山、クレマチスの丘、詩

Mt_fuji_20161217

15日の夜から静岡県三島市に3泊した。平日は仕事で週末は観光。連日いい天気で富士山がとても美しかった。

三島から見る富士はとても大きく、夕方にはまさに赤富士となり、多くの文学者が富士の山に喚起されて来たのも分かる気がする。そしてこれからも富士が多くの芸術を生んでいくような気もする。

私は富士が大好きだが、一歩たりとも登りたいとは思わない()。富士は遠くに眺めてこそ美しい。

Vangi_museum_20161217●クレマチスの丘

一番おもしろかったのは仕事だったのだが、それは書けない。週末の観光ではクレマチスの丘を初めて訪問した。三島駅から9:40発の無料シャトルバスで約20分。道中にも富士が見える。

クレマチスの丘は静かで清潔で落ち着く空間だった。朝いちばんだったこともあるだろうが、とても贅沢な時間だった。

まず、ヴァンジ彫刻庭園美術館とIZU PHOTO MUSEUM の2館共通チケットを購入した。共通チケットはいろんな組み合わせが出来て便利だった。

ヨヘン・レンペルトの写真展「せかいをさがしに」は地味な企画展だったが、生物学に裏打ちされた写真群は面白かった。

ジュリアーノ・ヴァンジの彫刻は独特だった。キュビズム的に人体を具象化しようとしているのか、デッサンの崩れたような人物像が多い。しかし見る角度によって表情がまったく異なるのが面白い。

人間の多面性をひとつの作品で表現しようともがいてる感じだ。展示館内の照明や配置はヴァンジ本人がこだわりを持って設置しているそうで、確かにそこに何らかの意図を感じさせる配置だった。

庭園にはユーモラスな彫刻がいくつかあった。右上の写真はガラス面に鼻をくっつけている男(タイトルは違うと思う)を横から撮った。最初は誰かに見られてるのかと思った。そういうドッキリ彫刻がいくつかあった。

壁をよじのぼる男も面白かった。ちゃんとネクタイをして壁をよじ登っていた…。この男の顔も右と左とでまったく別人になる。

Vangi_museum_01_20161217

●ベルナール・ビュフェ美術館

Buffet_museum_20161217クレマチスの丘の真打は、ベルナール・ビュフェ美術館だろう。この時期は「ビュフェと1940-50年代 不条理に対峙する絵画」展というコレクション企画展と、「ロベール・ドアノーと時代の肖像 - 喜びは永遠に残る」展が同時開催中だった。

ビュフェの絵画は一度見ればすぐにビュフェとわかるような強烈な個性、あるいはトーンを持つ。ビュフェのサインはもはやサインの域を超えて、それ自体が絵画のデザインの一部、絵によっては主役ではないかとも思えるような大きなサインだ。美術館の壁に大きく描かれているのも、そのサインだ。売れっ子だったんだろう。このサインがあるだけで売れた時代があったんじゃないだろうか。

ロベール・ドアノーの写真展も面白かった。有名人のポートレートは単なる肖像ではなく遊び心がある。また街で捉えた一瞬のおもしろスナップやおもしろ構図写真の数々は、梅佳代に通じる写真芸術のひとつの潮流にも思える。素直に人間って面白い、写真って面白いと思える。ポートレートにしろスナップにしろ、やはり撮っておくべきだと思った。

またドアノーが惚れ込んだ小説家ジャン・ジオノへのオマージュとしての連作写真「ある羊飼いの物語」も実にいい写真です。羊飼いの大移動に同行して撮った数々の写真は、ひとつの時代のポートレートになっていました。

不満だったのは、絵はがきが少なかったこと。ドアノーの写真は数枚購入しましたが、ビュフェのほうは買いたい作品がありませんでした。また、ドアノーの図録もせめて展示作品はすべて載せて欲しかった。「門出の歌」が欲しかった(笑)。

昼過ぎまでクレマチスの丘を歩き回り、またシャトルバスに乗って三島駅に戻った。美味しいうなぎ屋があるというので南口に回って、桜家といううなぎ屋さんでうなぎが3枚乗ったうな重を。遅い昼食となりこの日はホテルに戻ってぐっすり寝た。

●谷川俊太郎展

Tanikawa_shuntarou_20161218

翌朝、帰宅前に駅前にある「大岡信ことば館」で谷川俊太郎展を鑑賞した。Z会の建物内にある。美術館でもなく博物館でもない。ことばを展示する空間。しかしお勉強感覚でもなく、ことばをビジュアルに展示しようという意欲があって好みの展示空間だった。

先日のDOMANI明日展のときに感じた、情報社会におけるアートとことばのコラボレーション感覚をここでも強く感じた。こっちはことばがメインだけど、谷川俊太郎さんの詩や詞はとても五感を刺激する。

谷川さん自身の朗読に耳を傾ける(文字通り耳を傾けて聞く)展示が4か所あった。寝かせたスピーカから筒が伸びており、その先に蓋がしてある。蓋を取って耳を傾けると、その筒から谷川俊太郎さんの声で詩の朗読が聞こえてくるのだ。

谷川俊太郎さん、役者だね。ポエトリーリーディングの抑揚に惹き込まれる。素晴しい詩を書けても、朗読は上手くない詩人もたくさんいると思う。坂本龍一の歌がお世辞にも上手いといえないように()。でも谷川さんの朗読は実にいい。シンガーソングライターならぬリーダーポエムライターだ。絵本と詩のコラボレーションも多い谷川俊太郎さん。様々なメディアと絶妙にマッチする。

谷川さんのお父さん(哲学者の故・谷川徹三氏)から子ども時代の俊太郎君に宛てたハガキも展示されていて、そのことば感覚に驚いた。この父にしてこの子ありなんだなぁ。

ボクは中島みゆきファンで、中島みゆきさんを通して谷川俊太郎さんの詩に出会った。中学生の頃。詩集を読み漁るようなタイプの人間ではなかったが、こうして展示された空間でひとつひとつの詩と向き合うのは楽しかった。

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2016/12/11

ダリ展からDOMANI明日展へ

「真の画家は、空っぽの砂漠を前にしても、カンヴァスを途方もない場面で満たすことができるはずである」という作品の絵はがきはなかったがトートバックがあったので購入し図録を入れて帰宅した。12月10日(土)は朝から風が強かったが天気は良く、クリーニングを出してから国立新美術館に向かった。開催中の「ダリ展」が12日までなので、開催中最後の週末だった。着いたのは11:40頃ですでに行列は20分待ち。その後70分待ちにまで行列は膨れ上がっていったらしい。その様子をアニメーション化したくなるほどの大人気だ。行列を写真に撮っている外国人もいた。

ダリ展に来たのは2回目。最初は1987年、山口県下関市下関市立美術館の「イメージの魔術師ダリの世界」だった。「自分の仕事の中で、絵画は氷山の一角にすぎない」とダリ本人も語っており、画家でなく著述家、挿絵家としてのダリに焦点を当てたマニアックな展覧会だった。そしてこの当時、ダリはまだ存命中だった。1984年の火災で全身火傷を負ったことがニュースになった。その3年後のダリ展だった。そして1989年にダリは永眠した。

29年後に観た今回のダリ展では、ダリという捉えどころのない多彩なタレントを、時代ごと、ジャンルごとに整理し、多角的に捉えた展示だったと思う。

ボクにとってサルバドール・ダリというタレントをどのように評価するかはとても難しい。ダリに出会ってからこちらも年を取って、若干芸術に対して保守的にもなってきた。ボクが10代の頃、自らシュルレアリストを気取っていた。ダリやデュシャンやマン・レイの影響だったが、それを恥ずかしくもほほえましく思い出す。胎児の顔だけダリになっているダリ・ベイビーという作品を作ったことがある

ダリの初期の作品は時代背景もあって印象派からフォービズム(野獣派)の影響を受けているようだ。そこからキュビズム、シュルレアリスムへと当時の現代アートともいえるような流行に乗った作品を描いていた。

画家ダリはシュルレアリストとして位置づけるのが一番しっくりくるが、それは作品の完成度というか、もっとも脂の乗っていた時期がたまたまシュルレアリスムの時代だっただけなんじゃないかという気がする。

細い指先、光沢指向、透明指向、引出し、蟻、鍵と鍵穴、時計、ピアノ、言葉、様々なダリの断片が波状攻撃のように繰り出され自由自在に配置される。それはいずれ絵画の世界を飛び出し、新しいメディアに乗って大衆に突き刺さる。そしてダリ自身がメディアのなかで確信犯的にキャラクターとして確立し、それが作品の評価にもフィードバックされる。

コマーシャルな世の中になり、マルチタレントのはしりのようなダリの誕生だが、1989年に永眠してなお、2016年にこれだけの人々を呼び込むパワーを持ってる。特に日本ではマルチな才能が受け入れられやすいのかもしれない。

●DOMANI 明日展

ダリ展から出た後に、同じ国立新美術館で開催されている「DIMANI 明日展」を観に行った。この日が初日だった。今年は第19回というDOMANI展だが、見に来たのは初めて。ダリ展がなければ出会っていなかったが、今後は毎年でも見に来たいかも。

この展覧会は文化庁新進芸術家海外研修制度の成果を発表する場だ。現代アートの最前線に登場してくる未来のアーティスト発掘の場であり、その作品をまとめて鑑賞できる。

海外研修制度についてはホキ美術館の写実画でもいくつか気になっている絵画もあったりして知ってはいたが、この展覧会の図録を読み、1967年からこの制度が続いているというのに驚いた。また文化庁のメディア芸術祭との相関関係もわかった。

ダリが広告を利用して手広く活動分野を広げてきたマルチタレントのはしりだとすれば、もはや時代は誰もがあらゆる素材や機材を用いて表現活動を行うことが出来、何を使ってどう表現しても受容される世の中に“進化”した。

それだけに新奇性=現代アートという等式はないと言っていいだろう。観客は驚きのその先を求めてくる。それは鑑賞する側の“深化”であり、創造する側には酷な世の中かもしれない。だが、そこに言葉ありきということもまたダリは教えてくれていた。

言葉によって作品世界が深まる。タイトル、解説、作品のなかの文字そのもの、言葉そのものがアートにとって重要な意味を持つ。ピュアな作品だけで鑑賞が終わらないのも情報化社会らしい。もちろん作品だけから感じるものだけを鑑賞する自由も担保されている。

作者がことばによって作品を(あるいは作品の一部として)語り、その情報のうえに作品を見る。その循環が作品を豊かにし、鑑賞者の感覚も育成されていくようだ。

13名の芸術家の様々な作品があったが、3つの映像作品がとても印象に残った。南隆雄さんの「Medi」(2016)は6つの映像が大きな縦長パネル6枚に映し出されている。相互にゆるく繋がりながら、青や黄色の原色で加工された風景を映し出す。映写機が90度回転して縦に設置され、6枚の画像を縦にゆっくり流していく。とても落ち着く。

平川祐樹さんの「Vanished Tree - Teufelsberg」(2015)というビデオ・インスタレーションもとても良かった。木の切り株を真上から撮影したものと、樹木がそよぐ真上の空を撮影したものを天地に配置してある。モノクロ映像だ。切り株をじっと見ていると、時たま風が吹いて木くずが動いたり、虫が動いたりする。10分ループ作品とのことだったが永遠の時間を感じる作品。時間とはただ循環しているものなのかもしれない。

折笠良さんの「ペンタゴン」はクレイアニメーションなのだが、5人の作家がそれぞれ1つのテーブルの上でクレイアニメ作品の粘土をこねていて、カメラがそれぞれの作品にフォーカスすると、その作品だけがアニメーションとして動き出し、他の粘土や背景の人物などは風景(雑情報)となる。その移り変わりが面白い。また壁一面に映写されていた「水準原点」もすごい作品だった。怒涛の粘土の波のなかに刻まれていく文字、言葉。圧倒された。

これらの作品だけでなく、静的な作品も実に多彩で面白かったのだが、そういう作品はネットで画を見ることが出来るから、ここでは動的な作品について書いてみたかった。

ダリ展から始まり、現代アートの歴史を辿ってからのDOMANI明日展は、ボクにとっては地続きだった。未来に向けてアートシーンはいまも少しずつ進化しているんだろう。終わることなく。

DOMANI展の出口の売店に来年が酉年なのにちなんで、鳥の落書きボードがあり、観客がマジックでとり・鳥・酉の文字や絵を描いて完成させるというコーナーがあった。初日だったのでまだ余白が多かった。せっかくだから何か書こうと思い、右側の鳥の背中のうえに「申+1」と書いて帰ったら、DOMANI展長さんがツイッターで紹介してくれた。ぜひ売店でぼくの作品もご鑑賞ください()。

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