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6 posts from May 2015

2015.05.30

「心がポキッとね」を岡田ファンミドラマと云ってみる

CXのドラマ「心がポキッとね」は第2話から見始めた。いまどき珍しい(しかし普通じゃない)ホームドラマだなと思いつつ見ていて、第4話のときに岡田惠和の脚本だと気付いた。そうなるともう岡田ドラマというスイッチが入ってしまうから、これから書く内容はいわゆる「評論家の受けがいい」的な凡庸な批判の矛先のような話にはなる(笑)。

ついでに言っとくとその凡庸な批判をしている桧山珠美が日刊ゲンダイに書いている部分そのものがボクにとっては面白さの一部でもあるので平行線だ。もっともこっちは昭和のドラマニアなので、ゲンダイ人に文句を言っても仕方がないが。

最近は昔ほど先に情報を入れることもなく、知り合いの女性陣から面白いドラマ情報を仕入れて途中から見始めるパターンも多い。面白ければオンデマンドで初めから見直すことも出来る時代だし。ありがたいありがたい。ただ、このドラマは確かに昨今の主婦層にはあまり受けていないようだ(coldsweats01)。

理由はいろいろあるが、一言でいえばウザくてまどろっこしいらしい。どぎつい不倫ドロドロのドラマのほうが受けがいい。マンガ的なドタバタやメリハリのあるわかりやすさが求められているのかも。岡田脚本の持つ変化球なホームドラマの空気感にはどうにも馴染めないのかもしれない。食べたことのないちょっと癖のある外国料理を口にしたような気分なのかも。

キャストとホームドラマのアンマッチも、面白がるにはマニアな視点が必要で、一般視聴者はそういうところを求めていないという批判は当たっているとは思う。視聴者はとにかく直球ど真ん中を求めているということかもしれない。

ただそればかりになってしまうと、いい時はいいがすぐに飽きられる。ドラマが消費財のようになる。それでいいという考え方もあるだろう。テレビはスポンサーのものだし広告でしかないと考えれば。しかしあふれかえる広告のなかにドラマという自由な異空間が挿入されると考えたとき、変化球を投げる岡田惠和の脚本が高評価を得るのは自然な流れだと思う。実際に面白いのだから。

またドラマが話題性ばかりに引きずられて語られるのも個人的にはウンザリだ。それはまさにコマーシャルベースなあり方でしかドラマが語られていない。視聴率を取るために話題性を煽るテレビ局の姿勢も仕方がないけれど、それはそれこれはこれ。そういう部分だけで評価するならドラマである必然性がない。

●岡田ワールドの方程式に当てはめてみる

岡田さんは脚本を書くときハコ書きをしないと以前エッセイに書かれていた。とても驚いたので覚えているのだがいまでもそうなのかは不明だ。ハコ書きというのは連続ドラマの展開や構造を事前に分割して、各回の盛り上がりや次週への期待感を煽るためのテクニックだといえる。発想法のKJ法で使われるカードのようなものだと思う。

いくらストーリーが面白くても連続ドラマは長丁場だから飽きさせない工夫が必要だ。来週も見たくなる終わり方、1話正味50分のなかでCMの位置も考えながら見せ場を作り展開させる。そんな必要性からハコ書きが生み出されたんだと思う。ハコ書きをする脚本家のほうが多いのかどうかは知らないが、よく練られて毎回面白いドラマはきっとハコ書きがされてるんじゃないか。

岡田脚本がかったるいとすれば、それは全10話前後の全体としてのストーリーとは別のハコ毎の展開に刺激が少ないということかもしれない。NHKドラマと岡田脚本の相性がいいのは、CMがないとか視聴者層が刺激を求めてないなどの要素があるかもしれない。

岡田脚本の"お約束"とまでいうと型にはめてしまうようで申し訳ないが、岡田ワールドが好むシチュエーションについて前に書いた。そのときのキーワードは3つ。仲良し3人組、道草、共同生活だった。

これを「心がポキッとね」に当てはめてみると、まず共同生活がピタッと当てはまる。それもとんでもない設定だ。別れた妻とその恋人と同じ屋根の下で若い女と同居。幸せなのか不幸なのかさっぱりわからないけどそこが岡田脚本の面白いところだ。

しかしリアリティはあまりない。このリアリティのなさにリアリティを持たせる(説得力を持たせる)ことへのあくなき挑戦を楽しむのも岡田脚本ドラマの醍醐味かもしれない。「さよなら私」でも「泣くな、はらちゃん」でも、そこが楽しめるかどうかの分岐点だったように思う。

山口智子について私は2004年(!)に「山口智子のナチュラルさ」のなかで股の演技を絶賛したことがあるが、またまた股がいい(笑)。それを意識してか共演(競演)の水原希子も股女優だ。その開きっぷりが一般視聴者(女性)の反感を買う部分でもあるのか?

静(山口)とみやこ(水原)の関係性がこの後どう変化していくのか。みやこのストーカー牧野江里子(山下リオ)と合わせてキーワードのひとつ仲良し3人組が完成するのかという見方もなくはない(オレだけでしょうが)。

女性陣に対して藤木直人と阿部サダヲの煮え切らなさはドラマの展開をまどろっこしくしている元凶だ(笑)。藤木演じる大竹心のリアリティのなさは異次元だ。その100%ピュアな人間が家具店のオーナーをやっているのも違和感だし、そこで働く春太(阿部サダヲ)のモテぶりも状況も何もかもが「ありえねぇ!」と叫びたくなる。

だがそこで叫んでチャンネルを替えてしまうと岡田ドラマについていくことは永遠に出来ない。叫んだ後にドラマは始まるのだ。現実世界ではもちろんドラマの枠で考えても有り得ない設定をなんだか幸せそうな雰囲気に包んでコメディタッチにしてしまう。

この普通じゃない空気感が一般的に受け入れられることはないのかもしれない。そういう意味ではこのドラマは岡田ファンのためのファンミーティング的ドラマかもしれない。内輪ウケとの誹りも受けよう。しかしこれはある種の思想である。ドラマは消費財じゃなく作品なのだという思想なのであってそこを個性だと受け取って楽しめる人が増えることを目指してほしい。

もうひとつのキーワードの道草はあちこちに垣間見られる。みんなで海までドライブしたりするのもそうだったが、前回放送のなかでみやこがおじいちゃんの廃屋を訪れたくだりはBGMも含めてまさに岡田脚本ドラマらしい運びだった。そういう細かい部分は視聴率とかコマーシャルとはほとんど絡まないシーンで本質からは外れている。だからこそ道草なのだが。ドラマのディテールにこだわればこだわるほど岡田脚本は面白くなっていく。

道草といえば、メンタル相談所の存在も受け取り方は様々かもしれない。あんなに知り合い同士が同じメンタルクリニックに通っている図は現実社会では余計に不安になるシチュエーションだろう。単なる聞き役の白神医師はまさに“神”のような佇まいで教会で懺悔を聞いているかのように見える。最後になにかしゃべるのかどうか。ノッポさん的興味をそそる。そんなドラマの楽しみ方は邪道だけども(笑)。

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追記:ひとつ書き忘れていた。忘れたら悔しいから書いて置こう。岡田ドラマのキーワードにはもうひとつ「ピュアな男」を入れてみたい。基本女優にしか目がいかない私なので見落としていたが(catface)、「泣くな、はらちゃん」のTOKIO長瀬も今回の藤木直人も異次元すぎるピュアな男だ。

このリアリティのなさは彼らのファン以外の女性視聴者から敬遠されるところかもしれない。こんなにピュアな人と恋に堕ちたいと思うピュアな女性はいまどきテレビドラマを見ない(coldsweats02)。こんな男いるかよっ!と悪態をつきながらひとり酒飲んで見てるのだ(知らないが)。いやもうその非現実を受け入れられず物語に入って行けずチャンネルを替えてしまう。

リアリティのなさそのものでいえば人気の堺雅人のようなキャラ立ちした主人公もいるが、そういう激しさは刺激につながるので受け入れられやすい。ピュアという静謐な感情を男に求めていないのがテレビドラマを見る一般女性層なのだ(知らないが2)。

やさぐれた女性層の好むドラマのほうが視聴率が取れる。しかし女優は嫌われてはならないし、視聴者を映したかのようなやさぐれ感への共感などはもちろんなく、現実を映せば反発を喰らう。だからといって男を美化しすぎるのは更によくない。ちょい悪くらいがコマーシャル的にもちょうどよく、おそらくテレビの直球ど真ん中にあるのではないだろうか。男は興味ないのであまり語る機会がないけれどそんな気がした。もちろんそういうドラマをオレは見ないが。

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2015.05.24

戦後70年目にしてポツダム宣言否定首相を生んだ日本

今年は戦後(第二次世界大戦後)70年だ。終戦の年に生まれた子どもが70歳を迎えるわけだ。戦争の記憶は確実に失われていく。

20世紀は映像の世紀とも言われメディアが発達した。NHKのドキュメンタリー『映像の世紀』は戦争の世紀とも言われる20世紀を映した記録として素晴らしい作品になっている。DVD-BOXは高価だがNHKオンデマンドで視聴することも可能だ。

しかし映像で見る戦争と実感としての戦争とには、どうやっても埋めることの出来ない物理的・精神的な痛みに乖離があるだろう。どれほど悲惨な体験を自分がし、また相手にもさせたという想像力は急速に廃れてきている。メディアも技術は進歩し続けているが報道姿勢(ジャーナリズム)のほうは明らかに後退している。

日本はこの70年間戦争で兵隊を殺していない(自軍も敵軍も)。日本国憲法が他国との戦争を放棄しているからだ。しかし民間人では安倍首相の不用意な演説をトリガーとして2名の民間人が自称イスラム国によって殺害された。今年の1月のことだ。

いま日本は急速な右傾化が進行中だ。その中心に安倍晋三がいる。しかし安倍は右翼の大物ではなく単なる神輿だ。ポツダム宣言をつまびらかに読んでいないと告白した。戦後レジームからの脱却をことあるごとに吹聴してきた本人が、その起点となったポツダム宣言について何もしゃべれないのだ。戦後70年談話を出そうという年にである。

日本は戦後70年の苦難と繁栄の過程でポツダム宣言について発言もできない総理大臣を生んでしまった。これを究極の平和ボケと言ってもいいかもしれない。しかしそんな首相が日本国憲法を改悪し戦争の出来る国にしようとしている。TPPを実現させ日本を強欲資本主義の草刈り場にしようとしている。格差拡大確定社会を生み出そうとしている。沖縄との対話を無視し米軍基地の沖縄県内移転にまい進している。メディアへの圧力を続け報道自粛に追い込んでいる。

これらすべてが米国追従路線のもとに進められているのだ。ポツダム宣言を日本に認めさせた米国に気に入られるためにやっている。安倍晋三はアメリカの道化を演じているわけだ。そのストレスが右翼的言動として表出しているのかもしれない。矛盾のかたまりといえる「親米右翼」であるためには、ここまで馬鹿にならなければ精神が持たないのだろう。

そんな人間がまともな独立国の総理大臣になることは通常ありえない。日本が現在もなお米国の占領下にあるからこそ可能なのだ。右翼的発言もアメリカの庇護のもと発言の自由を謳歌しているだけである。アメリカが右と言ったら右を向く人形でいれば何を言っても概ね許される。安倍の意向でNHK会長についた籾井と安倍との関係はまさに日本政府とアメリカ政府との関係を戯画化したようなものなのだ。

しかし安倍は誰からも信頼はされていない。米国にも右翼勢力にも使い道がある人形だから使われているだけだ。橋本龍太郎元首相のように「米国債を売る」などと安倍は言わないし、ポツダム宣言による無条件降伏も承知しない。親米右翼人形だ。米国議会演説もまさにお人形のようだった。コウモリ野郎とはこういう人形のことを言う。

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右翼のよりどころである英霊をも裏切る無知蒙昧な安倍首相の危険な振る舞いを戦後70年目の現実として記録しておきたい。

5月20日から今日までツイッターで呟いた党首討論関連の内容を時系列に書き写す。この機会に誤字は修正した。自分なりに強調したいところは色付きにした。

5月20日(党首討論当日)@hitokuchimemo

後方支援(兵站の活動)でやられたときは最小限の応戦をして逃げるんだといっているこの男は誰だ!? 首相補佐官の礒崎陽輔(自由民主党参議院議員)か。磯崎、どっかで聞いた名前だなと思ったが、前もテレビで能天気な平和ボケ発言をしていた政治家だ。 #bsfuji #primenews
posted at 21:08:37

総理大臣を排出(輩出)するまでに政治的なステップアップ装置といったものがあるからこそ政党政治は成り立っているんじゃないのか。ポツダム宣言を承知してなくて総理大臣が務まるような野蛮国家でいいのだろうか…。 #primenews #bsfuji
posted at 21:33:10

痛切な反省もどっちを向いて反省しているのかが分からない。国力が月とすっぽんほど格差のあるアメリカ様に楯突いたことへの反省なのかもしれない。だからこそいま親分アメリカ様にへーこらして反省し続けているともいえる。国民に対しても政府からの謝罪が必要だ。犬死を強いた国民への反省が見えん。
posted at 21:39:50

岡田民主党党首と安倍自民党党首とは似てるな。猜疑心が強く揚げ足取りを極度に恐れるがゆえに発言に自信がない。違うのは権力を持っているかいないかだけだ。これでかつては二大政党を目指していたというんだから笑うしかない。アメリカの属国だから政治が劣化するのは当然とはいえ衆愚はまだ続くな。
posted at 21:45:47

どんな戦でも撤退は戦術のひとつとして重要な作戦行動だ。しかし撤退ありきと相手にも筒抜けの軍隊のリスク管理を安倍は最高指揮官としてどう考えているんだろう。
posted at 22:02:25

野党がすべきなのはもはや安倍と議論することじゃなく、日本の政治家は全部が全部アホじゃないんだよ、一応政治家としての基礎知識は持っていていまはポピュリズムの波のなかで苦労してるだけなんだよ、だから同じ地平で議論できるまでもう少し待ってねと世界に向けてメッセージを発信することだ。
posted at 22:09:33

外国のナショナリストの政党や党首を見るとちょっと異様な雰囲気を感じてしまう。バランス感のなさがテレビを通して増幅される。きっと安倍もあんな風に映っているんだろうなと思う。オバマが生理的に受けつけない程度に。
posted at 22:18:13

5月21日@hitokuchimemo

また誤変換してた。総理大臣は排出じゃなく輩出するもんだった。事実としては排出されてるわけだが文脈からは輩出が正しい。ポツダム宣言を承知していない安部首相が脱却したい戦後レジームとはもしかしたら第二次世界大戦じゃないのかもしれない。明治以来の官僚国家からの脱却だったらすごいけどな。
posted at 07:34:58

首相にポツダム宣言について問うには戦後70年談話を出そうとしているこのタイミングの党首討論がもっとも良い機会であり安倍が自分で転けたわけだが、悲しいかな相手が日本共産党というだけでキーッとなっちゃう人々は思考停止に陥っている。戦争を呼び込む世論はそういう人々から醸成される。
posted at 12:54:40

ポツダム宣言への見解を率直に聞かせろとの質問には何の他意もない。これほどド直球な質問は戦後70年といったイベント絡みでなければ聞けない気恥ずかしさすらあり、戦後レジームからの脱却を高らかに謳うからにはその根拠の重要な一部たるポツダム宣言受諾について一家言あってしかるべきなんだよ。
posted at 20:45:24

しかし安倍はそこで口ごもった。ポツダム宣言受諾を知らなかったわけじゃないだろう。揚げ足を取られるのを回避しなければという臆病な性格がイデオロギー抜きにした知性では叶わない志位から投げかけられて動揺したはずだ。国際世論に反する自説も軽軽に口走れない屈折右翼の姿がそこにあった。
posted at 20:50:33

議論には共通の土台が必要で意見の相違はその次のレベルの話だ。特に政治家、それも党首討論ともなれば思わず唸るような深い洞察と知性を感じたいと思うのは国民の自然な意識だと思う。それすらなく騎馬戦のような言葉遊びを続けているのは本当に悲しい現実。政治の劣化は民度の表れでもあるけれど。
posted at 21:03:48

間違った戦争ばかりかといえばやるべき戦争もある。正しくはやらざるを得ない戦争だ。例えばベトナム戦争。侵略者アメリカの戦争は間違った戦争だが祖国を守るために敵に抗戦するベトナム側の戦争はせざるを得ない。日本ではシャクシャイン戦争も松前藩に対するアイヌの正しい戦争。いまの沖縄もだ。
posted at 22:48:45

5月22日@hitokuchimemo

戦後70年の節目にポツダム宣言について学ぶ機会を与えてくれた志位委員長と安倍首相に感謝して中学生は社会科の教科書を読み直そう。知らなくても総理大臣になれるんだと思ってはいけない。ポツダム宣言を流行語大賞にもノミネートしたらいいと思う。戦後70年目にふさわしい。
posted at 12:52:08

戦争は悪だという論理はポストモダンな価値相対主義的気分であってちょうどバブル期に学生だった我々世代に多いように思う。だが「戦争が悪い」というのは危険な考え方だ。侵略戦争には加害者がいて被害者がいる。帝国主義者同士のドンパチしか想像できない平和ボケ世代特有の浅さこそ悪かもしれない。
posted at 21:20:32

平和ボケで勇ましく生きられたのは戦後70年日本国憲法によって平和が担保されていたからだ。戦争を知らない子どもたちという究極の平和が戦争の悲惨を現実レベルで想像する力を奪った。ボク自身も戦争の悲惨さを実感として知らない。謙虚さと理性でこの平和に対して保守的であることしかできない。
posted at 21:26:57

5月23日@hitokuchimemo

党首討論7分間

戦後70年記念にメモ。ポツダム宣言について安倍が時間稼ぎしようと口を滑らせた部分よりも後半の志位発言のほうが重要なことに気づいた。客観的判断力のない指揮官の元で米国の戦争に参加する国になるかがもうじき決まる。
posted at 17:48:59

日本は株主資本主義を明確に目指しているが、その株式の多くは海外資本に握られている。日本は収奪のための装置、草刈り場になろうとしておりアベノミクスはその先兵としての役割を立派に果たそうとしている。労働者にトリクルダウンはない。海外資本は収奪し終わり次第次の獲物を探し去っていく。
posted at 17:55:22

TPPは収奪のための装置というよりリスクヘッジだと思う。収奪する側とされる側との永久不変の関係を作る装置といってもいい。強欲資本主義とTPPはセットで機能する。だからアベノミクスでは両者が同時進行する。格差確定社会も日米安保もすべてつながってる。パッケージだから各論賛否はない。
posted at 18:04:33

5月24日@hitokuchimemo

礒崎陽輔首相補佐官がポツダム宣言について「少し精査してみないと何とも言えない」と述べた。そういうことであれば戦後70年談話を出すのは安倍首相には時期尚早なのではないか。安倍首相は補佐官の言うことをよく聞いて中学校の教科書から読み直し戦後80年あたりで研究発表会でも開けばよい。
posted at 10:20:45

ついでに安倍首相は首相の任期中にもう一回アメリカ議会に行ってポツダム宣言については承知していないと追加演説してきた方がいい。そうしないとアメリカ議会の全議員とまったく異なる世界認識であることが伝わらずアンジャッシュのすれ違いコントのような外交関係を延々続けることになる。
posted at 10:24:28

トルーマンの善悪二元論を受容する安倍と志位は同類だ(小林よしのりチャンネル) #blomaga

賛否は置いといて小林よしのりの言ってることは安倍首相よりまともな回答ではあると思う。ポツダム宣言への言及を回避するなら首相を辞任すべきだろう。戦後を語れない。
posted at 10:40:40

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今日までの4日間のツイートだけど、まとめると結構なボリュームだったな。地上波のテレビメディアはほとんどこの党首討論を報道しなかった。安倍の圧力が怖いのだろうし、大マスコミもまた安倍の権力補完装置になってしまっているからだろう。

とはいえ党首討論7分間のYouTubeもあるし偏向報道されるくらいなら何の加工もコメントもない動画を自分で見るほうがいいかもしれない。

新聞は取らなければいずれ消えゆくメディアだが、テレビはスポンサーと一蓮托生だ。そのスポンサーも大企業中心で、その大企業は日本を食い物にしようとしている海外株主のアンダーコントロールにある。そんな構造に支配されない生活を目指せれば幸いだが。スポンサーがどんな企業かも気にしながらテレビを視聴することも必要だろう。

メディアが報道しない大問題は今後も増え続けるはず。戦後70年目の節目にこんな椿事が起きた機会にポツダム宣言をもう一度読み直してみるとか、安倍首相を祭り上げている人々について考えるとか、自分が無意識に戦争加担をしていないかとか、そういうことを考えるきっかけにしたらいいと思う。ポツダム宣言がどれほど短い文章かを知るだけでも、安倍首相が政治家としての要件を満たしていないことがわかると思う。

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2015.05.16

オーラルケアのキーワードは「骨が溶ける!」

以前、ブラッシング技術の免許皆伝によって教えられた秘伝(笑)のワンタフトブラシについて書いたが、あれからもう7年になろうとしている。いまも定期的にオーラルチェックをしてもらっていて、昨日は2007年当時と昨日現在のレントゲン写真とを比較しながらレクチャーを受けた。

結果的には歯茎の後退もなく、もちろん虫歯もなく、詰め物も安定していて問題なかった。前回の点検時(2年前)に前歯が少し欠けてしまった相談をして詰めてもらった前歯のCRすら見逃しそうになるほどに…。その技術の確かさとオレのケアの努力を点検できたscissors

しかし常に点検は欠かせない。

多くの人は歯が痛くなってから病院に来たり、歯茎が半分くらい後退したころ(痛みもほぼないころ)に来たりするそうだが、そうなってからではもう遅い。後退した歯茎は二度と戻ることはない。徹底したオーラルケアでも現状維持がやっとになる。

しかし意識を突然変えることは困難で現状維持すら難しいのが現実だそうだ。だから問題ない時期から定期健診をすることが重要なのだ。それは歯石除去のためとかホワイトニングといった動機でもいい。早く始めて継続することが重要だ。

なんて素直なんだろうオレ(happy02)。内科診療にはめっちゃ懐疑的なのに。糖質制限を信用して薬物投与拒否するオレと歯科での素直なオレとどちらも同じオレなのだ。歯科とは技巧の世界。職人の世界であり波長があうのかもしれないが、それだけでなくやはり論理的な納得感の違いにあると思う。

内科は腐ってる。特に大学病院は腐りきってる。そんなバイアスももちろんあり、製薬会社と結びつき科学を歪めようとしている疑惑をどうしても払拭できない。そんな腐った連中が権威を持って呪術のような医術を伝播させている。あたかもそれが唯一の常識であるかのごとく。医学生が反論しようものならパージされる。到底科学的態度とは言えないヒエラルキーに支配されている。それが内科の現実だ。ここが大きな違いかもしれない。

歯科検診のときは、毎回常に歯周病菌についての質問をされる。常に同じ質問なのでどう答えればいいかわかりきっているがそれでも常に聞かれる。この愚直さも好感が持てる。

最初の数年はそれでも間違えて答えていた。歯茎が下がってくるとか、歯茎が腐るとか、菌に侵されるとか適当なことを言って叱られていた。そこには重要なキーワードが抜けている。「骨が溶ける」だ。歯でも歯茎でもなく「骨」というキーワードが出てこないと合格できない。骨リスクを意識しなければならないのだ。

正直、毎日必ず歯を磨いているかと問われればNoだ。疲れ切ってバタンキューという日も結構ある。だから歯垢や歯石からは逃れられない。しかしそのレベルと歯周病との間にある大きなかい離に気付ければ正しい歯磨きはそれほど困難でもなかった。

毎日歯を磨く人でも技術が低いと虫歯になる。それは言い訳のために営業先をまわっているだけの営業マンのようなものだ。やってるだけで成果は出ない。電動歯ブラシでも同じだ。よい道具でもレベルの高い技術なくして成功はない。それを歯磨きに教わった(笑)。

先日、電動歯ブラシに超こだわりを持っていた友人がなぜか虫歯の治療をした。13万円かかったそうだ(インプラントは思いとどまったという)。また友人の電動歯ブラシは1万円以上もする。これだけのケアをしていても虫歯になる。その話を聞いたとき、100円歯ブラシで歯磨き粉もつけずブラッシングして定期点検をしているオレはおそらく遠い目をしていただろう。

そんなオレだが完璧からは程遠い。水平磨き、垂直磨きはできていてもカーブしている歯と歯の間には磨き残しがある。ワンタフトブラシの使い方ももっと向上できるはずだ。

また歯磨き粉をつけずに20分でも30分でも磨き続けているオレだが、最近はそうやって磨いた後に仕上げとして歯磨き粉をつけて二度磨きをすることもある。数日に一回程度だが。そのときにはフッ素成分の含有量が多いライオンのCHECK-UPを使っている。歯科医のお墨付きありの歯磨き粉だ。

これって内科の薬商法と同じ構造じゃないのかという疑いは当然あるわけだが、そもそもが歯磨き粉なしを推奨する歯科医があえて薦める歯磨き粉という順序で知ったのは内科と異なる。内科のようにまず薬ありきではなく、歯磨き粉なしに抵抗がある患者の要望に応えての紹介なのだ。ほんの少しつけて磨くだけなので同時に10本なんて買ったらいつまでも無くならない(笑)。

定期点検した日の夜は予約していたウルフギャングステーキ丸の内店で肉を食べまくった。久しぶりに女性と二人で内緒話(笑)。糖質もずいぶん摂った。そもそもがやわらかいプレミアムなTボーンステーキではあったが、こういう肉をいつまでも食べられる歯と健康を保ち続けなければならない。年取って肉が噛めない歯になってしまっては糖質制限も出来なくなってしまうではないか!

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2015.05.05

ドラマ She に見るSF的現代高校生白書(?)

CX土曜ドラマSheさんまのお笑い向上委員会について書いたのにこっちを書かないのは本末転倒(?)っていう気分で書きはじめる。

松岡茉優の連続ドラマ初主演作品だから予約録画した。松岡茉優はNHKの「限界集落株式会社」とCX「問題のあるレストラン」がとても良かったので注目し始めたが、世間的にはNHK「あまちゃん」と映画「桐島、部活やめるってよ」で既に注目女優だった。

「She」は学園もので主人公不在という展開から「桐島~」を多少意識してしまうが、おっさんには一度見ただけでは理解できずいま再度3話まで見直している(weep)。失踪した美少女は先日BSのドラマ「忌野清志郎トランジスタラジオ」に出てた中条あやみじゃないか。

いまどきの高校生の内面の複雑さはボクらの頃よりずいぶん加速してるんだなぁ。こんだけストレスの多い日常じゃそりゃ勉強も手に着かないだろうし、受験勉強も安易にテクニックに流れてしまうのも仕方がない。そんなドラマとは無関係の感慨にふけってしまった…。

ボクらの頃の学園ものはもっとシンプルだったかもしれない。「桜の園」とかさぁ。金八先生にしても問題がもっとシンプルだった(けれど当時としてはかなり複雑な気がしてた)。

いまや本心は(密室以外の)現実のコミュニケーションで知ることは出来ず、ヴァーチャル空間を通して間接的にコミュニケーションが成立する。いや実際はヴァーチャル空間による断片的な文字列の不完全さが時間差によって増幅し結局生身の言葉(から身体性を差し引いた言葉)だけでコミュニケーションは成立せず、そのズレが人間関係を生み出す(または破壊する)かのようなゲーム感覚の人生・精神を形成しているように見える。

もちろんそれが多数派となる近い将来にはこっちが現実になる。ゲームがリアルな日常となる。倒錯した世界と感じる世代との断絶。藤子・F・不二雄の「流血鬼」というSF作品を思い出す。あぁ、またドラマから意識が逸れていく。無意識なのか意識的なのかもわからずに。

もっともミステリタッチで実験的なドラマ「She」をもって現代高校生白書が語れるはずもないと思うが、She独自の物語を素因数分解していった後に残る会話や動作の節々にすら、なお複雑な心理がへばりついて残る。ドラマの登場人物と同世代の人たちはそんな部分にリアリティを感じるのだろうか。だとしたらやはり世代間ギャップでなかなか理解しにくい。

だからおっさんにとっては異次元ドラマとして見ると面白い。ある種のSF(笑)。だから藤子・F・不二雄への連想はあながち間違っちゃいない気もする。不在の人物を軸にしたドラマも歴史的に体験して来ている。そこらへんを手掛かりに今後も見ていきたい。短いドラマだが。

失踪した美少女の周辺にいた人々はヴァーチャルな映像や音声によってお互いに内面をさらされる。クラスメイトを盗撮する女子高生も内面に闇を抱えているが、このゲームの切り札(盗聴道具)を持っているだけにポーカーフェイスでいられる。言葉も内面もヴァーチャルこそが真実であるゲーム感覚の人生を生きる彼らにとっては、これこそある種のリアリティでもあろう。

松岡茉優主演ではあるのだが立場としては狂言回し的だ。第3話まで来ると彼女もミステリの一翼を担い始めているため役割も徐々に変化してきており今後への期待は持てる。こういう作品もいいが、次回作はもっとはっちゃけたような明るい作品がいいかも。

音楽はかなり重要な位置を占めている。園子温の映画を思わせるようなギターリフとベースラインが煽る煽る。最初に聴いたとき、これってTHE KOXXなんじゃないかと思ったが、日本のバンド[Alexandros]だった。ドラマの世界観を表現する劇伴としてとてもマッチしてる。これも現代高校生的な音楽なのかもしれないがこっちはついていけた(笑)。

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2015.05.04

他の誰にも書けない!Mr.KEIのアメリカ獄中記

食い入るように読み始め一晩で読み終えてしまった。KEI著『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人』だ。連休前にたまたま見ていたTBSのクレイジージャーニーに出演されたKEI氏はもとヤクザ。FBIにはめられて12年8か月のアメリカ刑務所生活を送った。アメリカ刑務所モノというだけでピピっと来て録画し著書も購入したのだった。番組の影響か一時的に品切れだったが届かないはずだった連休中に届いた。念が通じたか。

2007年に井口俊英著『刑務所の王』を読みかなり興奮した。自分でもどうしてこんなに刑務所ものが好きなのだろうと思う。刑務所ものというよりアウトローや任侠全般に愛着を感じる。一本義なところだろうか。

おそらく複雑な社会を単純なルールと動物的勘に従って生き抜くシンプルさに惹かれるんだと思う。長期間自由を拘束されることへの嫌悪が大前提にある。日本の閉塞感をそこにダブらせることで生きるために必要なことって何だろうという問いにヒントを与えてくれるような気がする。

『刑務所の王』はアーリアン・ブラザーフッド(AB)というプリズン・ギャングの創設者かつ生き残りのジョージ・ハープ氏とたまたま刑務所で出会った井口氏が、その壮絶なサバイバルについて聞き書きした著作だった。客観的に書かれているものだ。今回読んだKEI氏のほうはまさにプリズン・ギャングの一大勢力チカーノの構成員として生き抜いた生の声であり主観的にプリズン・ギャングの生活を伝える(それも本人が日本語で伝える)貴重な内容だった。

アメリカの刑務所で一般常識が通用しないのは今も昔も同じようだ。勢力争いも続いているのだろうが、チカーノという一大勢力はその絆の強さにおいてひとつの部族ともいえる。貧困や環境からギャングにしかなれない宿命を背負って生まれてくる。その悲しい運命がすでに拘束された人生であり、当然のようにプリズン・ギャングとなり、その掟のなかで生きていくしかない。

KEI氏とチカーノのボス(ビッグホーミー)との出会いは一触即発だったが、ここで生き延びたKEI氏は孤独な日本人受刑者からチカーノへと変貌していく。刑務所のなかではプリズン・ギャングとしてグループに所属するか、いっさいの関係を絶って刑期を全うするかしか生きる道はないように思える。短い刑期なら後者が安全かもしれないが、KEIは10年の刑を喰らっており孤独な日本人のままでは生きられなかったかもしれない。もっとも命と引き換えに抗争頻度が上がり刑期も伸びたりしているのだが…。

●真っ裸な人間になったときどう生きるか学んだ

刑務所生活の非常識を読むだけでも興味津々だが、それ以上にグループの絆であるとか、ここ一番で筋を通すことの重要さなど金言が多い。生きるための選択といってもいい。やるときはやらなければならない。もっとも卑劣なのは中途半端に生きることだ。真面目なら真面目に、悪なら徹底した悪に。中途半端な悪をKEIはもっとも嫌う。

群れなきゃ何もできない中途半端な悪が日本には昔から多い。それは後述する中途半端な正義とも表裏一体だ。現代は更に姑息な悪や正義が蔓延してる。アメリカ刑務所のプリズン・ギャングはそういう中途半端な群れとは根本的に違う。そこを見誤らないことが重要だ。

もちろんグループを作るという本能は相互扶助という側面を持っている。人間は群れなければ生きられない動物なのだ。だが重要なのは何がその群れをつなぎとめているかであり、本当の人間力はそこにある気がする。極悪非道な群れにも厳格なルールがあり道徳すらあるんじゃないかと思う。

中途半端なメンバーも多いのだろうがそれらはみな淘汰されていくわけだ。中途半端に群れるくらいなら孤高に生きる。群れるならとことん絆を深める。そのふり幅と覚悟が人間力の根幹になるような気がする。

生き延びたKEIには人間的な魅力もあったんだと思うし、商才もありクレバーな人なんだろうなと思った。少年ヤクザから若くして任侠の世界に入り国際ヤクザとなっていくなかで身に着けた処世術も人間力だと言える。

たぶん私は動物としてどれだけ生きられるかに魅力を感じるのだ。動物としての人間はオオカミに似ている。前にオオカミのボスになった研究者の記録『オオカミと生きる』を読んで興奮したが似たような感覚で読んでいるところがある。仮面をかぶって生きてる人ばかりの日本(もちろん平和でとても素晴らしいのだが)で鈍っていく動物的感覚への郷愁がこれほど興奮を覚える原因かもしれない。

●堅気になったKEI氏の今後の活躍にも注目

2001年に刑期を終えて日本に戻ったKEI氏はタクシードライバーになったという。ここで湯けむりスナイパーを地で行く人がいたんだとマジで感動した。映画化するとしたらKEI役は遠藤憲一さんにやって欲しいッス!顔もなんとなく似てるし…。

だがそこでもヤクザ者といざこざになってしまい半年でクビになる。その後紆余曲折の末、湘南でチカーノファッションのブランド店ホーミーを開業された。いまではチカーノカルチャーの伝道師、日本のビッグホーミーとして認知されているようだ。

同時にボランティアでDVや児童虐待などの問題を抱える家族の悩み相談に乗るサイトグッドファミリー.orgも運営されている。虐待する側の心の闇に寄り添う。戸塚ヨットスクールで働きたいと思っていたというから、体罰肯定派だ。

私自身も体罰は否定しない。子どもの頃は教師に往復ビンタもされたしデコピンも日常茶飯事だった。それに対してまったく恨みもないしどっちかというとそういう先生のほうが良い印象として残っている。

ただ現在は教師の側や世間の側に体罰=悪という短絡的な思考停止があるために下手に体罰は出来ない。またそういう意識こそが中途半端な正義であるため、この環境での体罰は教育的効果がほとんどなく怨恨だけを残す気もする。悪いことをする子どものほうも、真正面から叱られないために余計にねじ曲がる。姑息になる。大人と子どもとの断絶によって表向き何も起こらないが分かり合うこともなく子どもは成長する。

待ったなしの成長過程に本気で叱られなかった子どもは本気の人間的(動物的)対峙の体験がないまま大人になり子どもに無関心になっていく。そういう接し方しか知らないで育ったのだから仕方がない。この負のスパイラルが出来上がってしまったのが現代日本じゃないかと思わずにいられない。体罰はする大人のほうの覚悟が必要だ。中途半端な正義がもっとも逆効果であることをKEI氏は身を持って知っているのだと思う。

井口氏の『刑務所の王』を読んだのは第一次安倍政権が無責任に放り出された頃だった。そしていままた勇ましくも姑息で視野の狭い安倍政権のなか、KEI氏のプリズン・ギャングものから人間としての生きる力を学んだ。偶然ではない気もする。さっそくDVDも注文した。これも連休中に届きそうで待ち遠しい。

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2015.05.03

お笑い向上委員会の映し出すフジテレビの現在

うーむ、我ながら大きく出たな。このタイトル。いつものヨタ話なんだけど。

さんまのお笑い向上委員会」を第3回まで見た。このあとのドラマが松岡茉優初主演ドラマ「She」なので、その第1話から予約録画しようと操作していてたまたまお笑い向上委員会も第1回だったから失礼ながらついでに録画したわけだ。そして第3回まで釘付けに…。

決してこの番組がお笑いを向上させることはないだろう。冷静に見てしまうとただの馬鹿騒ぎだ。出演者はひな壇と思えないレベルの芸人たちであり、何が起こるんだろうという期待感を持たせてくれる。そしてその期待を良くも悪くも裏切ったライブなドタバタ脱線トークの応酬。

初回ゲストという名のスケープゴートとなった若手芸人流れ星は初回放送では登場できず(裏で出待ちしてる緊張の顔のみ)。本来は流れ星を肴に先輩芸人がいじり倒す番組のようなのだが、登場前にひな壇だけで盛り上がり30分番組1本分の収録が済んでしまった。

司会明石家さんまのテレビ的なカンが働いて往時のフジテレビを彷彿とさせる爆発力が見える。これが意図した演出だとしたらものすごく特殊なバラエティ番組だがどうなんだろう。途中までは編集で切っていこうと考えていたけれど、途中からはこの永遠に終わらない脱線トークをそのまま使おうと方針転換したのかもしれない。

いずれにしてもこの混沌としたギャンブルのような番組はいまのフジテレビだからこそ放送できた“作品”のような気がする。番組として成立するかしないかのギリギリのところで、たぶん明石家さんまが仕切っていなければ途中でストップがかかって撮り直しじゃないだろうか。この現象を編集もそこそこにドキュメンタリー感覚の緊張感で放映したことが、今後吉と出るか凶と出るかはギャンブルだ。ただこのライブ感覚は昨今のテレビには希少価値になっているように思う。

何がウケるかわからない現在のテレビ番組のなかでフジテレビは大苦戦中だ。かつてはサンケイグループのゴリゴリ右翼だったが芸能分野では韓流への傾斜でいまどきのネトウヨ(=サブカルや御用メディアのお得意様)に嫌われた。一方で「楽しくなければテレビじゃない」を標榜してお笑い番組を長くリードしてきたが、笑っていいともの終焉とともに潮が引くように視聴者も離れていった。視聴者に区切りがついた感覚かもしれない。

制作力の衰えともいわれるが、それはCXに限らないだろう。人気商売に潮の満ち引きはつきものだ。それでも放送を止めるわけにはいかないのだから、何かを放送しなきゃならない。何がウケるか誰にもわからないことを認めてしまえば、作り手側の制約が少しずつゆるくなる。番組に口出しして本当に数字が取れなければ口出しした人間に責任が転嫁されるからお偉いさんもだんまりを決め込む。だから通常なら通らない番組が間違って放送される。それが逆に新鮮…。お笑い向上委員会はそんな妄想を満たしてくれるドタバタ加減でアナーキーなドキュメント番組だったのだ。

ひな壇のなかでもっとも光っていたのは意外にも(失敬!)ずん飯尾だった。混沌のなかにくさびを刺す滑舌の良さ。そのカウンターパンチのような堂々とした芸風がこの場にはまった。もしかしたら流れ星にとって本当に向上委員会だったのはずん飯尾かもしれない。

また流れ星についていえば、ギャグを手の甲に書き出してくるなんてのは素人だ。血肉となってない。それをこのドタバタ脱線トークが流れ星に教えたかったことなのかもしれない。あの完全アウェイのなかでそれでも場の空気をもっていくアナーキーさこそが流れ星ちゅうえいに必要なスキルなのかもしれない。それは第3回に登場したウド鈴木を見れば一目瞭然だ。あそこに出て来てあの迫力は尋常じゃない。さすがとしか言いようがない。ウド鈴木がかっこよかった。

次週の第4回からはひな壇メンバーも若干かわる。今後もこのドキュメント感覚が続くのかどうか。続いたとして面白いのかどうか。見逃すわけにはいかない潮目を我々は目撃するのである。

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