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2015.03.21

1964年のジャイアント馬場

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昨年の太川陽介さんと蛭子能収さんの著書を並べた写真が個人的になんか好きで、今回もこの2大プロレスラー本を並べて撮ってみたが、今回のメインテーマは『1964年のジャイアント馬場』だ。毎朝少しずつ読み進みついに読了!

ボクにとってプロレスといえば新日本プロレスだった。アントニオ猪木、長州力、タイガーマスク(佐山サトル)の時代だった。おそらく中学時代にもっとも時間を費やしたもののひとつだ。村松友視さんのプロレス本を読み耽り、週刊プロレス、週刊ゴング、ビッグ・レスラーなどの雑誌を読み漁っていた。

そんなボクにとって全日本プロレスはスローな展開で面白みのないものに感じていた。ジャンボ鶴田が「うぉー」と拳を突き上げるのを見て、今でいうとゆるキャラ的なズボラ感を感じていた。毎週テレビでやっていなかった(山口県では…)というのも大きかっただろう(KRYで日曜の特番では放送されることがあった)。だからジャイアント馬場をそれほどすごいと思ったこともなかった。

ただ、全日本プロレスには漫画「プロレススーパースター列伝」に登場する外国人選手が多くいて華やかなイメージもあった。ブルーザー・ブロディやミル・マスカラス、はたまたハーリー・レイス、リック・フレアー、ニックボック・ウィンクルなどのレジェンドも新日本プロレス中継では見ることが出来なかった。

山口県徳山市は長州力の地元だからか新日本プロレスは毎年正月に興業を行っていた。しかし長州力がジャパン・プロレスを立ち上げ全日本のリングに移ったことで、ある年全日本プロレスが徳山市体育館の新春興業にやってきた。そのとき初めて生で動くジャイアント馬場を見た。

身体が大きいということの絶対的な価値を感じたのはそのときだった。すでにメインエベントは鶴田や天龍、ファンク兄弟にテッド・デビアス、ブロディ、ハンセン、スヌーカーら充実した面々が戦い、馬場の動きは緩慢になっていて中堅レスラーとゆるい試合をやっていた。ただジャイアント馬場が日本テレビのスポーツ中継テーマ曲で登場すると、ただただそれだけでその大きさに驚く。来て良かったと思わせる説得力を持った大きさだった。

馬場が足をあげてそこに相手選手がぶつかっていくだけでその存在感の大きさが伝わってきた。いわば相手レスラーは大木に自ら突進していくような感じだ。馬場のチョップは物理法則に従って、大きな棍棒が降ってくるかのようだった。それだけで確実に重そう、痛そうという感覚が伝わる。そして試合後、タクシーに首を曲げて乗り込んで去って行った馬場の後ろ頭がいまでも記憶に残っている。

●ジャイアント馬場で辿るプロレスの旅

その後の馬場はまさに好々爺といった感じでメディアに登場していた。しかしプロレス中継の解説はどこかピンボケで、とても冷めた印象だった。

そういった当時の感触が間違っていなかったことが今回『1964年のジャイアント馬場』を読むことで分かり、かなりスッキリした。

しかしそれは些末なことでもある。ジャイアント馬場のプロレス人生においては、ボクの生まれるより少し前のアメリカ時代こそが最高潮の時代であり、全日本プロレスと新日本プロレスの抗争以前のジャイアント馬場こそがもっとも評価されるべき、また語られなければならない時代だった。それがこのノンフィクションが語りかけてくるメッセージだと思う。

日本のプロレスは力道山という超特大ローカルスターによって長く支配されてきた。任侠や政治とも結びつき、戦後の日本の娯楽として大きな成功を収めた。そこに読売ジャイアンツのピッチャーだった馬場正平が入門する。

この入門のいきさつについてボクは漫画『プロレススーパースター列伝』情報しかなかったので(笑)、ジャイアンツの寮の風呂場でせっけんを踏んで転んで怪我をした馬場がプロ野球を辞めたんだとずっと思っていた。プロ野球選手としてはその体の大きさが奇異な目でみられ、登板機会を与えられなかった馬場の苦悩までは想像できなかった。

欧米人と比べても身体が大きい巨人症というだけでなく、プロ野球選手になれるほどの身体能力を持っていた馬場だからアメリカのプロレス界にも受け入れられた。しかもプロスポーツの世界での挫折を知っている馬場はショーマンシップの重要さも理解していた。だからこそ誰からも蛇蝎のように嫌われた王者バディ・ロジャースを認めることが出来たような気がした。身体だけでなくプロ根性も規格外のデカさだったのだ。

馬場はアメリカ遠征時代(日本風に言えば武者修行時代)に、すでに師匠力道山を越えていた。もしそのまま馬場がアメリカを主戦場としていたら日本のプロレスはどうなっていただろう。馬場自身の気持ちもそちらに傾いていたようなのだ。そうなっていたら全日本プロレスを立ち上げる必要もなく、高額なギャラを手にしながら全米をサーキットしていたはずだ。

馬場が日本に戻らなければ豊登らによる嫉妬もクーデターもなく、日本プロレスは静かに幕を降ろしていたかもしれない。あるいは猪木が成長し1トップとして日本のプロレスをけん引したかもしれない。しかし猪木もジェラシーを燃やす相手がおらず、アイデアを出す必要も感じず、ここまで魅力的なレスラーにはなれなかったかもしれない。

歴史にIFはないわけだが、力道山以降の日本のプロレスは馬場の決断にかかっていたことがこのノンフィクションを読むとよくわかる。そして馬場が律儀にも戻ってきたことで歴史の歯車が動き出したのだ。アメリカ時代の馬場を知ることが日本のプロレスを知るためには不可欠なのだ。

ボクが子どもの頃はまだプロレスは八百長か否かのような不毛な議論が巻き起こっていた。ある意味幸せな時代だったかもしれない。美しいウソ(物語)に人々は興奮(ヒート)するのであって、八百長かどうかなんて関係ない。ボクは大相撲の八百長論争も不毛だと思っている。おそよ興行には筋書があるものだ。それを認めるところからしか始まらない。それに対して文句を言い始める無粋なヒトとは議論にならない。

『1964年のジャイアント馬場』ではこのあたりもあっけらかんとしていて良かった。「勝ち負けなどどうでもいい。そんなものは初めから決まっているのだ」といった記述が随所に出てくる。中学生時代の空気を思い出すとあまりに身も蓋もない話だが、それでも物語として色褪せることなどない昭和のプロレスがボクが大好きだ。

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