岡田惠和脚本ドラマとしての「さよなら私」を語ってみる
NHKドラマ10「さよなら私」が終わった。ドラマが始まったときには、岡田惠和さんの脚本で入れ替わりドラマというまさかのシチュエーションに興奮して「奇跡的な入れ替わりドラマ!『さよなら私』」を書いたのだった。あっという間に最終回。NHKドラマ10のこのキビキビした展開も嫌いじゃない。
同じドラマについて2度書くのも珍しい。「八日目の蝉」は特別だったけど。「さよなら私」もちょっと特別感のあるドラマだったから。
入れ替わりドラマという部分については、これでもかというくらいに「入れ替わったままこんなシチュエーションに遭遇したらどーする!?」的な展開が待っていた。夫の不倫相手かつ親友で女性どうし。それも単なる親友じゃない。子どもの頃、生死の境目で出会って友達になった二人だ。その彼女たちが大人になって心が入れ替わり、今度は死を“共有”する。
親友の死に遭遇する辛さを経験することは誰にもある。しかし死を共有する機会はまずない。どこまで行っても他者は他者であって乗り越える術はない。普通なら。それを可能にしたのが入れ替わりシチュエーションだった。それは辛さや悲しみの先にある世界だと思う。脚本にはそこに感情移入させることの困難さがあったと思う。
その死の共有の困難さと同時に、不倫する夫たちへの倫理的な拒絶感もあるだろう。どいつもこいつも不倫しやがって!さらに不倫する夫と不倫相手との共同生活。そしてその夫と相手の女(親友)が生き残る。感情移入がありえないシチュエーションという意味では入れ替わりと双璧をなすこの設定。しかし岡田脚本はここにもチャレンジする。
●佐藤仁美が体現した岡田惠和のキーワード
困難極まりないがんじがらめのシチュエーションをこれでもかと自ら提示しては解決策を模索していく岡田惠和。ドMか()。原作なしのオリジナルでここまで勝負する岡田惠和が好きだ。
岡田惠和のドラマを見ていると、設定は異なってもいくつか重要なシチュエーションがあるように思う。これはボクの勝手な思い込みかもしれない。中島みゆきの歌詞解釈をするときと同じ脳の特定部分が岡田脚本に反応している。同じ匂いを嗅ぎつけてる。
そのキーワードは3つ。仲良し3人組、道草、共同生活。岡田ワールドをこの3つのキーワードを使って紐解けば卒論の一本も書けそうな気がする。「さよなら私」の中にはすべてが詰まっていた。
仲良し3人組は「彼女たちの時代」の影響大で、その時以来の気になる3人組のドラマになった。そのなかでも佐藤仁美の存在がとても大きい。道草はちょっと抽象的なキーワードだけど、サイドストーリーと言い換えてもいい。佐藤仁美の家族の存在は道草側の主役だ。
道草にはいくつかの意味合いがある。不倫も道草のひとつといえばいえる。「夢のカリフォルニア」や「小公女セイラ」でも道草がとてもいいクッションになっていた。「さよなら私」では佐藤仁美&尾美としのりの家庭の存在がこのドラマの鍵を握っていたと言ってもいい。
「さよなら私」の佐藤仁美は入れ替わりというファンタジーと無縁で、やんちゃな子ども2人を持ち、夫はダメ亭主だけど浮気して失敗して戻ってくる、さらにその亭主との間に3人目を妊娠している元気な肝っ玉母さん。典型的なリアルな日常の体現者だ。感情移入しやすいポジションでもある。
3つめのキーワード「共同生活」にも佐藤仁美は欠かせない。つまり佐藤仁美こそがこのドラマの裏のキーパーソンなのだ。彼女がいたから成立するドラマだったと言ってもいい。
●入れ替わりドラマの一言では語れない岡田ワールド
岡田脚本において共同生活は結構いたるところに出てくる。「ちゅらさん」における一風館、「泣くな、はらちゃん」の居酒屋、「ホームドラマ!」の疑似家族などなど。いろんな事情を持った他人どうしが一緒に暮らすことへの願望というか、そこにドラマがあるという確信を岡田脚本から強く感じる。
岡田惠和の“共同生活ドラマ”の系譜においても今回の設定はとても練られてる。ボクにはこの共同生活を成立させるための仕掛けとして不倫と入れ替わりというシチュエーションが導き出されたのではないかとすら思えるのだ。
もし石田ゆり子が単に永作博美の親友だけであったなら、最終的に共同生活は成立しただろうか。親友の夫と生活していく道理がない。しかしそこに不倫相手という距離感を持ち込んでみる。さらに石田ゆり子側には永作博美と心が入れ替わっていた期間があり、藤木直人と暮らすことへのハードルは限りなく低くなっている。
石田ゆり子は母にはなるが妻にはならないという。そういう捻じれた共同生活。まさに岡田惠和の大好きなシチュエーションじゃないだろうか。不倫と入れ替わりがこの共同生活にドラマ的な整合性を持たせる根拠につながっている。そこに疑問を抱かず一緒に暮らせる肝っ玉母さんの佐藤仁美がいる。
そう考えると、このドラマは単に入れ替わりシチュエーションへの挑戦なんて平面的なものではなく、岡田惠和の大好物、つまり仲良し3人組と道草と共同生活とを成立させる方法論のひとつとして入れ替わりを選んだだけなのではないかという気がしてくるのだ。
ドラマ10初参戦の岡田惠和がもっとも描きたい世界観を成立させるために選んだ入れ替わりシチュエーション。そう考えると入れ替わるときの階段落ちも、あまりにあっさりしていた元に戻る目覚めのシーンも腑に落ちる。
ギミックにこだわるのではなくドラマを観て欲しいという思いがある。親友との死の共有、そしてその先の共同生活を描くには入れ替わりシチュエーションは必然だった。コメディになりがちなこの設定を岡田惠和は自身の世界観を描くために使っただけなのだ。だから「さよなら私」は表面的には入れ替わりドラマではあっても、実は岡田惠和脚本の王道といえるドラマではないだろうか。
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