google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2014年12月

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2014年12月の10件の記事

2014/12/30

ひとくちメモ的今年の漢字で振り返る2014年

Sya今年の漢字なんてあまり考えたことなかったが、今年は来年への抱負も兼ねて(来年への抱負もあまり考えたことないけども)考えてみた。ま、考える間もなく今年の漢字は「捨」だ。右画像は漢字辞典オンラインさんから。小学校6年で習う漢字だ。

とにかく様々なものを捨てている年末。いったん生活をリセットするかのごとく。喪失感もあるし不便なところもある。たぶんウチのなかにあったモノどもは、ボクの脳の無意識の体系が表出した状態だった。それを人工的にプツプツ切り離していくような感覚だ。

ポジティブに考えれば弱いシナプスを剪定し強いシナプスだけを残す作業。捨てることによって本当に大切なものだけが残る。置いておくだけの本や聴かないCD、見られないビデオテープ、着られない服に履かなくなった靴、タイトルから内容の断片を思い出せないTVドラマの録画DVD、それらを捨てていく。

懸念材料としては、いまこの時の自分の意識と未来の自分の意識とのアンマッチング。いま不要でも未来には必要なモノがあるに違いない。捨てられない人々のほとんどはそういう無意識のなかで生きていると思う。特に「作品」は淘汰されメディアが変わるたびにすべてが再製されない。そのリスクヘッジという意識。

あたらしい生活に必要か不要かをいま知ることは出来ない。しかし無くても生きていけるんじゃないかという想像が出来るかどうか。引っ越しというメタファで考えてみる。ひとつの時代から次の時代に引っ越すとき、いらないものを処分するわけだ。

溜めこむ我々は溜めこむことが目的化している。短い人生のなかで偶然にも出会ったモノたちの面倒は死ぬまで見るという達観。それを尊いと感じるか鬱陶しいと感じるかの差。

しかし「短い人生」という物理的に平等な価値を考えるとき、まさにその時間の経過によって若い頃とは異なる意識が芽生える。偶然に出会ったモノたちとの別れがあるのも人生なのだと。古本やCDなどの「作品」を捨てるのではなく手放す、あるいは巣立たせることもまた人生の価値なのではないだろうか。

捨の訓読みは「す(てる)」だが、常用外に「ほどこ(す)」がある。おやっと思う。捨てるとほどこす。モノは言いようなんて邪念を持ってはいけない。捨てる心とはほどこす心にも通じるのだ。まさに古本としての再利用をイメージさせる。

最近出来た「断捨離」という言葉は捨てることにポジティブなイメージを植え付けることに成功したが、仏教の世界ではもっと古くから捨てることをポジティブにとらえていたのかもしれない。あるいは捨てないことは不可能だという達観があるのかもしれない。最終的には自らの肉体ともおさらばしなければならないのが人の常である。精神は永遠かもしれないがモノとして示現したものには終わりがある。古書店に売るという行為は「作品」の精神をつなぐために捨てる行為なのである。

捨てることで新しい自分に出会う。来年はそういう一年にしたい。

●年末の大片づけ以外で感じた3つの「捨」

ひとつは中島みゆきの夜会「橋の下のアルカディア」のテーマが「捨」だった。これはまったくの偶然で、夜会を最前列で見たから年末捨て始めたわけじゃない。

ふたつめはコレステロール常識を完璧に捨てた。今年の健康診断でもLDLコレステロール以外の数値は日本の医療が決めている基準ですらAだった。しかしLDLコレステロール値が高めだというだけで治療という名のクスリを与えられる。この治療が曲者で健康な(ランクAの)肝臓に介入してコレステロールの生成機能を阻害しようとするのだ。こんな非論理的な治療をしたら身体が弱ってしまう。現に外国ではこんな数値で治療をしたりしなくなっている。和訳されてないことをいいことに金儲けの薬売りと化した日本医療を捨てた。

最後は2月のソチ五輪。キムヨナが引退した。キムヨナグッズは捨てないし思い出も消えないがひとつの区切りをつけたという意味での「捨」である。ライバルの浅田真央はいまだに現役か引退か「ハーフハーフ」と言っているが、その優柔不断さが金メダルを逃した遠因じゃないだろうか。ソチ五輪の頃、浅田にとって大失敗と大成功という浅田らしさをすべて出し切ったのがソチ五輪だったと書いたが、「ハーフハーフ」発言によってまさに裏付けられた気分になったものだ。

捨てるか捨てないか。ハーフハーフでは部屋は片付かないということを我に戻って噛みしめる年末なのであった。捨てる神あれば拾う神ありともいう。捨てることで新たな人生が開ければよいが。皆さん、捨て忘れたものはないですか?捨てたのは若さだけ…というわけで、よいお年を!

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2014/12/29

あれもゴミ~ミナ・ゴミ

隠しきれないガラクタが
いつしか自宅に住みついた
誰かに捨てられる くらいなら
自分で捨ててもいいですか

積み上げた 文庫の山
ビデオテープ CDの滝
舞い上がり揺れ落ちる塵の向こうに
ふとん… 羽が抜ける

何を捨ててももういいの 
グダグダ悩む 気を払い
コンポも捨てます あれもゴミ


全部ゴミさ、そんなもんさ
年末の大掃除
お宝じゃないさ ただのゴミさ
若いころのコレクション
掃除始めは ちょっとね身悶える

終わってみれば今日は怒涛の大片づけと大掃除をしていた。ここまでの一か月がまるで嘘のような規模の大仕事になり足腰が痛い。しかしこの難所を越えなければ道は閉ざされる。まさに天城越えの気分でやった。

しかしそんな意識とは別に物理的にゴミは減らない。A地点からB地点に移すだけでは掃除にならない。断捨離する以外にもう道は無くなったと思う。それをリゾ・ラバのメロディーに乗せて歌った日だった。

だが勝負はこれからだ。来年は第2フェーズ()。古書店の検索を始める。そしてベランダ収納。とにかく部屋を極限まで片づける(くらいの意欲で頑張る)。

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2014/12/24

「ごめんね青春!」 個人的にはドラマ「さけべ満島!」

TBS日曜ドラマの「ごめんね青春」が日曜ドラマ枠の平均視聴率ワースト1(7.6%)になったとか。ドラマの面白さと視聴率は必ずしもリンクしないけれど、今回はちょっと「ふーん、なるほど」と思ったりしたので、そこのとこを書いておきたいと思った。「ふーん、なるほど」と同時にこのドラマのタイトルは「さけべ満島!」がいいなと思っていたもので。

宮藤官九郎の代表作といえば、いまやNHK「あまちゃん」なのだろうか。社会現象ともいえるフィーバーぶりだった。いまや「あまちゃん」を総集編でしか見ていないボクは宮藤官九郎ファンとは言えないのかもしれない。

そんなボクがドラマで好きなのは「ガンジス河でバタフライ」という前後編の単発ドラマ。インドという“異空間”で長澤まさみがハイテンションで右往左往する、宮藤官九郎でなけりゃ書けないドラマだった(原作はたかのてるこ)。ただしこれも視聴率は取れなかった。

バランスの取れたところでは「流星の絆」がある。原作の世界がかっちり構築されている制約のなかで宮藤官九郎が小ネタを織り込みながら、ちゃんどテレビドラマとして成立させた。パロディが得意な宮藤官九郎だから、原作をひねっていく作業は上手いのかもしれない。

宮藤官九郎の魅力はいろいろあると思うけど、リアリティのない設定を持ち込んで小ネタを挟みながら成立させていく面白さなんだと思う。そういうところは演劇の人なんだなと思ったりする。偏見かもしれないけど。

しかしタガが外れ過ぎると空回りする部分も増える。「ごめんね青春!」はオリジナル脚本だったから宮藤官九郎ワールド全開で出来たはず。原作があれば笑いと物語とがいい塩梅で共鳴しあうが、宮藤官九郎が次々と繰り出すぶっ飛んだ設定の応酬になってしまうと結構きつい。

面白くないわけではない。いや、どっちかというと面白かった。しかしドラマとして我に返って見ると、どうも落ち着かない気持ちになる。それでいいという考え方もあると思う。クドカンなんだからハイテンションで突っ走ってればサイコー!みたいな。

だけど「ごめんね青春!」には、ちょっと泣かせようとする“マジ”なシーンが結構出てくる。出てくることに異存はないのだが、その他の設定とその泣きの物語との落差が大きくて、入っていけない気分になることが何度かあった。一度そういう気分になると、どんどん気になっていく。それでしんどくなる。

持ち味の軽薄さの余韻をシリアスな場面にまで引きずってしまったという感覚。カソリック系女子高と仏教系男子校の合併騒動というバカバカしい設定と青春の汚点としての放火事件(事故)への葛藤とが、同じ地平に出てくると混乱する。

放火の告白に向かっていく主人公教師だけの葛藤のベクトルと、バカバカしい学園ドラマとしての軽薄なベクトルとは平行線をたどったと思う。また放火の罪(無実の罪)を背負って消息不明となった女子高生の物語も、この軽薄なドラマのなかでは居心地が悪い。

それをなんとかすり合わせようとするところが腕の見せどころだったのかもしれないが、軽薄さのほうが突出している(と信じている)視聴者側の意識がいきなりのシリアスドラマ仕立てについていけなくなったかもしれない。70年代風にいえば「シラー…」って感じだ。シラケ鳥飛んでいく南の空へ…。そんな気分にちょっとなってしまった。

また、ご当地グッズやご当地食材に“あまちゃんの二匹目のドジョウ”感があった。そういう視聴者は結構いなかっただろうか。NHKと民放との違いもあるかもしれない。建前上コマーシャリズムがない放送局でやるご当地グッズと、基本がコマーシャリズムにまみれた民放キー局でやるのとでは受け取り方が違う。それも結局「やっぱりコンビニタイアップやってんのかよ」という…。ここでも「シラー…」という空気が流れた。

宮藤官九郎は才能にあふれてる。シリアスも出来れば笑いも出来る。でもそれを両方ごった煮にしてしまうと収拾がつかなくなり落ち着きが悪い。おそらく視聴者側は小ネタを含む笑いの波状攻撃のクドカンイメージに引きずられてシリアスが霞む。笑いの質がドライだから余計に。

シリアスな部分が主軸となるドラマの構造とうまくかみ合う笑いはもちろんあると思うけれど、宮藤官九郎という名前が大きすぎて逆に「これはシリアスドラマですよ」という説明的な演出が必要になってくるかもしれない。「ごめんね青春!」はどちらにも振れることなく中途半端な感じが残った。迷いがあったのか?視聴率低迷に対して「ふーん、なるほど」と思った背景はそんなところだ。

●満島ひかりのハイテンションドラマとして

そういうシリアスな部分とほぼ無関係に存在し輝いていたのが満島ひかりだ。満島ひかりについては夏に「愛のむきだし 全部むきだし」のなかで触れたが、女優としてどう感じているか書いたことがなかったので、ここでちょっとだけ書いてみたい。

ボクは満島ひかりのドラマはちょっと辛くて見てこなかった。見たのは「若者たち」くらいかな。女優として魅力があるのは確かで、以前ユッコ(竹内結子)を好き過ぎてユッコ絶ちしていた頭のおかしなボクなので、そういう面がないとも言えない。

どんな役を演じる満島ひかりが好きなのか確信を持てず、これまでのドラマのなかの満島ひかりはどうも煮え切らない感じがしていて、それは満島ひかりのせいというより演出や役柄とのアンマッチングが主な原因だろうと思っていた。不幸だけど堅気に生きていく女的な、なんだかそういうイメージのドラマが目について、そういうのは木村多江にお任せしたいと思っていた。

しかし映画「愛のむきだし」で「これだ!」と思った次第。満島ひかりには絶叫がよく似合う。そういう意味では「ごめんね青春!」の満島ひかりはまさにはまり役だった。宮藤官九郎の持つハイテンションの体現者として満島ひかりはこれ以上ない適役だった。

だからもっとシンプルに満島ひかりが毎回絶叫するシチュエーションコントのような学園ドラマだったらもっと気楽に楽しめたような気がする。個人的に「さけべ満島!」というタイトルを授けたい所以だ。満島ひかりの絶叫だけを編集して見たいくらいだ。

昔、おちまさとさんが毎回トップクリエイターとともに作った「24人の加藤あい」というオムニバスがあった。女優加藤あいを素材に毎回異なる単発ドラマを作るシリーズ。いまなら満島ひかりでこういう企画をカネかけてやって欲しい。共通項は「さけべ満島!」で。絶対面白い。満島ひかりが叫んでいるだけで幸せだ。

満島ひかりの表情は不幸の影をチラっとでも乗せると何倍にも増幅されて不幸に見えてくる。そういう方向性での起用は安易すぎる。もっとぶっ飛んだハイテンションの満島ひかりがいい。「ごめんね青春!」はそんな満島ひかりの可能性を見せてくれた。いまはぶっ飛んでおいて、40歳過ぎたらざーます奥様を演じる満島ひかりが見たい!めざせ冨士眞奈美!

満島ひかり以外では、映画「幸福のスイッチ」以来ずっと注目している中村静香も良かった。このバカバカしいドラマのおかしな設定にうまくはまっていた。えなり君の巨乳アイドル的奥さんという宮藤官九郎の思いつきをそのまま体現したようないいポジションだった。

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2014/12/23

コミック版『ザ・ゴール』が面白い!

年末大片づけ大作戦もついに一か月が経った(休日だけの作業だったけど)。いまだにゴールは見えないわけだが今日も頑張る。午後から(笑)。明日は朝ロイズのチョコが届く予定なのでそれを待ってクロージングにかかりたい。また明日は平日なので銀行行ったり年末年始のチケット受け取りに行ったり、できれば年金事務所で過去の紐付もしておきたかったり、10年以上壊れている有線放送の端末修理の依頼をしたり、いろいろとやりたいこともあるがどこまで出来ることか…。

そんなゴールの見えない年末に『ザ・ゴール コミック版』が出版されていた。この表紙の色だけで反応してしまう。パブロフの犬状態。しかし読んでみると面白かった。

500ページを超える原著の半分以下の厚さになりエッセンスだけコンパクトに漫画化されている。まんがの威力は本当に素晴らしい。日本文化と胸を張って言えると思う。こういうことが出来るのは日本だけだと思う。もちろんこのMANGA文化が世界に広まれば世界各国で似たような取組が出現する可能性は高い。しかし何でも漫画で表現しようとする意志とシステムと人材が揃っている国はいまのところ日本だけだ。

大ベストセラー『ザ・ゴール』を書いたエリヤフ・ゴールドラット博士が当初、日本語訳だけをかたくなに認めなかったのは有名な話だ。それは生産管理手法の創造力が高い日本に博士のTOC理論を紹介すれば、日本の競争力が突出して高まることを危惧したからだった。そういう時代があった。

邦訳されたのは2001年のことだった。日本がTOC理論を紹介しても大丈夫な国になったからなのかどうかは知らない。博士も2011年にこの世を去った。2001年に読んだとき、『ザ・ゴール』はボクの2001年リスペクトTOP10の8位に選んでいた。小説仕立てのビジネス書という発想も良かった。その先駆けかもしれない。

エッセンスを漫画化するというのも日本のお家芸となりつつある。古典も歴史もビジネス書も専門書も、あらゆる分野で漫画が作られる。再構成しビジュアル化するのはいまの時代にマッチしてると思う。漫画化は裾野を広げる。ある種の工業製品となっているし、今後さらに様々な分野のマニュアルやエッセンスを漫画化してほしい。それこそいま流行のピケティ著『21世紀の資本』とか。マルクスの『資本論』だって漫画化されてる。ロシアでも売れるんじゃないか?

コミック版では日本の企業を舞台にしている。閉鎖寸前の工場がたったの三か月で再生するという成功譚となっている。従業員もやる気にあふれ、自分たちで考えながらTOC理論を実践していく。

TOC理論というのはそもそもが、あらゆる成功譚の基本構造と言ってもいい。課題を見つけ悩み、打開策を考え新発想を試し成功する。「全体最適」というのがキーワードだが、そこへの道程に「自分の頭で考える」ということが欠かせない。これは部活でも仕事でも、何らかの目標に向かって取り組むために必須の方法論であり、その発想法のヒントがTOC理論だ。

だからこそTOC理論は受け入れられた。コミック版でも工場の生産管理の方法論として使われている。しかし考えてみると、何かを生産する現場としての「工場」は、あらゆる読者にとって行動のメタファと成り得ると思う。TOC理論の用語、ボトルネックやクリティカル・チェーン、ドラム・バッファ・ロープ、スループットなどを自分の課題にどうアレンジして取り込んでいくか、そういうことを必死で考える苦労は実りの多い苦労だと思う。

自分の頭で考えるためのきっかけは『ザ・ゴール コミック版』で充分だという気もする。ここでエッセンスをつかみ、課題に取り組み始めてからもっと深くTOC理論を学べば、スパイラルに吸収できるかもしれない。どんな課題も自分自身に身近であればあるほど深く考えることができるものだ。考える道筋があると知ることが重要で、コミック版はその役目を充分に果たせていると思う。

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2014/12/18

大片づけ第1フェーズのクロージングに向けて

いきなりフェーズなんて概念を持ち込んでみましたが(笑)。今週末は事実上今年最終片づけデーとなります。翌週一週間はそこで出たゴミを分別して廃棄する最終週になるわけで。そう考えると、どうやっても終わらないわけです。そもそも15年くらい溜め込んだモノをそうそう簡単に片付けられない。

というわけで、ここはこの大片づけプロジェクトのフェーズ1であると言い張ってみたい。私はいわば我が家に居座るモノどもを撤去する地上げ屋であります。捨てられずに残ったモノはいわば負債であり、かなり改善したけれども単年度黒字には至らなかったと、こういうことであります。

しかし年末が近づき一定の成果を出さなければ監査を通らない。ここで不渡りを出すわけにはいきません。と、まぁ知ってるそれっぽい用語をただ並べてみたわけですが(笑)。要は片づけは終わらないけど目途をつけたいと。

とりあえずモノは残っても、それなりに整然と片付いている感を醸し出す週末にしようかな。いま何度目かのカオス状態になっているけれども、これをとりあえず並べ直し、見かけ上だけでも整っている状態にしようというわけであります。

粉飾決算しようってわけじゃありません。価値のある在庫として管理しようと、こういうことでございます。そして第2フェーズとなります来年には、さらなるプロジェクトの進捗と同時に、負債を増やさない生活を心がけたいと考えております。

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2014/12/15

当然テレ東特集という雑誌『ケトル』

たまにいつもと違う書店に行くといつもと違うMOOKに出会う。今回はまさに出会いといおうか、ボクに見つけられるのを待ち構えていたかのように目に飛び込んできたのが『ケトル』(太田出版)という雑誌だ。

VOL.22と書いてあるから22号なのか。初めて遭遇した。「テレビ東京が好き!」という文字列もダイレクトに入ってきたが、「当然テレ東特集」というアイキャッチの「当然」が決め手だった。いや、本当の決め手は蛭子さんのインタビューなんですけどね。

使い古された表現をあえて使って見ると、「なぜいまテレ東なのか!?」を問う内容だ。いまクリエイティブな人間はすべてテレ東に注目しているといっていい。テレ東に注目していないクリエイターなんてモグリだし、アンテナが低すぎる。もちろんボク自身がテレ東マニアだから強気に出ているわけなのだが。

「ケトル」を出してる太田出版はクイックジャパンも出しており、ある意味テレ東率の高い出版社ともいえる。ひとくちメモでも2006年にQJのやりすぎコージー特集を礼賛した。

テレビ東京の面白さをここでグダグダ書く気はない。ただあえて逆をいく、おちまさと風に言うなら「逆に、逆にね。」という意識でテレ東を見ているわけでもない。いや、かつては(90年代頃までは)そうだったかもしれない。ニッチなところをあえて狙うしかない低予算番組という。制作側にもそういう意識はあったかもしれない。

しかし今やそういうニッチな部分は、まぁ無いとはいわないけれども影をひそめ、あえてテレ東だからこそこれが出来るという自信すら漂ってくる番組群が多いのだ。

テレ東のゆるさは例えば“若さ”や“青さ”というのとも少し違う気がする。若そうなスタッフによるバラエティ番組の手作り感から若さや青さの匂いを嗅ぎ取ることも可能だが、そういう青くささが面白いわけでもない。

おなじ悪ふざけをしても他のキー局にある驕りのようなものが薄い。結局突き詰めていけば低予算からくる低姿勢に行きつくのかもしれないが、それが良い方向に作用して醸し出される番組の雰囲気や編集姿勢に表れているような気がする。

他のキー局のバラエティをあまり見なくなったので比較することも難しいが、見なくなった原因はそういうところにあるので、当たらずとも遠からずな気はしている。

「ケトル」は今日買ってきたばかりなのでまだ読み始めたばかりだが、テレ東を内外からどんな風に語っているのか興味津々だ。

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2014/12/13

バブルスーツを捨てる

今日も週末恒例の大片づけ大会継続中です。江戸時代は今日が江戸城のすす払い日ということで年末大掃除の起源とも言われています。そんな日が誕生日の私、今日も張り切って片づけ始めました…。といいたいところですが、午前中はサボってしまい午後から着手しました。

片づけのコツのひとつは、まず大物を捨てることですね。実感としてそう思います。大物というのは物理的サイズが大きい物とか場所を取っている一群のモノたち。押入れを占有してる空き箱とかいらない洋服群とか、とにかくそれが無くなるだけで空間が広がった実感の持てるものをまずどけてみる。それだけでモチベーションアップします。もっともそれだけで片づけた気持ちになる危険性もありますが(笑)。

今日は初めて片づける()趣味の部屋です。クローゼットもここにあるのですが、正直昔の洋服保管施設と化しております。足もとには夥しい量のVHSビデオテープ。そして本本本。それに楽器や機材ラックの類い。クローゼットまでたどり着くのも大変!でもそこにある昔の洋服はなんとしても捨てなきゃならない目標の一角です。

ビデオテープはほとんど見る機会はないわけですが、しかしセルビデオのなかにはもう入手困難なものもありとりあえず保管したいものばかりです。自分で録画したもので、インデックスがないテープは目をつぶって廃棄しました。インデックスがあるものでもカビていたりするものは廃棄。ただカビてても捨てられない1本は、高校時代に撮影した自主制作映画のマスターテープ。カビてるから見れないんだけど、マスターなのでとりあえず保管。もしかしたらカビを落として見れる日がくるかもしれないし。

クローゼットのなかにはバブリーなダブルのソフトスーツがわんさかあって、これらを廃棄していきました。一着一着それなりに思い出はあります。それにあの時代のスーツは生地がとてもいい。でもすべてダブルのソフトスーツで着れない。この生地を活かせるスキルがあればいいのですが、それもなくもったいないけど廃棄しました。

そのなかにジャン・ポール・ゴルチエのスーツもありました。このときのスーツなんだけど。もう入手困難だし着ることもないから捨てました。ただポケットを何気なく探ったら、なんと10,000円札と1枚と100円玉が一個出てきました。下手なコントのような話ですが。思わぬ誕生日プレゼントだよ。バブルのスーツよありがとう!

結局クローゼットのなかには今でも着れる洋服は数着しかなかったです。クリーニングから戻ってきてそのままだけどもう着れないみたいな。真っ黒の礼服もバブルな仕立てで作ってました。これはとりあえず捨てずに置いておきます。

あと東ドイツ軍のコート。中田商店で買ったのもの。2500円だったなぁ。超安くてごっついコート。たしか一回くらいしか着てない。日本の冬には暑すぎて重すぎたから。これも捨てない。ネタ的に置いときたい。ネタという意味ではキラキラのジャケットも捨てずに置いておきます。

今夜はクローゼットは空きましたが、部屋は片付いてはおらず、カオスな状態のまま寝ることに。明日も頑張ろう。

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岡田惠和脚本ドラマとしての「さよなら私」を語ってみる

NHKドラマ10「さよなら私」が終わった。ドラマが始まったときには、岡田惠和さんの脚本で入れ替わりドラマというまさかのシチュエーションに興奮して「奇跡的な入れ替わりドラマ!『さよなら私』」を書いたのだった。あっという間に最終回。NHKドラマ10のこのキビキビした展開も嫌いじゃない。

同じドラマについて2度書くのも珍しい。「八日目の蝉」は特別だったけど。「さよなら私」もちょっと特別感のあるドラマだったから。

入れ替わりドラマという部分については、これでもかというくらいに「入れ替わったままこんなシチュエーションに遭遇したらどーする!?」的な展開が待っていた。夫の不倫相手かつ親友で女性どうし。それも単なる親友じゃない。子どもの頃、生死の境目で出会って友達になった二人だ。その彼女たちが大人になって心が入れ替わり、今度は死を“共有”する。

親友の死に遭遇する辛さを経験することは誰にもある。しかし死を共有する機会はまずない。どこまで行っても他者は他者であって乗り越える術はない。普通なら。それを可能にしたのが入れ替わりシチュエーションだった。それは辛さや悲しみの先にある世界だと思う。脚本にはそこに感情移入させることの困難さがあったと思う。

その死の共有の困難さと同時に、不倫する夫たちへの倫理的な拒絶感もあるだろう。どいつもこいつも不倫しやがって!さらに不倫する夫と不倫相手との共同生活。そしてその夫と相手の女(親友)が生き残る。感情移入がありえないシチュエーションという意味では入れ替わりと双璧をなすこの設定。しかし岡田脚本はここにもチャレンジする。

●佐藤仁美が体現した岡田惠和のキーワード

困難極まりないがんじがらめのシチュエーションをこれでもかと自ら提示しては解決策を模索していく岡田惠和。ドMか()。原作なしのオリジナルでここまで勝負する岡田惠和が好きだ。

岡田惠和のドラマを見ていると、設定は異なってもいくつか重要なシチュエーションがあるように思う。これはボクの勝手な思い込みかもしれない。中島みゆきの歌詞解釈をするときと同じ脳の特定部分が岡田脚本に反応している。同じ匂いを嗅ぎつけてる。

そのキーワードは3つ。仲良し3人組、道草、共同生活。岡田ワールドをこの3つのキーワードを使って紐解けば卒論の一本も書けそうな気がする。「さよなら私」の中にはすべてが詰まっていた。

仲良し3人組は「彼女たちの時代」の影響大で、その時以来の気になる3人組のドラマになった。そのなかでも佐藤仁美の存在がとても大きい。道草はちょっと抽象的なキーワードだけど、サイドストーリーと言い換えてもいい。佐藤仁美の家族の存在は道草側の主役だ。

道草にはいくつかの意味合いがある。不倫も道草のひとつといえばいえる。「夢のカリフォルニア」や「小公女セイラ」でも道草がとてもいいクッションになっていた。「さよなら私」では佐藤仁美&尾美としのりの家庭の存在がこのドラマの鍵を握っていたと言ってもいい。

「さよなら私」の佐藤仁美は入れ替わりというファンタジーと無縁で、やんちゃな子ども2人を持ち、夫はダメ亭主だけど浮気して失敗して戻ってくる、さらにその亭主との間に3人目を妊娠している元気な肝っ玉母さん。典型的なリアルな日常の体現者だ。感情移入しやすいポジションでもある。

3つめのキーワード「共同生活」にも佐藤仁美は欠かせない。つまり佐藤仁美こそがこのドラマの裏のキーパーソンなのだ。彼女がいたから成立するドラマだったと言ってもいい。

●入れ替わりドラマの一言では語れない岡田ワールド

岡田脚本において共同生活は結構いたるところに出てくる。「ちゅらさん」における一風館、「泣くな、はらちゃん」の居酒屋、「ホームドラマ!」の疑似家族などなど。いろんな事情を持った他人どうしが一緒に暮らすことへの願望というか、そこにドラマがあるという確信を岡田脚本から強く感じる。

岡田惠和の“共同生活ドラマ”の系譜においても今回の設定はとても練られてる。ボクにはこの共同生活を成立させるための仕掛けとして不倫と入れ替わりというシチュエーションが導き出されたのではないかとすら思えるのだ。

もし石田ゆり子が単に永作博美の親友だけであったなら、最終的に共同生活は成立しただろうか。親友の夫と生活していく道理がない。しかしそこに不倫相手という距離感を持ち込んでみる。さらに石田ゆり子側には永作博美と心が入れ替わっていた期間があり、藤木直人と暮らすことへのハードルは限りなく低くなっている。

石田ゆり子は母にはなるが妻にはならないという。そういう捻じれた共同生活。まさに岡田惠和の大好きなシチュエーションじゃないだろうか。不倫と入れ替わりがこの共同生活にドラマ的な整合性を持たせる根拠につながっている。そこに疑問を抱かず一緒に暮らせる肝っ玉母さんの佐藤仁美がいる。

そう考えると、このドラマは単に入れ替わりシチュエーションへの挑戦なんて平面的なものではなく、岡田惠和の大好物、つまり仲良し3人組と道草と共同生活とを成立させる方法論のひとつとして入れ替わりを選んだだけなのではないかという気がしてくるのだ。

ドラマ10初参戦の岡田惠和がもっとも描きたい世界観を成立させるために選んだ入れ替わりシチュエーション。そう考えると入れ替わるときの階段落ちも、あまりにあっさりしていた元に戻る目覚めのシーンも腑に落ちる。

ギミックにこだわるのではなくドラマを観て欲しいという思いがある。親友との死の共有、そしてその先の共同生活を描くには入れ替わりシチュエーションは必然だった。コメディになりがちなこの設定を岡田惠和は自身の世界観を描くために使っただけなのだ。だから「さよなら私」は表面的には入れ替わりドラマではあっても、実は岡田惠和脚本の王道といえるドラマではないだろうか。

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2014/12/07

妄想解釈付歌詞カードを額に入れてみた

大片づけをしていると捨てられないモノがいくつか見つかる。これもそのひとつ。2009年にBS熱中夜話で使ったボード。NHKさんが作ってくれたもので、これを使って歌詞分析をした。矢印から右側が伏字になっていて、そこを私が解説してビビる大木さんがめくってくれるという進行だった。

後ろに30人のコアな中島みゆきファンや田家秀樹さんが鎮座されたなか、正解があるはずもない歌詞解釈を披露したのであった。でも思ったほど緊張はしなかったかもしれない。この状況を楽しんでいた。どっと汗は掻いたが。

普通、番組が終わるとこういう小道具は廃棄されるのだが、確か収録終わりに「あのパネルってどうするんですか?」と聞くと「持って帰られますか?」と聞かれ記念に持ち帰ったような気がする。結構デカい(540×720くらい)が抱えて電車に乗って帰った。

テレビの小道具って実際に見るとちゃちなもので、これもインクジェットプリンター(じゃないかな?)で打ち出したようなものだ。それを普通の発泡スチロールのパネルに糊付け(点糊)してるだけ。それが奏功し、今回パネルにいれるのに簡単にはがせた。

私が持ち帰らなければ捨てられていたはずの小道具だが、世界に一つしかない歌詞カード(妄想解釈付)でもある。録画DVDもあるから証拠付のお宝だ(笑)。額装しとかないとクシャクシャになる可能性もあったので、今日ポスターパネルを購入して入れてみた。ちょうどいいサイズがなかったが、A1サイズのブラックフレームにしてみた。これで裏の発泡スチロールパネルは捨てられる。

問題はこのサイズのパネルを掛けられる壁がウチの中にもうないということだ…。主要な壁にはすでにすべて絵が飾ってある。だからこそ、この大片づけと掃除をして飾れるスペースを作らねばならないのだ!趣味の部屋にはまだ手が付けられない。大片づけは来週も続く。

熱中夜話歌詞パネル

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2014/12/06

大片づけ継続中。押入れ無血開城とはいかず…

今週末もまだまだ続くウチの大片づけ。我ながらすごい集中力だ(笑)。週末だけしか作業が出来ないとはいえ、11月の三連休から毎週末片づけては平日の分別ゴミに対応している。日常生活を生きてる実感が、…とそんな大ごとではないわけだが。

2009年に買った単行本用の段ボールも残すところあと4枚程度となった。46枚×18冊とすると約830冊くらいだ。そう考えるとやはり段ボール収納はスペース効率が高い。単行本サイズになると重さも多少あるので袋よりは段ボールのほうがいい。この段ボールは湿気にもそこそこ強いらしいし。

文庫本は百均の文庫本収納袋、コミックと新書もコミック用収納袋にとにかく詰め込んでる。この量もかなりある。A5サイズにちょうどいい収納袋がなく、これも段ボールにすべきか検討中。百均に千鳥というカラーボックス用の引き出し型の収納かご(中は段ボール)があり、サイズ的にはこれがちょうどいいので少し買ってきた。蓋がないのが残念。

ひとつ決めてるのはプラスチックの収納ケースだけは使わないということ。プラスチックは経年による変形や変色が嫌いだから。それにかさばる割には段ボールほど収納効率も良くない。衣類なんかにはいいのかもしれないが出来るだけ使いたくない。

今日の作業は和室。特に押入れと天袋の予定だった。江戸城無血開城ならぬ押入れ無血開城をキャッチフレーズに始めたわけだが、結構すんなり押入れは空いた。中に入っていたものはほとんどがいらなくなった段ボール箱ばかりだった。VHSデッキの段ボールなどもあった。デッキは捨ててるのに段ボールだけ大事に保管していたなんて!

他にも、もう使っていないパソコンのでかい箱、もう使っていないミニコンポのでかい箱、もう使っていない中華鍋の箱、何がはいっていたかついにわからなかった光製作所のでかい箱などなど、とにかく保管しておく必然性のない箱箱箱 このマンションのこれだけの面積を15年以上も占有し続けたのがこんな空箱だったなんて。数十万円クラスの大きな損失かもしれない…。ここで金勘定しても仕方ないわけだが。

とりあえず取り出した箱を解体して資源ゴミ化していった。それはまるで「できるかな」のノッポさんのごとく。無言の作業だった。

何はともあれ押入れ無血開城成功!…と思いきや好事魔多し。解体した段ボールをひとつの段ボール箱に詰めていく作業中に、段ボールの切れ端が親指の爪の間にグサっ!段ボールって結構硬くて強い。若干出血してしまった!無血で終われなかったのだ()。今回も押しピンのとき同様にとりあえず洗ってバンドエイドを貼って作業を続けているところ。ちょっと休憩してブログを書いてみた。

●思い出のミニコンポと一眼レフカメラを捨てる

いま現在、燃えるゴミが130リットルくらいと資源ゴミ化した段ボール、座椅子の金属パイプなどまた来週も計画的に作業をすべきゴミどもがまとまった。そのなかに思い出のミニコンポと一眼レフカメラもある。

どちらも山口県時代に買ったものだ。いつだったか正月帰省してて、ラジオで細野晴臣特集があることを知った。その放送日はちょうど山口からこっちに帰ってくる日の夜だった。それをどうしてもMDに録音したくて山口県でミニコンポを買って新幹線に持ち込んで帰ってきたのだった。

さすがにデカい段ボール箱だったが、このときは偶然にも新幹線が一番後ろの席で座席の後ろに大きなスペースがあり、そこに置いて帰れたことを覚えてる。そして無事に録音できたのだった。そこまでして録音したMDもプレイヤーがなくてもう聴けないわけだ…。もっともこのミニコンポもMDを出し入れするモーターがいかれてて使えなくなっていた。

一眼レフカメラと望遠レンズは中学時代だったか、母と買いに行ったコンタックスのカメラだ。カメラ屋でいろいろ説明を聞きながら買った。このカメラで主にプロレスの試合を撮っていたと思う。ブルーザー・ブロディに追い回されながらシャッターを押しまくっていた。

だがこのカメラを知人に貸したのが良くなかった。運動会かなにかで熱が入っていたのか、その人はボディの部分をボロボロにして返してきた。その持ち手の部分からカビはじめボディが真っ白になってしまった。まぁその後のケアも充分じゃなかったわけで。世の中もどんどんデジカメに移行して、いまやコンタックスブランドもなくなった。

このふたつを捨てられたのは精神的には大きい。断捨離のハードルをひとつ越えたような気がする。まだまだ片づけは終わらないが、それでも山を越えつつある気がする(いや丘くらいかな)。

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