google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2014年11月

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2014年11月の7件の記事

2014/11/30

見せかけの勤勉だけを生んだ成果主義という病い

3連休の先週から始めた大片づけ大作戦。今週末も継続中だ。今日は書籍を箱や収納袋に入れてレンガ積みにしている。やってもやっても押し寄せる書籍の山。収納袋も不足し途中で出かけて買い占めてきた。それでも、先週資源ゴミ(雑誌類)や燃えないゴミを廃棄出来たこともあり、60%程度のスペースが出来た。ここを作業場としてさらに別の部屋の書籍やメディア類をユニット化しつつ、雑誌や紙ごみを捨てていかねばならない。

この大片づけはクリスマスイブあたりを最終局面と考えてそこから逆算して進めているが、休日だけしか出来ない。そうなると後10日ほどしか猶予がない。週一回しか出せない資源ゴミと燃えないゴミに至ってはあと3~4回しか捨てるチャンスがない。

だが期限のある仕事のほうが燃える(笑)。さらに片付いた部屋は気分がいい。それがモチベーションにもつながる。混沌のなかでは見えなかったゴールが見えるのはやる気につながる。もっとも一般論からいえばまだ全く片付いていないと思うが。

すべてが自分でコントロールできていることも重要かもしれない。やろうがやるまいが自己責任の世界。相場の世界に似ている。だがリスクはずいぶん少ない。押しピンを踏んでしまうくらいだ

こういったやる気と成果の関係が、日本の一般社会、特に企業のなかに入るとまったく機能不全に陥っているらしい。その実態を教えてくれるのが『日本人ビジネスマン「見せかけの勤勉」の正体』(太田肇著、PHP研究所刊)だ。あと少しで読み終えるところだったので、今日の大片づけおが終わって読み終えた。この本も収納可能となった(笑)。

●どうやっても失敗する成果主義

見せかけの勤勉は“やらされ仕事”にはつきものだろうし、成果主義の裏返しでもある。成果主義なんてのは当初からまったく信用してこなかった私だが、結局何一つ有益な成果が残せなかったのが成果主義である。成果主義なんて皮肉な命名だったな。

しかしこれだけ日本が疲弊していても、いまだに成果主義、やる気主義を金科玉条のように考えている人々もいるようだ。ソニーの凋落などもそうかもしれない。経営者は首切りを自らの成果だと考えているのか、自らには数億円の報酬を与え社員の首を斬る。それを成果というなら簡単でおいしい生活が可能だ。そういう組織では失敗を極度に恐れ見せかけのやる気と「これだけやりました」という言い訳のための勤勉とごますりが横行する。

個々人の成果を誰かが評価出来るという妄想を抱いていることが成果主義の失敗の本質だろう。成果の定義も曖昧ならば、組織にとって部分最適を構造的に誘発する危険な思想でもある。そもそも成果が上がってすらいない企業なら、何をもって個々人の成果を個別評価できると考えているのか。評価している経営者こそがまず組織としての成果を上げてから言えって話だろう。

組織としての成果が上がらないとき、その失敗のプロセスを共有することが急務だが、成果主義のもとではそれも困難になる。下手に共有すると自分自身の成果(部分的成果)が圧迫される人も出てくるからだ。その可能性を回避しようと行動する人が次々と出てくる。経営者もできる限り失敗を過小評価したがる。成果を担保するために失敗から目を背ける。そして本質的な議論のないままトカゲの尻尾切りが行われる。あるいは逆に失敗隠蔽のため問題を持つ人間を取り込んでいく。成果主義のもとで改善の余地はどんどん狭められていくのだ。

おそらく成果主義などという言葉もコンサル的な戯言に過ぎず、その詐欺的な手法に乗せられたアホな企業人の悲しい自慰行為のひとつであり、それに付きあわされる多くの人々はその火の粉を払うためだけに心血を注ぐようになる。

何度も使ってきた例えだが、そのような環境で生きる被評価者は脱北主義に陥らざるをえない。横暴な圧力や権力からいかに逃げるか、あるいは取り入るかが最優先の課題となる。それはまさに北朝鮮から逃亡する脱北者のごとく。はたまた権力者の太鼓持ちのごとく。いったい何が成果なのかすらわからなくなっていくのだ。

組織には取り入った成果として権力を持った人々が跋扈し腐敗を拡散していく。そして腐敗した企業から残り少ない富を奪って逃げ切ろうとし始めるのだ。本来の仕事が出来ていれば生み出せたはずの企業価値が失われていく。合わせて個人の尊厳も失われていくのだ。

成果(部分的成果)を上げ続けることは不可能と言っていい。成果主義を導入すると常にプラス評価を求められる。これも相場を知っていれば自明だがそのような相場が一番危ない。バブルが続くという妄想とともに、落ちたときには再起不能になる恐怖が常につきまとう。それもやらされ仕事だから自分自身でコントロール不能な仕事も多い。そこで不正に手を染める人間も出てくる。会計処理で逃れようとする輩もなかにはいる。

「成果を上げ続ける」というゴール無き幻想が正常な判断(相場で言えば損切)を困難にする。そもそも損切に慣れていない経営者が多い日本企業に成果主義という妄想的劇薬は悲劇しか生まない。バブルも急落もせずに安定した経営を続けていくには成果主義は最悪の選択だ。個人にとっても健康で文化的生活を破壊する。生身の人間が壊れ、法人というサイコパスだけが肥大化しいずれ崩壊する。それを繰り返すのが本当に資本主義の目指すべき社会なのだろうか。株主資本主義のもっとも醜悪な部分だけが幅をきかせている。

●承認欲求とモチベーションが渦巻く社会

では見せかけのやる気主義や成果主義を脱するために何が出来るのか。完璧な処方箋などないし、だからこそ人間社会というのは面白くもあるわけだが、それでも組織運営手法として考えると何らかの方策はありそうだ。著者はそこを承認の方法論で説く。簡単にいえば個々人の承認欲求を満たし仕事の所有感を与えることで組織を円滑に機能させる方法論だ。

また話は若干逸れるが、いまこの社会は「承認欲求」が様々な分野で重要視されているように感じる。認められたい、評価されたいという渇望が強い社会のようだ。それは人間の持つ本能なのだろうか。

逆にいえばそれほどまでに渇望しなければ承認されているという充実感が満たせない世の中ともいえる。誰に承認されたいのかはあまり問わない。援助交際やAV女優、風俗で働く女性に非合法売春まで、性産業が貧困問題とともにこの承認欲求で語られるようになった。納得できる説だ。

性を売ることでカネと引き換えにバランスを欠いた精神が崩壊していくという従来解釈は間違っているという。実態は承認されたい、認められたいという承認欲求を満たされる場として性産業に入っていく女性が増えているそうだ。AV女優の収入もどんどん下がっており、普通の就職と変わらない。ただ自分自身の持っている能力次第で認められる(という気持ちになれる)場がそこに存在する。

時の首相に輝くことを強制される女性の仕事環境の悪さが突出して目立つわけだが、この承認欲求は女性に限らないだろう。長期停滞社会のなかで人心が荒み仕事環境は悪化している。そこにつけ込むようにブラック企業が簡単に取り替え可能な労働力を酷使する世の中だ。

私はこんな社会をDV社会だと思っている。あるいはネグレクト社会と言ってもいい。精神的に豊かな社会では親や世間から安定した承認を受けながら子どもが育ち、承認を受けて育った世代が親となりさらに社会を豊かにしていく。教育も承認を基本として組み立てられる。

しかしいまの世界にそんな理想郷はどこにも存在しない。紛争地帯でない先進国においても強欲資本主義が労働者を酷使する。内向きの精神構造が排外主義的な行動になって表出し更に内向きになっていく悪循環。展望なき酷使や排外主義に日々さらされている人々は、ちょっとした承認や仲間内だけで承認にすがりつく。

その危うい承認がモチベーションとなったとき、テロリズムにもつながるだろうし、危険な成果主義につながる可能性もある。

承認欲求が本能ならば、それをうまく使って組織を運営していくことは有益かもしれない。しかし根拠のない承認は腐敗の拡大にもつながる諸刃の剣だ。『日本人ビジネスマン「見せかけの勤勉」の正体』の著者はそれも重々承知して、どういう過程や心持で承認を与えるかという方法論を書いている。その通りに出来ればいいが万人にそれが出来るわけもなく、不条理な承認も無くなることはない。人間力を高めるには教育が重要になるが、アベノミクスの世の中が続けばそれも望めない。

こういう社会では自分自身で何がコントロールできるかを常に考え行動することが大切だと思う。そこにしか打開策がない。自分自身をコントロールすることで精神の崩壊を防ぎ、出来る限り承認の質を見極め判断できるようになることも重要なスキルになる。脱北社会はまだまだ続くようだが、脱北した先を見据えて自分自身に恥じない生き方、自分が自分を承認できる生き方を目指せればまだ救いがあるといえる。

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2014/11/28

画鋲を踏んだ日

♪そーじーをしていて 顔色かわる
♪そのとき 一個の 画鋲をふんだ

♪ひとはどうして 画鋲を踏むと
♪天井みつめて 耐えるのでしょうか
♪燃えないゴミの日 出し終えるとき
♪痛みも消えると 思うのでしょうか

♪画鋲を上から 踏みつけるなんて
♪考えただけで 恐ろしい
♪季節はずれの 大掃除
♪ああ 私の足の裏

♪画鋲を踏んだ 画鋲を踏んだ
♪夜中に ひとりで うずくまるのね

というわけで、「カモメが飛んだ日」の替え歌で自分を慰めてきたわけですが。しかし人間の体というのはすばらしい治癒力を持っているようで、洗って絆創膏を貼っておけば二日でなんとか歩けるようになりました。もちろんまだ違和感はありますが。

燃えないゴミを出し終えるとずいぶんスペースが出来ました。もう少し書籍の整理に時間がかかるけど、それが終われば今度はこのスペースを使って別の部屋の大片づけをやらなければ。明日からは上履きを履こう!せめてスリッパ。

まだ今年は一か月あるとはいえ、土日作業が出来る日数を計算すると実質はあと10日しかない。燃えないゴミや資源ゴミを出せる曜日を計算しながらちゃんと計画的にやらなければ年内には終われない!

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2014/11/24

史上最大の大片づけ大作戦…苦戦中(笑)

これまでの人生において引っ越し以外にこれほど大規模の大片づけをした記憶がない。リビングのクロス全張り替えですらここまではしなかった。この3連休はまさにそんな大片づけ大作戦を実施した。まだ終わっていないが今年一番のイベント「夜会」の観覧を終え、後は年末まで怒涛の片づけ作業に没頭したい(休日限定だが)。

それにしてもゴミというのは認識次第だな(笑)。それをゴミだと思えばゴミになり、思い出だと思えば思い出になる。この変幻自在の魔物は我々の心に住みつき、物理的に住空間を侵食していくのだ。気づかないうちに心の奥底に住みついて我々をコントロールしようとする。そして住空間はこの魔物が住みついた魔宮と化していくのだ。

どこかで断ち切らねばならない。しかしこの魔物は心に住みついているがために、振り切ることが容易ではない。なんらかのモチベーションを高めるきっかけを持つことが必要だろう。そしてやると決めたら一気呵成に攻める。一日では終わらないのだが、しかし始めるときは一気呵成に本丸を突くことが重要だと思う。

これまで捨てずに済んでいたわけだから、今後もキャパが許す限り溜め込むことは可能だ。あるいはいまある現状はそのままに日々自転車操業のように生ゴミだけを捨て続ける生活だって生きてはいける。

だがそれでいいのか。ツイッターにも書いたが、これから30年経ち40年経ち体力もなくなり気力もなくなり保守的になり現状肯定しゴミ屋敷の住人となってしまう自分を思い描くとゾッとする。ゴミの中で死んでゴミとなるのか。その時残されたゴミの山は誰が整理するのか。

捨てるのも技術だし片づけも技術だ。この際、掃除は横へ置いておく。片付かなければ掃除など出来ない!とにかく片づけて捨てる。この技術を身につけねばいまを生きる資格がない。そのような決意をもって挑んだ3日間であった。

とはいえ実質稼働時間は2日くらいか。ゴミの日が決まってるからまとめたゴミを捨てることも出来ない。大規模マンションなら24時間可能なんだろうがウチは不燃ゴミも資源ゴミも週1回しか捨てられない。となるとゴミ認定してまとめてもそれを室内に置いておかねばならず、次のゴミを置いたり作業するスペースがない!ゴミをまとめて捨てるのは大変なのだ。これも過去の怠惰が招いた結果だ。今週はゴミのなかで生活しつつ、毎日なにかを捨てていかねば。

ここで片づけ本のひとつもアフィリエイトで紹介するべきかもしれないが、今回はあえてしない。片づけ本を読み漁っても片付くことは永遠にない。モノがひとつ増えるだけだ。読むより体を動かすことだ。魔宮と化した部屋へ自ら踏み込み手を付けることだ。そこから道は開ける。

●捨てるだけじゃなく収納も考える

Cd_rack
ウチのなかには夥しい雑誌、書籍、CD、DVDがあり、楽器や機材もある。それ以外のものはほとんど捨てられるような生活だったことがこの大片づけでよくわかった。しかし捨てられない夥しいモノたちは収納せざるを得ない。それをどうするかも日々考える。

書籍の収納に関しては以前「お手軽!専用段ボールで蔵書収納」という記事を書いた。この記事はいまでも割とアクセスがある。この段ボールはとてもありがたくて単行本はこれで結構スペースが空く。今回も大活躍だ。

ただ、この記事以降の変化として、デジカメで写真を撮って印刷し箱に貼るという方法すら不要と考えるようになった。デジカメではなくスマホで写真を撮りそれをクラウドに保管する。その際、箱に番号だけ振っておき、その番号を画像ファイル名にしておく。

番号の振り方はどうでもいいが重複を避けるなら作業年月日+連番がいいような気がする。私の場合はパソコンのファイルもほぼそういうファイル名をつけて保存するクセがあるためこれが合ってる。

こうしておけば必要な本はクラウドでいつでもどこでも探せるし、見つかれば番号の箱を探すだけでいい。印刷して箱に貼った写真も色褪せたり滲んだりすることがある。そうなると写真の意味がない。スマホとクラウドというツールを利用しない手はない。写真も拡大して見られるので探しやすい。

蔵書管理ソフトなどでナンバリングできるような人間ではないが、本の背表紙の写真を眺めるのは苦にならない。それが読書人の特技というものだろう。それに自分で箱詰めした書籍群はなんとなく記憶に残っているものだ。まぁ年取ったらわからんが。当面、この方式でやってみる。

文庫本や雑誌、CDなどは100円均一で売ってる収納袋を活用してる。破れやすいしファスナーもすぐ壊れるが、この手軽さは最低限「仕切る」「まとめる」という用途には最適だ。

楽天で探したら文庫本とコミック、ワイドコミック、雑誌といったサイズは売っていたが、CDやDVD用は近所の100均にはあるがネット通販では見つからなかった。あまり需要がないのかな?CD売れてないからな。

でも私は震災後の片づけでCD用を超活用してる。それが上の写真。ほんの一部だけど、CD収納袋に入れて耐震ラックに並べている。スリムケースなどに録画したDVDはラベルが見えなくていいので90度向きを変えて置いたりもしてる。

昔は木製ラックを買ったりプラスチックの積木みたいなのを使ったり、IKEAの背の高いラックを使ったりしていたけど、震災ですべて倒れた。倒れなかったのはルミナスのテンションラックだけだった。

それでいまでは基本はテンションラックにして、IKEAの木製ラックもテンションラックにくっつけて使ってる。スチールラックは女性ひとりの力だと組立が大変だったりもするが、天井に突っ張り柱で突っ張るので揺れには強い。

ただいくらラックが倒れなくてもCDやDVDは落ちてくる可能性がある。落ちるのは仕方ないがなるべく散乱させたくないので100円均一の収納袋にいれてる。フタが透明なのが圧倒的に便利なだけで、強度とか品質は最低限だと思って割り切って使うべき。

と、いろいろ収納について書いてきたわけだが、ガラクタをまず捨てるのが先決で収納はそのあと。掃除は更にそのあとだ。片づけても片づけてもなかなか終わらないこの不条理な魔宮から早く抜け出そう。それが今年末の一大テーマである。

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2014/11/22

中島みゆきに戻ってきた猫をめぐって~夜会 2014 ~

夜会「橋の下のアルカディア」@赤坂ACTシアター11月20日(木)雨。久しぶりの雨だったような気がした。中島みゆきさんの夜会Vol.18「橋の下のアルカディア」を鑑賞するため赤坂ACTシアターへ赴いた。

席はD列29番。チケットが当たった時に4列目なんてジョアン・ジルベルト初来日以来、予想外の良い席だと喜んだが、D列は最前列だった。想定外のことに緊張した(笑)。思えば1984年に中島みゆきさんのコンサートを初めて生で見た。その時は立ち見券を購入するのがやっとだった。そこから苦節30年!ついに最前列かぁと感慨もひとしお。大きく動く中島みゆきを堪能しようと心に誓った。

ボクは単なる長年のファンのひとりだけど、BS熱中夜話で「地上の星」について思うところを語らせてもらったことから派生して、その後フジテレビの深夜特番「うたバナー」で1回、JWAVEのしょこたんの番組で1回、中島みゆきの歌詞について語る機会をいただいた。そしてラジオを聴いてくださった編プロの方から原稿を依頼され「ねこみみ」というMOOKにエッセイを1本書かせていただいた。もう語り系ファン冥利に尽きるとはこのことで、そこで中島みゆきファンとしての頂きを見たかのようにも思っていた。

ところがこの最前列。それもBarねんねこの目の前。ペルシャを歌うみゆき嬢と一瞬目があった(ような気がした)。歌声だけでなく喉の震えすらわかるような席で息をのんでみつめてしまった。なんだかあっという間だったような気がする。舞台の下のアルカディアである。

ボクはみゆきさんが「ねこみみ」を読んでくれているのではないかという妄想を持っている。「ねこみみ」には谷山浩子ちんのインタビューも載っているし、浩子ちんから「みゆきさーん、こんなん載ってるぜー」とボクの書いた「中島みゆきの歌詞に住む猫」を見せられて渋々読む…という妄想だ。

そこには中島みゆきの歌詞に出てくる猫の分析(妄想)があり、最後に「いつかまた中島みゆきの歌詞に住んでいた猫が、ふらっと歌詞のなかに舞い戻って来てほしい。その猫がどんな猫かをまた妄想したい。」と書いていた。

そんなボクにとって「橋の下のアルカディア」の主人公のひとりが猫であったことには重大な意味がある。中島みゆきの世界に猫が戻っていたのだ。それも(存在としても象徴としても)特別大きな猫が。

夜会について書く切り口はいくつもある。しかしボクが書くならここしかない。しばらく猫から遠ざかっていた中島みゆきさんからひとつのお返事をいただいた気分とともに、この猫について語ってみたいと思うのだ。

●猫との距離感で捉えられる時代

中島みゆきと猫。歌詞に出てくる猫はパーソナルな存在としての猫がほとんどだったが、「世情」は違うように見えた。その疑問から書き始めたのが「ねこみみ」のエッセイだった。

猫と中島みゆき。猫の登場頻度はそのまま中島みゆきさんと世の中との距離感のような気がしていた。歌詞から猫がいなくなっていく時代と歌詞が難解になっていく時代とのシンクロあるいは乖離。中島みゆきにとっての猫は時代と彼女との距離感のバロメータだと思っている。

そういう認識で迎えた「橋の下のアルカディア」だった。Barねんねこの代理ママ豊洲天音兼猫のすあま。演じるのは中村中。彼女の起用は大成功だと思う。その感性の豊かさは歌声でも演技でも輝いていた。中島みゆきだけにくぎ付けになるかと思ったが自然と二人を均等に見ていた。

「Barねんねこ」ってのがいい。水晶占い師人見(中島みゆき)のお隣さん。場所は橋の下の長屋だ。洪水対策で立ち退きを迫られてるが、いまだに住み続けている民としてのふたり。まさにこの距離感。まさにこの目線の低さ。そこにいまこの時代に、中島みゆきと猫の関係性が際立っていることをうれしく思った。

また江戸時代、天明の大飢饉の時代、猫との暮らしを橋の下で引き裂かれた村女の人身。猫との別れには時代背景が大きくのしかかっている。いつの時代も猫との距離が近い世の中こそがアルカディアたりえるのだろう。

輪廻の先に再び巡り会い、また離れゆく命。浮世の出会いがアルカディア(理想郷)であれば幸せかもしれないが、たとえ幸せでなくともまたきっと巡り会える時が来ることを信じたい。

そんな物語を描くためなら、男女の仲だけでも構成できたはずだ。しかしそうではない。そこに猫が人格を持って描かれている。これこそが中島みゆきと猫との関係性を研究(?)してきた身には、猫で描かれるメタファ(のようなもの)を妄想したくなる仕掛けなのであった。

メタレベルで見れば、猫が中島みゆきから遠ざかるとき世の中はキナ臭くなる。中島みゆきの意識のなかに猫が戻ってくる時代は、おだやかであれと願う時代でもある。中島みゆきのなかでは大震災は終わっていないと思えるし、それを横目に暴走するこの強欲な世の中の行く末を不穏に感じているのかもしれない。あえて夜会に再び猫をフィーチャーした背景にそんな思いを持った。それは再びライブ縁会で「世情」を歌いたくなったこの時代への中島みゆきのまなざしと地続きだろう。もちろんこれも推測の域を出ないわけだが。

●猫から離れて橋の下のアルカディアを語ってみる

ほとんどすべてのストーリーが歌によって紡がれていく。夜会の目指す舞台表現、演劇でもミュージカルでもない「言葉の実験劇場」としての完成度はますます高まっている。歌の歌詞を聴き洩らすまいと耳を澄ます。

歌としての完成度を求めつつ、夜会の物語としてしっかり機能する楽曲群。これはまさにオブジェクト指向といえるのではないだろうか。夜会というプログラムは演劇的なスクリプトとは構造的に異なり、ミュージカルほど物語に縛られない。そして歌唱用のマイクは今回も健在だった。ただマイク導線のさりげなさは進化しているように思う。

楽曲を夜会のために新作で作るシステムになってから、格段にオブジェクト指向が機能しやすくなったと思う。ゲストキャストに男女2名を招いたのも、異なる3人の台詞を歌で実現できる目途がついたからだろう。新作主義になってからは自然な流れだと思った。もっともこの世界感を共有できる歌手兼役者がいてこそなのは言うまでもない。

アルカディアというと、ボクはキャプテン・ハーロックのほうが先に頭に浮かんでしまう。我が青春のアルカディアとか。

もちろんまったく関係ない(はず)。そりゃ最後にちょっとイメージ被るシーンもあったけど、そこは穿ちすぎだろうな。

最後といえばIndia Gooseという楽曲。インド雁というのはチョモランマ(エベレスト)を超えて飛ぶ渡り鳥だという。中島みゆきはインタビューのなかで、「非力ゆえに逆風に乗ることでしかチョモランマの峰を越えられない小さな雁の歌」と応えている。非力でもチョモランマを越えられる鳥の歌ともいえるだろう。このダイナミズムは中島みゆきの真骨頂ともいえそうだ。猫以上に鳥もまた中島みゆきにとって重要なイメージだ。

最後のシーンは賛否両論かもしれない。舞台装置としては大がかりな仕掛けだ。だが唐突感もなくはない。時代背景もここはあまり説明的な描写もなかったように思う。大衆的ではあった。そこは重要なところで大衆的であることは確実に必要な要素だ。

あのシチュエーションで大仕掛けをするとすれば、そこにキャプテン・ハーロックのアルカディア号が出現しても良かった気がするが、準拠枠を持たない観客にはなお一層意味が分からなくなるだろうからこれは却下(当然か)。

どのように感じるかは観客に任されるからあえて書かないほうがいいかもしれない。ただこのラストに惹かれた人にはおススメの映画がある。タジキスタンを舞台とした「ルナ・パパ」という映画だ。「橋の下のアルカディア」を見てまさかの「ルナ・パパ」を連想してしまった。ルナ・パパの感想はこちら

メインキャスト3人の歌の素晴らしさは誰もが納得だと思う。中村中、石田匠、中島みゆき、それぞれの台詞として歌を聴き、音楽としても受け止める。中島みゆきの抽象的な歌詞によって紡がれる物語だから、あまりストーリーに拘泥するのはおススメしない。それは歌詞解釈に論理的整合性を求められる辛さに似ている。

それよりも、その場面場面をショートストーリーのように捉えて、シーンのなかで歌われる言葉と音に集中したほうがいいように思う。全体を把握したいと思うとすればそれは演劇やミュージカルを楽しむ手順に引きずられている。ディテールにこそ神が宿る。それが夜会だと思う。もしそれが難しいという方にはデビッド・リンチ監督の映画「マルホランド・ドライブ」をおススメしたい。夜会が厄介に思えなくなるだろう。

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2014/11/08

歌詞解禁されたフィギュアスケートへの雑感

キムヨナ引退とともにボクのフィギュアスケート熱も引退かと思っていたけれど、乗り掛かった舟(?)といいましょうか、キムヨナも指導者資格を取得するようですし、もう少しフィギュアスケートを観ていきたいと思う今シーズンです。

いま一押しは今井遥。何が好きかって顔が好き()。ツイッターには2回ほど今井遥について書いてました。

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Twitter_pprr_normal2013年12月22日(日)
今井遥はなかなかいいな。全日本の層の厚さをあらためて感じた。荒川静香さんの新書を読み終えてジャンプの種類を確認しながら学習中w
posted at 19:51:53

2014年10月26日(日)
去年の12月にも書いたけどもう一度書いておこう。今井遥はなかなかいいな。体力がついて来ればまだまだ向上すると思う。
posted at 14:40:38

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彼女はキムヨナと比べると体力が少し足りない気がする。もっと体力がついて来ればもっともっと伸びる選手だと思って期待したい。また個人的にも日本人しか愛せない俄かフィギュアファンからの罵声を聞かなくて済むことを期待したい(笑)。

さて、今シーズンから大きなルール変更があった。男女ともにシングル競技で歌詞のある楽曲が解禁になった。これはフィギュアスケートにとって諸刃の剣だ。しかしこれを活かせる選手もきっと出てくる。今日はダンスと歌詞についての雑感を書いてみたい。

この記事は昨年のパリ旅行記「フィギュアスケートと音響と編曲についての雑感」と関連している。そのとき歌詞についても少し触れていた。そこにこう書いていた。

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アイスダンスはフィギュアスケートの競技のなかで唯一歌(歌詞)が乗っていてもよい競技で、より音楽とのシンクロが重要視されるんじゃないだろうか。しかしその音楽は既成のテープを切り貼りしただけのような、とんでもなく稚拙な編曲が多かった。
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重要なポイントはこれまでなぜアイスダンスだけが歌詞を認められていたのかだ。その理由を調べたわけじゃないので個人的な予想でしかないが、ボクは次のように思う。

アイスダンスはジャンプが規制されてる。フィギュア=ジャンプという多くの素人が持っているイメージと異なる競技だ。それだけに“万人受けする表現”をわかりやすく見せる(聴かせる)ための仕掛けとして歌詞の力を借りている面があるのではないか。

それと氷上の社交ダンスとも呼ばれるアイスダンスはまさに“ダンス”なのだ。ダンスミュージックで歌詞の有無をとやかくいうのは粋じゃない。芸術よりも大衆芸能に近い競技といえる。実際パリで見たアイスダンスは面白かった。

これを裏返して考えれば、今回の男女シングルで歌詞解禁が拓く世界も見えてくる。これも個人的見解だが、これはフィギュアスケートの大衆化だ。そしてこれは個人的妄想だが、その背景にはチーム・キムヨナの存在があったような気がする。

●フィギュアスケートの大衆化とダンス化

キムヨナの演技について、ボクはこのひとくちメモでずっとふたつのキーワードを言い続けてきた。ひとつはキムヨナの身体能力がアスリートのものではなくダンサーのものであるということ。もうひとつはショートプログラムの007に見られた大衆的な音楽の完成度だ。

そのキムヨナの大衆性とダンスの才能が最高潮に達したのは2010年バンクーバー五輪のシーズンだった。(日本以外の)世界が大衆性とダンスの面白さに開眼したシーズンだったと思う。

もちろん、それ以前に大衆的な楽曲もたくさんあったけれど、キムヨナのダンサーとしての身体能力(ビートで踊れる才能)が計算され尽くした大衆音楽(007のテーマ)に乗って未知の氷上ダンスが出現したと思った。ボクの音楽脳は真っ先にそこに反応してしまったのだった。

しかしその時点で一足飛びに歌詞解禁とはいかなかった。そこまでのフィギュア界はアスリート志向だったわけだし。ジャンプの回転不足を激しく攻め立てる風潮もあった。それが行き過ぎたところで今度は表現力に振り子が振れ始めたのが現在のフィギュア界ではないだろうか。

アスリート志向のなかでもキムヨナは強靭なバネと正確なビートでアスリートとしての能力も見せつけながら、あえて“ダンス”を踊ってみせた。一度世界が見たチーム・キムヨナの大衆性の魅力はもう後戻り出来ない。

キムヨナ引退後にこの(日本以外で)大衆ウケする表現力路線を継承するチームが多く出現する可能性はあり、歌詞解禁はそれを後押しする可能性も大きい。

ダンスミュージックの歌詞をプロパガンダ的に使う輩が出てこないとも限らない。しかしそんなリスクはそれこそ大衆が受け付けないだろう。フィギュアスケートは大衆化し、ダンス競技に華麗に進化していくのだ。

そう考えれば歌詞解禁は大歓迎なのだが、しかし諸刃の剣と書いたのはその歌詞ゆえに競技音楽としての設計は格段に難しくなるためだ。昨年のパリで見たアイスダンスの稚拙な楽曲の体験があるため余計にそう思う。

選択肢が増えるのは悩みを増やすことにもなる。その音楽のそのパートに歌詞(=言葉の意味)が乗ることが表現力のなかでどう位置づけられるのか。氷上の哲学者町田樹だったら喜んで考えそうなテーマだが、歌詞を載せることがかえってマイナスになる選手も必ず出てくる。

現段階でボク自身はこの流れを大歓迎だ。チーム・キムヨナが拓いたフィギュアの大衆化とダンス化と捉えているからに他ならない。歌詞の有無を離れても、アスリートとしての能力に加えて音楽的・ダンサー的な表現力がいっそう求められるようになる流れだ。選手にとってはチャレンジングな競技になっていくだろう。

歌詞をプラスに使えるかマイナスにしてしまうか。マイナスになるくらいなら歌詞がないほうがいい。その選択もチームの技量になってくる。気楽なファンとしては、たかがダンスミュージックの歌詞じゃねぇかと楽しめる楽曲こそが正しい。ダンスに惹き込むギミックとして歌詞を使って欲しいと思う。

単なるフレーズリフレインならまだしも、ダンスミュージックとしてパッケージングされた歌を完璧に踊れるダンサーが出現するだろうか。またそんなダンサーにマッチした楽曲が出現することを願う。少し気が早いが、そんな選手をキムヨナが育ててくれることも夢見ているのだ。

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2014/11/02

SONGS 中島みゆき ~テーマ音楽の世界を見終わった!

いま見終わった。これだけの楽曲を詰め込んで30分番組ってのはもったいないなぁ。でもみゆきさんの語りが全部テロップ入りで流れて、まさに見るラジオ(笑)。今回は朝ドラ「マッサン」との絡みもあるし、テーマ音楽の発注を受けた中島みゆきの気持ちを本人の口から語ってくれた貴重でオモロイ番組だった。

それにしても光陰矢の如しと申しましょうか、安達祐実の「家なき子」から、に、に、20年!いきなり時間の流れがどどどっとのしかかってくる感じ。中島みゆきナイトで祐実ちゃんとお話してからも5年経ってしまった。5年前の今日だったんだなぁ。はぁ...。「空と君のあいだに」はドラマの印象とあいまってものすごく記憶に残る作品でしたね。カップリングは「ファイト!」だったかな?それも良かった。

そして唐十郎のスペシャルドラマ。安寿子の靴、匂いガラス、雨月の使者、どれもNHKじゃなきゃ作れないドラマだったし、中島みゆきをテーマ曲に使おうとした意図も分かった気がした。もっともその意図をうまく説明できないけど。音楽とドラマとが一体になった不思議な世界だった。この3本のドラマは、いまの夜会につながる雰囲気を持ってるような気がするんだけど。

民放では、「親愛なる者へ」は懐かしかった。当時、こういう楽曲の世界観やイメージをドラマに展開するというパターンはフジテレビで流行ってた。「Dr.コトー診療所」の「銀の龍の背に乗って」と「東京全力少女」の「恩知らず」はどっちも好き。

そして金八先生の「世情」だよ。1981年のことですか。なんか当時吸ってた空気の匂いまで思い出せそうな気分になるんですよ。このシーンを見ると。ドラマのシーンとは直接関係のない歌詞なんだけど、歌声とメロディと時代の雰囲気と、なにかマッチするものがあったんだろうな。瀬尾一三さんが番組の音楽プロデュースをされてたとか。みゆきさんとの面識はまだなかったそうだ。

コンサート縁会での世情は沁みたね。いまとなってこのコンサートはボクにとってのほろ苦い思い出になってしまったのだけど、中島みゆきというシンガーソングライターはそういうリアルな生活と切っても切れない存在なのです。出会えてよかったよ。

そして「地上の星」ですね。これは新しいみゆきファンも昔からのファンも老若男女問わず広く知られる歌になった。シンガーソングライターでありながら歌謡曲のような広がりを見せた記念碑的な作品だと思う。 NHK紅白での黒部ダムのインパクトは相当なものだったし、プロジェクトXという番組の素晴らしさともマッチした。ボクもちょこっとくらいは貢献できてたらうれしい()。

SONGSを見直しながら書いてきました。ちょうどここで終了。オレのタイピングスピードもまだ衰えてないな。今月は久しぶりに夜会にもはせ参じる予定です。それではおやすみなさいませ。

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2014/11/01

物流を制する者がビジネスを制す!?『ラストワンマイル』

今日出かける予定が延期となったので、終盤に差し掛かってた楡周平著『ラストワンマイル』(新潮文庫)を昨晩深夜3時近くまでかけて一気に読み終えた。

平成18年刊行だから8年前だ。文庫になってからも5年になる。8年前といえば、ちょうど民主党の永田議員が偽メール問題で話題になっていた。ほりえもんが逮捕された。雑誌FACTAが創刊された。そして2005年から楽天がTBSの株を買い増していた、そういう時代。

まさに時事ネタも織り込みながらのビジネス小説だった。しかし企業小説のドロドロした内幕ものではなく、痛快なエンターテインメント小説だった。

時代の寵児となっているIT企業“蚤の市”による極東テレビ買収騒動。その“蚤の市”に理不尽な契約で切られた暁星運輸が、敵の敵は味方と利害の一致する極東テレビに新しいショッピングモール話を持ちかける。

ラストワンマイルとはIT業界(通信業界)用語だった。通信ケーブルを最終ユーザーのところに接続する最後の工程だ。だがこの小説ではあえてIT業界に挑戦する運送会社を「ラストワンマイル」に見立てる。物流を制する者がビジネスを制す。現在ではあたりまえのように言われることだが、そこに物語を発見した楡周平らしい作品。

運送屋は客に頭を下げて荷物の配送を請け負う。ダンピング競争に常にさらされる。そこに郵政民営化という黒船がやってくる。民業を圧迫し次々と大口顧客が奪われる。

そういうスパイラルのなかで窮地に追い込まれた暁星運輸だったが、このピンチを逆手にとってビジネスを創出していく主人公の横沢とその上司寺島。かっこよすぎるという気もするが(笑)、そこは小説、このくらいわかりやすいほうがいい。

幸福論 』で有名なフランスの哲学者アランの言葉が効果的に使われている。というよりこの小説の柱になっている。

●安定は情熱を殺し、緊張、苦悩こそが情熱を生む

「安定は情熱を殺し、緊張、苦悩こそが情熱を生む」

このアランの言葉は、蚤の市の社長武村慎一の座右の銘だ。武村が登場した場面で部下で蚤の市証券専務の長谷部に語らせている。

同時に暁星運輸の部長で物語のヒーローのひとり寺島の座右の銘でもある。それを寺島の上司真壁義忠本部長に昔話とともに語らせ、さらには記者会見に臨む暁星運輸の社長にも寺島の座右の銘として語らせる。

単なる知的な味付け程度のものとしてではなく、はっきりとした作者のメッセージがこのアランの言葉にあると強く印象付けられる。

著者は武村の心情として「同じ哲学者の言葉を座右の銘とする人間はこの世にごまんといる」とも書いているが、ここまで小説のなかで語らせる小説家はそうはいない。対決する両者の座右の銘が最後の最後に両者に伝わる仕掛けを作り出しているのだ。この武村の心情は、あえて小説でアランの言葉を印象付けようとした作者の照れ()だろうと思う。アランの言葉にはっきりと意味を持たせている小説なのだ。

物語の主人公である暁星運輸の社員も、敵として描かれるIT企業蚤の市の社長も、どちらもビジネスに対して情熱を持って行動している。敵として描かれる蚤の市は敵ではあっても悪ではないのだ。自身のビジネスへの情熱を形にするために行動する。

この小説のなかに悪がいるとすれば、既得権益を守ろうとするだけの銀行であり、どうころんでも損しないよう画策するハゲタカ海外ファンドであろう。蚤の市は金貸しに翻弄される構造的な弱さを持っていた。そこに武村は溺れて行ったともいえる。

もちろん蚤の市が暁星運輸を切ったところから武村の転落は始まったわけだが、切られた暁星運輸の横沢もどん底に突き落とされ、そこで初めて考えざるを得ない状況に陥る。受け身の集配からビジネス創出への転換を思いつく。そしてそれを補強し強い精神力と馬力で後押しする寺島。

現実社会を見まわしても新しいビジネスは危機の克服から始まることが多い。安定からアイデアは生まれないのだろう。情熱を殺されているわけだ。安定すると情熱は社内政治に向いていく。そっちにしか情熱が沸かないからなのだろう。そういうサラリーマンはもはやビジネスマンではない。社内ゴロと呼ぼう(笑)。話が逸れた。

そんな蚤の市の武村社長も最後にはラストワンマイルを制する運送業の存在価値に気付く。引き際の清さはさすがだ。損切に躊躇がない。この小説の後味の良さは暁星運輸の成功譚という部分が大きいが、負けた蚤の市にもまだ希望の灯はともっているように思う。武村社長は大きな痛手を負うが損切してハゲタカとの関係を清算し、この危機をチャンスに変えていける力量を、いや情熱をまだ持っているように思えた。

読み終えて意識が8年前から現在に戻った。この小説は紙の本で読むべきだ。ラストワンマイルに敬意を表して。しかし現実は違う。いま出版業界は電子化を推し進めている。ラストワンマイルがまた大きく変化しようとしている。アマゾンをナイルとか黄河にして小説が書けそうな時代に突入している。

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