google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg 中島みゆきに戻ってきた猫をめぐって~夜会 2014 ~: ひとくちメモ

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2014/11/22

中島みゆきに戻ってきた猫をめぐって~夜会 2014 ~

夜会「橋の下のアルカディア」@赤坂ACTシアター11月20日(木)雨。久しぶりの雨だったような気がした。中島みゆきさんの夜会Vol.18「橋の下のアルカディア」を鑑賞するため赤坂ACTシアターへ赴いた。

席はD列29番。チケットが当たった時に4列目なんてジョアン・ジルベルト初来日以来、予想外の良い席だと喜んだが、D列は最前列だった。想定外のことに緊張した(笑)。思えば1984年に中島みゆきさんのコンサートを初めて生で見た。その時は立ち見券を購入するのがやっとだった。そこから苦節30年!ついに最前列かぁと感慨もひとしお。大きく動く中島みゆきを堪能しようと心に誓った。

ボクは単なる長年のファンのひとりだけど、BS熱中夜話で「地上の星」について思うところを語らせてもらったことから派生して、その後フジテレビの深夜特番「うたバナー」で1回、JWAVEのしょこたんの番組で1回、中島みゆきの歌詞について語る機会をいただいた。そしてラジオを聴いてくださった編プロの方から原稿を依頼され「ねこみみ」というMOOKにエッセイを1本書かせていただいた。もう語り系ファン冥利に尽きるとはこのことで、そこで中島みゆきファンとしての頂きを見たかのようにも思っていた。

ところがこの最前列。それもBarねんねこの目の前。ペルシャを歌うみゆき嬢と一瞬目があった(ような気がした)。歌声だけでなく喉の震えすらわかるような席で息をのんでみつめてしまった。なんだかあっという間だったような気がする。舞台の下のアルカディアである。

ボクはみゆきさんが「ねこみみ」を読んでくれているのではないかという妄想を持っている。「ねこみみ」には谷山浩子ちんのインタビューも載っているし、浩子ちんから「みゆきさーん、こんなん載ってるぜー」とボクの書いた「中島みゆきの歌詞に住む猫」を見せられて渋々読む…という妄想だ。

そこには中島みゆきの歌詞に出てくる猫の分析(妄想)があり、最後に「いつかまた中島みゆきの歌詞に住んでいた猫が、ふらっと歌詞のなかに舞い戻って来てほしい。その猫がどんな猫かをまた妄想したい。」と書いていた。

そんなボクにとって「橋の下のアルカディア」の主人公のひとりが猫であったことには重大な意味がある。中島みゆきの世界に猫が戻っていたのだ。それも(存在としても象徴としても)特別大きな猫が。

夜会について書く切り口はいくつもある。しかしボクが書くならここしかない。しばらく猫から遠ざかっていた中島みゆきさんからひとつのお返事をいただいた気分とともに、この猫について語ってみたいと思うのだ。

●猫との距離感で捉えられる時代

中島みゆきと猫。歌詞に出てくる猫はパーソナルな存在としての猫がほとんどだったが、「世情」は違うように見えた。その疑問から書き始めたのが「ねこみみ」のエッセイだった。

猫と中島みゆき。猫の登場頻度はそのまま中島みゆきさんと世の中との距離感のような気がしていた。歌詞から猫がいなくなっていく時代と歌詞が難解になっていく時代とのシンクロあるいは乖離。中島みゆきにとっての猫は時代と彼女との距離感のバロメータだと思っている。

そういう認識で迎えた「橋の下のアルカディア」だった。Barねんねこの代理ママ豊洲天音兼猫のすあま。演じるのは中村中。彼女の起用は大成功だと思う。その感性の豊かさは歌声でも演技でも輝いていた。中島みゆきだけにくぎ付けになるかと思ったが自然と二人を均等に見ていた。

「Barねんねこ」ってのがいい。水晶占い師人見(中島みゆき)のお隣さん。場所は橋の下の長屋だ。洪水対策で立ち退きを迫られてるが、いまだに住み続けている民としてのふたり。まさにこの距離感。まさにこの目線の低さ。そこにいまこの時代に、中島みゆきと猫の関係性が際立っていることをうれしく思った。

また江戸時代、天明の大飢饉の時代、猫との暮らしを橋の下で引き裂かれた村女の人身。猫との別れには時代背景が大きくのしかかっている。いつの時代も猫との距離が近い世の中こそがアルカディアたりえるのだろう。

輪廻の先に再び巡り会い、また離れゆく命。浮世の出会いがアルカディア(理想郷)であれば幸せかもしれないが、たとえ幸せでなくともまたきっと巡り会える時が来ることを信じたい。

そんな物語を描くためなら、男女の仲だけでも構成できたはずだ。しかしそうではない。そこに猫が人格を持って描かれている。これこそが中島みゆきと猫との関係性を研究(?)してきた身には、猫で描かれるメタファ(のようなもの)を妄想したくなる仕掛けなのであった。

メタレベルで見れば、猫が中島みゆきから遠ざかるとき世の中はキナ臭くなる。中島みゆきの意識のなかに猫が戻ってくる時代は、おだやかであれと願う時代でもある。中島みゆきのなかでは大震災は終わっていないと思えるし、それを横目に暴走するこの強欲な世の中の行く末を不穏に感じているのかもしれない。あえて夜会に再び猫をフィーチャーした背景にそんな思いを持った。それは再びライブ縁会で「世情」を歌いたくなったこの時代への中島みゆきのまなざしと地続きだろう。もちろんこれも推測の域を出ないわけだが。

●猫から離れて橋の下のアルカディアを語ってみる

ほとんどすべてのストーリーが歌によって紡がれていく。夜会の目指す舞台表現、演劇でもミュージカルでもない「言葉の実験劇場」としての完成度はますます高まっている。歌の歌詞を聴き洩らすまいと耳を澄ます。

歌としての完成度を求めつつ、夜会の物語としてしっかり機能する楽曲群。これはまさにオブジェクト指向といえるのではないだろうか。夜会というプログラムは演劇的なスクリプトとは構造的に異なり、ミュージカルほど物語に縛られない。そして歌唱用のマイクは今回も健在だった。ただマイク導線のさりげなさは進化しているように思う。

楽曲を夜会のために新作で作るシステムになってから、格段にオブジェクト指向が機能しやすくなったと思う。ゲストキャストに男女2名を招いたのも、異なる3人の台詞を歌で実現できる目途がついたからだろう。新作主義になってからは自然な流れだと思った。もっともこの世界感を共有できる歌手兼役者がいてこそなのは言うまでもない。

アルカディアというと、ボクはキャプテン・ハーロックのほうが先に頭に浮かんでしまう。我が青春のアルカディアとか。

もちろんまったく関係ない(はず)。そりゃ最後にちょっとイメージ被るシーンもあったけど、そこは穿ちすぎだろうな。

最後といえばIndia Gooseという楽曲。インド雁というのはチョモランマ(エベレスト)を超えて飛ぶ渡り鳥だという。中島みゆきはインタビューのなかで、「非力ゆえに逆風に乗ることでしかチョモランマの峰を越えられない小さな雁の歌」と応えている。非力でもチョモランマを越えられる鳥の歌ともいえるだろう。このダイナミズムは中島みゆきの真骨頂ともいえそうだ。猫以上に鳥もまた中島みゆきにとって重要なイメージだ。

最後のシーンは賛否両論かもしれない。舞台装置としては大がかりな仕掛けだ。だが唐突感もなくはない。時代背景もここはあまり説明的な描写もなかったように思う。大衆的ではあった。そこは重要なところで大衆的であることは確実に必要な要素だ。

あのシチュエーションで大仕掛けをするとすれば、そこにキャプテン・ハーロックのアルカディア号が出現しても良かった気がするが、準拠枠を持たない観客にはなお一層意味が分からなくなるだろうからこれは却下(当然か)。

どのように感じるかは観客に任されるからあえて書かないほうがいいかもしれない。ただこのラストに惹かれた人にはおススメの映画がある。タジキスタンを舞台とした「ルナ・パパ」という映画だ。「橋の下のアルカディア」を見てまさかの「ルナ・パパ」を連想してしまった。ルナ・パパの感想はこちら

メインキャスト3人の歌の素晴らしさは誰もが納得だと思う。中村中、石田匠、中島みゆき、それぞれの台詞として歌を聴き、音楽としても受け止める。中島みゆきの抽象的な歌詞によって紡がれる物語だから、あまりストーリーに拘泥するのはおススメしない。それは歌詞解釈に論理的整合性を求められる辛さに似ている。

それよりも、その場面場面をショートストーリーのように捉えて、シーンのなかで歌われる言葉と音に集中したほうがいいように思う。全体を把握したいと思うとすればそれは演劇やミュージカルを楽しむ手順に引きずられている。ディテールにこそ神が宿る。それが夜会だと思う。もしそれが難しいという方にはデビッド・リンチ監督の映画「マルホランド・ドライブ」をおススメしたい。夜会が厄介に思えなくなるだろう。

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