google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg コンサル曰く『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』: ひとくちメモ

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2014/10/26

コンサル曰く『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』

たまたま書店で見つけて読んだわけだが、面白かった。このぶっちゃけたタイトルがいいね。サブタイトルまで書いとくと『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。 コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』(カレン・フェラン著、大和書房刊)だ。

一言で言えば元大手コンサル社員の著者が「王様(コンサル)は裸だ!」と言った書物である。私はビジネス書も結構読んできた。様々なツールや手法についても読んできた。もちろん批判的にだ。それだけにこの書物の突いてくるコンサルのまやかしにはいちいち納得できた。業界内からの声だから余計に面白い。

ただし著者はいまも独立系のコンサルタント事業者であり、あらゆるコンサルタントを否定しているわけではない。時代とともに流行しては廃れてきたコンサルタントの盛衰を踏まえて、その内部で経験したからこそ書ける問題点と、実際に機能するコンサルタントのあり方について述べている。

私が社会人になりたてのころはバブル末期だった。テレビではマッキンゼーだかアンダーセンだかの社名を後ろ盾に顔の大きな(態度も大きな)某氏が幅を利かせていた。その後エンロン事件が起きてからはその経歴は表に出さなくなったようだ。当時はコンサルがもてはやされ、次々と怪しげな手法が開発されていた。

そしてこんな長期不況と強欲資本主義、株式会社の危機という時代を迎え、ようやくコンサルのやってきた負の遺産と罪についてまとめる人が出てきたということかもしれない。

日本企業はどの程度コンサルを利用しているのだろう。日本企業は長いこと家族経営的な会社が多かったから、西欧のコンサル手法を鵜呑みにする企業は少なかったかもしれない。しかしグローバル企業とかIT企業とか、外国好き、新し物好きの企業にはコンサル的業績評価や人事評価を導入している企業がありそうだ。でなければいまの日本にこれだけ多くコンサルタントを名乗る人々がいる説明もつかない…。

この書物を読むと、雨後のタケノコ状態のコンサル連中が日本企業の長期停滞を招いていないことを祈るばかりである。多くのコンサルはとっちらかしてずらかるだけの戦国ロックのような輩なのだ。

コンサルタントをコンサルと呼ぶとき、ほとんどはそのいかがわしさ、胡散臭さに気づいている人が多いと思う。しかし経営者なり親会社なりが雇ったコンサル様(笑)に楯突いても仕方がない。嵐が過ぎ去るのを待つばかりだろう。あるいは火事場泥棒のごとく評価基準を逆手にとって自分さえよければと無法を働く輩も出てくるだろう。その災難が経営の根幹まで根こそぎぶっ壊す大型台風でないことを祈る。

●コンサル手法の栄枯必衰はまさにダイエット手法なみ!

コンサルを雇うとき、手詰まり感を感じている経営者は多いと思う。儲かってカネの使い道がないからコンサルでも雇うか、なんて会社はまずない。現状の課題を打破するためにコンサルを雇ってしまうのだ。従業員の知恵を結集するよりも、最新のカタカナ用語で武装したコンサル様に安易に手を突っ込ませる。そして最新理論の実験台にされてポイっと捨てられる。

「戦略計画」「数値目標による管理」「業績管理システム」「マネジメントモデル」「人材開発プログラム」「リーダーシップ研修」、etc...

次々と開発されるコンサルツールはまさにダイエットブームに似ている。この著者はなかでも「業績管理システム」と「人材開発プログラム」には猛烈に反対し辛辣に書いている。これらには思想的にも機能的にも実務的にも何の意味もないどころか、ほとんど有害でしかないためだ。

ただ日本の場合はここでもやはり日本的バイアスがかかる。日本の場合、コンサルが持ち込むのはいかにもなカタカナツールだけでなく、人格無視のみそぎ研修というのがいっとき流行ったことがある。いまどきやってる会社があるのかどうか知らないが、富士の裾野を行進させてみたり、駅前で大声を張り上げさせてみたり、頭のおかしな連中が企業研修と称してそんなことをやっていたのだ。そりゃ長期停滞にもなるわな。

本書を読むと、これまでに流行したコンサルツールがどのように宣伝され、導入され、失敗してきたかを概観できるのがいい。懐かしさすら感じる。

元大手コンサル社員の著者も最初はそれらが有効に機能すると信じていたようだ。しかし実際に導入すると機能しない。あるいは独自に従業員のヒアリングをしてうまく行きそうな流れを実感しはじめたにもかかわらず、単にコンサルティングファームの方針というだけで自社のツールによる分析を強いられ疑問を感じる。

コンサルティングツールを絶対視し、それを導入し実践することが目的化してしまう。経営者もツールがあれば安心してしまうのかもしれない。そしてツールが王様となり従業員との対話は減り、誰もがツールの評価に沿って損をしないよう行動するようになってしまう。会社の目標のためのツールが会社を分断し疑心暗鬼を招く。まさに組織をぐちゃぐちゃにするわけだ。

そうはいってもそこはコンサルの著者、批判だけでなく著者なりの処方箋も随所に出てくる。結局はそこに働く人間だけが回答と行動力を持っているのであり、それをいかに引き出すかを著者なりの方法論で説く。意地悪く言えば、これまでの最新ツール重視の大手コンサルの方法論を否定し、自身の手法を売り込んでいるコンサルの本ともいえる。

結局のところ、コンサルはコンサルでありツールはツールであり、彼らを生かすも殺すも結局はこちら側の意識しだいということだ。ツールは定規ではなく鏡だと私は思う。ツールの通りに線を引くのではなく、その鏡に映った自身の姿を見てどうすべきか考える。考えるのは当事者の仕事でありツールやコンサルの仕事ではない。

●日本には以前からある使えるツール

対話を重視するという点では外国人のコンサルに教えられなくても、日本には以前から「まじめな雑談」を奨励しているコンサルタントもいる(あえてコンサルと書かないのはリスペクトしてるからである)。

会社の風土改革の方法論として対話を重視する「まじめな雑談」を書いた柴田昌治さんの著書を読んだのはもうずいぶん昔のことだ。企業風土の病いを判断するひとつの指標として雑談がある。

単なる噂話とかグチや悪口の類いではなく建設的な雑談を自然にできる風土があるかどうか。あるいはそういう場を設定出来ているかどうか。日本人はどうしても場を設定されなければ発言しない人が多いが、その場はいかにもセレモニーのような場になることも多く、さらに発言しずらくなる。実はまじめな雑談ができる場を作るのは難しいのだ。おばちゃんの井戸端会議のようにまじめな雑談が出来る企業風土にはコンサル的手法はまったくマッチしないだろう。

あるいは、KJ法という発想法ツールがある。私がKJ法に出会ったのは高校生くらいの頃だったと思う。川喜田二郎先生が『発想法―創造性開発のために』(中公新書)を出されたのは1967年というから私が生まれるより前だ。先生のイニシャルを取ってKJ法という。KJ法はその後、クリエイティブの現場で生き続け進化し続けている。コンサルの提案する資料のなかにもKJ法的な手法が紛れ込んでいるかもしれない。

著者カレン・フェランがKJ法を知っていたか否かは不明だが、例えば「第2章『最適化プロセス』は机上の空論」のなかに、“単純な「話し合い」が効果を発揮する”という見出しの項がある。ブラウンペーパー・メソッドについての記述だが、これなどはKJ法を使ってまじめな雑談をするかのようなメソッドである。

勤勉な日本人の発想力は昔からグローバルに通用するものだったのだ。そしてそれらは単に導入して数値化すれば勝手に評価が算出されるようなものではなく、そこに結集する人間の力が方向性を決定する。コンサルの入り込む隙などないのだ。

しかしだんだん日本企業から勤勉さが失われ、楽してうまくやろうとする風潮が蔓延し始めていると感じる。コンサル的な単純化、モデル化によって責任逃れをする輩も出てくる。アメリカ型の強欲資本主義から学び美味しい生き方を目指すのが株主資本主義の本質であろう。企業人が学ぶべきでない現代企業経営の罪を映す鏡として効果的な一冊だ。

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