『猿の惑星 新世紀ライジング』から猿は素因数分解可能か?
自堕落な生活を絵に描いたことありますか。僕はあります!
というわけで、本来なら最高傑作との声も出るであろう「第18弾ローカル路線バスの旅」について書きたい気分の3連休ではあったが、太川陽介さんの著書『ルイルイ仕切り術』(小学館)をまだ読み終えていないため、それは読み終えてから書くことにした。
土日と行楽日和だったが今日は薄曇り。6月の定期点検以降まったく乗っていなかったスーパーカブ110に多少は乗らなきゃと思って「猿の惑星 新世紀ライジング」の先行公開を観に行った。シネコンには上映時間ギリギリに着いた。シネコンは上映開始5分前くらいになったら、その映画だけの列を作ってくれないかな?延々お子様映画の行列に並ぶことになった。まぁ間に合ったからいいけど。
「猿の惑星」にそれほど思い入れはないけれど、前作の創世記ジェネシスが面白かったので選んだ。
猿の惑星は第一作の衝撃的なラストが当時としては画期的で、ほぼそれで完結していい映画だったと思う。しかしその後5作も作られた。ただ5作目(ま、別物だけどね)の創世記ジェネシスは切り口が良くていい映画だった。スペクタクル巨編でなかったところが良かった。
そして今回の新世紀ライジング。まさに大スペクタクル巨編だ(笑)。CG全盛の映画界だからもはや作り出せない画はないと言ってもいい。そこに驚く時代でもない。だから良くも悪くも内容が問われる。猿の惑星もまさにそういう映画だ。この映画からCG技術を素因数分解して見なければならない。
なかなか良くできた映画だ。この映画が描く対立の構図は現代社会の寓話になり得る。どんな集団にも立派なリーダーと馬鹿で好戦的なサブリーダーがいて、内部抗争などやりながら戦争に突っ走る。
どちらにも和平を目指す善良な主人公がいてうまく交渉を進めるが、必ずそれを邪魔するアホが事態を収拾不能な状態に陥らせる。
かつて何度も描かれたであろう絵に描いたような展開だ。ただこの映画は相手が人間でも宇宙人でもなく知能を持った猿なのだった。
描き尽くされたテーマを使って人類が知能を持った猿と戦う映画なわけだが、それならばこの映画のオリジナリティについてここで考えなければならないのは「なぜ猿なのか?」だ。
しかもその猿どもは英語を話す。この時点ですでにこの猿どもは英語文化圏にとって異文化ではない。言語の通じない連中より御しやすい。意思疎通ができるという部分では人類どうしよりもハードルが低いかもしれない。
敵を猿に見立てる。猿とでも仲良くできる。猿なんて信用できない。猿とは共存できない。猿が攻めてくるなら殺してしまえ。いや猿には猿の文化があるから尊重しよう。あたかも猿を人類に置き換えて考えることを示唆しているかのようだ。
様々な問題をはらんでいるわけだが、相手が現実に英語をしゃべる猿であるから人種差別にはならない。しかしこれを寓話として見るなら非常に危うい綱渡りかもしれない。
そんな危うさを感じないでこの映画を楽しもうと思えば、確実に人類の敵は英語をしゃべる猿以外のなにものでもないと心から信じて、そこになんの教訓も比喩も見出さないで、大スペクタクルCG映画の技術を楽しむべきかもしれない。猿の惑星から猿を素因数分解しちゃいけないのかもしれない。
穿ちすぎだろうか。描き尽くされた正義や裏切りや信頼について、現代にも通じる普遍的な精神のあり方を「猿の惑星」によって繰り返して見せる。何度でも正しいと思う正義を形を変えて表現することに意義があるのだろうか。
それもアリかもしれない。それはアメリカの大衆映画が延々と行ってきた儀式のようなものだ。同時代人のなかで共有すべき正義のあり方、それを時代を超えて翻訳しながら伝えていく。
では人類対猿ではなく、犬対猿ではだめなのか?人類が介在しない寓話として描くことは不可能だろうか。おそらく不可能ではない。ウルトラマンはそうだった。人類はか弱き第三者だ。
だが「猿の惑星」で猿の相手を知能を持った犬には出来ない。それこそ突拍子もない馬鹿話になってしまう。例え犬が英語でなく日本語をしゃべっても中国語でも成立させるのは難しいだろう。
人類と敵対する相手は知能を持って英語をしゃべる猿、それ以上でもそれ以下でもない。ここで止めておくのが大人の対応なのだろう。
であるならば、「猿の惑星 新世紀ライジング」の脚本はあまりに凡庸だったと言わざるを得ない。「なぜ猿なのか?」の回答が創世記ジェネシスほど明確でなく、ただのCG映画のひとつでしかなかった。続編の難しさかもしれない。これも延々続いてきた宿命なわけだが。
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