愛のむきだし 全部むきだし
以前、ひとくちメモに「でんでんが見たくて『冷たい熱帯魚』鑑賞」を書いたが、先日は地上波で映画「少年H」をやっていて思わずでんでんに再会。校庭の二之宮尊徳像が鉄砲の弾として供出されるとき万歳三唱してる校長先生でしたね。田舎のオヤジがほんと様になるなぁ。「少年H」では昼間ケーブルテレビで見ていた「相棒」の水谷豊さんとも再会。水谷豊さんとは街で再会したいな。実家にも特製ジャケのCD持って帰ってるし!(山口じゃ無理かぁ)
そんな風に実家で(テレビでの)再会を楽しんでいるヒマな夏なわけだが、でんでんつながりで見た『冷たい熱帯魚』の園子温監督にもずっと興味はあって他の作品も見たいと思っていた。しかしなかなか機会もなく時が過ぎて行った。そんなとき、このブログも読んでくれてる韓流女子会のM嬢が業を煮やして(?)「愛のむきだし」を貸してくれたのだった。M嬢は園子温フリークでもあるようだ。引き出し多いな。
しかしいきなり4時間のR-15指定映画というデータにビビった。いまどきインターミッションのある映画なんて。「ベン・ハー」以来じゃないか(笑)。しかもベン・ハーより長い!こりゃ大変だ。いつ観るのか!?…と思っていたが、ヒマな夏休みなんでしっかり鑑賞した。
ただしR-15指定で盗撮の達人が主人公の映画なので、実家にいる妹のお子様方(みんなお年頃)には見せられない。いや、この映画がどういう映画かの解説もせずに、見ている自分の姿を見せられない()。というわけで、2日に分けてこそこそ鑑賞したのであった。
●圧力のある園子温映画
「冷たい熱帯魚」のときも書いたが、園子温監督の映画は独特の圧力を持っている。色処理の迫力が往年(70年代)の日本映画に近い。土着的な色彩とザラツキ感にグイグイ引き込まれる。BGMもそうだ。今回はキリスト教と新興宗教とを扱っているが、そこでベタなクラシックや賛美歌を使いつつ、ヨーコ(満島ひかり)の闘争シーンではプリミティブなリフで観客を高揚させる。
4時間という長さは必要だったと思えた。昔、映画製作研究会だった頃の私の持論は「主要な登場人物は全部とんがっていていい」というものだったのだが、この映画はまさにそういう映画だ。それだけに各人物の背景を丁寧に描くとそれだけで短編映画のようになる。その処理も見事だった。
宗教を描く。盗撮を原罪として。そのぶっ飛んだ設定を納得させるには時間がかかる。それも間延びさせずに次から次へと圧力のある画面で見せる。人物それぞれのなかにある闇の部分を各自を主人公としたオムニバス短編映画のような手法で明らかにしながら、彼らが出会った瞬間の爆発力に変えていく構成も見事だった。
それにしてもきわどいテーマをこんなぶっ飛んだ映画に出来る日本人はいま園子温監督しかいないんじゃないだろうか。
ボクのなかでは増村保造、塚本晋也、若松孝二といった監督のカテゴリに入るかな。前期のキム・ギドク監督作品にも感じた身体の芯からゾワゾワするような感じもある。もちろん「女囚701号 さそり」の伊藤俊也監督へのオマージュもあるのかもしれない(いや、サソリなんだからビシバシあるのだろう)。
女優では新興宗教の幹部をやった安藤サクラが好き。顔が好き(笑)。
●全部むきだしの園子温映画
ぶっとんだ設定のなかに、必ず家族とか愛とか普遍的なテーマをそれこそ“むきだし”に投げかけてくる園子温映画だが、世界中で共感を得るのはどういう部分なんだろう。
キリスト教を揶揄するような部分が多分にあるが、欧州でも受け入れられているところを見ると、宗教という存在そのものの持つ胡散臭さは程度の差こそあれそれなりに世界中の誰もが感じ取っているのだろう。
それでも信じなければ生きられない人々もいる。先祖代々ひとつの宗教のなかで生活してきた家族もいるだろう。この映画ではそういう敬虔なクリスチャン一家がまるごと新興宗教に洗脳される。おそらく何も信仰していない家族よりも改宗させるのが困難と思われる家族をあえて改宗させてみせる。
これがもし敬虔なクリスチャンでなかったなら、ここまで伝わる映画になっただろうか。神父の親の期待に報いるため原罪を生み出す息子の盗撮や満島ひかりによる新約聖書の長台詞が生まれた背景には、この設定が生きている。
では、彼らは新興宗教から救われた後にキリスト教信者に戻れたのだろうか。むきだしの愛によって救われたとして、その愛は何に対する愛なのか。神か人か。その受け取り方でキリスト教などのメジャー宗教をも危うくする要素を持っている映画だと思う。宗教のむきだし。
無宗教の多くの日本人にとっては特異な設定で、その分第三者的な立場で娯楽映画として楽しめるかもしれない。ただそこに家族の問題やネグレクトなどを見てとると一気に問題が一般化する。
出てくる人々はみな病んでおり闇を抱えている。共通のキーワードを求めるとすれば「愛着障害」や「回避性愛着障害」の人々である。おそらく現代日本の社会問題としては宗教よりもこちらのほうが大きいだろう。現代社会には愛の渇望が根底にある。むきだしに出来ない愛の存在を、あえて特異な設定を使って提示しようとしたのではないか。
愛とともに重要なのが“悪”だ。いちおうカッコ付きの“悪”としておきたい。主人公のユウ(西島隆弘)は盗撮によって成長していく。その倒錯した世界は映画ならではだと思うが、ある種の通過儀礼としての“悪”を園子温は肯定している。
“悪”の周辺に漂う幻惑、“悪”によって出会う人間関係、“悪”による断罪、“悪”の限界、“悪”からの脱皮、そういった環境が人を強くする。“悪”のなかにいたことのない人間の弱さも浮き彫りにする。自身の加害認識が世界とつながる鍵になる。必要悪とはあえていわない。業と言い換えてもいいかもしれない。それを宗教者は原罪と呼んだりするのだろう。
“悪”を克服できたのが「愛のむきだし」の主人公ユウならば、“悪”を克服できなかったのが「冷たい熱帯魚」の村田(でんでん)だ。だれもが“悪”を通過儀礼に出来るわけじゃない。“悪”に染まってしまう人間もいる。その危うさも含めて人間のむきだし。
愛だけでは環境に適応できない人間社会。それでも愛を求めることをあきらめずに「生きるとは何か」「人間とは何か」を問いかけてくるのが「愛のむきだし」。単なる娯楽映画とも違う、バイオレンス映画とも違う、園子温映画としか言いようのない4時間R-15指定映画だった。
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