アントニオ猪木はトランスナショナルの体現者
今治ではタオル地のハンカチなどお土産を購入し実家にたどり着いた。まとまった時間があるので数冊の新書を読んだり映画を観たりしてる。そのなかの一冊がアントニオ猪木と辺真一の対談本『北朝鮮と日本人 金正恩体制とどう向き合うか』だった。
アントニオ猪木といえば新日本プロレス時代から何度も試合を見てきた。山口県で興業があるときには会場に足を運んだ。それこそ高田延彦がドン荒川に手玉に取られている時代から。母の後輩である長州力に頼んで猪木さんのサインをもらったこともある(笑)。
簡単に言えば大ファンなわけだが、猪木批判本(ミスター高橋の暴露本など)も読んでいる。周りの人間からすれば猪木の荒唐無稽とも見えるアイデアや振る舞いに振り回されっぱなしで、散々な目にあってきたんだろう。新間寿さんにはつくづく同情する…。
そもそも今のアントニオ猪木、つまり国会議員をやったり紛争地帯や北朝鮮で興業を打ったり、他の日本人には到底出来ないであろう外交(民間外交を含む)を実際にやってしまうアントニオ猪木の原点ともいえるモハメド・アリとの異種格闘技戦の実現の裏で、関係者がどれだけ苦労したかは想像を絶する。
しかし売名行為と罵られても世紀の凡戦と揶揄されても、モハメド・アリと一戦交えた男という事実はどんなチャンピオンベルトよりもメダルよりも世界中で受け入れられている。猪木にとって決定的な一戦だったといえるだろう。あの一戦がなければ今のアントニオ猪木は存在しないと言ってもいい。
もっとも北朝鮮の場合は、祖国の英雄・力道山の直系の弟子という経歴が最重要だ。そう考えるとアントニオ猪木の人生そのものが、時代のキーマンとの出会いによって宿命づけられていたとも思う。そういう自身の経歴を全部利用して行動できるアントニオ猪木の人間力あってこそなのはもちろんだ。
猪木が現在所属する次世代の党は石原慎太郎の政党(党首は平沼赳夫)なんで、私はまったく支持していない。石原は自分の目の黒いうちに中国と一戦交えたいだけの暴走老人でしかないと思っている。
そういうアブナイ極右勢力と非常に近い位置で政治活動を続けるアントニオ猪木参議院議員。あえてダークサイドと言わせてもらうが、それら清濁併せ飲んだうえで、それでもアントニオ猪木の人間力や行動力には惹かれる。
おそらく猪木が現実として場を動かそうと行動する、それも石原のように戦争指向ではなく、「どんな場所でもスポーツイベントをやってやる」というプロ興行師として自分にしか出来ない興業を打つ一点に特化しているからだ。まさにそれが猪木のプロレス人生なのだ。猪木自身の心のなかは、いまでもスポーツ平和党の党首なんだと思う。
●惑星意識で捉えた歴史のなかにアントニオ猪木を位置づけてみる
同じ時期に読んでいたもう一冊の新書がある。入江昭さんの『歴史家が見る現代世界』だ。歴史学は随分進化している。歴史の事実は変化しないが、歴史の見方が進化しているのだ。国家中心の歴史ではなく、人や文化の交流(あるいはハイブリッド)な動きに注目した歴史の見方で現代を捉える。トランスナショナル・ヒストリーといった捉え方が新たな歴史学の潮流となっているという。
アフリカで誕生したとされる人類はそもそもがハイブリッド(混血)であり、人類の歴史は国家という概念をはじめから超えている。地理的な制約がどんどんなくなり、国家による外交以外の様々な交流を中心に人類の歴史を捉えようとするのがトランスナショナリズムだ。
そういわれるとNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」を毎週楽しみに見ている私は、戦国時代と現代とで見えている「世界」の差を感じる。戦国時代にはこの小さな島国日本のなかに他国があり戦っていた。近隣諸国と常に戦闘状態にあった。当時の軍事政権(武将)には近隣諸国への深謀遠慮が渦巻き、殺しあいをしていたわけだ。
しかし同時に、例えば民俗学者宮本常一の足跡で見られるような海の道・塩の道の歴史を辿ると、おそらく太古の時代から昭和初期まで、民間の海の民や山の民による交流が活発に行われていたことがわかる。どちらもある瞬間では同時代の歴史であった事実が、その捉え方、切り取り方によってまったく異なるストーリーとして記録される。記録されない民の歴史も当然ある。
どれも歴史認識ではある。だが現代世界を見るという目的で捉える場合、戦国史的歴史観で見るべきか交流史的歴史観で見るべきかを考えると、生物の生存権を最優先で考えるならば後者のように思うのだ。
戦国時代の小さな国家は日本という大きな国家になった。明治以降、国際関係の視野も広がった。都道府県レベルの近隣憎悪なども小さくなった。その分、より大きな国家間での近隣憎悪を持つ人々は増えたようだ。そこでのナショナリズムやレイシズムなどは視野の広がりに精神の成熟が追いついていないだけであろう。
ここで更に大きな共同体意識を考えてみる。それが惑星意識(プラネタリティ)であり、トランスナショナリズムではないかと思う。「世界はひとつ人類はみな兄弟」の笹川良一がトランスナショナリストだったかどうかは知らないが、まさに地球市民という歴史観を持てるのが現代社会だ。
そこに仮想敵を想定するともう異星人との宇宙戦争(スターウォーズ)にならざるを得ないため、ナショナリスト的な精神構造の人々には敵対的宇宙人を見せるしかなくなるのがやっかいだが、惑星意識の歴史観は多くの地球市民には受け入れられるものだと思う。また受け入れなければ人類の生存権も危ういのが現代世界のリスクでもある。
レイシズムなどの近隣憎悪は惑星意識のもとでは些細なものになっていく。新聞の社会面を時たま賑わすご近所トラブルレベルに。それは世の中の意識の変化によって解決できるものであり、交流の活発化が意識や視野を変えていく。
かたくなに拒絶するナショナリストとはいわば町内で孤立しているゴミ屋敷の住民といえる。そんなゴミ屋敷の住人さえも同じ地球市民だ。清濁併せ飲んでこその世の中でもある。ただ紛争によってでなく交流によって現代世界の環境を変えていくことが重要だ。
かなり遠回りしたが、ようやくアントニオ猪木の取り組みとトランスナショナルな歴史観との接点が見えてきた。あえて猪木は紛争地帯や仮想敵国に乗り込む。そこでミサイルではなくスポーツイベントを打つ。ムラ社会に生きる人々に見えていない現代世界が猪木には見えている。民間交流というルート開拓で成果をあげる。清濁併せ飲む懐の深さもプラスに働く。
もちろん地域紛争を根絶することはまだ出来ないかもしれない。しかし平和の実現には交流の積み重ねしかない。個人と個人の交流の糸が集積して地球を覆う。そんな惑星意識によって歴史を描き、政治を変えていくことが重要だと思う。そしてトランスナショナルから真のグローバルな地球史へと歴史の捉え方が進化・統一されていくことを望みたい。石原の目の黒いうちに戦争は起こさせないが、オレの目の黒いうちの地球史統一もまた困難ではあろうが。
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