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3 posts from March 2014

2014.03.30

なんだか危ない奴のようじゃないか!(笑)

「シロくも」というウェブアプリがある。アプリ連携はあまりやらないのだけど、ちょっと面白そうだったのでやってみた。

このアプリと連携すると、最近の自分のツイートを解析してそのエッセンスとなっている文字を(おそらく)頻度などによってさまざまなサイズに変換しポップアートっぽく並べ替えて表示する。それを「ワードクラウド」というらしい。

脳内メーカーが流行ったけど、あれを自分自身が書いてきた言葉の集積で作ることによって、更にパーソナリティを反映させたようなものといえるかもしれない。

その結果はツイッターに表示できるわけだが、今回の結果は非常に誤解を招く恐れのある画像になってしまったので(笑)、ブログのほうにアップしておこうと思った次第。

その結果だが...

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2014.03.21

でんでんが見たくて『冷たい熱帯魚』鑑賞

卒ソチ五輪!というわけで、そろそろまた昔のひとくちメモに戻したい気分だった先週の夜のこと。テレビ朝日「緊急取調室」の最終回を見ていた。

「でんでん、いいな。」

それがひとくちメモ的な感性の戻りを告げる予兆だった ok

でんでん、いいよね。昔「どうだい?~だろぉ!」とスタンダップ・コメディをやってた頃の芸風がほとんどそのまま自然に年輪を重ね、役者として存在感を見せている。

それに気づくのがちょっと遅かったと反省。2005年に温水洋一に気付けたのに(笑)

最初に「でんでん、いいな。」と思ったのはテレビ東京の伝説の名ドラマ「湯煙スナイパー」だった。このときでんでんはひなびた温泉旅館の番頭さんで、小市民の典型のような人懐っこいエロオヤジだった。

過去を隠して温泉旅館で働く元スナイパーの源さん(遠藤憲一)を、何か人に言えない辛い過去があるんだろう(だけどまさか殺し屋とは思っていない)くらいの感じで何も言わず受け入れ、親身になって面倒みる番頭さん。それがでんでんだった。

「湯煙スナイパー」の時点ででんでんの素晴らしさに気付き、ひとくちメモっていてもおかしくない演技だった。だがあの時のオレはエンケンの迫力に圧倒されていた。そして伝説のゴッドタン女優(?)谷桃子まで出演していたので、でんでんまで手が回らなかった。

「湯煙スナイパー」でのでんでんの演技があまりに自然だったからともいえる。源さんは殺し屋としての過去を清算しようとして平凡な日常を求め温泉旅館にやって来た。それを際立たせるために、源さんの触れる景色や生活は日常そのものであり、そんな平凡な日常にいちいち源さんは感動するのである。その日常のひとつがでんでん演じる番頭さんだった。

この番頭さんのオヤジ度は100%だった。どこにでもいた日本の原風景的なオヤジ。そこに源さんも癒されていたように思う。それだけ自然なオヤジだったのだ。そのあまりの自然さゆえにエンケンや谷桃子という超個性を前にして素通りしてしまったわけであった。反省。

しかし制作者側はでんでんを見抜いていた。でんでんは悪役も善人も演じられる。それも日常に溶け込んだ自然さで。昔の芸風が嫌味なく自然に見える年齢になったからかもしれない。もっとも昔の芸風はその若さと嫌味とのギャップが狙いだったんだと思うけど。

●でんでんの持ち味が堪能できる「冷たい熱帯魚」

そんなわけで、でんでんがもっと見たくなりビデオ・オンデマンドで園子温監督の「冷たい熱帯魚」を鑑賞した。善人ズラした極悪人という役柄はでんでんの集大成ともいえるはまり役だった。映画そのものの力も強く、久々に“骨のある(coldsweats01)”映画を観た。

血の色をどぎつく見せたいためか、コントラストが強めで、それが画面に迫力を持たせているように感じた。70年代あたりの総天然色日本映画ってこういう色合いだったような感じがするがどうだろう。

観終わって実話を下敷きにしていると知り、どれほど実話に近いのか、あるいはどこが創作なのかが気になった。完全犯罪を目指すために殺した相手を「透明にする」という方法が実話だというのは怖いが、そこをきっちり説明してしまう見せ方は映画的でもあった。

また、主人公(吹越満)の崩壊した家庭の問題が横軸として織り込まれ、でんでんの児童虐待経験を思わせる過去への退行現象などもまた崩壊した家庭の表出だと思う。そして梶原ひかりによるラストシーンは自主制作っぽい締めくくりだったが崩壊した家族の末路を端的に描いた。一貫して家族の問題としているところがこの映画のオリジナルな部分であり、ひとつのキモであったような気がする。家庭を持つって大変なことだね...。

ネタ元の埼玉愛犬家連続殺人事件はブリーダー夫婦(現在も死刑囚として服役中)による犯罪だった。これだけ残忍な殺人事件なのに、阪神大震災やオウム事件と同じ年のことで、ほとんど記憶になかった。この夫婦の周りから忽然と消える人が相次いだという。

70年代にはこういう実話をもとにした映画は非常に多かったと思う。三億円事件や「裸の十九歳」などは代表例だ。そういう昭和の臭いがプンプンする映画だった。

終盤にでんでん演じる殺人鬼が吹越演じる主人公社本に説教をして社本を本気で怒らせようとするところがある。そこででんでんの発する長台詞は昭和の親父による教育論・行動論としてまさに正論だったのも複雑さを醸し出す。自分の足で立ってるか、家族を満足させられているか。それらの行動原理が連続殺人に向けられたときの人間の怖さが、大量の血を見るよりも恐ろしい。

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2014.03.08

ソチ五輪後に宮本武蔵『五輪書』でキムヨナを回想する

キムヨナの引退大会ソチ五輪が終わってしまい、このブログひとくちメモもまたリハビリに入っております。

祭りのあと、どう日常に復帰するか特に考えがあるわけでもなく、徒然なるままに日暮らしパソコンに向かいて心にうつりゆく妄想などをそこはかとなく書けるように戻れればよいかなと。

その一環として過渡的なヨタ記事ですが、宮本武蔵の『五輪書』現代語訳を読みました。実はキムヨナのショートプログラムが始まるより前に購入して読み始めました。五輪だから五輪書だろうと。それも76分で読めるというし。でも読み終えたのは今日でした。

五輪書は宮本武蔵が生み出した二天一流(二刀一流)の兵法を晩年の武蔵が綴った書であり、戦い方の極意が書かれています。「人を斬る(斬り殺す)」という技術を思想として高めた技術書兼思想書といった趣きで、現代でいえば自己啓発書、あるいはハウツー本の類いといってもいいかもしれません。

個別の状況での間合いであったり、他の流派批判であったり、刀で人を斬る必要がある人には有用かもしれませんが、その大半は読んですぐ役に立つといった書物ではありません。これを現代ビジネス書として読み解くには、相当な想像力もしくは妄想力は必要かもしれません。

あるいは現代社会では非現実的な技術書であるからこそ、そこに様々な比喩を読み取ることが出来るのかもしれません。ある種のファンタジーです。それは例えば私の大好きな坂井三郎さんの『大空のサムライ』にも通じます。時代を超えた名著が持つ匂いと言えるかもしれません。

宮本武蔵は人気があります。現代語訳した城島明彦さんも吉川英治の作り上げた武蔵のイメージがこの人気のルーツだろうと解説されています。その人気の根底には強さと悟りとがあるでしょう。技術書として具体的な自らの体験的極意を書き連ねながら、ほとんどの章の終わりは常に読者に考えること、精進すること、稽古することを課しています。

読書だけでは何も実現しないということがわかりきっている実践主義者宮本武蔵が、それでも極意を文書で残そうとした真意はそのあたりにあるような気がします。自分の頭で考えて実践しろということです。その考えるべき道筋のヒントを与えてくれているわけです。そのヒントはもちろん人を斬るためのヒントですけれど、拡大解釈して競い合うときの極意として自らの状況に当てはめて考え始めることが出来ればしめたものです。中島みゆきの歌詞のように沁みることもあるでしょう。たぶん。

またひとつだけ印象的なフレーズをあげるとすれば「有構無構」です。「太刀の構えはあってなきようなもの」という教えは、いわば臨機応変ということです。

自然な体の動き、拍子(リズム)のある行動、平静を保った心の目、それらはさまざまなスポーツや日常生活においても有効でしょう。基礎基本(有構)があってこそどんな状況にも対応できる(無構)。まさにキムヨナのことじゃないか!とも思ったわけで、ソチ五輪の最中ならもっと熱く「キムヨナは宮本武蔵だった」と語れていたかもしれません。しかしもう過ぎたことです。

『五輪書』は行動における姿勢を説いているわけですから恋愛にも当然活かせる書物です。キムヨナにはぜひ熱愛中の彼氏との日常も自然かつ拍子のある生活で過ごしてもらいたいものです...。そして4年後の韓国・平昌冬季五輪で「ママでも金!」と言ってもらいたいものです(うそです)。

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