愛しさとせつなさと向田邦子と~キムヨナの“アディオス・ノニーノ”
キムヨナのFSはアストル・ピアソラの「アディオス・ノニーノ」、日本語訳では「さよなら、父さん」となるそうだ。だが、ファンにとっては「アディオス・キムヨナ」の楽曲となる。この曲が一発で気に入った私は右写真のライブCDを購入してヘビーローテーションで聴いている。
いい曲だなぁ。またキムヨナで音楽の世界が広がった。キムヨナを見てるとまるで映画のサントラを聴きたくなるように作品の原曲が聴きたくなる。ボクにとってはそれほど音楽への訴求力を高める演技だってことなんだよなぁ。
現役引退後、荒川静香のようにアイスショーをしてくれるのかどうかも分からない。このままいけば韓国で政治家やIOC委員になってもおかしくない選手ではあるが、現役引退後でもいいから一回は生の滑りを見てみたい。ただそうなっても日本にはきっと来ない()。こちらが外国に行くしかない。チケット争奪戦がないショーであることを祈る。
おっと、引退後の話をいましてどうする!いまはソチ五輪に向けて全力でキムヨナの演技に迫らなければ。
●ブルース・リーとキムヨナの共通点(笑)
ショートとフリーの全貌が垣間見えたザグレブ大会と韓国大会。現役最後のキムヨナの選曲テーマは“せつなさ”のように思う。ものすごくありふれた単純な感想だけど、これまでのキムヨナの妖艶さのなかには常に“せつなさ”があったわけで、様々な表現要素のなかで最後に見せるキラーコンテンツに選んだのが“せつなさ”推しだったわけだ。
語弊を恐れずに言えば、ブルース・リーが必殺のこぶしを決めたときに見せる一瞬の哀しみに通じるせつない表情。キムヨナの強さとせつなさには表現者としての天賦の才能を感じる。ブルース・リーも香港映画の面白さをハリウッドに見せつけた伝説のアジア人のひとり。パイオニアとしてもキムヨナとダブって見えるところがある(ボクだけかもしれませんが言ったもん勝ち )
そんなブルース・リーやキムヨナのせつない表現。練習すれば出来る部分じゃないだろう。同じスケート技術を持っていたとしても、芸術点に働きかける部分には天賦の才能が大きなウエイトを占めるのかもしれない。
もちろんせつなさだけが表現じゃない。ようは自分の特性を最大限に活かしきる演技構成を知っているかどうかだ。職人的な分析力と己を知る客観性としかし主張すべき主観性のバランス。あらゆる芸術に共通する要素じゃないだろうか。
●演技構成点(芸術点)についての一考察
表現者たるもの訴えたい主観があるのは当然であり、それをどう見せればアピールできるかを客観視できなければ自己満足だけになるのは必然であり、その表現を実現できるスタッフとの連携で職人的に仕上げていくのが芸術のプロの仕事だ。
たとえば女子スキージャンプの高梨沙羅。ボクは大好きなんだけれども、最近のインタビューでは常に客観的で、お客さんに自分のジャンプがどう見えるか、どう楽しんでもらえるか、そういう視点で発言することが多くなった。表現者として最高レベルにある自信とモチベーションの置き所がすでにプロ選手のものだ。まだ若いのにしっかりしてる子だよ。でもそれがまたけなげに見えて、まだ自分自身のために飛んで喜んでいいんだよと言ってあげたくなる。
スキージャンプも芸術点に似たような点数があり時々疑惑の判定が話題になるがフィギュアほどじゃない。フィギュアは審判の主観と表現者の主観のコミュニケーション度合が格段に高いし、その大会までに積み重ねてきたコミュニケーションの差が大きく出る競技だ。
ここでいうコミュニケーションとは、もちろんリンク外で審判団と飲み食いするだとかそういうことではなく、表現者の意図と審判の出す点数の傾向とが、ジュニア時代からシニア大会までリンクの上でいかにシンクロしていくかという表現を通してのコミュニケーションのことだ。
それは芸術家が生涯を通して描いてきた作品を個別評価するのではなく、人生そのものを複数の作品に投影してその歴史を評価するようなものだと思う。フィギュアはスポーツでもあるから、その表現者が何に挑戦し、その挑戦の意図がはっきりと審判の主観に訴えかけ、成果の跡(伸び率)をどれだけ大会で見せることが出来るか、そしてどれだけ納得が得られるか、それを競う競技だとも思える。
●神でもない限り芸術に減点法はあり得ない
単純にその一瞬の出来栄えを数値で評価するのがスポーツだという考え方もある。しかしフィギュアスケートはそうなっていない。これは事実だと思う。しかし選手生命が短く芸術的要素の強い競技特性から考えるなら現在の評価方法はなかなか考えられたものだと思う。
子どもから大人に成長していく過程にある選手の問題意識の置き所とそれへの取組の伸びを連続的に評価してあげるのは健全なことだ。その過程のなかで審判は選手に要素の点数によってメッセージを送り続ける。いわば絶対評価の通知表だ(相対評価ではない)。そしてその意図を汲んだ選手は自分自身と向き合い取り組み方を選択し練習する。
芸術性向上という意味ではフィギュアの選手は審判とともに生涯をかけて芸術作品を作っていく共同作業をしているともいえる。そこまでの物語やコミュニケーションの履歴が投影された作品が最新作として出てくれば評価は高くなると思う。
昔は減点法だったが芸術の評価に減点法はありえない。比較すべき「最高の作品」という形而上学的存在はないからだ。最高傑作は生まれ続けるものなのだ。だからオリンピックで言えば、2006年のトリノから加点法に変わったのは、技術レベル(減点法が可能)の評価よりも芸術レベル(減点法が不可能)の評価に重きを置くというフィギュアスケート界による未来へのメッセージだったんだと思う。
ただ振り子のように一方に行きすぎると調整が働く。それが今回の採点方法の修正というメッセージだろう。スポーツとして持久力と技術力に加点しますよという変更だ。そもそも点数のつけにくい競技であり採点方法の更新による試行錯誤は今後も続くかもしれないが、方向性は正しいと思ってみている。
表現者としての選手はその時々で発せられるメッセージにどう対応していくかを常に迫られている。どのような取り組みでそれに応えるかは選手やチーム個々の問題だ。しかし根底にある表現と審査というコミュニケーションの積み重ねによって作品を作り上げるという部分は不変ではないかと思う。
●タンゴはキムヨナの最高の得意技か
タンゴについて私はほとんど無知だった。タンゴといえば同世代の誰もが知っている皆川おさむの「黒猫のタンゴ」であり、中森明菜の「タンゴ・ノアール」であり、K-POPにはまってからはAliがリメイクした「キリマンジャロの豹」であり、キムヨナの「ロクサーヌのタンゴ」くらいが思い浮かぶ脳内曲名だった。ここにアストル・ピアソラという大作曲家が追加できたことはキムヨナのおかげだ。もう3枚CD買った(笑)。
しかしタンゴは踊るための曲だし踊りやすいのかなと思っていた。映画「Shall we ダンス?」も大好きな映画だ。社交ダンスとタンゴとは結びつきやすい。それだけに大衆的な匂いがある。大衆性というのはキムヨナの特性のひとつかもしれない。そんな大衆性と芸術性と金メダリストにふさわしい格調の高さとすべてあわせもってるピアソラのタンゴを持って来れるところが強い。
アディオス・ノニーノは編曲も振付もみんなせつない。この哀愁漂う作品は、どこか少女の面影を懐かしむようなSPのせつなさとまた一段異なる趣きを持ってる。キムヨナのスケート人生そのものを描いた作品だという解説をどこかのテレビ局で聴いたがいい得てる。世界観が大きい。
バンドネオンの曲を聴いてもうひとつイメージするのは向田邦子の一連の正月ドラマだ。お父さんが失踪してしまうことがよくある向田邦子の新春ドラマはアディオス・ノニーノ(さよなら、父さん)がモチーフになっていたりするのだろうかと向田ドラマへの興味も湧いてきた。
向田邦子のドラマを見ていたころはバンドネオンの音色にことさら意識的になることはなかった。しかし今回キムヨナのせつない演技と向田邦子のせつないドラマとが頭の中でシンクロし始めている。無意識にバンドネオンの音色が向田邦子ドラマの記憶として残っていたのだ。もしかするとキムヨナと向田邦子にも何か共通点をボクは見出しているのかもしれない。中島みゆきとキムヨナの共通点のように(笑)。
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