google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2014年1月

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2014年1月の7件の記事

2014/01/27

浅田真央の確かな成長を見た

NHKスペシャルの浅田真央特集を興味深く見た。ツイッターなどを見ていると一部の浅田ファンから不平不満が出ていたが、こうして特番を見られることがどれだけうらやましいことか、そのありがたみがわかっていない。どんだけやれば満足するんだろう。金メダルが取れれば満足なのかな?

浅田真央は金メダルそのものよりも自分自身納得のいく完璧なラストダンスを目指しているように見えた。もし4年前にキムヨナがいなければ浅田はあの失敗演技でも金メダルを取れていただろう。だがそれで終わりにならなかったのは浅田にとってもファンにとっても良かったのではないかと最近思う。

キムヨナは計算し尽くし、ビート単位で身体に覚え込ませた演技を完璧に踊り切り、バンクーバーで金メダルを取った。基本的にそこで一回燃え尽きている。それはその直後に行われた世界選手権での姿を観ればよくわかる。完全に緊張の糸が切れていた。

もしも浅田があのミスした演技で金メダルを取っていたら、バンクーバーのあの演技で引退していたかもしれない。あるいはそこで成長は止まったかもしれない。しかし4年後の現在、浅田真央にはこれほどの伸びシロがまだあったわけだ。それをよくまとめて提示した番組だったと思う。

NHKスペシャルの解説を聞きながら、採点に関して先日書いた観点に沿って考えると、今回のジャンプの改良はまさに審査員からのメッセージに対してはっきり伝わる返答メッセージになっていると感じた。

●高跳びから幅跳びへの転換

浅田真央の改良されたジャンプは、助走スピードを上げてその力をジャンプ力に使うわけだが、そこには2つのポイントがあった。ひとつはスピードに乗って遠くに飛ぶこと。もうひとつはスムースな着地によって次の動作に自然と入っていくこと。この2つは相互に関連している。

遠くに飛ぶというのは、素人目には伊藤みどりのジャンプと比較すると分かりやすいように思った。伊藤みどりは唯一無二のジャンプ力を持っており、助走スピードを高く飛ぶ力に変換して飛べていた。いわば“走り高跳び”のような力の移動だ。伊藤みどりだからこそできた力の方向だったように思う(正月のNHK「語り亭」の映像を見た感じで)。

浅田真央もこれまでは高跳び的な力の方向で飛んでいたようだが、いま浅田真央がやろうとしているジャンプは“走り幅跳び”のような力の移動だ。より高くという力を抑え、それをより遠くに飛ぶ力に振り向けようとしている。

これによって着地が変わる。より高く飛ぶ力を優先すると助走から着氷後への滑らかな軌道を阻害する要因になる。回転は得られても着地したときに足元が詰まってしまいがちだ。しかし遠くに飛びながら回転すれば、軌道は比較的確保しやすく滑りの延長にジャンプを位置づけることが可能になる。軌道が滑りの延長にあるから着氷後もスムースに次の動作に移っていける。

この影響は非常に大きいはずだ。これによってジャンプと音楽の流れとがシンクロしやすくなる。これまで「大技見せますよ!」という期待感だけで音楽が聴こえなくなってしまいがちだった「流れを断ち切る大技」を、音楽の流れの中で表現できるようになる。それは音楽の理解度、表現力という演技構成点に確実に好影響を及ぼすに違いない。

そう思う根拠は、まさにキムヨナにある。前から言い続けているようにキムヨナは助走スピードが速く、遠くに飛びながら余裕をもって3回転を飛び、着氷後は何事もなかったかのように次の演技に入っていく。素人の私がキムヨナにジャンプが邪魔だと思えた理由は、音楽の流れの中でサッサと飛んでしまえるこの技術力の賜物だった。それは荒川静香さん他の専門家のご意見が一致するところで私が学んだところだ。

この音楽の理解力と表現力こそがキムヨナの最大の特徴でありアピールポイントであった。浅田真央のジャンプの改良は、まさにキムヨナと同じベクトルを向いている。つまり新しいルールのキモとなる部分にひとつの答えを出そうとしているわけだ。これはこれまでの道のりで受け取ってきた数々の審判団からのメッセージ(得点・評価)への正しい回答であり、成功すれば確実に審査員の印象がよくなると思う。

つまり今年の浅田真央はキムヨナと同じベクトルの方法論(勝利の方程式)を、自身のトレードマークであるトリプルアクセルも盛り込んで実現しようとしているのだ。この試みが成功すれば浅田真央に敵はいないかもしれない。

●役者がそろってこそ舞台は踊る!

この「気付き」ともいえる変化はやはりコーチの影響が大きいように思う。基礎的なスケーティング技術の見直しが活きてくるだろうし、浅田にしか飛べないジャンプを音楽表現のなかで演じ切れれば、ジャンプが音楽の阻害要因でなくなる。

もしソチ五輪でキムヨナと浅田真央がお互いにノーミスで滑れば、私は浅田真央が金メダルを取るだろうと思う。4年前からの成長の跡をここまで目に見える形にして来たことは必ず評価されると思う。

そんな舞台に再びキムヨナがいることは浅田真央にとってはプレッシャーでもあるが幸せでもあると思う。完璧な演技でキムヨナに勝ってこそ、この4年間という物語はグッと深みを増す。

キムヨナには五輪金メダルへのこだわりはすでになくノープレッシャーで出てくる。興業的な責任感ではないかと前に書いたが、もしかするとキムヨナから浅田真央へのリスペクトによって出場を決めたのかもしれないとちょっと思った。

勝っても負けてもそれは勝負のアヤでしかない。しかし浅田真央が不本意な形で銀メダルに終わった大会から復活する場面には完璧な演技で対峙するキムヨナがいるべきだ。どちらが勝つかではなく、どちらも自分らしい演技を完璧に決めて現役引退する、そういう舞台に役者は揃うべきなのだ。そこまで揃えばもう勝敗などは些細なことでしかない。物語とはそういうものなのだ。

この二人にはもはや勝負は眼中にないだろう。あるのは自身の演技の完成形をオリンピックで再現することに尽きる。特に浅田真央にとってはノーミスで終えることが最大のプレッシャーだ。頭で滑らず音楽の一部になることが出来るかどうか。そのプレッシャーを乗り越えることがメダルよりも重要なラストステージになるように思う。

浅田は自分に勝つこと、それだけが唯一のそして最大の壁だ。そして「それを乗り越えなきゃまたキムヨナがいるよ」と、そういうことなのだ。自分自身に妥協を許さない。そう頭で思っていても、脅かす存在がいなければ必ず心に隙が出来る。

多少ミスしても金メダルを取れるのが浅田真央の実力だが、完璧な演技をしなければ勝てない相手=キムヨナがいることは浅田真央が浅田真央に勝つために必要不可欠な条件のように私は思う。キムヨナもそれを知ってるような気がする。だから4年前に一度燃え尽きたキムヨナも浅田真央と同じステージに復活し、キムヨナ自身も完璧な演技を目指すことによって、同じ舞台で燃え尽きたいんじゃないだろうか、と。

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2014/01/25

ひとくち・アルバム ~ヨナとの遭遇~

Yuna_20091206_4sec_1702009年12月6日、テレビ朝日のロビーで行われたフラワーセレモニー。当時の記事ではキムヨナの音声データとキムヨナコラージュ画像を作ってアップしてました。

今回は当時のMOVファイルから、帰り際にヨナが“ボクに”手を振ってくれたところをキムヨナ・アルバムさん風(笑)のGIFアニメにしてみました。

今年現役引退なので「やるなら今しかねぇ!」とGIFアニメ作成フリーソフトをDLして作りました。キムヨナの前後には鈴木明子と安藤美姫がいます。

他にも織田信成やその他外国人のグランプリファイナルメダリスト勢ぞろいなんですが、1MBまでしかアップできないココログ とりあえずキムヨナと視線を交わした部分だけをGIFアニメで蔵出しです。

タイトルをつけるなら自伝のタイトル風に「キムヨナとの4秒のドラマ」でしょうか()。生でキムヨナの演技はとうとう観れなかったけれど、こうして一度だけ生のキムヨナを見たことはあるのです。当時の記事にも姿勢の良さを書いてました。オレはよっぽど好きなんだな。姿勢のいい女子が...。

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2014/01/21

キムヨナよりピアソラに詳しくなっていく(笑)

ソチ五輪の女子フィギュアまであと一か月ほどになってきましたね。キムヨナ熱は上昇するばかりですが情報が少なくてフラストレーションも溜まりまくりです。もちろんキムヨナ・アルバムさんが日々提供してくれている写真やリンクに頼ってストレス解消できてる面もあるのですが、オリンピックイヤーなのに日本の地上波に乗る大会に出ていないから4年前とは比較にならないくらい暇です!

だからというわけではないのですが(いや、だからというわけかもしれないですが)、アストル・ピアソラのCDを次々と購入して聴いてます。キムヨナの現役最後を飾る予定の“アディオス・ノニーノ”を作曲した人がアストル・ピアソラ。バンドネオン奏者で、タンゴの世界に革命を起こしたといわれる、タンゴ界の巨匠です。

キムヨナがこの曲で演技することがなければ、おそらくこんなにはまる機会はなかったでしょう。でも聴けば聴くほどに“アディオス・ノニーノ”はいい曲なんですよねぇ。沁みるんだよなぁ。

もはやキムヨナをいったん横に置いといてピアソラを聴いてしまうほどです(笑)。

そのなかでも、今回買った『ライヴ・イン・ウィーン』というHQCDは非常に良かった!ピアソラファンの間でも長く廃盤状態になっていて、ハイクォリティな音質で蘇ったこのライブ盤をベストと呼ぶ人も多いみたいです。確かに音色もいいし、ライブのグルーブもグイグイ来る感じでいいです。

バンドネオンの音色って「まさにタンゴ!」なので、かなり強いんですよね。それにピアノとヴァイオリンが負けることなく調和してる。ピアノの音はJAZZですし。ウィンダム・ヒルのジョージ・ウィンストンのような力強さも感じました。かなり好きなピアノです。

この力強さがバンドネオンと拮抗して緊張感のあるシーンを描き出すんですが、それがセンチメンタルなテーマに移るときの美しさはなんと形容したらいいのでしょうか。ヴァイオリンも効いてるんだよなぁ。

“アディオス・ノニーノ”の場面転換におけるこの起伏の激しさは、キムヨナ好みの演技構成とまさにベストマッチなんだと思うんですよね。

●あえてキムヨナに話を戻して楽曲の重要性を考える

8分以上ある楽曲を半分程度の長さにしてフィギュアスケートには使われるわけですが、ピアノとヴァイオリンで同じテーマが演奏されてもまったく違う風景に見えたり、ピアノソロ(カデンツァ)の終わりからバンドネオンの印象的なテーマが切り裂くように入って来るところなど、静と動の転換が見事な楽曲です。

キムヨナにはこの静と動との転換を完全に演じきれるスピードと表現力がある。007のときと同様に、それが音楽の理解度というモノサシにバッチリはまるという読みがチーム・キムヨナにはあるはずで、“アディオス・ノニーノ”が持つ楽曲の力だけでも加点がもらえそうな期待もあります。それほどに力のある楽曲に思えます。

しかもフィギュアスケートでは選手の人生、そこまでの物語を色濃く映し出すような演技は好まれるように思います。“アディオス・キムヨナ”という自覚をもって、このタイミングでもっともインパクトのある楽曲を持ってきたと言えそうです。

キムヨナにとってこの楽曲は今回しか使えない楽曲だったと思います。それもタンゴで終わろうとしてるわけです。シニアデビューのショートプログラムで「ロクサーヌのタンゴ」を踊り、現役最後のフリープログラムに「アディオス・ノニーノ」を踊る。フィギュアスケーターキムヨナの成長の過程、女の一代記(笑)という物語がそこに意図されており、審判団もその成長の過程をじっくり見てやろうという気分になっていくのではないでしょうか。

そこにはサービス精神とサプライズ精神とフィギュア界特融の一大サーガの構築による無言のコミュニケーションが内包されていて、それがミスのない演技によって滑らかに完成したとき、惜しみない感嘆の渦へとつながるのです。

楽曲選びの過程からすでに勝負は始まっており、その意図をはっきりわからせる必要があるのは間違いないと思います。フィギュアは音楽を氷上のダンスで表現するものであり、娯楽ではなく競技でもあるわけで、そこには意図を伝わる形で示現していくことが求められていると思います。

意図を伝える方法はいろいろあるんでしょうが、チーム・キムヨナの持つ絶妙な大衆性が大きな武器であることは確かです。前衛芸術は伝わりにくい。クラシックは凡庸で退屈。だからといってあまりに大衆的すぎてもフィギュアスケートの文化風土に合わず敬遠されるリスクがあります。

どの線で狙っていくのか。まさにゴルフのパッティングのような選曲と編曲が戦略となってくるように思います。さらにその選手がどんな演技をどんな曲でどのように演じて来たかを審判団は知っているわけで、その流れのなかにちゃんと物語として連続性があれば申し分ありません。

“アディオス・ノニーノ”はピアソラのルーツミュージックであったタンゴの持つ大衆性と、クラシックやジャズが融合してさらに豊かな楽曲として花開いた名曲のひとつでした。タンゴは一部のマニアのものだったけれど、ピアソラはその劣等感を乗り超えて世界に通用する音楽へと昇華させていったわけです。

そういう背景を持つ音楽はキムヨナにもっとも似合っている楽曲だと思えます。よくぞキムヨナとピアソラのコラボレーションが実現したものだと、この奇跡を喜びたい気持ちでいっぱいです。

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2014/01/12

愛しさとせつなさと向田邦子と~キムヨナの“アディオス・ノニーノ”

Cd_astor_piazzolla_adios_noninoキムヨナのFSはアストル・ピアソラの「アディオス・ノニーノ」、日本語訳では「さよなら、父さん」となるそうだ。だが、ファンにとっては「アディオス・キムヨナ」の楽曲となる。この曲が一発で気に入った私は右写真のライブCDを購入してヘビーローテーションで聴いている。

いい曲だなぁ。またキムヨナで音楽の世界が広がった。キムヨナを見てるとまるで映画のサントラを聴きたくなるように作品の原曲が聴きたくなる。ボクにとってはそれほど音楽への訴求力を高める演技だってことなんだよなぁ。

現役引退後、荒川静香のようにアイスショーをしてくれるのかどうかも分からない。このままいけば韓国で政治家やIOC委員になってもおかしくない選手ではあるが、現役引退後でもいいから一回は生の滑りを見てみたい。ただそうなっても日本にはきっと来ない()。こちらが外国に行くしかない。チケット争奪戦がないショーであることを祈る。

おっと、引退後の話をいましてどうする!いまはソチ五輪に向けて全力でキムヨナの演技に迫らなければ。

●ブルース・リーとキムヨナの共通点(笑)

ショートとフリーの全貌が垣間見えたザグレブ大会と韓国大会。現役最後のキムヨナの選曲テーマは“せつなさ”のように思う。ものすごくありふれた単純な感想だけど、これまでのキムヨナの妖艶さのなかには常に“せつなさ”があったわけで、様々な表現要素のなかで最後に見せるキラーコンテンツに選んだのが“せつなさ”推しだったわけだ。

語弊を恐れずに言えば、ブルース・リーが必殺のこぶしを決めたときに見せる一瞬の哀しみに通じるせつない表情。キムヨナの強さとせつなさには表現者としての天賦の才能を感じる。ブルース・リーも香港映画の面白さをハリウッドに見せつけた伝説のアジア人のひとり。パイオニアとしてもキムヨナとダブって見えるところがある(ボクだけかもしれませんが言ったもん勝ち

そんなブルース・リーやキムヨナのせつない表現。練習すれば出来る部分じゃないだろう。同じスケート技術を持っていたとしても、芸術点に働きかける部分には天賦の才能が大きなウエイトを占めるのかもしれない。

もちろんせつなさだけが表現じゃない。ようは自分の特性を最大限に活かしきる演技構成を知っているかどうかだ。職人的な分析力と己を知る客観性としかし主張すべき主観性のバランス。あらゆる芸術に共通する要素じゃないだろうか。

●演技構成点(芸術点)についての一考察

表現者たるもの訴えたい主観があるのは当然であり、それをどう見せればアピールできるかを客観視できなければ自己満足だけになるのは必然であり、その表現を実現できるスタッフとの連携で職人的に仕上げていくのが芸術のプロの仕事だ。

たとえば女子スキージャンプの高梨沙羅。ボクは大好きなんだけれども、最近のインタビューでは常に客観的で、お客さんに自分のジャンプがどう見えるか、どう楽しんでもらえるか、そういう視点で発言することが多くなった。表現者として最高レベルにある自信とモチベーションの置き所がすでにプロ選手のものだ。まだ若いのにしっかりしてる子だよ。でもそれがまたけなげに見えて、まだ自分自身のために飛んで喜んでいいんだよと言ってあげたくなる。

スキージャンプも芸術点に似たような点数があり時々疑惑の判定が話題になるがフィギュアほどじゃない。フィギュアは審判の主観と表現者の主観のコミュニケーション度合が格段に高いし、その大会までに積み重ねてきたコミュニケーションの差が大きく出る競技だ。

ここでいうコミュニケーションとは、もちろんリンク外で審判団と飲み食いするだとかそういうことではなく、表現者の意図と審判の出す点数の傾向とが、ジュニア時代からシニア大会までリンクの上でいかにシンクロしていくかという表現を通してのコミュニケーションのことだ。

それは芸術家が生涯を通して描いてきた作品を個別評価するのではなく、人生そのものを複数の作品に投影してその歴史を評価するようなものだと思う。フィギュアはスポーツでもあるから、その表現者が何に挑戦し、その挑戦の意図がはっきりと審判の主観に訴えかけ、成果の跡(伸び率)をどれだけ大会で見せることが出来るか、そしてどれだけ納得が得られるか、それを競う競技だとも思える。

●神でもない限り芸術に減点法はあり得ない

単純にその一瞬の出来栄えを数値で評価するのがスポーツだという考え方もある。しかしフィギュアスケートはそうなっていない。これは事実だと思う。しかし選手生命が短く芸術的要素の強い競技特性から考えるなら現在の評価方法はなかなか考えられたものだと思う。

子どもから大人に成長していく過程にある選手の問題意識の置き所とそれへの取組の伸びを連続的に評価してあげるのは健全なことだ。その過程のなかで審判は選手に要素の点数によってメッセージを送り続ける。いわば絶対評価の通知表だ(相対評価ではない)。そしてその意図を汲んだ選手は自分自身と向き合い取り組み方を選択し練習する。

芸術性向上という意味ではフィギュアの選手は審判とともに生涯をかけて芸術作品を作っていく共同作業をしているともいえる。そこまでの物語やコミュニケーションの履歴が投影された作品が最新作として出てくれば評価は高くなると思う。

昔は減点法だったが芸術の評価に減点法はありえない。比較すべき「最高の作品」という形而上学的存在はないからだ。最高傑作は生まれ続けるものなのだ。だからオリンピックで言えば、2006年のトリノから加点法に変わったのは、技術レベル(減点法が可能)の評価よりも芸術レベル(減点法が不可能)の評価に重きを置くというフィギュアスケート界による未来へのメッセージだったんだと思う。

ただ振り子のように一方に行きすぎると調整が働く。それが今回の採点方法の修正というメッセージだろう。スポーツとして持久力と技術力に加点しますよという変更だ。そもそも点数のつけにくい競技であり採点方法の更新による試行錯誤は今後も続くかもしれないが、方向性は正しいと思ってみている。

表現者としての選手はその時々で発せられるメッセージにどう対応していくかを常に迫られている。どのような取り組みでそれに応えるかは選手やチーム個々の問題だ。しかし根底にある表現と審査というコミュニケーションの積み重ねによって作品を作り上げるという部分は不変ではないかと思う。

●タンゴはキムヨナの最高の得意技か

タンゴについて私はほとんど無知だった。タンゴといえば同世代の誰もが知っている皆川おさむの「黒猫のタンゴ」であり、中森明菜の「タンゴ・ノアール」であり、K-POPにはまってからはAliがリメイクした「キリマンジャロの豹」であり、キムヨナの「ロクサーヌのタンゴ」くらいが思い浮かぶ脳内曲名だった。ここにアストル・ピアソラという大作曲家が追加できたことはキムヨナのおかげだ。もう3枚CD買った(笑)。

しかしタンゴは踊るための曲だし踊りやすいのかなと思っていた。映画「Shall we ダンス?」も大好きな映画だ。社交ダンスとタンゴとは結びつきやすい。それだけに大衆的な匂いがある。大衆性というのはキムヨナの特性のひとつかもしれない。そんな大衆性と芸術性と金メダリストにふさわしい格調の高さとすべてあわせもってるピアソラのタンゴを持って来れるところが強い。

アディオス・ノニーノは編曲も振付もみんなせつない。この哀愁漂う作品は、どこか少女の面影を懐かしむようなSPのせつなさとまた一段異なる趣きを持ってる。キムヨナのスケート人生そのものを描いた作品だという解説をどこかのテレビ局で聴いたがいい得てる。世界観が大きい。

バンドネオンの曲を聴いてもうひとつイメージするのは向田邦子の一連の正月ドラマだ。お父さんが失踪してしまうことがよくある向田邦子の新春ドラマはアディオス・ノニーノ(さよなら、父さん)がモチーフになっていたりするのだろうかと向田ドラマへの興味も湧いてきた。

向田邦子のドラマを見ていたころはバンドネオンの音色にことさら意識的になることはなかった。しかし今回キムヨナのせつない演技と向田邦子のせつないドラマとが頭の中でシンクロし始めている。無意識にバンドネオンの音色が向田邦子ドラマの記憶として残っていたのだ。もしかするとキムヨナと向田邦子にも何か共通点をボクは見出しているのかもしれない。中島みゆきとキムヨナの共通点のように(笑)。

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2014/01/05

キムヨナチーム2014年始動の巻

キムヨナの韓国大会の映像をようやく見た。youtube時代というのは非常にありがたい。キムヨナ・アルバムさんが素早く見つけてきてくれるので削除される前にDLできた。ホントに感謝感謝ですわ。

感謝といえばもうひとつ「ひとくちメモ」のキムヨナ記事を紹介してくれていたブログがあった。こちらからもアクセスが多い。ロシア語と思われるブログ名だが日本語ブログだ。

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フィギュアスケートに造詣の深いブログで、フィギュアに疎い私にとっては他の記事が逆に参考になる。アンチ情報にも詳しくなれる()。こういうブログに出会えるからアンチを恐れず(笑)ブログに興味あることを書いておくべきだなぁと痛感する。ちなみに私は若かりし頃、渋谷道頓堀劇場に影山莉菜引退公演を見に行った。伝説のストリッパーというものはやはりオーラを持っていた。

●韓国大会のご祝儀得点にキムヨナも苦笑い

KBSのカメラマンはなかなか腕がいい。またローカル局やSBSも独自に撮影していて、それらを合わせてみると国際大会とは異なるアングルでキムヨナの演技が見られる。とくにジャンプを俯瞰で捉えた引きの映像は、テレビではなかなか感じることのできないキムヨナの飛距離やスピードを見せるのにとてもいいアングルだと思った。国際大会も様々なアングルの映像を複数許可して欲しい。フィギュアスケートの発展のためにもその方が裾野は広がると思う。

Magazine_ifs_201004B級大会、国内大会、オリンピックという余裕を持った調整が出来るのもフィギュア不毛地帯韓国出身のメリットを生かしたやり方だと思うが、国内大会が第68回というのを見て不毛地帯などと言ってきたのは失敬だったと反省。年一回で68年間続いてきたのかどうかは知らないが歴史ある大会のようだ。その歴史のうえに悲願のオリンピック金メダル選手が育ったわけだ。

もっともアジアに金メダルをもたらした最初の選手が荒川静香(2006年トリノ五輪)だったわけだから、アジアの時代は最近のこと。もちろんパイオニアとしての伊藤みどりや中興の祖安藤美姫の積み上げてきた努力が前提にある。そしていまやアジア最強時代が3季続くことになる。まさに21世紀アジアの時代の象徴的スポーツのひとつかもしれない。

それにしても韓国大会SPで80.60という得点にはキムヨナ自身も苦笑いだった。勝負事に熱くなりやすく気前のいい国民性が出た点数だ。もちろん加点法だから出せた点数でもある。そこには気分よく送り出そうという国家的意志を感じる。それを不正だとかいい加減だと言いたくなる気持ちはわかる。

しかしこの大会は選考大会ではなく、韓国としてはキムヨナに気持ち良く滑ってもらって良いイメージを持って五輪に向かってもらうための壮行会のようなものだ。その良し悪しには賛否両論あることだろう。キムヨナ自身も「선생님들!この点数ははしゃぎすぎでしょ(苦笑)」と思ったんじゃないか。しかし気分よくノーミスで滑った自分自身への自信も戻ってきて、そんなご祝儀もありがたく受け取ったことだろう。

私も2010年バンクーバー五輪でのキムヨナ金メダルの雑誌の表紙画像をブログに飾って、いいイメージを持ってソチ五輪のテレビ観戦に挑もうと思っているところだ。

●興業的に取り組んでいそうなキムヨナチーム

世界選手権もオリンピックも頂点に立ち、今年現役引退を宣言しているキムヨナのモチベーションはどこにあるのだろうか。オリンピック2連覇というのはもちろんあるだろうが、そういう面での緊張感をまったく感じない。その堂々たる余裕を見ると、すでにキムヨナの意識はアマチュア選手ではなくオールザットスポーツというマネージメント企業の屋台骨を支える一本柱としての責任感なのではないかと私は考えている。

サマランチ以降のビジネス五輪を私は批判してきた。選手のアマチュアスピリットを利用して儲けようという企業サイドの強欲さが目に余る。ただ、そういう企業群なしに強い選手(金になる選手)を育てることも難しくなっているのが現実だ。あらゆるスポーツはビジネスと相互依存しながらしか存在できない時代になってしまった。

キムヨナは経費のかかるフィギュアスケートという競技を他の競技との国家予算争奪戦が激しい韓国で認知させ継続させていく使命を自覚している。後進の育成には時間がかかる。今後のことを考えればいまやキムヨナは韓国内に対してのフィギュアスケートの広告塔であるし世界への扉でもある。その意識はスポーツマネジメント企業を支えるプロのものだと思う。興行的な感覚が芽生えてもおかしくない。

日本の選手は純粋にアマチュアとしての高みを目指して精進できる環境をすでに持っている。その純粋さに日本のファンは声援を送る。かつての安藤美姫バッシングを見ても、アマチュア精神絶対主義的優等生礼賛のようなものが覆っている。その最高傑作が浅田真央だと思う。浅田はアマチュア選手として最高峰に位置づけられる。それに異論はない。

しかしキムヨナには日本的美徳とでもいえるそれがない。背負っているものがまったく異なるため実現させたい未来もまたまったく異なるのだ。韓国でのパイオニアとしての重責はオリンピックを興業的にも成功させなければという責任感に由来するように思う。

「ここで何点もらえる」とか「失敗したらここで立て直そう」とか、そういうアマチュア視点ではもはやなく、出来て当たり前という意識のもと「常に高水準の安定した演技を見せるのが興業」という意識なのではないかと私には見えるのだ。だからテレ朝ドラマ 『Doctor-X~外科医・大門未知子』のように「私、失敗しないので」というような堂々たる演技が出来るのではないかと思う。もっともそうは思っていてもそれをやり遂げられる体力と精神力は尋常ではないわけだが。

●あらゆる面で分析的なキムヨナチーム

山下達郎は自身の声域や歌声の個性(弱点も含む)を熟知し、それを活かしきれる方法論を検討し、届かない部分をサウンドによって補完することで、もとからある才能を活かしつつ音楽として最大限の表現に構築していく職人的アーティストだ。あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチはその突出した数学的思考力と想像力や構築力を最大限に活かして数学的に美しい絵画を描いた。棋界の巨人大山康晴は常にミスをしない手堅すぎるまでの保守的な勝負で負けない将棋を指した。

キムヨナはこれらのアーティストや勝負師と似た職人的なところがある。天才では決してない。天才でないからこそ能力を過信しない。それがリスク管理につながっているように思う。自分に出来ることと出来ないこととの分析と取り組み方を徹底的に分析してフィードバックしていると思う。

今回のSP「悲しみのクラウン」はキムヨナが他の選手が使っていて気に入った曲だということだが、穏やかな曲なのにダンスとのシンクロが非常にしやすい曲だと思う。弦楽器がちゃんとリズムを刻んでいて、ブレイクポイントをきっちり入れて編曲されている。そのブレイクポイントにやはりジャストで入っていけるキムヨナの体内時計は健在だ。

振付も音楽を理解して付けられている。私が好きなポイントは、踊りはじめの左足を伸ばして戻るところ、最初のレイバックスピンのあとの「行かないで~」といった感じで右手を前に突き出す(中島みゆきのヘッドライト・テールライトをも連想させる)ところ、そして後半の手を後ろで結んでしょんぼりした感じ(チャップリン映画に似た胸キュンな感じ)のところ。どれも動作の前の一瞬の休符が情感を増す。これらに共通する“せつなさ”は現代のポップミュージックにおいても重要なポイントだ(by 亀田音楽専門学校@ETV)。

衣装もタクワン色とも言われたイエロー系の衣装はそのままでいくようだ。この色はあまりなく個人的には以前もつぶやいた通り悪くないと思っていた。FSの衣装は若干色を変更するとか。これも見え方を分析して調節していく職人的かつ興行師的な意識といえるかもしれない。

余談になるが、荒川静香さんの『知って感じるフィギュアスケート観戦術』によると長野五輪以降の金メダリストはFSの衣装が「青」だったと書いてあった。それで荒川静香のコーチも験担ぎで青を指定し金メダルを取り、キムヨナも青い衣装だった。まだこの都市伝説は続いているのだ。

今回のキムヨナのFSは黒を基調に紫を差し色にするという噂なので、これまでの金メダリストの都市伝説から外れる。他のライバル選手がどんな色で登場するかも楽しみだ。ここで金メダリストの衣装においても新たな展開をキムヨナに見せてほしいと願っている。

とりあえず韓国大会FSでは高すぎない点数を望みたい(笑)。こんなところで突出してもいいことないよね?

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2014/01/03

売国と戦後レジームからの脱却

今日は正月らしくこれからの世の中についてヨタ話をしてみよう。

安倍政権が目指す世の中を個々の政策や発言を繋いで考えてみると戦争は不可欠に思える。不可避ではなく不可欠。避けられないのではなく欠かせない行事なのではないか。

安倍といえば売国右翼だが、その根拠には強欲資本主義による格差確定社会の実現がある。グローバル化というアメリカ中心主義は富を米国資本に集中させ、そのおこぼれに預かろうという主義だ。

ただしおこぼれに預かれる民は両国で選別する。ユダヤ資本が大きな影響力を持っていることが関係しているかどうかはわからないが、民族にはこだわらない平等主義的である反面、富は分配に都合のいい階層だけに集中させ、階層の逆転を出来る限り不可能にすることで社会秩序を保とうとする。

そのお仲間に入れればこれほど安楽な生活はないことだろう。特に日本人はそういうおこぼれ主義が開国前から身についているので、格差確定に満足して受け入れる可能性は高い。身のほどを知る美徳に漬け込まれてしまいやすい。

そうやって格差が確定すると兵隊も集めやすくなる。兵隊になることで経済的には少し楽になる民が戦争には不可欠だ。

いっぽうで安倍晋三の口ぐせは戦後レジームからの脱却だ。これは敗戦国ニッポンからの脱却を意味する。少なくとも売国右翼の論理では戦勝国アメリカのおこぼれに預かる主義との整合性は取れている。「親分、俺にももう一回チャンスをください。悪いようにはしませんから。」ってことだ。

敗戦国ニッポンから脱却をするには次の戦争で手柄をたてるしかない。それも世界を巻き込み国連の枠組みを崩壊させるレベルの戦でなければ戦後レジームからは脱却できない。その火種がうまいことに極東アジアには転がっている。いうまでもなく中華思想の国と独裁者の国だ。相手は表向き共産主義でもあり親分アメリカの理解を得られると思ったことだろう。

だが2013年末の安倍晋三の靖国参拝への米国の評価は違った。そりゃそうだ。米国にとって日本よりも中国のほうが重要かつ脅威なのは間違いない。中国を下手に刺激するだけで何のメリットもないその政治手法の稚拙さに米国はあきれている。

こんな子分の危険性は軍事大国が一番よく知っている。こういうアブナイ奴は生かさず殺さずが一番いい。さらに金儲けはうまいときてる(もっともここにも疑問はある)。これを利用し尽くすことこそがTPPを始めとする収奪の論理だ。いわば日本は親分に型にはめられた子分なのだ。いまのままでは逃げ道はない。

もちろん親分を怒らせて袂を分かつという選択肢はある。そういうやり方で戦後レジームからの脱却を目指す方法論だ。安倍の靖国参拝は売国右翼的な行為ではなくこちらに取られた可能性が高い。まさにサンフランシスコ講和条約の破棄という道で血にまみれた歴史を繰り返そうという道である。

つまり安倍晋三は目指す米国中心主義によって経済と政治とのダブルバインドという袋小路に迷いこんでしまったのだ。売国右翼という矛盾はそこから導き出される。この袋小路もまた戦争という選択肢を選びやすい状態ではないだろうか。

敗戦国という縦割りの格差確定社会から脱却し国家を超えた別の水平な格差確定社会を目指す安倍晋三。

だが米国も中国も戦勝国でありその枠組みは壊したくない。安倍はこの両国間に亀裂を入れてそこに自らを押し込もうとする。ロシアも出来れば味方に引き込んでアジア組組長かつ米国の若頭を目指す。だがそれは上層部には迷惑な話なのだ。

そう考えると八方塞がりな日本が戦争準備だけはしておこうという姿勢になっていく。勝てば親分も認めざるを得ないだろうという楽観主義的売国右翼の論理では。

だが米国は日本の軍事大国化を絶対に認めない。特に安倍晋三のようなマッチョで袋小路に陥っている政治家を信用することなどあり得ない。利用価値がある間だけ利用するのが関の山だろう。

経済においても日本は自力では何も成功させたことがない。高度成長は米ソ冷戦の産物であり、その末路としてのバブル経済は不正な株価操作の結果だった。こういうときだけは国境がうまく作用する。

痛手を極東アジアだけに限定させて損失を集中させればいい。ロシアンルーレットに当たったようなものだ。恐らくこれと似たロシアンルーレットがまた始まっている。アベノミクスが同じ轍を踏まされる可能性は高い。バブル時代と同様に損失を放り込むズタ袋を用意して見せかけの好景気を演じると提灯相場は操作できる。

富が分配可能なのと同様に損失も分配可能だ。リーマンショックの教訓は、不確実性がリスクとは異なる危機だということだった。だがその不確実性を押し付ける先が支配できれば助かる可能性があることも学んだ。それは日本のバブル経済でも一度経験していた。

グローバル化といいながら実態はローカル化を目指す社会になっていくだろう。ただそのローカルは国境を意味しない。良し悪しは別にして新しい階級秩序が形成される可能性が高い21世紀だ。

格差確定社会は不確実性の範囲を限定させ、そのなかで破滅をループさせることで、常に助かる階層の固定化を目指す。まさにバブル経済の仕組みをグローバル化したようなものだ。これも大いなる実験だがやってみる価値はある。そのモルモットとしてうってつけな舎弟がアベノミクスではないか。

安倍晋三の誤算は靖国参拝だけでなく米国追随政策でグローバルな格差確定社会の勝者に入れると考えているところだ。まったく逆なのだ。政治的に戦後レジームからの脱却もならず、経済的にも収奪される側に押し込まれそうになってる。そうとは知らずに親分愛だけで政治を進める稚拙さに漬け込まれる一方だ。

米国追随政策を少しずつやめていくことが最優先事項だといえる。米国が作った戦後レジームからの脱却だ。そしてロシアや中東も含むアジア経済圏の構築を目指す。そうすることでこれまでの妄信的アメリカ中心主義から目が覚めるだろう。もうひとつのグローバル化が見えてくる。

手始めに琉球を米国から解放することだ。日本が独立国として歩き出すために目に見える第一歩は日米地位協定の見直しだ。他の外交防衛政策などは後回しでいい。そして琉球をアジアと中東・アフリカを結ぶ経済圏のハブとして復活させよう。

もちろんそんなことが安倍政権に出来るはずがない。それが出来る政党を育てていかなければならない。ここでまた絶望のループも始まってしまうわけだが。収奪されてみないと気づけないだろうか。

新春ヨタ話はこんなところでお開きに。

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2014/01/01

2014年の始まり

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2014年が始まりました。昨年末に大瀧詠一さん永眠の知らせを受け呆然としておりました。ここまで大きな存在のあっけないほど早すぎる突然の幕切れがこんな風に訪れるという現実。東北の復興を見ることなく亡くなったのも悔しいですが、彼方ではさっそくプレスリーに聞きたかったことをインタビューし始められていることと思います。

さて此方に残っている私の2014年は何といってもキムヨナ選手の復活五輪と現役引退の年です。その結果は2月には出てしまう訳ですが、そこまではキムヨナ中心の生活に。といっても何が出来る訳でもなく前回五輪のとき同様にただソワソワして妄想的なブログを書き連ねるくらいのものです。

ゴガクル日記に書きましたが"연아처럼 당당하게 세계를 향해"という薄めの書籍を元旦から読み始めることにしたので、これもソチ五輪までの時間を埋めるツールに出来そうです。

上の画像は昨年の旅先で撮った写真です。題して「四つのパースペクティブ」です。フランス語風のメッセージを載せてますが厳密には間違いがあります まぁA Happy new year のAも文法的に間違ってるそうなので似たようなもんですわ。日本人ですから。

日本人といえば昨年は売国右翼の安倍晋三をツイッターで批判したらネトウヨの方からキムヨナを応援するような在日らしい批判だとコメントをもらいました。ちゃんとボクの記事を読んでキムヨナファンだということまで確認してくれてるんで有難いことです。それに対して Yes we can! と英語で一言応えたら、清くて宜しいとネトウヨの方からお褒めの言葉を頂きました。

ちょうどパリに行く少し前だったので、在日日本人の私はもうすぐ短期在仏日本人になっちゃうけどねくらい言ってもいいかなと思ったのですが、ややこしくなりそうなのでネトウヨでも分かるオバマ風の英語フレーズでお茶を濁したわけです。

キムヨナを応援することが近寄らなくてもいい有象無象を呼び寄せることになるネット社会は本当にウザイけど、それはそれでネタ化出来れば何も痛手は受けないので今後もいろんなコメントでボクを楽しませて欲しい。頭の体操だと思って御相手申す!なんつって。でもマジな詐欺サイトだけはゴメンだけどね。

もっともそんなややこしいコメントじゃなくて本当のキムヨナファンコメントの方が嬉しいので、キムヨナファンの皆さまこそ、今年もよろしくお願い致します!ラストイヤーをしっかり目に焼き付けましょう。


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