中島みゆきのシングル集『十二単』で勝手に妄想トーク
ここ数回はパリ話を続けているが、帰国後すぐに届いた中島みゆき『Singles4 十二単』について語らずにいられない。パリ話が終わってからだと遅くなるので間に挟む形になるが妄想トークを書き連ねておきたい。
その前に、なぜ凱旋門の写真なのか(笑)。それは中島みゆきさんが斉藤ノブ氏とバッタリ出会ったという中華料理屋が凱旋門の近所だったというオールナイトニッポン情報とのシンクロに決まってる。帰りの機内でその録音を聴きながら、店を探すべきだったと後悔しちゃいましたよ!
それはさておき、中島みゆきさんのシングル集第4弾、タイトルは『十二単』です。意味深なタイトルだよなぁ。制作発表が公開情報になったのは8月くらいだったと思います。また、初回限定盤には「時代 -ライブ2010~2011-」の映像特典が付き、全12曲の2曲目にもライブ2010~11ヴァージョンの「時代」が入っています。この“時代推し”という心境も深読みポイントだよなぁ。
●十二単と時代とワタクシとのシンクロ加減に歓喜
思えばNHKのSONGSで「時代」という曲についてご自身でコメントされたという快挙がありました。その件につきまして私は4月に「SONGS中島みゆきの『時代』を観て思った。昔から姿勢がいい!」という記事を書いております。
実はその記事と今回のシングル集とのシンクロ加減がハンパない!って話ですわ()。
その記事は「時代」という楽曲の普遍性とアーティストの普遍的であろうとする姿勢について書いてるわけですけれど、この記事のなかにさ、「十二単」ってワードが入ってたんだよなぁ(シミジミ)。その部分を引用してみる。
中島みゆき自身が「時代」という自身の楽曲についてテレビで語る(ただし音声のみ)。業界的には「まずありえない」事態が起こった。もちろん言葉の選び方は中島みゆきらしく十二単を纏ったようなかわし方も多いわけだが、そこを好き勝手に読み取るのがアチキの仕事だ。
どーですかお客さん。“十二単を纏ったようなかわし方の中島みゆき”が、時代推しのCDを「十二単」ってタイトルで発売しちゃったんだ!いや、びっくりしたね。てっきりこの記事へのみゆき嬢からのメッセージだと勘違いしちゃったよボクは!
いや、百歩譲ってそれが単なる妄想だったとしてよ(譲る間もなく妄想でしかないわけだが)、ボクが持っていた中島みゆき=十二単というイメージと、中島さんが次のアルバムのタイトルを「十二単」にしたという事実との、このシンクロ!どーで・す・か?お・きゃ・く・さん!
縁は不思議。それと知らぬ間に探し合うんだよねぇ(笑)。ボクが記事を書いたのは4月、「十二単」の制作発表は8月、これ妄想家的には重要なところだよ。みゆきさん(あるいはスタッフさん)がですよ、「ポップンポールがSONGSを見てまた適当なこと書き飛ばしてるぜ」と記事を読まれてですよ、「あら、十二単、ふぉーん、十二単のようなかわし方にぇ、それ、いただき!」みたいな(笑)。だったらうれしすぎ。
もっとも全12曲ですし、日本人の美意識を求める中島みゆきが「十二単」というタイトルを発案するのはそれほど奇抜なことじゃない。「大吟醸」よりはよっぽど想定内の言葉ではあろう。しかしここに、「時代」というもう一つのキーワードと合わせて一本なところが、より妄想を加速させるのだ。
「時代」を無の心境で歌いたい中島みゆき。その方法論として4月の記事では私なりの見解を述べた。「時代」を無の心境で伝えることが出来、永遠のスタンダードとして残すその方法論と、今回のDVD付きCD(初回限定盤)という初の試みとがこれまたシンクロしてるわけだ。時空を超えて残るわけだ。
●中島みゆき=メーテル論
みゆきさんは過去を振り返らない。「時代」という最初期の楽曲の歌い直しは、だからノスタルジーとは無関係なはずだ。聴く側がどうあれ。すでにスタンダードと化しているこの楽曲をひとつの材料として用い、新しい試みをしているように思える。それが「無の心境」と無関係であるはずもない。
十二単でがっちりガードされた裸の中島みゆき。その美意識を深く深く探っていくと、そこには何もない。いや無限があると言おう。どこまでも続く宇宙が十二単を纏っている。中島みゆきは銀河鉄道で旅するメーテルのような女だ。旅人に寄り添う謎の女なのだ。
たとえば「無」の心境で普遍のスタンダードを残すというプロジェクトがあったとする。「時代」以外に選択可能な楽曲はあっただろうか。もちろん名曲はたくさんあるし、抽象的な楽曲もたくさんある。しかしコアなファンだけでなく、過去も未来も現在も超越して「無」であり続けられる楽曲となるとどうだろう。
たとえば「地上の星」はメッセージ性が強い。歌詞が説明可能だ。それは私にも多少の責任がある()。また時代が現代に近すぎる。「時代」ほど抽象的で過去とも接触しながら「無・時代性」を帯びている楽曲はと考えると、唯一無二のような気がする。「時代」以外の楽曲ではなんらかの意味がまとわりつくような気がする。
誤解をおそれず妄想するならば、中島みゆきは「時代」を吉田拓郎の「イメージの詩」のように調理したいのではないだろうか。そしてアルバム「十二単」は十二の虚構の集合体である。シングル集であることの脈絡のなさが、逆にコンセプチュアルでもある。
妄想トークばかりで楽曲に触れないで来たが、シングル集だし、大丈夫でしょ。ひとつポップンポール的な視点から言えば、動物が結構でてくるよね。バクに獣に魚に。魚が増えてるのは興味深い点ではありますね。一番聴きごたえがあったのは「帰れない者たちへ」でした。このみゆきさんが好きだな。
それとまったく関係ないけれど、中島みゆきの作品から猫がいなくなったという指摘を『ねこみみ 猫と音楽』には書きましたが、ひょんなことから楽曲ではなくラジオに猫が戻ってきてますね。「今月のニャンコ」ってコーナー(笑)。やっぱり中島さんにとって猫はいまでもパーソナルな存在だったんだって、ちょっとうれしかったね。
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