エスプリの効いた映画『ミッドナイト・イン・パリ』
エスプリとは、エクリチュールとかオマージュとかオルタナティブとか、よく意味も分からずに使ってみたいカタカナ語のひとつだ(笑)。
ウディ・アレンといえばアメリカの知性というイメージだが、『ミッドナイト・イン・パリ』はフランス文化への憧れというか、憧れの異人たちとの邂逅を妄想する映画だった。随所にウディ・アレンらしいウィットやユーモアがちりばめられている。
毎夜1920年代のパリに迷い込みフィッツジェラルドやヘミングウェイと打ち解けていく主人公は小説家志望の脚本家。過去にタイムスリップして憧れの小説家と直接会話をして刺激を得る。ダリやブニュエル、マン・レイといった私の好きなシュルレアリストも登場する。シュルレアリストの奇異な趣味・趣向はウディ・アレン好みなツールかもしれない。
タイムスリップしてないときの現代パリには、いけ好かない「知識人ぶる男(=主人公曰く完璧な表現)」が出てくる。名前はポールだ。この男はまさにエスプリが効いた作品とかいいそうな男だし、そんな薄っぺらい能書き男に心酔し簡単についていく女(主人公の婚約者)のアホっぽさが笑える。
そんな現代の軽薄な知識人ぶる男が美術館でピカソの絵に対して適当な薀蓄を述べると、主人公はタイムスリップ先の1920年代パリで出会った評論家やピカソ本人たちの交情から得た生情報を披露する。すると婚約者に「クスリでもやってる?」と一蹴される。こういう会話のテンポがウディ・アレンの真骨頂だ。
そんなディテールにクスクス笑いながらも、映画のテーマはブレがない。黄金時代などとよばれる過去の華やかさは永遠に繰り返される現代人の不満と憧憬の産物だ。どこまでさかのぼっても満足することはない。それをタイムスリップによって身を持って実感する主人公。
このテーマは中島みゆきにも通底する現代人の永遠のテーマかもしれない。過去に縛られずいまを生きる作家性の強いアーティスト、ウディ・アレンと中島みゆき。私が惹かれる共通項を見つけたような気がした。
そして主人公はひとつの区切りをつけパリで生活していくことを決める。人生は不満だらけだ。だが過去に逃げてちゃいけない。いまを生きなければ。過去はいまを生きるヒントを与えてくれる(ヘミングウェイが主人公の小説に寄せた感想のように)。それ以上ではないのだ。
そこに新しい出会いが待っているところはまさにエスプリが効いた演出のように思えるが、たぶんそれは120%ウディ・アレン流のアメリカ映画らしさだ。
一本の太い幹としてのテーマ性と枝葉にちりばめられたユーモアのセンス。それを使ってラブロマンス仕立てでさらりと描いて見せる映画監督・脚本家としての技量。現代社会への不満と過去の黄金時代への憧憬を人一倍持っていそうなウディ・アレンが、自戒をこめてある種自虐的に主人公を描いた映画なのかもしれない。
ウディ・アレンがその舞台としてパリを選んだところが、これからパリに旅行しようとする私には参考になった。精神の旅は物理的な旅行と同時並行で進んでいくのだ。考えるために行動する。行動しながら考える。両輪なきゃ進めない。
最後に「雨のパリが一番ステキ」というセリフ。この映画は冒頭からパリへの旅情をそそりまくる。そっち方面の結論がこれだ。雨のパリは最高。映画的にはいいシーンだったが、私の旅行中は雨は降らないで欲しいと願う。カンペールの靴は雨に弱いのだ。
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