google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2013年10月

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2013年10月の7件の記事

2013/10/26

20XX年、人類が糖質を手放す日は来るのか?!『炭水化物が人類を滅ぼす』

新書らしい新書を読んだ気分だ。趣味としての糖質制限を始めて1年と1か月と2週間が経過した。一周年目にはその成功を祝い、来月にはまた健康診断というタイトルマッチを控えている。そんなタイミングで出会ったのが夏井睦先生の『炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学』(光文社新書)だ。

夏井睦先生のことを知ったのは、糖質制限の江部康二先生との共著『医療の巨大転換(パラダイム・シフト)を加速する――糖質制限食と湿潤療法のインパクト』(東洋経済新報社)だったのでついこの前だ。しかしすぐにファンになった。糖質制限を抜きにしても、この先生のもつ好奇心や“独創気質”は私の大好物だから、きっと出会うべくして出会った著者のひとりだと思う。

夏井先生のこの探究心は中学時代に読んだブルーバックス『マックスウェルの悪魔』に始まるそうだ。私もブルーバックスを読み漁っていた子どもだったので、この新書はもちろん読んでいる。いまでも新装版となって売れているロングセラーだ。

同じ原点を持っていても夏井先生のように創傷治療を発明した偉大な医者になる人もいれば、私のようなただのブロガーになったりする人もいるわけだが、温度差や能力差はあっても知的好奇心を持ち続ければこうして類は友を呼ぶのだろう。『炭水化物が人類を滅ぼす』は本当に面白い新書だった。

●糖質制限にとどまらない知的探求の旅

ただ、これから糖質制限ダイエットを始めようという人が読むとピント外れかもしれない。この新書は実践のためのガイドブックにはならない。まさに「趣味の糖質制限」にうってつけな新書なのだが体重を落とすための実用書ではまったくない。

誤解を恐れず言えば、糖質制限に成功した人が余裕をもって振り返るための人類史探訪の書だ。あるいは糖質制限の人類史的根拠を知ってから始めたいという酔狂な方(もっとも結構いらっしゃると思いますが)ならピッタリ。私のようにカロリー制限について様々な疑問を持ってしまった人にも大変参考になる記述もあった。

糖質制限というのは先祖がえりの手法といえる。もともと肉食だった人類は種実に出会い、コムギ(の甘さ)に驚き、ついに穀物栽培、灌漑農法によって狩猟採取生活から定住生活へとパラダイム・シフトして爆発的な人口増加と様々な英知を編み出してきたわけだが、それと引き換えに糖質が引き起こす様々な機能不全を招いた。

その日から12000年後の現在、身に着けた英知はそのままに健康も取り戻そうという欲張りで贅沢な取組が糖質制限食ともいえるだろう。人類はようやく穀物という神の衣を借りた悪魔の飽食に気付き、その洗脳を理性で乗り越えようとし始めたのだ。糖質制限とはそういう取組だといえる。

この新書はそんな糖質という毒物の根源的な諸問題を、人類史を遡りながら「なぜ、なぜ」と問いかけては仮説を立てていく。仮説は頭のなかに置いておくと死蔵となるという持論の夏井先生だからこそ、ここまで書けたのだと思う。また内科医でもなく人類学者でもない自由さもあったと思われる。広い分野の専門書と論理構築力がなせる業だ。博学とはこういうことをいうんだと思う。

日本ではこれまで古い知識を溜めこんで小出しにするタイプの知識人や専門家が目立ってきた。それは受験秀才のもっとも得意とする方法だ。社会構造がそのようなヒエラルキーのもとに構築されてきたともいえる。しかしそのような保守的な知識では立ち行かなくなってきたのが現代社会なのかもしれない。

古い知識を根源的に疑いながら新しい所見や発見から大胆な仮説を公表できる勇気のある学者や知識人が渇望されている。裏を返せば権威主義も最高潮を迎え、その弊害がさまざまな分野で露見している時代でもあるだろう。自分の頭で考えて行動しなければ生命の危機に直結するリスクを抱え込んだ現代人なのだ。それだけ権威が形骸化し老害となっている。知的好奇心がある人にとっては面白くてたまらない時代でもあろう。

●穀物栽培は原発開発に似ている

炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学』を読んで、穀物栽培に憑りつかれた原始人類の業は新自由主義や原発開発にまい進する現代人類の業とかぶって見えた。悪魔的なメリットとデメリットを考えると非常によく似ていると思う。

穀物栽培が人類にもたらした膨大なメリットや創造力は、人口爆発によってもたらされたデメリット(階層社会や戦争)さえも活用し、その大脳が次々と新しい手法(支配構造や武力)を編み出してきた。それも進歩と呼ぶのかもしれない。

妄想をたくましくすれば、現代社会が新自由主義という「お金がすべて」の暴走を始めたり、人類が制御不能な原子力の開発でリスクを無限に拡大していく思考回路も、欲が理性を超えて拡大しようとする人類の業ではないだろうか。

「甘さの誘惑」を求めて拡大してきた穀物栽培の歴史がDNAに組み込まれていて、人類は何かに憑りつかれたようにリスクに没入する業を持っている。それも快楽と引き換えに。まさに悪魔的とはこういう取組を言うのだろう。そんな誘惑は下手な宗教など及びもつかないレベルで流布していった洗脳だ。

糖質、マネー、原子力。これらは人類にとって多くのメリットをもたらしてきたかもしれないが、もはやこれらにラリっていては生命に危険な時代となったようだ。そろそろ理性を取り戻さなければならない。その第一歩として誰でも出来るのが糖質からの解放ではないだろうか。

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2013/10/19


ストラップがトリコロールにw

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エスプリの効いた映画『ミッドナイト・イン・パリ』

エスプリとは、エクリチュールとかオマージュとかオルタナティブとか、よく意味も分からずに使ってみたいカタカナ語のひとつだ(笑)。

ウディ・アレンといえばアメリカの知性というイメージだが、『ミッドナイト・イン・パリ』はフランス文化への憧れというか、憧れの異人たちとの邂逅を妄想する映画だった。随所にウディ・アレンらしいウィットやユーモアがちりばめられている。

毎夜1920年代のパリに迷い込みフィッツジェラルドやヘミングウェイと打ち解けていく主人公は小説家志望の脚本家。過去にタイムスリップして憧れの小説家と直接会話をして刺激を得る。ダリやブニュエル、マン・レイといった私の好きなシュルレアリストも登場する。シュルレアリストの奇異な趣味・趣向はウディ・アレン好みなツールかもしれない。

タイムスリップしてないときの現代パリには、いけ好かない「知識人ぶる男(=主人公曰く完璧な表現)」が出てくる。名前はポールだ。この男はまさにエスプリが効いた作品とかいいそうな男だし、そんな薄っぺらい能書き男に心酔し簡単についていく女(主人公の婚約者)のアホっぽさが笑える。

そんな現代の軽薄な知識人ぶる男が美術館でピカソの絵に対して適当な薀蓄を述べると、主人公はタイムスリップ先の1920年代パリで出会った評論家やピカソ本人たちの交情から得た生情報を披露する。すると婚約者に「クスリでもやってる?」と一蹴される。こういう会話のテンポがウディ・アレンの真骨頂だ。

そんなディテールにクスクス笑いながらも、映画のテーマはブレがない。黄金時代などとよばれる過去の華やかさは永遠に繰り返される現代人の不満と憧憬の産物だ。どこまでさかのぼっても満足することはない。それをタイムスリップによって身を持って実感する主人公。

このテーマは中島みゆきにも通底する現代人の永遠のテーマかもしれない。過去に縛られずいまを生きる作家性の強いアーティスト、ウディ・アレンと中島みゆき。私が惹かれる共通項を見つけたような気がした。

そして主人公はひとつの区切りをつけパリで生活していくことを決める。人生は不満だらけだ。だが過去に逃げてちゃいけない。いまを生きなければ。過去はいまを生きるヒントを与えてくれる(ヘミングウェイが主人公の小説に寄せた感想のように)。それ以上ではないのだ。

そこに新しい出会いが待っているところはまさにエスプリが効いた演出のように思えるが、たぶんそれは120%ウディ・アレン流のアメリカ映画らしさだ。

一本の太い幹としてのテーマ性と枝葉にちりばめられたユーモアのセンス。それを使ってラブロマンス仕立てでさらりと描いて見せる映画監督・脚本家としての技量。現代社会への不満と過去の黄金時代への憧憬を人一倍持っていそうなウディ・アレンが、自戒をこめてある種自虐的に主人公を描いた映画なのかもしれない。

ウディ・アレンがその舞台としてパリを選んだところが、これからパリに旅行しようとする私には参考になった。精神の旅は物理的な旅行と同時並行で進んでいくのだ。考えるために行動する。行動しながら考える。両輪なきゃ進めない。

最後に「雨のパリが一番ステキ」というセリフ。この映画は冒頭からパリへの旅情をそそりまくる。そっち方面の結論がこれだ。雨のパリは最高。映画的にはいいシーンだったが、私の旅行中は雨は降らないで欲しいと願う。カンペールの靴は雨に弱いのだ。

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2013/10/16

男ひとり旅のパリガイドブック探し

10年ぶりの強烈な台風がやって来て電車が止まっている。さっき雨はやんだので駅まで行ってみたが、強風のため電車が動き始める見通しがたたないらしい。電車で寿司づめにならずに済んだのを幸いとチョコクロワッサンとリンゴと紅茶のデニッシュとカフェオレを買って一時帰宅。時間があいたのでブログを更新することにした。

風がやむまでの短時間で何を書くか考えて、とりあえずパリのガイドブックに何を選んだかを記録しておきたい。というのも、パリのガイドブックはほとんどが女性目線で書かれており、男(おっさん)一人旅向けのガイドブックは皆無といえる。ここで紹介するものもほとんどは女性目線といえるかもしれない。しかしなかにはショッピングやスイートやグルメだけじゃない、ちょっと変わった視点のガイドブックもあり、そういうものを男(おっさん)目線で読み替えていくのも一考かと。

まず一冊目は言わずと知れた『地球の歩き方 パリ&近郊の町 2013~2014』だ。とりあえず辞書みたいなものであるだけでホッとする。これで旅の外観をつかみ、ディテールを他のガイドブックで補うのが私のスタイル。

次にあげるのは『改訂版 ガイドブックにないパリ案内』(稲葉宏爾著)がよかった。まず著者が男(笑)。それに書籍のアートディレクションを長年やって来た著者だけあって造本が見事です。美しくコンパクト。写真とイラスト地図と文章のバランスがよく、それでいて型にはまってない。パリのイメージを本にしたらこうなるという見本のよう。でもタイトルは「ガイドブックにないパリ案内」なのだ。おっさん一人旅のために書かれた唯一無二のガイドブックという貫禄すら漂う。ただ、この書籍を読むと短期滞在じゃもったいなく思えてくる。

トリコロル・パリのお二人、荻野雅代さんと桜井道子さんの著書『歩いてまわる小さなパリ~日帰り旅行も!~』も無意識にパラパラ読んでることが多い。地区別の地図の切り取り方がうまい。効率的にパリを散歩するという編集方針にブレがない。ちょっとした豆知識もツボを押さえてる。完全に女性目線のガイドではあるけれどオッサンでもパリを歩きたくなる本だ。トリコロル・パリのWebサイトはスマホにもブックマークしてよく見てる。

最後に照会するのは、とのまりこさんの『1枚のユーロ紙幣で楽しむパリ』だ。とのまりこさんは何冊もパリの書物を出版されてるけれど、どれも切り口がオリジナルだと思う。そのなかでもこのガイドはタイトルからして他にないと思う。基本的には女性目線なのだけど、金銭感覚というのは知ってて損はないし、いろいろ応用が効くような気がする。

おっと、風も収まってきた。そろそろ電車、動き始めたかな。

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2013/10/13

キムヨナゆかりの韓国・フランス・カナダで連想

私にとってキムヨナにゆかりのある3つの国といえば、生まれた国の韓国(富川市)、オリンピックイヤーのGPシリーズでショートプログラム007を初披露し優勝したフランス(パリ)、そして練習の拠点かつ冬季五輪で金メダルを取ったカナダ(バンクーバー)になる。これらの共通点をあれこれ妄想してみようというヨタ話だ。

まず韓国以外の2国はハングルダジャレにゆかりがある(今日のブログはこのレベルです )。

パリとは韓国語で「はやく」という意味になる。파리を빨리と書けばだが、日本語なら同じだろ。

またカナダをハングルで書くと가나다となる。これは日本語でいえば「あいうえお」の「あいう」に相当する。実際ハングル練習を始めたときに最初に覚える日本語の五十音表のようなものをカナダラといったりする。まぁ、캐나다を가나다と書けばだが、日本語ならおなじだろ。

キムヨナはカナダを拠点にパリで早く五輪に出場したいと夢を持ち韓国に金メダルを持ち帰った。ハングルダジャレ地域だったから気楽だったのかもしれない(そんなわけないが、ヨタ話ならいいだろ)。

ダジャレ以外のつながりがなにかないかと考えてみると、歴史上の大国と隣国という共通点があった。中国の隣国韓国、英国(大英帝国)の隣国フランス、そして米国の隣国カナダ。どこも辺境ではないが、大国の隣という微妙な地域だ。

そういう地域のメンタリティを勝手に想像してみると、大国への憧れあり、反発心あり、依存心あり、競争心あり、といったプラスマイナスのないまぜとなった感情があるのではないかと思う。そして基本的に大国への対抗心は隣国ならではの大きなものを持っているし、独立心は旺盛だ。

フランス人は英語を知っててもしゃべろうとしないし、カナダはアメリカ人と同一視されることをことさら嫌がる。韓国人も、日本にいると反日ニュースばかり目立つが、反中感情もかなりのものだ。隣国というのはそういうものなのだ。

特に隣が大国だったりすると、いつ飲み込まれるか、いつやられるかという不安が常にある。だからこそ、日常的に負けず嫌いになり、「やられたらやり返す。倍返しだ!」(by 半沢直樹)の気分が国中に醸成される。それが国民性、国民気質となっていくわけだ。

そんな国を選ぶようにして2010年までのキムヨナは活躍してきた。特にオリンピックという最終目標が絡む年に。そこにはフィギュア後進国韓国からやってきた一人の強いフィギュア選手を奮い立たせる空気があったような気がする。

矢沢永吉の「成り上がり」に似た根性を受け入れる土壌が、大国の隣国にはあるような気がする。そしてまさに現代韓国という若い国はそんな成り上がりに夢を見るのではないか。ハングリー精神といってもいい。

ハングリー精神だけならもっと貧しい国や小国はたくさんあるが、勝つには科学的トレーニングや優秀なスタッフの存在が欠かせない。それを満たせる地域でハングリー精神旺盛な土地柄というバランスが良かったような気がする。

次の冬季五輪はロシアのソチだ。ロシアではソ連時代も含めて初の冬季五輪開催だという。ソチはハングルで소치と書く。日本語読みでもこれ以外に書きようがない。ハングルダジャレにならないソチ。キムヨナにとって物語性に欠ける土地かもしれない(そんなわけないが、ヨタ話ならいいだろ)。

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2013/10/12

旅のおともは池澤夏樹

最近ハングル学習がおろそかになり、パリ情報やフランス関係の本をメインに読んでいる。タイムリーに池澤夏樹さんの『セーヌの川辺』 (集英社文庫)が出ていたので読み始めた。思い起こすと旅行のおともには池澤夏樹という縁がある。

初海外旅行のときは一緒に行った友人が池澤夏樹のデビュー作『スティル・ライフ』にはまっていて、つられて私も読んだ。それまで読んだことのない不思議な感覚の小説だった。その後社会人となり、ある女性を追いかけてスイスに飛んだとき読んだのは『真昼のプリニウス』だった。これも偶然小さな書店で出会った本だった。

友人の結婚式に出席するためハワイに行ったときも、ハワイの本を探していたら池澤夏樹『ハワイイ紀行』という分厚い文庫本にたどり着いた。IZのハワイアンを知ったのもこの紀行のおかげだった。

そして今回パリ行きを決めて書店で出会ったのが『セーヌの川辺』だった。池澤夏樹という作家の生活は常に旅の中にある。そういう情報が頭にあるから、旅を前にして本屋をのぞくと池澤夏樹の書物が目にとまるのかもしれない。これまで期待を裏切らなかったという信頼もある。

個人編集による世界文学全集が出たときにも数冊購入したが、その数冊は読み終えていない。もしかすると旅と無関係に買ったからかもしれない。

教育テレビで放送されたこの全集の作品解説は興味深く見ていた。出版社の常務さんがブックフェアでこの全集について語られたのも聞きに行った。そこで教育テレビでの放送はどういういきさつで実現できたのか質問したところ「完全に池澤先生のご尽力で」実現したとのことだった。

旅のガイドブック的な読み方も出来なくはない。しかし池澤夏樹の紀行文は精神の旅を誘発する教養の書でもあるし、あるいは旅先で池澤夏樹を読むというスノッブな感覚を楽しむ書でもある。

今回の『セーヌの川辺』を購入したのは夏まえだったが、旅行が近づくまではあまり読みたいとは思わなかった。うちには常に数冊の読みかけの本が積まれており、そのときの気分によってかじり読みをする。

書物はだいたい一度にたくさん買ってきてしまい、すべて最初の数ページだけを買った直後に読む。それがその書物のイメージを形成する。そしてそのとき一番興味がある書物を選んで最初に読み始め、ほかは寝かせておく。

しかし気分屋の私は毎日気分がコロコロ変わる。テレビやラジオ、天気、人との会話などによってもたらされる様々な情報や刺激によって、頭の回路がある本とつながることが往々にしてある。するといま読んでいる本をいったん寝かせて、別の本に移るという行為を何度も行いながらスパイラルにいろんな本を読んでいく。

そのとき読み始めてグルーブが出てきてしまうと優先順位があがり、その本に没頭するということも少なくない。あるいはその途中にもたくさん買ってしまうので常に新しいライバルが現れて私の頭の中で選択を待つことになるのだ。まるで飾り窓のように...。

池澤夏樹の『セーヌの川辺』の続きを読み始めたのは、遅い夏が終わろうとしてる10月に入ってからだった。来月いよいよパリという気分がこの文庫本の優先順位を上げている。ただ、この調子では出発前に読み終わりそうで、いまは読み終わってしまうか我慢するかの瀬戸際に私はいるのだ!

ただおそらく読み終わっても持っていくだろう。おともとはそういうことだ。読み終わっても持って行きたくなるのが池澤夏樹の一連の海外モノなのだ。

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2013/10/07

深夜に映画『PARIS』を観た

パリ旅行の日が近づくにつれ、やはり気分は高揚してくる。パリは3度目だけど前回はずいぶん昔の話だ。ガイドブックをむさぼるように読んでる。女性目線のガイドブックが9割以上で、K-POPに出会ったときと同じようなめまいを覚える。

先週末には『ラ・ブーム』と『ラ・ブーム2』を観た。30年前の映画だ。一発でソフィー・マルソーファンになった私には、ソフィーがほとんどフランスとの出会いだったかも知れない。いま「ラ・ブーム」を観ても13歳のソフィーに惹かれてしまう。

「ラ・ブーム」鑑賞をきっかけにフランス映画、とくにパリを舞台にした映画がむしょうに観たくなり、日曜の深夜(月曜早朝)、『PARIS』という映画を観た。タイトルがズバリ「パリ」だったこともあるが、2008年公開の群像劇だったことが現代のパリの映画としてふさわしいように思えた。

単館系で上映されるような淡々とした欧州映画だ。決してウキウキする映画じゃない。だが最後まで魅せる映画だった。

'90年代から'00年代、ポスト・モダンからロスジェネへと“進化”してきた現代都市生活者の精神世界にパリという衣を着せたらこんな風になるんだろう。エリック・ボンパール杯にキムヨナが来ないことが決まって目的を失ったままパリ旅行に向かういまの私にはなんだかしっくり来た()。

何人かのパリジャン、パリジェンヌの生活が切り取られる。その人々は直接的に関係があったりなかったり。心臓病を病んでいる元ダンサーの男が映画の後半にタクシーで病院に向かうのだが、その途上でたまたま目に止まった人々、そんなたまたまパリにいた人々の生活を遡って再構成したような映画だった。こういう群像劇は嫌いじゃない。むしろ好き。

いろんなタイプの人物が出てくるが、基本的にパリの人々の頭の中は男女のことばかりだ。すべてはセックスにつながっている。会話をすれば常にシモの話だ。それが成立してしまうのもパリマジックなのか。

自分の学生に恋をしてストーカーまがいの行為に及ぶ大学教授(自称15歳のガキのように恋してる)にこんなセリフがあった。

「みんな冗談を言って虚無と死の影から逃げている」

これを言うタイミングがあまりにも映画的な飛躍の後で笑ってしまうのだが、この言葉こそが映画『PARIS』を言い得ていたように思う。

死の影、本当の死、または生命の誕生、そして性の交わり。登場人物それぞれが普通の生活人であり、誰にも起こり得る生と死の場面を普通の生活のなかに感じながら、ただパリという都市だけでつながっている。あるいはそんな「普通」であることに悩んだり、普通であることについて議論したりもする。

「これがパリ。誰もが不満だらけで文句を言うのが好き」

と、心臓病の青年はパリの人々を眺めながらつぶやく。誰もがその幸せに気づいていないと。だがそれはここがパリでなくても、東京でもソウルでもロンドンでもニューヨークでも言えることじゃないか。

だがパリには「これがパリ」と言わしめる何かがあると言いたげな映画だ。それは何なのか。東洋人の私にはよくわからない。この映画が『PARIS』であることを肯定できるかどうか、『PARIS』だからこそこの映画を観ているという人々にだけわかる感覚かもしれない。それって『男はつらいよ』に感じる愛郷心と似てる気もする(笑)。

男のひとり旅で行くパリという視点からすると、この映画もいいが、じゃんぽ~る西のマンガ『パリ 愛してるぜ~』シリーズ3部作も面白かった。このマンガでパリの人々は部屋にいてカーテンを閉めなくて覗かれても平気という気質を知った。そこが映画『PARIS』にもつながっていて参考になった(覗こうとしているわけではない)。

都市生活者が深夜に淡々と見るにはいい映画だ。パリを意識していればなおさら。パリに行くから『PARIS』を観たというシンプルなシチュエーションもまた良かった。自分自身もこの群像劇のひとりになったような気分でパリへ入って行けるかどうかはわからないが。

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