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2013.06.23

日常を物語に、そして日常に物語を ~梅佳代展~

うめかよ展図録

梅佳代展が今日までだったので急遽観に行った。といっても梅佳代という人気写真家について知っている情報はほとんどなかった。今週始めにカメラっ子純情Eちゃんが良かったと言っていたのでネットで調べたら確かに面白そうだった。今週末までということで“至急感”が高まり、急遽はせ参じた次第だ。

(以下、文章に出てくるE057のような記号は梅佳代展図録の写真番号)

展覧会サイトで紹介されてる数点の作品を見た時点での、梅佳代への第一印象をボクのツイッターから引用してみたい。

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6月18日 カメラっ娘Eちゃんがファンだという人気写真家梅佳代を初めて知った。確かにいい。スナップ風の写真がショートコントのよう。
posted at 06:55:08

6月18日 昔ダウンタウン松本のネタに「写真で一言」というのがあったけど梅佳代の写真は「写真が一言」のような感じ。でもその一言は言葉じゃないぶん、受け手の感受性で如何様にも受け取れる。それがスナップ風ってとこが今風。
posted at 06:58:49


6月18日 またウィキペディアを信じるなら梅佳代はネイチャー・ジモンの大ファンというじゃないか!そこ一番気に入ったw ネイチャー好きに普通の人はいない!
posted at 07:02:07

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●動物的勘はネイチャー譲りか!?

「写真が一言」っていう感覚は展覧会の後も変わらない印象だ。シャッターチャンスシリーズは日常のなかの、まさにシャッターチャンスとしか言いようのないオモシロ写真ばかりで笑わずにはいられない。入り口を入ってすぐ笑わせてくれる。まさに掴みはオッケーだ!

この掴みのうまさはネイチャージモン譲りだろうか。いや違う。ダチョウ倶楽部ならまだしもネイチャーにこの掴みは、ない(笑)。この上手さは梅佳代の尊敬するというタモリ譲りかもしれない?(キュレーターのうまさということもできるけど)

その瞬間カメラを構える準備が出来ている、それだけでもすごい。スナップ写真風だが素人のスナップではこれだけのシャッターチャンスに出会えないし、出会っても写真には残せない。梅佳代を称して動物的勘と言われるのも納得。まるで鶴瓶師匠がオモシロ話に引き寄せられるがごとく、うめかよにもオモシロ背後霊がついているのかもしれない。そこはネイチャー譲りだ!

●子どもと動物には勝てないか!?

女子中学生や男子といったお子さまシリーズも面白い。「子どもと動物には勝てないね」とは良くテレビ業界で視聴率の話をするときに使われる常套句だが、じゃあ子どもと動物がいれば梅佳代のような作品を誰でも作れるかといえば、まったくそんなことはない。そんなこと言ってるディレクターは普通、子どもの扱いが苦手だ(笑)。

女子中学生の飽くなき性へのこだわり(?)写真群は、男子禁制の間といった雰囲気だが、同じ中学生でも男子ではこういう写真は撮れないかもしれない。同性カメラマンでも男子はムリだ。理由は、いわない(笑)。凸凹の違い?いわない。

逆に小学生の男子の徹底的にアホな楽しさ。なんで男子はみんな白目をむいて路上に寝転がるんだろう。DNAの仕業か?天井に貼られた大判写真はこちらを指差す太っちょ男子(E057)だった。この写真を天井に貼る作業員、シャッターチャンスだっただろうな。G022~026の連続写真なんかを見ててもそんな連想をしてしまう。

そんなことを考えていたボクはふと、この梅佳代展の写真を観ているお客さんたちを写真に撮ったら面白いだろうなと思った。ひとりで見に来て会場案内図を口にあてて笑いを必死にこらえる若い女性。「女子中学生」の部屋で「バナナ、バナナ!」と叫んでいる小学生。最後には(B013の前で)「逮捕されちゃったよ。」とお母さんに話していた。ずっとこの小学生の後ろに立ってガイドしてもらおうかと思ったけど挙動不審なのでやめた。

お子さまシリーズには付録がある。図録に袋とじされていた2枚の写真だ。なんだか物語の続きを予感させてくれた。梅佳代と被写体とのこの関係性がいい。袋とじに何を期待したか、いわない。

●日常が何を物語るか?

女子中学生と男子の間に挟まれた「能登」と「じいちゃんさま」の間。そこにはプライベートな、おかしな言い方になるが“本物のスナップ写真”も多数含まれる。だけど、じいちゃんさまの間がこの日のこの時間、もっとも人気があったように思う。

家族をずっと撮り続ける。何かの記念に撮った写真がいつの間にか溜まっていることはあっても、撮るという意志のもと常にシャッターチャンスを探して生活することは普通ない。その年月の存在がカメラマンをカメラマンにしていくのに欠かせないものかもしれない。ヤン・ヨンヒ監督の「ディア・ピョンヤン」をちょっと思い出す。

続けることの困難さと重要性はどんな仕事にもあるけれど、時間と空間を切り取る写真においては、そのときそこにいてシャッターを押すことに決定的な意味がある。技術や装備のまえに意志があり行動がある。その差が決定的だ。

1枚1枚は誰もが写せるスナップ写真かもしれないが、続けることによって生まれるストーリーの存在こそがオリジナルの作品に昇華する鍵ではないだろうか。後からやろうとしても二度と出来ない、写真のもつ不可逆性の凄みだ。継続する意志を持った人にだけ与えられる長い長いシャッターチャンス。

呼び方の重要性もポイント。前に中村伸一院長の『寄りそ医』を紹介したときに、そのことを少し書いた。「じいさま、ばあさま」という呼び方の絶妙な距離感が地域絆力アップのキモじゃないかと。

梅佳代の「じいちゃんさま」って、もうその語感だけで気持ち入っちゃう。いつも何か被り物を被らされているじちゃんさまの被り物の歴史も個人的にはツボだった(笑)。

「能登」は身内ほど近くない、故郷の人々の写真。梅佳代が写真で初受賞した2000年ごろ、ボクも石川県に行ってる。単発の仕事がらみだったけど、そこで出会った人たちはみんな面白くていい人たちだった。ハニベ岩窟院をぜひ女子中学生に見せたかった(笑)。

●構図はどこまで重要か?

梅佳代のちょこっとだけ遠目から写す他人(複数)の写真が好きだ。中心となる被写体以外の脇役の子どもや動物や風景が絶妙にブレンドされてその場の空気を醸し出してる写真の数々。

例えば呆然と公園のコーヒーカップのなかに座っている男、その後ろのマスクの女、そして男を後ろから見つめる男の子の写真(A002)。

あるいは男子を撮っているように見せかけて(手前にピンボケの男子がいて)、その後ろでなぜかジャンプしてる先生風の女性の後姿(A009)。

庭石の上で両手でVサインしてる女の子と、その下でマネしてVサインをつくり、若干オリジナリティを出そうと目の前でその指をひし形にあわせている真顔のお子さま、それをジっと見つめるお犬さま(C023)。

他にもおばさんやおじさんが数人集まるとオモシロの神を呼ぶ儀式が始まるわけだ。まるで雨乞いをするかのように苦い表情を浮かべるおばさんおじさんのもとには必ずオモシロの神が降りてくる。おそらく梅佳代は、そんな八百万の神の存在に敏感な巫女なのだ。

写真や絵画にとって構図は非常に重要だと思うが、梅佳代は構図よりもシャッターチャンスを重視する。梅佳代の写真を見ていると、確かに構図を決める時間的余裕はないだろうなと思ったりする。でもその空間のズレが実は正解かもしれないとも思う。黄金比に収まったハプニング画像には逆にやらせの臭いがしてしまう。これも時代だと思う。

●宮本常一は“昭和のうめかよ”か!?

梅佳代の話のきっかけは宮本常一だったような気がする。写真が趣味でいろんなところに写真を撮りに行ってるEちゃんに「同郷に宮本常一って人がいてね」と民俗学の話をしつつ、日本中を旅しながら写真を撮っていた宮本常一のことを話したところ、スナップ命で写真を撮っている梅佳代が好きで写真展を見てきたという話につながったわけだ。

ボクは梅佳代を知らんかったが若いEちゃんは宮本常一を知らなかった(もちろん、ボクと同世代でも宮本常一を知っているほうが少ないだろう)。世代の異なる我々と同じく梅佳代と宮本常一も時代が異なる。それがボクのなかでスナップ写真というキーワードでつながった。ちょっとおもしろいなと思った。

宮本常一は民俗学者として日本中を歩き回り写真に収めている。何を収めているかといえば、各地で働く人々の日常であり、そこで生活する子どもたちの日常であり、まさにスナップ写真そのものだ。とにかく目に付いた風景や人物を気さくに撮っている。

宮本常一の気さくさは彼の文章のやわらかさからもわかるが、オーラルヒストリーの取材者に必須の能力だろう。

基本的に田舎のコミュニティは閉鎖的で、よそ者にそうそう心は開かない。だが一方で交通機関も発達していない時代にどの地域の人も好奇心は旺盛だ。そんなコミュニティに入っていくとき、宮本常一にはキラーコンテンツがあった。

宮本常一は日本中を歩いた経験と豊富な民俗学の知識によって、オモシロ話をたくさん抱えて旅している。まさに歩く「ケンミンSHOW」なのだ。だからどの地域に行っても自分からも話し、相手からも聞きだせる。その内容も身近な生活や道具の話だから、比較文化的な側面もあったことだろう。語り部として面白がられたに違いない。

梅佳代がストリートスナップを撮る時の、例えば「男子」のなつきようはどうだ(笑)。あるいは「女子中学生」のぶっちゃけ加減は。心を開いていなければ見せない被写体ばかりだ。宮本常一とは手法は違うだろうが、うめかよは何か“持ってる”に違いない。

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(付記)この日の朝biceを聴いていた

ボクはいつも物語を求めている。以前小笠原諸島母島に行く前に「物語にはサイドストーリーが必要だ」という記事を書いた。そのとき更に25歳のときに自分で書いた文章「ジャムとサラミとトマトジュース」も引いてる。つまり若い頃から延々と自分だけの物語を作り続けてるわけだ。

ほっとくと何もしない自分も知ってる(笑)。とにかく趣味はオヒルネだ。ともすると日常というものはあっという間に過去になっている。知らないうちに友達に子どもが出来てたりする。それでも社会性を保ててる唯一ともいうべき社会との絆は「物語」だ。

行動がこの物語に彩りを与えると思えば動く。あらゆる価値基準はそこにあるといってもいい。この行動原理のいいところは失敗が少ないところだ。大失敗をしてもそれはそれで面白い物語に貢献してくれればいい。

ブログというツールも今年で10年目だ。10年続ければそこにはどうしようもなく物語が生まれると思う。それをメタレベルで書き始めると生々しくなりそうだからやらないけれど、これからも物語を彩るツールとして続けていければと思う。スナップ写真も必須だね。

うめかよ展を観に行った日の朝はとてもいい天気だった。こんな日にbiceの音楽を聴きたくなった。そして、biceが3年前に亡くなっていたことを知った。享年38歳。あまりに唐突で、それも3年前のことで、オモシロ写真の梅佳代展を観に行く朝で、いろんな感情が一度に押し寄せてきた。

biceの初ソロライブは2002年の初冬の頃だった。あの日からも10年経った。その後のボクは徐々に音楽嫌いでメロディ拒絶症に陥りフィールド録音に没頭したりして、決していいファンではなかったと思う。でも久しぶりにbiceの音楽に戻ってきたんだ。気持ちいい朝だったから。

そこで知った彼女の3年前の死に対して無防備なままのボクは、その朝曲を聴きながらツイッターに書いたbiceに関するいくつかのつぶやきを削除するくらいしか出来なかった。そしてもう一度、biceの死に対峙しなくちゃいけなくなった。

この気持ちのまま梅佳代展に行くのは不安だったけれど、梅佳代の写真はちょうどいいサブストーリーになってくれたと思う。

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