google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2013年5月

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2013年5月の7件の記事

2013/05/29

脳内曲名 ま行編

最近、電車の人身事故がとても多い。今夜はちょうど西川口駅に止まっているときにアナウンスが流れたが、駅の構内アナウンスと車内アナウンスが交錯して何を言ってるか聞き取りにくい。しかも言ってる情報が微妙にずれている。

アナウンスはただ繰り返せば責務が果たせるわけじゃない。駅に止まっているときのアナウンスは両方聞こえるんだから、構内と車内とで時間をずらしてしゃべるなり、情報を一元化するなりしなければ余計に混乱する。ああJRって会社はセクショナリズムがこういうところにも表出するんだなと思いながら、ほとんどノイズにしかならないアナウンスを聞いていた。

止まってから20分ほどして、一時間後の運転再開を目指すというアナウンスがようやく聞き取れた。どんどん降りていく客が増え席が空いたので座ったが、一時間あれば飯でも食って帰るかと考え直し駅を出た。そして一駅歩いて蕨でラーメンを食べた。糖質制限を始めてしばらくぶりのラーメンだった。

食べ終わってもまだ蕨駅でも電車は止まっていた。そこでまた歩き始めたわけだが、こういう時間こそ脳内曲名の時間だ(長い前置きだね!)。最近はブログに書くことがないときのリハビリ的に脳内曲名をやっていたが、本来はこういうシチュエーションこそが脳内曲名の出番だ。

というわけで、脳内曲名ま行編を考えながら歩いた。せっかくなのでツイッターに呟きながら歩けば、さらに気分転換になるだろうと携帯でつぶやきながら歩いた。これはその記録である!原点回帰の脳内曲名ま行編だ。


一時間経ったけどまだ動き出さない。ラーメンも食べ終わったし脳内曲名ま行編を考えながら歩こう。
posted at 20:41:43

ま、待つわ(あみん)。いきなりベタやなぁ!電車は待たないけどね!
posted at 20:46:24

み、緑の日々(オフコース)。懐かしい!ピアノでもギターでも練習した。
posted at 20:50:09

み、緑の日々(オフコース)。懐かしい!ピアノでもギターでも練習した。あれ?電波が届かないゾーンか?
posted at 20:51:54

む、MUGO・ん…色っぽい(工藤静香)。字面がめんどくさい!さらに車がビュンビュン飛ばしてて危ない!
posted at 20:56:50

め、め組のひと(ラッツアンドスター)。くそ!順調過ぎるぞ!もっと難問行にしとけばよかった。
posted at 20:59:37

も、もしもピアノが弾けたなら(西田敏行)。としゆきが正しいかが疑問だが、あっという間に脳内曲名ま行編が終了してしまった。多少は暇つぶしになったな。
posted at 21:03:27

そして電車がいまオレの横を通り過ぎて行った。
posted at 21:04:38

以上。途中エラーで重複投稿になったものもそのまま残してみた。ま行ってかなり簡単すぎた。それでもタイピングに時間がかかってるから、20分くらいは時間がつぶせてる。一応、心の中で歌手名もわかるものという縛りをかけて実施した。

まぁ失意のどん底で深夜の新宿から5時間歩いて帰った昨年のことを思えば楽なもんだ。

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2013/05/12

説明しない日本映画「リンダリンダリンダ」

初めてオンラインのレンタルショップに登録して観たけど、楽でいいな。

気にはなってた映画だったけど公開当時は韓国にも興味なかったし、ペ・ドゥナの良さもわかっちゃいなかった。その後、韓国映画や韓国ドラマをいろいろ見て、ペ・ドゥナの良さがわかった。

ポン・ジュノ監督映画に出てたのも大きいし、ドラマ「グロリア」にもはまった。その流れがあってから観た今回の「リンダリンダリンダ」だから、より楽しめたように思う。

作品や役者との出会いも人間関係と似て、何らかの嗜好性のベクトルが一致するとそこから関係性が深くなっていくよね。作品は人間関係と違って壊れないしね。でも出会うタイミングは重要だってことかも()。

日本映画にしては説明表現が少なくてとても良かった。日本映画って予算が少ないからか、何気に説明が多すぎる。全部そうだとはいわないけど、映画学校がそういう撮り方を教えてるのかと思うほど説明するのが好きだ。脇役にしゃべらせたり、ナレーション入れたり、画が撮れないから言葉でつなぐみたいな。もっと映像で語ってほしいと思うことがままある。

でもこの映画は、そういう説明的な描写があまりない。ペ・ドゥナが韓国人留学生役だから、状況を日本語で言ってみるようなシーンはいくつもあるが、それが日本の高校生とのズレを巧みに演出するツールになってる。

ストーリーの単純さもそれに貢献しているような気がする。いわゆる準拠枠(日本人の高校生としての行動様式に対する観客も含めた共通認識)に頼る面ももちろんあるわけだが、そこにペ・ドゥナがいることでまたズレが出て面白くなってる。

ペ・ドゥナがバンドに誘われるくだりの強引さ。どうして留学生でなきゃならなかったんだろう。流れからするとたまたま偶然留学生を選ぶことになっちゃったわけだけど、意図的でないはずがない。

他のバンドメンバーの3人は、バンドが好きだけどのめり込んでるわけでもなく、ただ文化祭でレディースバンドをやりたいだけの普通の高校生だ。だけどメンバーどうしでケンカして解散状態。

そういうどこにでも転がっている状況に1つのスリットを差し込むような事件が起きなければ、それもごく日常のなかで起きなければ、この映画は成立しない。そのギリのラインが留学生ボーカルだったような気がする。

留学生ボーカルの加入によって、もっと濃いストーリーに持っていくことも可能だったはずだ。しかし「リンダリンダリンダ」はあくまで等身大を貫く。ペ・ドゥナの存在以外の日常は、どうにも映画らしくない。でもその落差がキモなんだと思う。

だからといってペ・ドゥナを大々的にピックアップして、その人間的成長とか日本の学校への溶け込みとか、そういう教科書的な説明もいっさいない。

ただブルーハーツの歌を一所懸命に覚えて文化祭のステージで歌う。しかしその鼓動の高ぶりは、例えば深夜の練習の合間に体育館のステージに一人で立ち、自国語でメンバー紹介をする(本番では当然できない伸び伸びとした感情吐露)だったり、例えば文化祭によくある“留学生による自国の文化紹介と展示”のような閑散とした教室の展示物に、ブルーのペンキでバンドの告知を書きなぐる、といった描写で表現される。

「リンダリンダリンダ」は地味でなきゃいけない。日常でなきゃいけない。だけど留学生ボーカルでなきゃいけない。説明されなくても伝わる単純で日常的なストーリーをちゃんと映像で語りきる。そこがこの映画に一番惹かれたところだ。

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2日がかりのローストポークをいま切ってみた。かなり求めてる感じに近いっ!ニンニク、常温熟成、低温オーブン時間など初回の反省が活きてるな。

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脳内曲名 ば行編

真夜中過ぎの肉だから~。いま深夜1時ですが、再度ローストポークをオーブンで焼き始めた。今回はオーブン40分でテストしてみる。まさに昼夜逆転生活。後20分+余熱放置の時間があるので、ここで脳内曲名ば行編をばばばっとやって焼き上がりを待つことに。

ば:BAN BAN BAN
び:ビートルズが教えてくれた
ぶ:ぶんぶんぶん
べ:ベットで煙草を吸わないで
ぼ:ボヘミアン

ぱ行編と違って秒殺だったな(笑)。それでもやはり「べ」が一番時間かかった。もっと「へ・べ・ぺ」で始まる曲をストックしとかなきゃ...ってここでしか使い道ありませんけどっ!

」のBAN BAN BANはKUWATA BAND の大ヒット曲ですが、サザンが活動休止してた1986年の曲。27年の歳月が経過しておりますか...。まったく古くないとこが桑田のすごさ。

」は吉田拓郎ですね。ライブ盤「ONE LAST NIGHT IN つま恋」で初めて聴いたんですが、オリジナルは「伽草子」に入ってるんですね。サビでタイトルを連呼する若き拓郎、懐かしいです。

」は、BAN BAN BANからの連想みたいなものですが、これ以外はあまり思いつかなかったです。ボヘミア民謡だそうで、ウィーン少年合唱団も歌ってました。

」は70年代歌謡の名作です。個人的にはりりぃの歌という記憶だったのですが、沢たまきさんの歌なんですね。沢たまきさんの「ベッドで煙草を吸わないで」はamazonで少し試聴できます。まさに70年代の音です。あの頃シンセサイザーがないから、使える楽器でオーケストレイションを考えなきゃならなかったはず。その制約が70年代らしさにつながってるのかなと思ったりします。

」はクィーンのボヘミアン・ラプソディと迷いましたが、ボヘミアン・ラプソディを思いついたときにはボヘミアンって言葉を使ってるんだからボヘミアンのほうが速いということで、葛城ユキのボヘミアンを選びました。葛城ユキはたぶんザ・ベストテンで初めて見たように思いますが、あのインパクトには衝撃を覚えましたね。

というわけで、肉も焼けたようです。ボヘミア民謡からボヘミアンまで、ボヘミアへ思いを馳せつつ、次回のま行編へつづく(?)。

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2013/05/11


アルミで巻いたまま常温でしばらく置いてみた。初めてにしてはいいんじゃないか?塩加減も悪くない。

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武井咲のドラマ「お天気お姉さん」は依田司へのオマージュか!?

今日は朝からローストポークを作っているところ。初のチャレンジなので成功するかどうか。ローストポークは時間がかかるので、昨日録画していた「お天気お姉さん」の第5話を見ならがやってる。圧力鍋と異なりオーブンはほっとけばいいから楽といえば楽だ。

ちょうどいまアルミホイルに包んで余熱で仕上げしてるとこ。時間があと10分あるので、「お天気お姉さん」についてちょこっと書く時間が出来た。

今クール、韓国ドラマの合間に見ている日本のドラマはテレ朝の「お天気お姉さん」だけになってしまった。地上波は基本的にテレ朝固定チャンネル化しているウチなわけだが、このドラマは笛木優子さんもご出演ですし、やはり見て損はなかった。

ボクの武井咲への評価は高い。「東京全力少女」のときにも書いたが、武井咲の冒険心(?)は高く評価できる。

かわいい女優、美しい女優ならどんな役をやっていても大丈夫という神話はもはや通用しない。あるいは今回の無表情なお天気お姉さん役みたいに、「あえて裏行ってます」的な取組もリスキーだ。

もちろんそれを面白がれる土壌は日本にはあると思うが、実際成功するかどうかは女優やスタッフの力量とか調和とか取り組み方とか、そんな総合力が画面に滲み出てくるだろうし、個人的にはその女優の足跡も重視したい。

例えば最近の私はオードリー・ヘップバーン再評価がマイブームなわけだが、「ティファニーで朝食を」や「昼下がりの情事」におけるオードリーは、いまの武井咲の取り組みと似ているように感じる。

視聴率の高低とは無関係に、これまでの武井咲のチャレンジを踏まえて、いまの「お天気お姉さん」がある。これも通過点でしかないわけだが、しかし女優としての足跡にはしっかり残るわけだし、こういうチャレンジングな役をやってきたということが、長いスパンで活きてくると思うのだ。

●依田司のワイドショーメインMCを乗り越えた成果(笑)

テレ朝の天気予報と言えば「やじうまワイド」の依田司(男性・気象予報士)だろう。イケメンで天気に関してだけは弁舌なめらかできっとおば様がたに大人気なんじゃないかと思う。

以前、なにを血迷ったかテレ朝がやじうまのメインキャスターに依田司を抜擢した時期があった。ここでの依田司のおどおどした素振りはあまりに痛々しかった...。芸能人が番宣に来ても、天気以外のニュースにもコメンテータとのやり取りにも精細を欠いた。

おそらくテレ朝アナウンサー陣が適切にわきを固め、天気予報中心主義の新しいワイドショーを依田司メイン司会で、という冒険をテレ朝はしたのだと思う。その意欲は伝わってきた。

しかしそれは失敗に終わった。新人アナ同様そのうち慣れるとみんな思っていただろうが、いつまでたっても慣れることはなかった。おそらくそれは新人アナの目指すロードマップと依田司のそれとには大きな開きがあるからだ。

依田司は天気予報、気象予報に限ってだけ活き活きとエンターテイナーになれるお天気バカだったのだ(褒め言葉だ!)。

「お天気お姉さん」というドラマのコンセプトをあれこれ妄想するとき、依田司のワイドショーメイン司会のことを思い出さずにはいられない。

テレ朝にとって、依田司メイン司会抜擢の失敗がチャレンジャー武井咲のドラマに活きた(笑)。そう思わずにいられないのだ。依田司以上にストイックで愛想のひとつも振り撒かない、そんなお天気お姉さんがいたら?といういかりや長介もびっくりなもしものコーナー(古いねどうも!)、いや企画ドラマだ。

本物の気象予報界の住人は天気に対してストイックな存在で、それを敬意をもって戯画化したのが「お天気お姉さん」であるならば、このドラマはまさに依田司へのオマージュではないだろうか。

武井咲の冒険心と依田司の冒険心。武井の冒険心は女優としてのロードマップ上にある。依田司のワイドショー司会は、気象予報士としては脇道だった。その違いが、プロの仕事とは何なのか、どう生きればいいのかを教えてくれる(ホントか?)。

最近の依田司の活き活き加減を見ればそれを実感できる。毎朝各地に出かけて行って、屋外で天気予報をするのは大変だと思うが、おそらく依田司にとって、スタジオで中尾彬の相手をするよりも数段向いている。“天”職を得た依田司にスタジオの中尾彬は話しかけないでほしい(笑)。いきなり視聴者の不快感MAXだ。

あ、「お天気お姉さん」の話してたんだった。第5話まで来て、お天気お姉さん武井咲もずいぶんしゃべるようになってきた。そして天気が関わる社会(事件)との絡みのなかで、感情的になるシーンも出てきた。それはひとりのお天気バカが社会との接点で成長していくドラマでもあるのかもしれない。

あとエロいお姉さん壇蜜についても一言。いい女優だと思う。素振り一つにも違いがある色気というのも才能だ。

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2013/05/03

もはやダイエットは実質的な意味を持たない 『ヒトはなぜ太るのか?』

発売当日に一週間待ちとなっていたゲーリー・トーベス著『ヒトはなぜ太るのか?そして,どうすればいいか』(メディカルトリビューン刊)が連休の谷間に届いた。医学書分野で予約段階から売れ筋1位だった書物だ。

連休中は大量の書籍が届いているのだが、真っ先に読み始めた一冊だ。現在もamazonでは9~12日程度の待ちになっている。

入手するなら早いほうがいいと思う。

なぜならこの書物は現在の(というより旧来のというべきだが)医学界や製薬業界の常識と真っ向から対立する科学研究をベースにしている書物だからだ。版元も医学書系出版社だから業界圧力で増刷しない可能性もないとはいえない。

●一般人は後ろから読むと読みやすい

パラパラとめくっていたら、終わりのほうの第2部18章にLDLコレステロール問題への言及を見つけたのでそこから読み始めた。そしてそのまま最終章の19章までを夢中で読んだ。いやはやすごい書物だよこれは!

医者や研究者なら初めから読み始めてもいいのかもしれないが、肥満研究の歴史的経緯など割と堅めの内容から入るので一般読者にはちょっととっつきにくい。個人的には18章「健康的な食事の本質」から読み始めると、とっつきやすいように思う。この内容に懐疑的・否定的な方もそうでない方も含めて。

18章と19章「結末」を読んでから第1部に戻ると、批判的であれ肯定的であれ、一般人の問題意識に近いところから読み始められそうだと感じた。第1章から読み始めて、その固さ(語弊を恐れず言えば退屈さ)で途中棄権するにはもったいない書物だ。

推理小説ではないので、結末の冒頭部分を引用しておきたい。この問題提起こそが基本的な認識といえるからだ。

引用ここから ----------

 これはダイエット本ではない。なぜなら私たちが議論しているのはダイエットではないからである。過食や座りがちな生活ではなく炭水化物が私たちを太らせるという事実を、あなたがいったん受け入れれば、体重を減らすために「ダイエットを始める」という考えや健康の専門家が「食事療法による肥満の治療」と呼ぶものは、もはや実質的な意味をもたない。今や、議論する価値がある唯一の話題は、原因である炭水化物(精製された穀物、デンプン類、糖類)を避ける最適な方法と、健康へのベネフィットを最大にするために他に何を行うかである。

引用ここまで ----------

うーん、すばらしい()。暗誦できそうだよ。

●常識はときにカルトに似ている

一般的にダイエットでは何十年も前から「①摂取カロリーを減らし、②運動量を増やす」というのがセオリーだが、この書物は①も②も完全否定する。その根拠は読んで各自で判断してほしい。

もちろん私自身が糖質制限をして七か月になり、そこそこ成功していると思えることや、反コレステロールマフィアが跋扈する世の中の現状に懐疑的だから、すんなり受け入れられたのかもしれない。

でもこの内容に懐疑的・否定的だからとやり過ごすには惜しい書物だと思う。特に医者の言いなりでまったく効果がない(あるいは逆効果の)ダイエットで苦労している人や、途中で(必然的に)挫折するダイエットを続けるよりは、この一冊を読むために時間を割くほうがずっと効果があるはずだ。

著者は科学・薬学・健康などを専門とするサイエンスライターだが、その専門性と論理構築力はさすがだ。様々な分野でいつも思うのだが、米国の専門性の高いライターの取材力や構築力には驚く。様々な分野のライターでこうした訓練が出来ている背景には、日米の大学教育に構造的な格差があるのではないかと思ってしまうが、論点がずれるので深入りしない。

カロリーを減らし運動量を増やす。それが常識としてある時期から広まり、素人だけでなく医者や栄養学の専門家までが盲信してきた。なんだかミルトン・フリードマンの新自由主義の拡散と似ている。

カロリーを減らし運動量を増やすことへの検証は、第2章「食べる量を減らすことのあいまいな利益」と第3章「運動のあいまいな利益」あたりから展開される。その起源がどこにあったのか、このカルト宗教の“教祖”が誰なのか、確かな取材力で検証していく。

経済学でいうところの「合成の誤謬」にも似た現象が医学や栄養学の世界にも発生し、肥満治療とかダイエットの具体的な方法論が次々と生み出されては消えていったということかもしれない。いや、すべてが製薬業界に仕組まれた罠なのかもしれない。いずれにしろ科学ではなく宗教に近いから、生化学的な存在であるヒトの肉体的健康には効果がないわけだ。

想像してみよう。全世界の大多数の人々が麻薬でラリっているところを。新興宗教やスピリチュアルに嵌り盲信している世界を。そんな社会は気持ちが悪いが、まさに現代社会は、“カロリーを減らし運動量を増やす教”によって無意味な壺(薬)を買わされ、無用な修行(運動)を強いられているのだ。

「壺を買わないなら修行しろ。修行が続かないなら薬を買え」
「金がないなら死ね。死にたくなければ金儲けしろ」

まさにメタボリックシンドロームは新自由主義とともに、もっとも成功した新興宗教だと思える。マッチポンプともいえるか。

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