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2013/04/07

SONGS中島みゆきの「時代」を観て思った。昔から姿勢がいい!

小学生の頃から中島みゆきのファンだ。ひょんなことからテレビやラジオで「地上の星」の歌詞を独自に分析解説するという機会をいただき、おこがましくも嬉々として語ってしまった過去がある。その流れで「世情」についてコラムを書く機会も生まれた。

そのたびに、嬉しいながらも、語れば語るほど遠い存在になって行くように思えるのが中島みゆきというシンガーだった。たぶん分析しちゃいけないのだ。「考えるな、体で感じろ!」という思いでずっと聴いていたいのだが、語らずにはいられない。

追えば逃げる中島みゆきを巡って好き勝手なことを書き連ねられる時代を喜びつつ、いままたこうして「時代」について書き連ねようということだ。あえてここは“さん付け”をやめて、シンガー中島みゆきの「時代」について、スノッブに書き連ねてみたい。

なにがスノッブかって、23歳の中島みゆき、超かわいい(笑)。年下の中島みゆきを見る機会はほとんどなかった。もしかするとオレは中島みゆき姉さんにビジュアルから入ったのかもしれない。もっとも小学生時代は「悪女」の頃なので、「時代」を同時代では聴いていないが。

それと中島みゆきは今も昔も姿勢がいい!あんなに背筋の伸びきった女子大生は見たことがない(笑)。夜会のためにトレーニングして姿勢が良くなったのではなく、実に筋金入りの姿勢のよさだったのだ。動く中島みゆきを見る機会がなかったからさ。そんなことも新鮮なのだよ。

●思いを込めず「無」で歌いたいシンガーの葛藤

NHKの「SONGS」はこれまで観た様々な歌手のときと異なり、「時代」という1曲を掘り下げるドキュメンタリータッチの番組になっていた。デビュー間もない頃の中島みゆきの映像などはほとんど観る機会のないものだ。

この放送日の天気は大荒れで、頻繁に関東低気圧情報が流れ、画面もワイプして小さくなったりしたのだが、それもまたこの“時代”を思わせる映像と考えて、この同時代性を録画して残そうと思う。もちろん再放送も録る訳だが()。

中島みゆき自身が「時代」という自身の楽曲についてテレビで語る(ただし音声のみ)。業界的には「まずありえない」事態が起こった。もちろん言葉の選び方は中島みゆきらしく十二単を纏ったようなかわし方も多いわけだが、そこを好き勝手に読み取るのがアチキの仕事だ。

もっとも重要だったのは「私が自分で歌うときにはいっそもう何の意味も込めずに『無』といった気持ちで歌うほうがいいのかもしれない」という告白。それもまた実際やろうとすると出来ないという反省。

中島みゆき自身が、歌詞の意味を限定すること(されること)に強い拒絶感を持っているのは、これまでの発言からもよくわかる。ヒットメーカーとしてもララバイシンガーとしても共通する中島みゆきの資質から出てきた確固たる信念で一貫性がある。

そんな思いを反故にするかのように歌詞解釈をしては公表しているアチキのような野郎は、中島みゆきの歌詞の意味限定回避プロジェクトにとっては煙たいに違いないのだ(もっとも煙たいほどの煙も出してないけども)。

中島みゆきはパーソナルに語りかける。そして聴き手の個人的な思いを歌詞に乗せて聴かれることは大歓迎だ。そのパーソナリティについては知りたいとすら思っている。そこでラジオリスナーからの葉書につながる。この関係性こそがシンガーとファンとのもっとも大切な関係性だ。

しかしヒット曲というものは、それだけでは生まれない。スタンダードといわれる楽曲には、まさに普遍としかいいようのない感覚があるんだと思う。誰もが持っている異なる個人的な思い、だがその底にある人々に共通した感性、そこに響く必要がある。

中島みゆきはそのひとつの答えを持ってる。それが歌詞の全志向性であり、意味限定の拒絶だ。それは中島みゆきのほとんどのシングル曲に言えるように思う。「時代」ももちろんそのひとつ、といえるのだが、この番組によって「時代」という曲にその思いが限定される恐れがある。

特に「時代」という楽曲だけを「無」の心境で歌いたいとすれば、そこには「時代」にしかない何らかの思いが立ち現れてくる。“意味”は時間的にも空間的にも自由でいられない。逃げようとしても逃げられない現実のなかにあり、「無」でいようとすればするほど、考えてしまうものなのだ。

そのシンガーの葛藤は、こうしてわかっちゃいるのに解釈せずにはおれないファンの葛藤にも似てる。解釈すればするほど中島みゆきは遠ざかっていくのだ。だが解釈をやめるとオレ自身のパーソナルな聴き方も同時になくなる。決して交わることのないこの葛藤という“二隻の舟”があるならば、もういっそ中島みゆきとその葛藤を共有してしまおうというのが一連の歌詞解釈をしてきたオレの企みなのかもしれない。

●若き「時代」の持つ未来志向

1975年あたりは、いまから見ると日本にとってのひとつの「時代」を感じさせる事例に事欠かない。偶然だが、この日SONGSの始まる直前には教育テレビでアントニオ猪木と外科医天野篤さんの対談番組をやっていた。猪木が異種格闘技戦を始めた時代もまさにその頃だった。1975年にはモハメド・アリにオファを出しては断られていたはずだ。

泥沼のベトナム戦争でアメリカが敗北したのが1975年だ(サイゴン陥落)。世界の経済成長が停滞し、ある種の時代の終わりを感じさせる時代。しかし日本では企業戦士がしゃにむに世界を向いて走り出していたような時代。極東の島国で若い無名のプロレスラーが世界のアリを挑発していた。売名行為としか見られない猪木の行動は、しかし島国日本と覇権国家アメリカとのバランスが崩れかけた時代の空気を、肌で察知した猪木一流のパフォーマンスだったように思う。

ただそれも、いまという時代があるからこそ振り返ってそう思えるわけだ。番組のなかでもナレーションが入ったが、「時代」が発表されたころ、21世紀の日本がこんな風になることなんて誰も信じちゃいなかった。だけど中島みゆきの「時代」は、時代を超えていまの日本人の心境にマッチするのだ。

だが隠れた名曲というわけではなく、発表当時から多くの人々の心を捉え続けたヒット曲だった。当時の人々は「時代」に何を思ったんだろう。

1975年の人々が振り返る時代の悲しみ。例えば戦争、例えば貧困、パーソナルに生きられない時代の閉塞感。そういう部分もあっただろうし、生まれ変わって歩き出すよという歌詞が願う未来への希望を受け取った大衆も多かっただろう。

絶望と希望、世界と日本、対照的な現実が1曲のなかに完結している「時代」は具体的な言葉を一切排除した歌詞で、まさにその全方位感覚が人々の琴線に触れたんじゃないか。「時代」は一言で語れない思いを乗せられる歌なんだ。だからこそ時代が変わっても歌い継がれるのだろう。

●楽曲としての「時代」について

ギャップこそ中島みゆきと思っているボクには楽曲そのものにも、その特性が随所に見られて興味深い。「時代」という歌は冒頭のヴァース部が1回しか出てこない。ヴァースは通常Aメロなんて呼ばれるが、「時代」のAメロは♪そんな時代もあったねと の部分だろう。

「時代」は8分の6拍子で弱起の曲で♪今はこんなに悲しくて のヴァースで始まる。ちょっと異例な構成だと思うがこのヴァースに惹かれる人は多いと思う。さらにこの部分をかなり力強く歌いあげるのだ。

弱起の3連符が駆け上がりのようなメロディで、思いの丈をぶちまけるくらいの勢いで歌われるが、ヴァースの歌詞は「二度と笑顔にはなれそうもないけど」と絶望的に結ばれる。

サウンドは次のAメロとのギャップを強調するかのように強>弱と流れているのに対して、歌詞は絶望から希望へと裏返しになってる。このあたりはもう既に中島みゆきとして完成されていると思った。

そして大サビ(Cメロ)の♪まわるまわるよ時代は回る のリフレインでは、1度しかなかった絶望のヴァースと同じくらいのサウンドで希望(あるいは輪廻)を歌うのだ。絶望は乗り越えられることを、この「時代」は楽曲構成においても表現している。偶然の産物ではないだろう。

●普遍的であろうとする意志と意思を超えたスタンダード

「時代」がフィットする時代がまたやって来たのかもしれない。震災によって震災後に生み出される文学や音楽や芸術もたくさんあるだろう。しかし予見しない未来にフィットする昔のヒット曲にはかなわない。なぜなら昔の歌はこの現実を歌っていないからだ。この逆説と中島みゆきの持つ普遍性志向は重なる。

中島みゆきの普遍性は意味を限定させないという徹底した意志によってもたらされている。だが中島みゆき自身も反省していたように、どんなに意味を持たせず歌おうとしても、震災後に歌う限り、被災者に届けようとすればするほど意味が生まれる。ここから逃れることは出来ないし、逃れる必要もない。

普遍性は意志を越えた現象だ。「時代」のもつ普遍性は、中島みゆきの意志がピタリとはまったということだろう。中島みゆきといえども常に普遍的であろうとして成功するわけではないが、かなりの高打率だとはいえる。

意図しない普遍性という点では、昔の「時代」を歌う中島みゆきの映像を観てはからずも実現されていると思えた。1975年におそらく違うことを考えながら歌っている中島みゆきの「時代」を今見せることで、時間的にはある種の「無」の心境を生み出せているのではないか。

そういう意味では映像やライブ音源を残しておくことは重要だと思った。そこに予期しないギャップと好循環が生まれる期待がある。そしてそれらをどんどん公開してほしい。時と場所を変えて新しい価値を生み出すだろう。

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