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6 posts from April 2013

2013.04.25

살아있는 한국어 シリーズはいい!

私は国語の定石だ最近ハングル書籍を読むのがとにかく楽しい。時間を見つけては読みたいという感じなのだけど、今日ちょうど届いたハングル学習書もあるので、その紹介とも絡めて韓国語学習の近況を綴っておきたい。

最近毎日少しずつだが楽しく読んでいるのは「나는 국어의 정석이다」という韓国語で書かれた“韓国人のための正しい国語使いこなし読本”だ。

原語の本を読むなら好きな分野の書籍を読むのがいいという。趣味は多いほうなのでいろんなことに興味はあるわけだけど、結局いま好きなことはと考えるに“韓国語そのもの”だということに気付いた。そこで韓国語で書かれた文法書とか言葉にまつわる本を探した結果、この書籍を見つけたわけだ。ちゃんと読み始めたのは今年の2月から。ゴガクル日記に書いていた。

読むといってもスラスラ読めるわけもない。毎日数パラグラフずつ。もうすぐ三か月だが、ちょうど半分の150ページくらい読み進めている。文法事項は初心者の最初の頃から一通りやってるから類推もきくし、さすがに国語を語る本だけあり文章が読みやすい!

著者に興味が出てきてちょっとだけ検索してみた。すると著者のホ・ジェヨン先生は国語(韓国語)教育を専門とする学者なのだが、日帝占領時代の国語教科書など歴史的価値のあるものを(国が助成してくれないため)私費で集めて編纂・出版してるような重要な学者だった。まさに韓国の国語教育の第一線の学者、そしてもしかしたらちょっと異端の学者という、ある意味私のもっとも好むタイプの先生だった。

出てくる例文には韓国の古典からの引用など、私にはまったく歯が立たないものもあるが、そういう部分は大胆にすっ飛ばして(笑)、読み進めている。日本語の本だって古典や漢文の引用なんて読み飛ばすだろ(笑)。

でも必ずその例文に関する解説や文法的背景説明が書かれているので、そこを読めばいい。まったく読めない韓国語の古典などが出てくると、その読めなさ加減から古典だとわかるのが逆にうれしいくらいだ。言葉に関するエッセイという感覚で読み進める。

読書はいい。2010年に韓国語を始めてほぼ1年後の2011年2月から子ども向けのキムヨナ自伝を読み始めた。そしてまた1年後の昨年2012年2月下旬に読了。そのときの達成感がいまに活きていることは間違いない。

その後、ハングルエッセイ『秘密にしていた話』(シム・ウォンソプ著)を全文ノートに写経(写ハン)しながら読み始め、これも約1年後の今年1月に読み終えた。このエッセイは対訳エッセイで、辞書なしで読める気楽さもよかったし、一編の長さもちょうどいい。自分のそのときのレベルとも合っていたように思う。初級から中級へのブリッジ的な教材だと思う。著者自身の朗読CDも聴きやすかった。続編を希望したい!

その後、対訳エッセイの気楽さが気に入って、いくつか対訳エッセイ的な書籍や小説などを読もうとしたが、『秘密にしていた話』ほどフィットするものが見つからなかった。そんななか、なぜか以前買っていた「나는 국어의 정석이다」が頭から離れず、分厚い原語本(といっても300ページくらいだが紙が厚い coldsweats01)という壁を思い切って越えて読み始めた。それが当たりだったのだ。この本は確実に最後まで読める自信がある。時間はかかるだろうが、読んでて楽しい。それが一番だ。

●살아있는 한국어 シリーズ

原書を読むのに少しずつ慣れてきて、もっと他にも韓国語で書かれた言葉についての書物を読みたいと思っていた。一方で、学習(特に語彙)という側面からは、昨年「漢字語中心主義」というキーワードにこだわり始めた。

釜山旅行のときに「한자 新千字 사전」という子ども向け漢字辞典を買ってきたが、そのとき同時に「살아있는 한국어 한자성어」という本も買っていた。その時には漢字語関連書籍を探すという明確な目的はあった。しかし書店であまり時間がとれず、「辞書と何かもう一冊買いたい!」という思いが先行したなかでパラパラ見ただけで選んだ本だった。

だからあまり気にすることなく自宅に放置していたのだが、漢字語への興味が広がるなかでちょっと読んでみるかと読み始めたら、これが大当たりの学習書だったことに気付いた。

韓国語を始めて3年も経つわけだが。言語学者の黒田龍之助先生曰く「外国語を何年やってますか?」という質問はまったく意味がない。人によって外国語にかけられる時間は違うわけで、一日数時間やっての3年も1日15分でも3年は3年なのだ。

私の3年はもちろん後者、まったく3年と言っても学生の数か月分にもならない時間しかやってない。始めてから一年は初級の学習を一通りやり、その後は毎日数十分の読書と韓国語のテレビ番組やドラマを毎日見るレベル。だが黒田先生の言葉を逆手にとって我田引水に言えば、3年もやってこの程度とか卑下する必要もないだろう。続けていることに自信を持つべきだと開き直る。

そんなレベルの私でもスラスラ読めるのが、この「살아있는 한국어 한자성어」なのだ。「한자성어」(漢字成語)とはおもに四字熟語のこと(中には四字じゃない「矛盾=모순」などもある)で、50個の漢字成語について、それを使ったイラスト入りの例文や問題が載っている。

なんといってもその例文だ。やさしい言葉ばかりでよく書けるなと思うくらい読みやすい。もちろん知らない単語も出てくるがそれも読み飛ばしやすい。そして各章のタイトルになっている漢字成語が漢字でも書かれているから、類推がきく。これが大きい。

あまりにも感動したので、同じシリーズの「속담≒ことわざ」や「관용어=慣用句」をネット書店で探した。すると楽天のハングルの森にあった。それが今日届いたのであった。この書店は国内ではかなり充実していていい。教材ページに店長さんのコメントも載っていてやる気が伝わるからおすすめ。

今日届いた2冊には、当然ながら漢字はなくハングルのみ。そういう意味では、このシリーズを始めるなら必ず漢字成語の「살아있는 한국어 한자성어」から始めるべきだと思う。これを一冊読み終えられればかなり自信がつくと思う。そして同シリーズに進めばいいと考えているところ。

寝る前に一日一編、「살아있는 한국어 한자성어」の例文を読む。50章だから真面目に毎日やれば二か月かからないわけだ。まぁそんな時間に捕らわれる必要もない。気の向くままに読み進められるということの喜びは何ものにも代えがたい。学校英語じゃまったく味わえなかった感覚だ。語学でこんな気分になるなんて人生は不思議なものだ。

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2013.04.21

脳内曲名 ぱ行編

最近書くことがない分、一回が長い(笑)。「誰が読むんだその長文!」と思いながら書いているわけだが、中島みゆきさんが「誰が聴くんだその時間!」という月曜の明け方に月イチラジオを始めてしまう時代へのオレなりのシンクロのしかただ。誰にも文句を言われずダラダラダラダラ書けるっていいよねっ!

というわけで、書くことがないときのリハビリ企画脳内曲名。今回は「全部思いつけるのか?」のぱ行編だ。まったくノープラン、頭の中真っ白で書き始めたのでぱぴぷぺぽが完成できるのかぱぱぱっと行ってみよう。

ぱ:パフ
ぴ:ピンポンパン体操
ぷ:釜山港へ帰れ
ぺ:ペルー国歌
ぽ:ポーの歌

以上!なかなか難しかった。「パフ」はピーター、ポール&マリーの有名な曲ですね。紹介したCDは「ライブ・イン・ジャパン1967」ということなのでボクの生まれる前のこと。いわゆるカレッジ・フォークってやつ。ボクはフォークソング狂いのバカ息子だったので生まれる前のフォークソングにも遡って聴いてました。パフは深夜ラジオで初めて聴いたような気がしてます。最初「ぱ」はパラダイス・アーミーにしてたんですが、曲じゃなくて映画でしたね。記憶なんてそんなもの。

「ピンポンパン体操」は今回最初に出てきた曲で、阿久悠作詞小林亜星作曲の名曲。ボクには乾布摩擦してくれたばあちゃんの思い出とともに記憶に残ってます。阿久悠さんもかなり思い入れがあったようでエッセイでもこの曲について読んだ気がします。もちろん阿久悠全集「人間万葉歌」にも入ってますね。

「ぷ」の「釜山港へ帰れ」は思いつけて良かった。この歌がなかったら「ぷ」は苦戦したような気がする。ぱ行は韓国語ではメジャーな音なのでK-POPでなにかないかと考えたが、結構タイトル知らない自分にも気づいた。もっと精進せにゃいかんね。

「ぺ」はある意味敗北宣言(笑)。「ぺ」で始まる曲なんてあるかな?ペリカン、ペルソナ、ペイシェント、ペイブメントとかいろんな言葉を思い出そうとしたけど、なかなか「ぺ」で始まる曲は思いつかない。日本語はあきらめモードだったので、英語か韓国語かって感じだったけど思いつかず、ついに「ペルー国歌」という反則スレスレの楽曲に。せっかくだから聴いてみましょう。これがなかなかいい曲なんですよ!

最後の「ぽ」はポップンポールの「ぽ」ですけれど、ここかポップンポールの面目躍如で(笑)、吉田拓郎の「ポーの歌」です。ボクはこの曲が大好きでした。といってもリアルタイムでは聴いたことなかったんですが。出てくる子の名前が個人的に好きでした(笑、いや泣)。楽曲としては小品でかわいらしい、いわゆる拓郎の童謡シリーズの曲ですけれど、読売新聞が盗作疑惑として報道して問題になったといういざこざがあったってこと、いま知りましたよ。youtubeで。これだけでもある意味ぱ行編をやった収穫だったなぁ。拓郎の反論コメントが聞けました。著作権問題を語る音源をこうして聴くのはなんとも微妙な感じですけれども...。

というわけで、なかなかいい暇つぶしになりました。では次にヒマになるゴールデンウィークにまたお会いしましょう(未定ですけど)。

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2013.04.14

「昼下がりの情事」でオードリー再発見

先月の「ティファニーで朝食を」に続き、オードリー・ヘップバーンの「昼下りの情事」を見た。オードリーのイメージは華奢で清楚で妖精のような女優だったのだが、この2本でみる彼女は発展家で物怖じしない女性。持っていたイメージとは異なる。もっともそんな役をオードリーがやっているというギャップがいいのかもしれないが。

それにしても「昼下がりの情事」だ。下世話だねぇ(笑)。これロマンチック・コメディって言われてるけど、そうかな?単なるエロオヤジの妄想映画じゃないのか(笑)。いや面白い映画でしたよ。しかしこの内容で2時間を超える映画になってるんだからいい時代だと思う。

ビリー・ワイルダーは「アパートの鍵貸します」のような面白いアカデミー賞映画も撮ってる監督だけど、基本的に下世話だ。そこがいい。やっぱ娯楽は下世話なくらいでちょうどいいんだよ。

「昼下がりの情事」を撮っていた前後、マリリン・モンローの「七年目の浮気」や「お熱いのがお好き」も監督してるし、オードリーの「麗しのサブリナ」も撮ってヒットさせてる人気の監督だ。またタイプの異なるこの2大女優が火花を散らしていた時代でもある。

「ティファニーで朝食を」の主演がオードリーになるかマリリンになるか、どっちに転んでもおかしくなかった時代背景をビビッドに感じる。おそらく「昼下がりの情事」も、どちらが演じても可能な映画だったと思う。もっともマリリンのほうが3歳年上だし、音楽学校の学生という設定はオードリー向きか。

この映画でのオードリーは眉毛がイモトのように太い。だからどうということはないがそんな感想だ。

若い娘のお転婆加減も、女学生の好奇心も、大人のちょい悪男に惹かれていく過程も、すべてが男の妄想の産物としか思えない。脚本もビリー・ワイルダーだからそれも納得か。1950年代はワイルダーの娯楽映画全盛期といえるが、それはおそらくこの妄想パワーゆえだと思う。

オードリーの父親は私立探偵で、住居兼事務所にはクライアントの下世話な資料が満載された資料棚がある。オードリーはそれらを盗み見ては友人に話すことを趣味としている女学生。ある日、その下世話な資料の常連浮気オヤジ(ゲーリー・クーパー)の命を救ったことから奇妙な関係が始まる。そしてオードリーはその浮気常連オヤジに恋心を抱いてしまう。

もうありえないっしょ(笑)。まぁありえないことが起こるから映画は面白いんだけど。

ウィキペディアによると、ゲーリー・クーパーのやった浮気男の役はケーリー・グラントにもオファされたそうだが、オードリーと年齢が違いすぎると断ったそうだ。当時としてはそれくらいロリータ趣味を醸し出す映画だったんだろうか。そんなケーリー・グラントも後に「シャレード」でオードリーと共演するわけだけど。

ただ女優はこれくらい様々な役をこなすべき時期というのもあるような気がする。オードリーは当時すでにトップ女優ではあったと思うが、下世話な娯楽映画をその気品と魅力でおしゃれな映画として記憶に残させてしまう女優のオーラはあっぱれだ。もっといろいろ観たくなった。

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2013.04.13

ぼくの外国語遍歴(?)

最近、黒田龍之助先生の著作がマイブームだ。先月発売された『ぼくたちの外国語学部』(三修社)を読み始めてすぐに、『ぼくたちの英語』(三修社)と『その他の外国語―役に立たない語学のはなし』(現代書館)も遡って読み始めた。『その他の外国語』は毎朝2編づつ読んでいるので読み終えていないが、三修社の2冊は読み終えた。

たぶん最初に読んだのは『語学はやり直せる!』(角川oneテーマ21)で、その後すぐに、ひとくちメモにも書いた外国語をはじめる前に』(ちくまプリマー新書)を読み、『外国語の水曜日―学習法としての言語学入門』(現代書館)も読んでいた。ここ1年未満の間の話なので、にわか黒田ファンといってもいいかもしれない。

ただあまりに早く読み進むと、星野博美さんのときのように読む本がなくなってしまう。だからちょっと自制しつつ、三修社のサイトにアップされてる講演録なども読んでいこうというところ。来週池袋で講演会があり、行きたいのは山々だけど平日はちょっと時間が取れない時期で残念。ぜひ三修社には今度の講義録もアップしてもらいたいものだ。

そもそも黒田先生の著書を読むきっかけは韓国語を始めたからだった。韓国語をはじめたきっかけはキムヨナの演技に惚れたからだったが(笑)。それと挫折した学校英語へのリベンジでもあった。本当に自分が外国語の学習が苦手なのかを問い直そうとしている。もともと外国語へのあこがれはあった。外国語と日本語との違いに興味を持っていたから、黒田先生の著作にたどり着くのは時間の問題だったと思う。

●外国語の思い出

僕は小学生低学年のころ、ベルギー人の先生に英語を習っていた。卒園した小さき花幼稚園の園長先生だ。卒園生を集めて英語を教えてくれてたのだ。5冊くらい使い方の異なるノートを使って、今から思うとものすごくゆっくりとした授業だった。でもそのときに輪になって鉛筆を回しながら「ペンシル!」とか言っていたシーンはいまだに記憶に残っているから、とても新鮮な体験だったんだと思う。おそらく外国語学習に触れた最初の体験だった。

そのまま続けていればもしかすると英語好きに育ったかもしれない。でも園長先生は初歩の初歩だけのつもりだったのか、小学校高学年のときにはその英語教室はやめていた。そして中学から学校英語が始まり、僕の英語嫌いが始まった。

その他の外国語で記憶にあるのは「6か国語会話集」という本だ。青や黄色の表紙のコンパクトな会話集だった。懐かしい!そう思いつつ amazon で検索したら中古品が見つかった。『六カ国語会話 東南アジア編(タイ・広東・中国・韓国・英・日) 会話集』というこれだ。青表紙がアジア系だったんだな。中学生時代にこれを3種類くらい買って読んでいた。日本語と英語は全部に載ってるから3冊で14か国語だ。どれも学ぶつもりというよりは、その文字の不思議さとか、外国への漠然とした憧れ、そんな気分だったんだと思う。

黒田先生の『その他の外国語』には、中学時代にたまたまロシア語に触れて文字の面白さから入ったといったようなことが書いてあった。僕は黒田先生より少し年下だが同世代で、外国への興味はとても強かったので、共感した。でも僕は英語嫌いになってしまった。どこに原因があったのだろう。その他の外国語への興味も英語以外であることがとても重要だったような気がする。

中学時代、友人のF君はドイツ語を趣味としていた。変わり者といえる(笑)。F君に影響されてNHK教育テレビのドイツ語講座を見ていた。ベルさんが出ていたころだ。スキットをコントのように楽しんでいた。F君とはその後二人で欧州旅行をした。僕にとってはそれが初めての海外旅行だった。

この初めての海外旅行では外国語の思い出がいくつかあるが電話のエピソードをふたつ挙げてみたい。もう忘れかけてるから記憶をここでリフレッシュ(笑)。

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2013.04.07

SONGS中島みゆきの「時代」を観て思った。昔から姿勢がいい!

小学生の頃から中島みゆきのファンだ。ひょんなことからテレビやラジオで「地上の星」の歌詞を独自に分析解説するという機会をいただき、おこがましくも嬉々として語ってしまった過去がある。その流れで「世情」についてコラムを書く機会も生まれた。

そのたびに、嬉しいながらも、語れば語るほど遠い存在になって行くように思えるのが中島みゆきというシンガーだった。たぶん分析しちゃいけないのだ。「考えるな、体で感じろ!」という思いでずっと聴いていたいのだが、語らずにはいられない。

追えば逃げる中島みゆきを巡って好き勝手なことを書き連ねられる時代を喜びつつ、いままたこうして「時代」について書き連ねようということだ。あえてここは“さん付け”をやめて、シンガー中島みゆきの「時代」について、スノッブに書き連ねてみたい。

なにがスノッブかって、23歳の中島みゆき、超かわいい(笑)。年下の中島みゆきを見る機会はほとんどなかった。もしかするとオレは中島みゆき姉さんにビジュアルから入ったのかもしれない。もっとも小学生時代は「悪女」の頃なので、「時代」を同時代では聴いていないが。

それと中島みゆきは今も昔も姿勢がいい!あんなに背筋の伸びきった女子大生は見たことがない(笑)。夜会のためにトレーニングして姿勢が良くなったのではなく、実に筋金入りの姿勢のよさだったのだ。動く中島みゆきを見る機会がなかったからさ。そんなことも新鮮なのだよ。

●思いを込めず「無」で歌いたいシンガーの葛藤

NHKの「SONGS」はこれまで観た様々な歌手のときと異なり、「時代」という1曲を掘り下げるドキュメンタリータッチの番組になっていた。デビュー間もない頃の中島みゆきの映像などはほとんど観る機会のないものだ。

この放送日の天気は大荒れで、頻繁に関東低気圧情報が流れ、画面もワイプして小さくなったりしたのだが、それもまたこの“時代”を思わせる映像と考えて、この同時代性を録画して残そうと思う。もちろん再放送も録る訳だが(wink)。

中島みゆき自身が「時代」という自身の楽曲についてテレビで語る(ただし音声のみ)。業界的には「まずありえない」事態が起こった。もちろん言葉の選び方は中島みゆきらしく十二単を纏ったようなかわし方も多いわけだが、そこを好き勝手に読み取るのがアチキの仕事だ。

もっとも重要だったのは「私が自分で歌うときにはいっそもう何の意味も込めずに『無』といった気持ちで歌うほうがいいのかもしれない」という告白。それもまた実際やろうとすると出来ないという反省。

中島みゆき自身が、歌詞の意味を限定すること(されること)に強い拒絶感を持っているのは、これまでの発言からもよくわかる。ヒットメーカーとしてもララバイシンガーとしても共通する中島みゆきの資質から出てきた確固たる信念で一貫性がある。

そんな思いを反故にするかのように歌詞解釈をしては公表しているアチキのような野郎は、中島みゆきの歌詞の意味限定回避プロジェクトにとっては煙たいに違いないのだ(もっとも煙たいほどの煙も出してないけども)。

中島みゆきはパーソナルに語りかける。そして聴き手の個人的な思いを歌詞に乗せて聴かれることは大歓迎だ。そのパーソナリティについては知りたいとすら思っている。そこでラジオリスナーからの葉書につながる。この関係性こそがシンガーとファンとのもっとも大切な関係性だ。

しかしヒット曲というものは、それだけでは生まれない。スタンダードといわれる楽曲には、まさに普遍としかいいようのない感覚があるんだと思う。誰もが持っている異なる個人的な思い、だがその底にある人々に共通した感性、そこに響く必要がある。

中島みゆきはそのひとつの答えを持ってる。それが歌詞の全志向性であり、意味限定の拒絶だ。それは中島みゆきのほとんどのシングル曲に言えるように思う。「時代」ももちろんそのひとつ、といえるのだが、この番組によって「時代」という曲にその思いが限定される恐れがある。

特に「時代」という楽曲だけを「無」の心境で歌いたいとすれば、そこには「時代」にしかない何らかの思いが立ち現れてくる。“意味”は時間的にも空間的にも自由でいられない。逃げようとしても逃げられない現実のなかにあり、「無」でいようとすればするほど、考えてしまうものなのだ。

そのシンガーの葛藤は、こうしてわかっちゃいるのに解釈せずにはおれないファンの葛藤にも似てる。解釈すればするほど中島みゆきは遠ざかっていくのだ。だが解釈をやめるとオレ自身のパーソナルな聴き方も同時になくなる。決して交わることのないこの葛藤という“二隻の舟”があるならば、もういっそ中島みゆきとその葛藤を共有してしまおうというのが一連の歌詞解釈をしてきたオレの企みなのかもしれない。

●若き「時代」の持つ未来志向

1975年あたりは、いまから見ると日本にとってのひとつの「時代」を感じさせる事例に事欠かない。偶然だが、この日SONGSの始まる直前には教育テレビでアントニオ猪木と外科医天野篤さんの対談番組をやっていた。猪木が異種格闘技戦を始めた時代もまさにその頃だった。1975年にはモハメド・アリにオファを出しては断られていたはずだ。

泥沼のベトナム戦争でアメリカが敗北したのが1975年だ(サイゴン陥落)。世界の経済成長が停滞し、ある種の時代の終わりを感じさせる時代。しかし日本では企業戦士がしゃにむに世界を向いて走り出していたような時代。極東の島国で若い無名のプロレスラーが世界のアリを挑発していた。売名行為としか見られない猪木の行動は、しかし島国日本と覇権国家アメリカとのバランスが崩れかけた時代の空気を、肌で察知した猪木一流のパフォーマンスだったように思う。

ただそれも、いまという時代があるからこそ振り返ってそう思えるわけだ。番組のなかでもナレーションが入ったが、「時代」が発表されたころ、21世紀の日本がこんな風になることなんて誰も信じちゃいなかった。だけど中島みゆきの「時代」は、時代を超えていまの日本人の心境にマッチするのだ。

だが隠れた名曲というわけではなく、発表当時から多くの人々の心を捉え続けたヒット曲だった。当時の人々は「時代」に何を思ったんだろう。

1975年の人々が振り返る時代の悲しみ。例えば戦争、例えば貧困、パーソナルに生きられない時代の閉塞感。そういう部分もあっただろうし、生まれ変わって歩き出すよという歌詞が願う未来への希望を受け取った大衆も多かっただろう。

絶望と希望、世界と日本、対照的な現実が1曲のなかに完結している「時代」は具体的な言葉を一切排除した歌詞で、まさにその全方位感覚が人々の琴線に触れたんじゃないか。「時代」は一言で語れない思いを乗せられる歌なんだ。だからこそ時代が変わっても歌い継がれるのだろう。

●楽曲としての「時代」について

ギャップこそ中島みゆきと思っているボクには楽曲そのものにも、その特性が随所に見られて興味深い。「時代」という歌は冒頭のヴァース部が1回しか出てこない。ヴァースは通常Aメロなんて呼ばれるが、「時代」のAメロは♪そんな時代もあったねと の部分だろう。

「時代」は8分の6拍子で弱起の曲で♪今はこんなに悲しくて のヴァースで始まる。ちょっと異例な構成だと思うがこのヴァースに惹かれる人は多いと思う。さらにこの部分をかなり力強く歌いあげるのだ。

弱起の3連符が駆け上がりのようなメロディで、思いの丈をぶちまけるくらいの勢いで歌われるが、ヴァースの歌詞は「二度と笑顔にはなれそうもないけど」と絶望的に結ばれる。

サウンドは次のAメロとのギャップを強調するかのように強>弱と流れているのに対して、歌詞は絶望から希望へと裏返しになってる。このあたりはもう既に中島みゆきとして完成されていると思った。

そして大サビ(Cメロ)の♪まわるまわるよ時代は回る のリフレインでは、1度しかなかった絶望のヴァースと同じくらいのサウンドで希望(あるいは輪廻)を歌うのだ。絶望は乗り越えられることを、この「時代」は楽曲構成においても表現している。偶然の産物ではないだろう。

●普遍的であろうとする意志と意思を超えたスタンダード

「時代」がフィットする時代がまたやって来たのかもしれない。震災によって震災後に生み出される文学や音楽や芸術もたくさんあるだろう。しかし予見しない未来にフィットする昔のヒット曲にはかなわない。なぜなら昔の歌はこの現実を歌っていないからだ。この逆説と中島みゆきの持つ普遍性志向は重なる。

中島みゆきの普遍性は意味を限定させないという徹底した意志によってもたらされている。だが中島みゆき自身も反省していたように、どんなに意味を持たせず歌おうとしても、震災後に歌う限り、被災者に届けようとすればするほど意味が生まれる。ここから逃れることは出来ないし、逃れる必要もない。

普遍性は意志を越えた現象だ。「時代」のもつ普遍性は、中島みゆきの意志がピタリとはまったということだろう。中島みゆきといえども常に普遍的であろうとして成功するわけではないが、かなりの高打率だとはいえる。

意図しない普遍性という点では、昔の「時代」を歌う中島みゆきの映像を観てはからずも実現されていると思えた。1975年におそらく違うことを考えながら歌っている中島みゆきの「時代」を今見せることで、時間的にはある種の「無」の心境を生み出せているのではないか。

そういう意味では映像やライブ音源を残しておくことは重要だと思った。そこに予期しないギャップと好循環が生まれる期待がある。そしてそれらをどんどん公開してほしい。時と場所を変えて新しい価値を生み出すだろう。

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2013.04.06

まわるまわるよ少女時代はまわる!

今夜、NHKのSONGSで中島みゆきの「時代」を掘り下げるという噂を聞いて、さっきの少女時代のコンサートを見る前までは、中島みゆきの「時代」と少女時代の「時代」とを絡めて何か書いておこうと企んでいたわけだが、いま少女時代のコンサートから帰宅して心は少女時代でいっぱいだ(笑)。だからこの企ては延期する。

少女時代(ソニョシデ)=ガールズ・ジェネレイションという韓国発信のガールズグループのポテンシャルはすごすぎる。それをあらためて感じたさいたまスーパーアリーナだった。少女時代のメンバーが「埼玉は特別な場所です」的なことをおっしゃるたびに、埼玉在住を誇らしくさえ思う(笑)。さいたま在住でよかった。スーパーアリーナが近所でよかった。この時代に生きた甲斐があるってもんだ。

2011年の最初のツアーもここで見た。そのときも少女時代のポテンシャルの高さに驚いた。そして今回2度目のツアーで見た少女時代は、ますます大きな存在になっていた。

もちろん今回も当日引き換え券だ。前回は400レベルから眺めていたが、今回は200レベル、ほとんどアリーナ席とかわらない近さだった。間違って関係者席と書かれた進入禁止のロープが引かれているような席だった。こんなこともあるんだね。

オレが20代だったらファンクラブにも入り追っかけしてたかもしれないが、もはやそういう季節は遠い昔に過ぎ去った。いまでは単なる音楽オヤジだ。しかし、そんな音楽オヤジの耳に確かに響いた少女時代。これを見ずして時代は語れないとすら思う。「チグムン ソニョシデ!」は事実なのだ!

こんなコンサートを当日引き換え券で買えるなんて、そこは韓国グループならではだと思う。最近のコンサートは前売りが半年以上先だったりする。ファンクラブ以外の人間は別に近い席じゃなくていいんだから、当日引き換え券が出るというのはうれしい。もっとも少女時代の場合はそれも非常に取りにくかったが、今回も行ってよかった。

自慢じゃないが、オレはダンスミュージックを踊らずに聞き込んできた野郎だったし(ほんと自慢にならんが)、小学生の頃から中島みゆきとYMOとを同時に聴いては分析していた音楽小僧だ。藤山一郎からジョアン・ジルベルトまで幅広く聴いてきた(相当偏ってるかもしれんが)。

その耳にも少女時代は確かに響く。こんなグループがあっただろうか。アイドルであり、K-POPであり、ダンスミュージックであり、美脚かつ美貌もウリであり。少女時代のように踊れて、少女時代のように歌えて、少女時代のように美しい音楽集団がかつてあっただろうか。そして現在も他にあるだろうか。

ショウビジネスの最先端だと思う。前回の満足感から今回も来てしまったわけだが正解だったと思う。新曲はいわゆる洋楽を意識しすぎてK-POPらしくないという声も聴く。それはそうかもしれないが、もうK-POPらしさを少女時代に代表させる時代は終わったと思う。少女時代は独自のショウビジネスを作り出せる存在だ。

K-POPという枠で収まりきらない。少女時代という音楽でいいように思う。楽曲そのもの、そして彼女たちのダンスや歌とシンクロしたときに表現される舞台そのもの、それをピュアな感性で受け止めれば、現代のショウビジネスを存分に楽しめると思うのだ。

情操教育にもいいと思うぞ。隣国発祥の文化に触れ、いま最先端のポップ・ダンス・ミュージックに触れ、複雑なフォーメーションと高い表現力のダンスに触れ、子どもの教育上もきっとプラスだ。

さらに少女時代ファンには美人が多い(笑)。自分磨きの基準が少女時代になるから、求める美のレベルが高い。やはりどんなことでも高みを目指すという意欲が現れるものだ。

いやー、時代は少女時代だよ。間違いない。せっかく2013年に生きていて少女時代を見ないなんてもったいない。聴かないなんてもったいない。いまオレは酔っ払っているが、アルコール抜きでもきっとそう言うだろう。間違いない!なにはさておき、行って正解だった。いましかないんだよ人生は!

1stツアーのときは顔見世公演色が強かった。メンバー個々の個人技コーナーもあった。しかし今回は9人のメンバーの総合力だけで突っ走る、ある意味シンプルなステージだった。それだけに少女時代というグループとしての完成度は高かったと思う。

ただ、そうは言っても双眼鏡でテヨンを70%くらい見ていた(笑)。テヨンは少女時代の要だ。音楽的クオリティの源泉だ。何十年後も歌っていられる歌手だと思う。その頃までオレも元気にテヨンを応援していられたらうれしい。もっと韓国語が上手くなりたいものだ。

今回は珍しく勢いだけで書いた。そんな日があってもいいじゃないか。時代はいま少女時代!チグムン、ソニョシデ!アプロド、ソニョシデ!じゃ、おやすみ!

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