現代医療システムへの警鐘を鳴らす映画「誤診」
3月11日の江部先生のブログにメリル・ストリープ主演映画「誤診」(原題「…first do no harm(何よりも害を成すなかれ)」)の記事が書かれていた。興味を持ったのでDVDを購入しようと探したが廃盤のようだった。
アマゾンでは新品に25000円の値がついていた。名優メリル・ストリープ主演の社会派ドラマで、観た人の評価も高いのになぜ廃盤なんだろうと思った。だがレンタルで借りることができた。今日さっそく届き、いま見終わったばかりだ。
穿った見方をすれば、なるほど廃盤になってもおかしくないほどの現代医療システムへの問題提起満載映画だった。「一般人に誤った知識を植え付けミスリードする映画だ」などといった医学界からの圧力で廃盤になったのでなければいいがと思えてしまうほど、現代医療システムに懐疑的な私には腑に落ちる映画だった。
この映画は実話をもとにしており、てんかんの治療法をめぐって病院で薬漬けにされる息子ロビーをケトン食という食事療法で助けた母の物語だ。ただ映画の中の多くの時間は巨大な現代医療の壁への疑問と、医療システムとの戦いに費やされる。
観る前はソダーバーグ監督の名作「エリン・ブロコビッチ」のような映画を想像していたが、もっと地味な映画だった。しかしそこはメリル・ストリープ、しっかりと強い母を演じ切っていて意図が伝わる映画になっていたと思う。
てんかんにケトン食が効くことはいまではよく知られているが、この映画が作られた1997年ごろまではそのような食事療法はキワモノ扱いだったようだ。もっとも現在ですらあらゆるケトン体は体に害だという医者も多いそうだから、状況はそれほど変わっていないのかもしれない。
97年なんてつい最近のようにも思える。しかし映画のなかでは1920年代から成果をあげていたことが間接的に語られる。一般の病院では薬と手術しか選択肢のない時代に、食事療法という第三の道が希望となるのは感動的だ。
●メリル・ストリープの学ぶ姿にこそ学びたい
この映画は単に奇跡の物語とか、ある特別ラッキーな少年の話でもなければ、現代医療を全否定するだけの映画でもない。
病院の看護師の女性が母(メリル・ストリープ)に「ここでは多くの子が治っているの。でもロビーは違う。私は先生に反対よ。あなたのほうがロビーをわかってる」と吐露するシーンがあった。小さいシーンだったが象徴的だと思った。
現代医療は実験的な側面を持ち、その積み重ねでしか進歩しない。そんなマクロな視点で患者に臨む病院や製薬業界の方針と、いま家族が対峙している病いとの戦いというミクロな視点とがときにぶつかることはある。誰もが助けようとしているにも関わらず、治らない病いは常に医療の先へ先へと逃げていく。
特に薬の副作用が別の薬を必要とする薬漬けスパイラルに陥り、何か月も“治療”を続けているにも関わらず見る見る悪化していくロビー少年のような状態になって、やれ新薬を試すから同意書にサインをとか、手術に移行するから同意書にサインをと言われたとき、何を根拠にサインすればいいのか誰でも迷うと思う。
ここで例えば新興宗教に走ってしまう人もいるだろう。第三者的には無根拠な盲信だが、藁にもすがりたいという思いが誤った判断をさせる。そうなると誰にとっても悲劇だ。
この映画もそういう観方をされる危険はあると思う。病院の治療方針に疑問をもった母親が、もっと別の方法があるはずだと道を踏み外す。そういう観方を医療に携わっている人間ほどしてしまいそうだと思った。だが医者の言うことを鵜呑みにし、自ら考えることをやめてしまうのもまた盲信といえないか。
メリル・ストリープ演じる母はそんな盲信に走るのではなく、毎日図書館へ通った。何冊も医学書を読み、てんかんについての知識を習得していった。そしてついにケトン食という食事療法にたどり着く。それも1920年代からの成功事例に。
●医学の進歩は柔軟でオープンな環境から
私自身、コレステロールを下げる薬をなんの説明もなく処方されたことで医者には不信感を持っている。フェノフィブラートとスタチンを次々処方され、それらの薬を拒否して、反コレステロールへの懐疑を口にすると「医学書を読め」と言われた。言われた通りに20冊くらい医学書を読んだ結果、決定的に産業医とは異なる見解に到達した。そういうながれでこの映画を見ているため、メリル・ストリープが図書館で必死に学ぶ姿には共感した。
メリル・ストリープがたどり着いた食事療法、病院で息子の主治医にその博士の著作の話をすると、なんとその主治医もその博士の書籍を持っていた。それも結構好意的なのだ。しかし食事療法の部分だけは全否定してしまうのだ。なぜか。「二重盲検法」での効果が確認されていないからだった。
ここで一般人の私は疑問を持つ。科学的な(統計学的な)証明はまだなくても、栄養学的に論理性を持つ仮説を学んだ患者やその家族が試したいと言っている場合、それを全否定する医者の姿勢は現代医療を全否定する一般人となんら変わるところがない。科学は探究心と機会によって進歩するものだ。このとき医者が一般人を否定する根拠は古い知識か職業人としての医者のアイデンティティ(あるいはプライド)でしかないように思えてならない。
もちろんリスクは伴うだろう。実験台(それも医者自身にとって不本意な)といった感覚になるだろう。だが、これまでの治療方針で治らず悪化していることも事実だ。そんな患者を前にしたときに、もっと謙虚になれないだろうか。
新薬を試す、手術をする、せめてそれらと同レベルに食事療法があってもいい。細々とだが信じて臨床結果を記録し続けている医師や栄養士がいることは救いだが、そういう少数意見にもっと耳を傾けて柔軟に導入すれば、将来統計的にも正しさが証明されるかもしれない。いまは統計をとれる環境すら得られないからいつまでも迷信呼ばわりされるのではないかと思うのだ。
現代医療は製薬業界に牛耳られているからか、できるだけ薬を出そうとする。患者は学ばないものと思っているから、薬を出しておけばいい(思考停止しても薬なら効く)と安易に考えているのではないか。私自身の経験から言えば、先に書いた「医学書を読め(どうせ読まないんでしょ)」とか、「運動もカロリー制限もしないんでしょ(だから薬飲んどけ)」という医師の姿勢に戦慄を覚えるのだ。
また薬に頼らない医療はカネにもならないんだろう。カネにならない患者は見捨てられる米国の医療システムもこの映画の背景にはあった。TPPとともにそんな医療崩壊が日本に輸入されないとも限らない。すべてつながっている問題だと思う。
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