google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2013年3月

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2013年3月の7件の記事

2013/03/31

チョン・リョウォンに嵌る ~ LOVE 정려원

いろんな韓流にはまり続けている私だが(笑)、いまKNTVで放送中の「ドラマの帝王」で脚本家イ・ゴウン役をしているチョン・リョウォンに夢中だ。タイトルに「LOVE 정려원」と表記しているのは、韓国に伝えたいからでもある(정려원씨에게 나의 사랑을 알리고 싶어서)。

「私の名前はキム・サムスン」を何度目かの再放送で見たころは、まだ韓国ドラマを見始めたころだった。最高に面白い韓国ドラマのひとつだし、チョン・リョウォンがブレイクした作品でもあるそうだが、当時の私には主演のキム・ソナ以外を覚えられるほどの余裕がなかった。

また元ガールズグループのメンバーだったことも最近知ったくらいだ。アイドルから女優に転身して成功した一人ということになる。経歴からすると同い年のユジン(ロマンチック・アイランド)と似てる。アイドルからの脱皮成功組だ。

今回の「ドラマの帝王」でのチョン・リョウォンを見て、「どっかで見たことあるよなぁ」と思っていたが、それは映画「彼とわたしの漂流日記」だった。

「あー、あの暗かった子か!」という印象だ(笑)。この映画では顔の印象はあまり残らない。しかし存在感はものすごく大きい。そういう映画だった。もちろん内容も面白かった。ただ、トンマッコルからの流れで観た映画だったので、チョン・リョウォンという女優についての知識はなかった。キム・サムスンのこともこの時点で忘れていたわけだ。

しかし過去の作品、それも名作ばかりを見てきたからこそ、今回の「ドラマの帝王」で魅力的に映ったチョン・リョウォンに納得したような気がする。深層心理にチョン・リョウォンの魅力が残っていたのかもしれない それをカリスマというのではないだろうかっ!

唐突だが唇がいい。女優の唇について語り始めると石原さとみとの比較になってしまいそうだからやらないが、それをエロスの象徴といったステレオタイプにまとめてしまうのもつまらない。唇の演技力みたいな感じでとどめておきたい(笑)。

女優の唇の話ではキム・ギドク監督が珍しく出演したトークバラエティ「強心臓」で「女優の唇を真っ先に見る」みたいなことを言っていた。やっぱキム・ギドク監督とは趣味が合うな!チョン・リョウォンと仕事することは難しいかな?見てみたい。

チョン・リョウォンにはまってからレンタルで「絶対彼女」と「敵との初恋」を借りて観た。「絶対彼女」という古いドラマは、まだ「アイドルがドラマもやってます」的なドラマだった。あれはあれでいいんだろうけど。「敵との初恋」は作品はあまり好きになれなかったが、チョン・リョウォンの演技力は確認できた。

そして今回のドラマ「ドラマの帝王」だ。過去の作品からここまで役者として女優として成長したんだということが分かり収穫だった。

どこがどういいと具体的に指摘しずらい。しかし記憶に残る。そんな自然な存在感を醸し出す。派手な女優でもない。映像のなかでは親しみやすいがプライベートが見えないタイプというか。

成長には知性が不可欠だ。そう、知性を感じる女優のひとりかな。映像で見る限り「絶対彼女」の頃は、その他大勢となる危険をはらんでいたと思う。しかしいま30代になったチョン・リョウォンはひとりの女優として“顔”を持ってる。

そしてやはり出演作品だろう。選ばれる女優であることはもちろんだが、その場合でも引きの強さは単に運じゃないと思う。昨年、元の事務所と円満解約しヨン様と同じ事務所に移ったと聞いた。ますます活動の幅も広がってほしいものだ。

作品は知性と価値観の集積であり、良い作品に選ばれ、自分が演じることでさらに良い作品にしていく力を「女優の成長」と考えたい。そういう意味でもこれからが楽しみな女優だ。

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2013/03/24

映画「黒部の太陽」をホームシアターで観る

以前、熊井啓監督著『黒部の太陽 ミフネと裕次郎』(新潮社)の単行本を買って読んだ(その後文庫化)。そのオビには「再上映もDVD化もされない幻の超大作映画 初公開から38年のいま、その全貌を、監督自ら明かす!!」と書かれていた。

「黒部の太陽」という映画は石原裕次郎の「大スクリーンで観て欲しい」という意向からパッケージ商品化されずにいたと聞いたことがある。熊井監督の著書によると2003年の裕次郎17回忌に記念上映されたそうだが、そのときは3時間15分の封切版ではなく2時間数十分にカットされたものだったらしい。

昭和43年(1968年)封切られ733万人を動員した大ヒット映画。その幻の日本映画がついにDVD化・ブルーレイ化されたのだ。もちろんオリジナルの封切版だ。

いまや時代は変わり、テレビも大型化、高画質化し、映画の視聴スタイルも多様化している。熊井監督がこの映画の書籍を出版されたのも、オリジナル版をもっと多くの人に観て欲しいからだった。石原裕次郎も許してくれるだろう。

さっそくブルーレイを購入し、裕次郎の意向に少しでも沿うべく自宅の大スクリーンで鑑賞した。昭和の山岳地帯が美しく大迫力で迫ってくる。美しい大地のどてっぱらにトンネルを掘る戦後の一大事業。骨太でブレのない真直ぐな映画だ。フィルムから伝わるこの迫力は昭和映画ならではだと思う。それはCGもなくロケーションでやらざるを得なかった時代そのものの迫力だ。もう真似しようとしても出来ないだろう。

黒部ダムに行ったのはいつだったか検索してみると2006年の夏だった。そのときのひとくちメモを読むと、ノホホンとした雰囲気が全面に漂っている。だがこの映画を観てから行けば、多少なりとも胸に迫るものがあったと思う。文明の進化というものは、開拓者と未来の受益者とでここまで意識が変化してしまうという見本だ...。やはり記録は残さなきゃいかん。

音楽は黛敏郎だ。右翼のイメージが強いわけだが、この映画ではその力強さと壮大さが、戦後復興にかける日本人の純粋な闘志と美しくも険しい日本の山々にうまく溶け込んでいた。

●家族の映画としての「黒部の太陽」

一大スペクタクル映画といえるが、登場人物はそれぞれ家族の問題を抱えている。大工事を請け負う大きな組織のなかで、そこにいる人間ひとりひとりに焦点を当てたところが共感を呼んだのかもしれないと思う。中島みゆきもここで地上の星を歌いたくなるわけだ(笑)。

裕次郎は現代的なエリートの役だが、戦中派の父親との葛藤、誤解、そして和解といった親子の問題を描く。裕次郎は現代から見ればかなり“いいとこどり”に見えるシーンも多いわけだが、それもまた昭和のスターな感じでいいじゃないか。シュワルツェネッガーが絶対玉に当たらないようなものだ。

世界のミフネは、現場を任された関西電力の管理職役だ。安全第一をモットーに、しかし工期と予算の駆け引きに奔走する。そして現場中心の生活で疎遠となる家族との問題を抱えている。

主演の二人が抱える親子の問題だけでなく、黒部で働く労働者の家族の問題もある。安全第一だったがフォッサマグナに阻まれた工事はついに事故を起こす。そして工夫の反発と大量離脱。家族からは帰郷させるために「チチキトク」「ハハキトク」といった電報が次々舞い込む。

この映画には撮影中に起こった本当の事故の映像を使ったシーンもあるという。過酷な現場だったに違いない。オープニングクレジットは五十音順だ。そこにはスターも脇役もない。時代背景や五社協定の影響もあったのかもしれないが、この映画の持つ仲間意識の一翼を担うオープニングクレジットだった。

熊井監督の映画では「サンダカン八番娼館 望郷」が大好きだ。民俗学者宮本常一先生からの流れでこの作品に行きついた。原作も映画も非常に良かった。貧しさのなか生きる女性の波乱万丈なオーラルヒストリーをどっしりと腰を据えて描き出した。腹の据わった監督だ。

「黒部の太陽」よりも「サンダカン八番館 望郷」のほうが後に作られている。サンダカンの現場に裕次郎がふらっとあらわれて「やっぱり映画はいいな」とつぶやいて立ち去っていったと熊井監督の著書に書かれていた。当時の石原プロは事業が順調でなく、映画制作から遠ざかっていたらしい。

裕次郎が生きていたら、と考えても仕方がないが、「黒部の太陽」他のパッケージ商品でお茶の間に蘇った裕次郎はやはり昭和のカリスマだったと思う。ミフネの「羅生門」とともに、日本のホームシアターには必携の1枚と言っても過言ではないだろう。

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2013/03/19

ジャンプが邪魔だと思えたキムヨナの表現力

世界選手権2013はキムヨナが優勝して幕を下ろした。キムヨナのフリー「レ・ミゼラブル」を見ていて、やっぱりキムヨナはダンサーだとあらためて思う。

その音楽の理解度と表現力は桁違いだ。ビートで踊るキムヨナの音感と身体能力の高さを見ていて、ふと思ったのは「ジャンプ、邪魔だな」という感想だった。

そしてエキシビジョンに出てきたキムヨナは一回もジャンプをしなかった。こういうとこも手抜きとか批判されるポイントなのかもしれないが()、ボクはそれを見て「あーやっぱりそうなのかも」と思ったので、急遽ひとくちメモに書いておきたくなった。

フィギュアスケートはとかくジャンプばかりが語られる。もちろん素人のボクにも(こまかい種類は別にして)ジャンプはわかりやすくてフィギュアの華だと思っていた。しかしそれはこと音楽を表現するという面では、必ずしも重要ではないように思えてきた。

それを一番感じたのが2009年のGPシリーズフランス大会で初めてキムヨナが披露した007だった。最初のジャンプはまさにオープニングを飾る音楽のフックとジャストのタイミングだったが、それ以外は必ずしもジャンプに惹かれたわけではなかった。音楽を表現するうえで意味のあるジャンプは最初のジャンプだけだったように思う。

今回のレ・ミゼラブルでは、その思いがさらに強まった。というより無意識に持っていた「フィギュアにジャンプは当然」という固定観念が消え、ジャンプが邪魔だと思わせるような演技だったのだ。

選手はみんなジャンプを中心に演技構成を決めているのかな?僕には、ことキムヨナに関しては、ルールで飛ばなきゃいけないから飛んでるだけで、ジャンプは単なるつなぎの一部という風に見えてしょうがない。

もちろんそんなことはありえないかもしれない。ただの妄想かもしれない(笑)。でもキムヨナは表現のなかでジャンプを中心には置いていないと思う。もっと音楽全体、ビートそのものに身をゆだねることが最優先で、ジャンプによってそれが乱されるのを嫌っているようにすら見えるのだ。

ジャンプの必然性は競技だからあるのであって、完全にジャンプと音楽とがシンクロしている選手をまだ見たことがない。一番よく見るのは、音楽に乗ることをなおざりにしてジャンプに意識を奪われている状態。ジャンプの準備動作にはいったとき、音楽とのシンクロが崩れてしまう選手は非常に多いように思う。

しかし観衆もほとんどはジャンプ目当てみたいなところがあって、ジャンプが成功すれば拍手喝采だし、得点について語る場合も、ほとんどはジャンプのスロー映像などを観ながら回転不足だとか、踏切の技術がどうだとか、基礎点がどうの加点がどうのと、そういう部分に集中する。目の前の演技は二の次なのだ。

だからボクは昨日ツイッターで思わず、「フィギュアにもスキーのようにジャンプ種目を作ればいい」とつぶやいてしまった。競技として高難易度のジャンプはすばらしいと思うし、その高度な技を磨いていくことはアスリートとして真っ当な取り組みだと思う。だからそういう種目を別に作ってジャンプだけで競っても面白いと思う。

でも、音楽とのシンクロと美しさを表現するというフィギュアスケートらしさを重点的に見ていると、ジャンプは音楽とはほとんど無関係に(表現上の意味が不明なまま)飛ばれて、流れを途切れさせる要素になっていると思う。

キムヨナの場合はジャンプの準備動作が少なく(ただしレ・ミゼラブルよりも007のほうがよりその傾向が強かった)、音楽の流れをそがないようにサッサと飛んでしまっている分、表現の統一感が非常に高いんじゃないかと思う。

もちろんジャンプがあるほうが、見た目も派手になるし、競技に勝とうと思えばそれなりの難易度のジャンプを飛ばなければならないんだろう。もしそうであるならば、音楽とシンクロした意味のあるジャンプをもっと見たい。あるいはジャンプに合致する編曲を聴きたい。

そういう選手があまりいないのは、もしかするとジャンプでビートに乗ることは不可能なほどに難しいのかもしれない。ジャンプと音楽のシンクロを中心に演技を構成することはものすごくリスキーなのかもしれない。

でもジャンプの浅田真央、表現力のキムヨナというハイレベルな演技者が同時に生まれてきたことは、いつの日か両者のいいところを両方そなえた、つまりジャンプを音楽表現のなかで完全に消化できる次世代の選手の登場を予感させる。まだまだフィギュアは進化する余地があるように思えた世界選手権だった。ソチ五輪も楽しみだ!

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2013/03/16

現代医療システムへの警鐘を鳴らす映画「誤診」

3月11日の江部先生のブログにメリル・ストリープ主演映画「誤診」(原題「…first do no harm(何よりも害を成すなかれ)」)の記事が書かれていた。興味を持ったのでDVDを購入しようと探したが廃盤のようだった。

アマゾンでは新品に25000円の値がついていた。名優メリル・ストリープ主演の社会派ドラマで、観た人の評価も高いのになぜ廃盤なんだろうと思った。だがレンタルで借りることができた。今日さっそく届き、いま見終わったばかりだ。

穿った見方をすれば、なるほど廃盤になってもおかしくないほどの現代医療システムへの問題提起満載映画だった。「一般人に誤った知識を植え付けミスリードする映画だ」などといった医学界からの圧力で廃盤になったのでなければいいがと思えてしまうほど、現代医療システムに懐疑的な私には腑に落ちる映画だった。

この映画は実話をもとにしており、てんかんの治療法をめぐって病院で薬漬けにされる息子ロビーをケトン食という食事療法で助けた母の物語だ。ただ映画の中の多くの時間は巨大な現代医療の壁への疑問と、医療システムとの戦いに費やされる。

観る前はソダーバーグ監督の名作「エリン・ブロコビッチ」のような映画を想像していたが、もっと地味な映画だった。しかしそこはメリル・ストリープ、しっかりと強い母を演じ切っていて意図が伝わる映画になっていたと思う。

てんかんにケトン食が効くことはいまではよく知られているが、この映画が作られた1997年ごろまではそのような食事療法はキワモノ扱いだったようだ。もっとも現在ですらあらゆるケトン体は体に害だという医者も多いそうだから、状況はそれほど変わっていないのかもしれない。

97年なんてつい最近のようにも思える。しかし映画のなかでは1920年代から成果をあげていたことが間接的に語られる。一般の病院では薬と手術しか選択肢のない時代に、食事療法という第三の道が希望となるのは感動的だ。

●メリル・ストリープの学ぶ姿にこそ学びたい

この映画は単に奇跡の物語とか、ある特別ラッキーな少年の話でもなければ、現代医療を全否定するだけの映画でもない。

病院の看護師の女性が母(メリル・ストリープ)に「ここでは多くの子が治っているの。でもロビーは違う。私は先生に反対よ。あなたのほうがロビーをわかってる」と吐露するシーンがあった。小さいシーンだったが象徴的だと思った。

現代医療は実験的な側面を持ち、その積み重ねでしか進歩しない。そんなマクロな視点で患者に臨む病院や製薬業界の方針と、いま家族が対峙している病いとの戦いというミクロな視点とがときにぶつかることはある。誰もが助けようとしているにも関わらず、治らない病いは常に医療の先へ先へと逃げていく。

特に薬の副作用が別の薬を必要とする薬漬けスパイラルに陥り、何か月も“治療”を続けているにも関わらず見る見る悪化していくロビー少年のような状態になって、やれ新薬を試すから同意書にサインをとか、手術に移行するから同意書にサインをと言われたとき、何を根拠にサインすればいいのか誰でも迷うと思う。

ここで例えば新興宗教に走ってしまう人もいるだろう。第三者的には無根拠な盲信だが、藁にもすがりたいという思いが誤った判断をさせる。そうなると誰にとっても悲劇だ。

この映画もそういう観方をされる危険はあると思う。病院の治療方針に疑問をもった母親が、もっと別の方法があるはずだと道を踏み外す。そういう観方を医療に携わっている人間ほどしてしまいそうだと思った。だが医者の言うことを鵜呑みにし、自ら考えることをやめてしまうのもまた盲信といえないか。

メリル・ストリープ演じる母はそんな盲信に走るのではなく、毎日図書館へ通った。何冊も医学書を読み、てんかんについての知識を習得していった。そしてついにケトン食という食事療法にたどり着く。それも1920年代からの成功事例に。

●医学の進歩は柔軟でオープンな環境から

私自身、コレステロールを下げる薬をなんの説明もなく処方されたことで医者には不信感を持っている。フェノフィブラートとスタチンを次々処方され、それらの薬を拒否して、反コレステロールへの懐疑を口にすると「医学書を読め」と言われた。言われた通りに20冊くらい医学書を読んだ結果、決定的に産業医とは異なる見解に到達した。そういうながれでこの映画を見ているため、メリル・ストリープが図書館で必死に学ぶ姿には共感した。

メリル・ストリープがたどり着いた食事療法、病院で息子の主治医にその博士の著作の話をすると、なんとその主治医もその博士の書籍を持っていた。それも結構好意的なのだ。しかし食事療法の部分だけは全否定してしまうのだ。なぜか。「二重盲検法」での効果が確認されていないからだった。

ここで一般人の私は疑問を持つ。科学的な(統計学的な)証明はまだなくても、栄養学的に論理性を持つ仮説を学んだ患者やその家族が試したいと言っている場合、それを全否定する医者の姿勢は現代医療を全否定する一般人となんら変わるところがない。科学は探究心と機会によって進歩するものだ。このとき医者が一般人を否定する根拠は古い知識か職業人としての医者のアイデンティティ(あるいはプライド)でしかないように思えてならない。

もちろんリスクは伴うだろう。実験台(それも医者自身にとって不本意な)といった感覚になるだろう。だが、これまでの治療方針で治らず悪化していることも事実だ。そんな患者を前にしたときに、もっと謙虚になれないだろうか。

新薬を試す、手術をする、せめてそれらと同レベルに食事療法があってもいい。細々とだが信じて臨床結果を記録し続けている医師や栄養士がいることは救いだが、そういう少数意見にもっと耳を傾けて柔軟に導入すれば、将来統計的にも正しさが証明されるかもしれない。いまは統計をとれる環境すら得られないからいつまでも迷信呼ばわりされるのではないかと思うのだ。

現代医療は製薬業界に牛耳られているからか、できるだけ薬を出そうとする。患者は学ばないものと思っているから、薬を出しておけばいい(思考停止しても薬なら効く)と安易に考えているのではないか。私自身の経験から言えば、先に書いた「医学書を読め(どうせ読まないんでしょ)」とか、「運動もカロリー制限もしないんでしょ(だから薬飲んどけ)」という医師の姿勢に戦慄を覚えるのだ。

また薬に頼らない医療はカネにもならないんだろう。カネにならない患者は見捨てられる米国の医療システムもこの映画の背景にはあった。TPPとともにそんな医療崩壊が日本に輸入されないとも限らない。すべてつながっている問題だと思う。

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2013/03/10

制作52周年の「ティファニーで朝食を」を観る

2年前に制作50周年記念で発売された「ティファニーで朝食を」のブルーレイを衝動買いした。50年前の映画なのでブルーレイに画質の向上はあまり求めていない。もちろん「羅生門」くらいのデジタルリマスター処理がされているなら別だが、それよりも付録の充実こそが決め手になる。

今回の決め手は2つ。まずはオリジナルサウンドトラックCDがついていたこと。サントラCDが付録につく例はあまりないと思う。アカデミー賞歌曲賞の「ムーンリバー」があってこそのアイデアだと思うが、他の映画にもサントラ付きというのは追随してほしい。映画によってはサントラが入手困難なものもあるだろう。

もうひとつは字幕言語にハングルがあったこと。全部で30語の字幕が入っている。まさにブルーレイのメモリー容量を持て余しているかのようだが(笑)、語学学習に名画を使えるのは非常にありがたく、そういうニーズに応えてくれるかどうかは今後の古い外国映画リパッケージソフトには重要な要素だと思う。これは日本映画にも言える。英訳字幕やハングル字幕があればどれだけうれしいことか。

吹き替えについては、日本語(5.1chサラウンド)と英語(5.1chサラウンド ,2.0chモノラル)以外にハンガリー語(2.0ch モノラル)、ロシア語(5.1Chサラウンド)、ポーランド語(2.0chモノラル)、の五か国語が入っていた。旧東欧で人気なのか?今後は韓国語の吹き替えも増やしてほしいところだが難しいだろうか。

日本語吹き替えは池田昌子さんでよかった。やっぱりオードリー・ヘップバーンとメーテルは池田昌子さんですよね。

結局、届いて直ぐにまずサントラCDを聴き、続いて日本語吹き替えにしてハングル字幕で鑑賞した。その後、特典映像を順次みてから、制作者のひとりリチャード・シェファードによる音声解説を聴きながら通して観た。今週末は風が強くて黄砂もひどくて(景色が黄色い!)外に出る気になれなくて...。

●オードリー・ヘップバーンの思い出

子どもの頃、オードリー・ヘップバーンを見て母に似てるなと思っていた。いまでも昔の写真を見ると似てると思う。世代的にも完全にオードリー世代であり、デザイナーを目指していた母はジバンシーも好きだったことだろう。

ボクが実家に転がっていたジバンシーの空き箱に中島みゆきのLPを詰め込んで上京してきた背景には、オードリー世代でオードリーに似た母のジバンシー好きもあったに違いない(笑)。

ちなみに父はヒッチコック映画の常連ケーリー・グラントにクリソツだ。だから妹と「うちの両親は絶対顔で結婚してる」と話し合い、妙に納得した記憶が鮮明に残っている(笑)。そんな両親だったからか、オードリー映画で一番好きなのは「シャレード」だったりする。

子どもの頃はいわゆる名画をテレビで見るのが趣味だった。アカデミー賞映画を一通り見ておくことが教養だと思っていたのだ。当時オードリー・ヘップバーンの映画は古典でもなく、大人たちは世代的にオードリーの虜だったはずだから目にする機会は多かった。

深夜はテレビ放送も県外の局の電波が拾えていた。まだ深夜(といっても2時前くらいまでだが)には映画くらいしかやっていない時代、ノイズとともに県外テレビ局の深夜映画を見ていた。思えば中島みゆきのオールナイトニッポンもノイズとともにあったし、ボクの少年時代はノイズとともにあったといえる。

本当に必要な情報のほとんどはノイズの先にあったのだ。だから画質とか音質などをそれほど気にしないのかもしれない。映画の本質はそこにあるわけじゃないと思う。今でも。

そんな深夜に見ていた映画のひとつにオードリーの「マイ・フェア・レディ」もあった。RKB毎日放送だったかなぁ。当時はテレビで流す映画の吹き替え論争(字幕論争)やテレビサイズにカットすることの是非論争がかまびすしい時代だった。それらを踏まえて実験的に吹き替えでノーカット放送をしていたのが深夜映画枠だったわけだ。

●「ティファニーで朝食を」はやはりムーンリバーに尽きる

そんなオードリー映画のなかでも、「ティファニーで朝食を」はムーンリバーから入った。というより音楽と雨の中で泣いているオードリーの姿しか印象に残っていなかった。あらためて見直しても、基本的には音楽中心の映画という印象以上ではなかった。

ただ、その音楽が桁違いにいい。ヘンリー・マンシーニは常にクオリティの高い映画音楽作家だと思うけど、ムーンリバーはなにか化学物質のように”効く”。1曲があらゆる要素に勝る、そんな映画があってもいい。そんな映画のヒロインがオードリーだったことは幸いだ。

原作のトルーマン・カポーティはマリリン・モンロー推しだったそうだが、それではこのヒロイン、ホリー・ゴライトリーの持つ意志の強さと影の濃さは描けなかっただろう。原作とまったく異なる映画になったことが、この映画を21世紀にまで残した要因のひとつだと思う。

ホリーの隣人で日系人のユニヨシ氏は当時のステレオタイプに描かれた日系人だ。この描写については制作者リチャード・シェファードも大変悔いているようで、音声解説のなかで3回くらい「間違っていた」と言っている。確かに不自然だし浮いている。

特典映像にわざわざ「アジア人から見たユニヨシ」というアジア系の人々へのインタビュー集までつけている。市場性の高い日本への配慮だろうが、スタートレックのジョージ・タケイの映像まで使ってハリウッドの意思を伝えようという涙ぐましい努力が見えた。しかしリメイクしたくてもオードリーの「ティファニーで朝食を」を超えることは不可能だ。歴史的な記録としてユニヨシ氏は21世紀にも残っていくのだ。

日本人としてはそんな残念な描写もある映画だが、それでもジバンシーのファッションとムーンリバーという楽曲によってこの映画は名画といえる。付属のサントラには入っていないいくつものヴァージョンのムーンリバーを映画のシーンとともに楽しむという観方がいいと思う。

冒頭、午前5時のニューヨーク。ティファニーの玄関前にイエローキャブを横づけし、黒いドレスのオードリーが降り立つ。ウィンドウを眺めながら袋からおもむろにパンを取り出す。BGMはもちろんムーンリバー。60年代初頭の空気感、フィルム感、そして映画音楽。映画にはその時代の空気が詰め込まれてる。

オードリーがブルーサンバーストのパーラーギターを弾きながら歌うムーンリバーもすばらしい。制作者サイドはオードリーの歌を心配して「マイ・フェア・レディ」のときと同じ吹き替えも検討したとか、どこかカットせざるを得ず、あろうことかこのシーンもカット候補にあがったとか、いろいろあったシーンのようだが残して正解でしょう。

そしてなんといってもラストシーンですよ。タクシーのなかで指輪を握りしめたオードリーが泣き出すと、マイナーコードに移旋したムーンリバーが流れ始めます。そこから不安感を高めるようなマイナーコードが続くのですが、雨の中で猫ちゃんの鳴き声とともにメジャーコードに転換し本来の「ムーンリバー」となっていくところ。これぞ映画音楽ってところです。

いくつものムーンリバーを聴き比べるにはサントラでは無理で、映画を観るしかありません。ムーンリバーを聴きつくすには映画を通して観ることが必要なんですよねぇ。

●猫ちゃんについても触れとく

この映画はホリーの飼い猫が重要な役割を演じています。撮影は大変だったようです(笑)。でも自由奔放に生きるホリーは犬でも鳥でもなくやはり猫を飼うものなんですね。

ボクは相手役の“ポールという名の作家”にも個人的に親近感を覚えますが(笑)、生き方としては断然ホリーに惹かれます。何物にも縛られない、愛にさえも縛られないで自由に生きる姿に。しかしその苦しさや身勝手な寂しさにも共感を覚えます。

映画の主張としては、そういう自由奔放さはなかば否定されてしまうわけですが、それでもきっとホリーの数年後は本当に(原作の回想のように)アフリカに旅立ってしまいそうな妄想をしてしまいます。

そんなホリーの生き方と名もなき猫の生き方とはダブるところがありますね。ただし猫は決して自由ではない。自由でないことこそ幸せなんだという主張はここにも顔を出します。自由になった猫もホリーも一瞬で“つかまって”しまいました。

映画としてはそれが感動につながるんですけれど、自由を謳歌するホリー・ゴライトリーをこそ愛したいという思いが強いです。自由になるために名前を変えて生きる土地を変えておしゃべりで突拍子もなくてとらえどころがない社交的な女性。そこにある断絶こそが僕の理想とする女性像です。屈折してるけどここに妥協はないです(笑)。

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2013/03/09

WBC台湾戦はすばらしかった!

正直、ボクがプロ野球を語るなんてことは、これまでの人生で考えられないくらい想定外なことなんだけど(笑)、さっき終わったWBCの台湾戦はまさに手に汗握る試合だった。選手の名前とか全然知らなくても食い入るように見てました。とりあえずそのツイッター記録。裏番組は日本アカデミー賞授賞式(だったらしい)。

野球も面白いな。普段あまり見ないけど今日の試合はグッと来る。
posted at 23:09:49
 
中居くんに言われなくても見てるし。
posted at 23:10:33
 
テレ朝は解説人も充実してるからいい。某局より明るいしw
posted at 23:11:41

野球と映画以外のことつぶやきたい!けど思いつかないw
posted at 23:15:48
 
台湾ベンチに加藤茶が座ってた?
posted at 23:21:23
 
そんなこといってるばやいか!
posted at 23:21:38
 
@Ryokoak 一瞬だったけどw
posted at 23:28:17
 
好きなドラマがあるときは野球中継の延長ほど嫌いなものはなかったがな。昭和のはなし。
posted at 23:29:15
 
10回裏のこのタイミングで黒田龍之助先生の新刊告知するなんて>三修社w 試合が終わるまで予約はお・あ・ず・け!
posted at 23:40:03
 
すげー!勝った。あそこから勝ったのはすごいねばりだ。
posted at 23:45:02
 
帰りの電車も延長してやれよ!
posted at 23:45:43
 
水島新司先生でも書けない!#wbc RT: @simpmis 誰やねん!誰がこんなシナリオ書いてんねん! 凄すぎ!!
posted at 23:50:59
 
公共交通機関、もうちょっと融通きかせようよ。想定内じゃん。そんなんじゃオリンピックも呼べないよ。 #wbc
posted at 23:53:40

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2013/03/02

ThinkPad E130でradikoを録音する方法

オールナイトニッポン45周年記念の45時間スペシャルで千春やみゆき、谷山浩子の番組を録音しながら聴いていたと思っていたが嘘だった。録音失敗!がーーーん()。完全に無音の1GBのwavデータが数個作られただけだった。

なぜ失敗したのかをすぐに突き止めた。新しいノートパソコン、もっといえばWindows7以降の廉価版ノートPCにはそのパソコンから出てくる内部音をそのパソコン自身で録音する機能がどうやら削られているようなのだ。ThinkPad E130もしかり。気づいたときは遅かった。

しかし4月から月イチで始まる中島みゆきのオールナイトニッポンまでにはなんとしても録音可能にしておかねばと思い、ツールを1つ購入して、なんとか録音可能となった。

同じような悩みを持つ人もいることだろうと思い記録しておくことにした。方法は2通り考えられる。

一番簡単なのはヘッドフォン端子があるので、そこからステレオミニプラグで他の録音機器につなぐという方法がある。時間的余裕がないときにはとりあえずこれで何とかなる。私の場合はZOOM H2を持っているのでそれにつなげばいいだけだ。

もうひとつが今回成功した方法。こちらはThinkPad E130にCreative Sound Blaster X-Fi Go! Pro USBオーディオインターフェース をつないで「再生リダイレクト(ステレオミックス)」という機能を手に入れることで可能になる。

再生リダイレクトというのは昔のパソコンには当たり前についていたんだろう。だから今回も録音ソフトさえあれば同じように録音できるものだと思い込んでいて失敗した。パソコンから音が鳴っているのに録音できてない。普通は録音ソフトを疑うがそれは冤罪だった。ハードウェアの問題だったわけだ。

USBオーディオインターフェースをノートに挿しただけでとりあえず使えるようだったが、再生リダイレクト機能を使うには別途プログラムをインストールしなきゃならない。CD-ROMが付属しているがThinkPad E130にはCD-ROMトレイがない。外付けCDリーダーを買うつもりもない。

万事休すかと思ったがCreativeのWebサイトのサポートページにあるドライバとアプリケーションをダウンロードしてインストールしたら再生リダイレクト機能が追加できた。

再生リダイレクトを使うには、コントロールパネルの「ハードウェアとサウンド」で「オーディオデバイスの管理」を選ぶ。

ちゃんとインストールできていれば、そこの再生と録音の両方のタブに「SB X-Fi Go! Pro」が表示されているので、それらを右クリックして両方とも「既定のデバイス」にする。似ているが「既定の通信デバイス」ではないので要注意。録音のほうには「再生リダイレクト」という文字も表示されていた。まさにこれが欲しかったんだよ~。

これで完了だ。これによってそのノートPCのスピーカーからは音が出なくなる。しかしUSBオーディオインターフェースにイヤホンをつなげばそこから音が出ていることが確認できる。そこに外部スピーカーをつないでもいい。私は以前購入していたmaxell タイムドメインスピーカー MXSP-4000.TDをつないだ。いい感じだ。

録音ソフトはどれでもいいと思うが、使い慣れている仮面舞踏会を使っている。それと当たり前だが、radikoを録音するなら、radikoガジェットをインストールするなり公式サイトを表示するなりして、再生しておく必要がある。再生音量はゼロでも構わない(内部的には鳴ってるから)。また他の操作音(ピーとかブーとか)も内部音なので録音されるから、そういうのがいやな人は、録音中はメーラーなどを閉じPCをさわらないことだ。

そしてもっとも重要なことは、どんなソフトでもハードでも、事前に試してみることがもっとも重要だってことだ()。せっかくこういう環境にしても、録音時に「既定のデバイス」に設定し忘れていれば同じことだ。事前の点検作業が重要なのだ。と言い聞かせておこう。自分自身に...。

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