google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2013年1月

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013年1月の7件の記事

2013/01/26

ThinkPad 購入

注文していた ThinkPad E130が届いた。いまそのノートで書いている。ノートブックとしては3代目になる。最初に買ったノートはThinkPad 230Csという小さなノートブックPCだった。1994年のことだ。

ThinkPadというブランドは当時IBMのノートとして大ヒットしていたが、そのなかでも日本人らしい細やかな設計思想から生まれた小さなモデルの230Csはとても魅力的なパソコンだった。

2代目のノートはパナソニックのLet's Note R4というこちらも小さなノートで、いまでも現役で使っている。正直買い替える必要もなかったのだが、WindowsXPのサポート期限ももうすぐ切れるだろうし、いまどきのノートがどんなもんか使ってみたかった。

しかしもっとも大きな動機は、ThinkPadブランドができてから昨年(2012年)が20周年だったことだ。ThinkPad230Csの20周年は来年(2014年)なのだが、まぁその記念という気分で購入した。

3代目もできるだけ小さなノートブックが欲しかったが、いまやちょうどいいサイズのノートブックはほとんど市場に出回っていない。E130は11.6インチディスプレイなので現行のノートのなかでは小さいほうだが、それでもやはりちょっと大きい。

かといって今はやりのタブレットじゃ仕事にならない。社会人としての私を支えてくれたのは小さなノートブックだったし、ThinkPadのキーボードには定評があり信頼できる。これがベストだと思った。

ThinkPadはビジネスモデル感が強いからか量販店などではあまり見かけない。今回もせっかくだから実機を見ておきたいと思ったがついに見つからなかった。結局ブランドへの信頼感(と20周年記念)で選んだ。

直販のカスタマイズモデルより楽天モデルのほうが同等レベルにしてもずいぶん安かったのとポイントも溜まっていたのでレノボ楽天市場店で購入。思いのほか早く到着してうれしい。

Officeバンドルモデルにした。これも無いと仕事にならないが、あまり話題になることもないONE NOTE 2010にも興味があった。クラウド型のノートアプリがちょうど欲しかったので、ワンノートを使ってみたいと思って。

5年ぶりのノートブックですべてが新鮮(笑)。もはやOfficeとブラウザ、MT4、それと基本的なアクセサリ類。それだけあれば他のアプリなんてほとんど必要ない。シンプルに使えるノートはやはり小さいものがいい。

| | | コメント (1) | トラックバック (0)

2013/01/22

岡田惠和オリジナル脚本!「泣くな、はらちゃん」

日本のドラマも、いいな(笑)。韓流ドラマの合間をぬって見始めたなかの一本が日テレちゃんの土曜ドラマ「泣くな、はらちゃん」だ。岡田惠和さんオリジナル脚本だ。いやーやってくれるな日本テレビ!ありがとう!

ボクは押しも押されぬちゅらさんファン、通称“ちゅらオタ”だ。とはいえちゅらさんからもう12年になろうとしている。それだけじゃなく岡田脚本フリークといっても過言じゃない。そもそもは1999年の「彼女たちの時代」の衝撃が大きい。それ以来、明暗のふり幅の大きな岡田さんの世界観が大好きなのだ。そして今回の「泣くな、はらちゃん」の第一回を見るにつけ、岡田脚本らしさをビシバシ感じたのであった。

その岡田脚本らしさが全開で楽しめるのは、やはりオリジナル脚本という大英断が大きい。まんが原作全盛の時代にオリジナル脚本で勝負。うれしいなぁ。

内容もキテレツだ。かまぼこ工場で働く人見知りな越前さん(麻生久美子)は、その性格ゆえに言いたいことも言えず不平不満が溜まるのだが、そんな気持ちを大学ノートに描く自作まんがの主人公に託してまんがの世界でストレス解消している。そんなまんがの主人公がひょんなことから現実世界に飛び出してきた。そして越前さんが不幸なままでは自分のいるまんがの世界が暗く殺伐としていくと危機感を抱き、なんとか越前さんを幸せにしようとするのだが...。

この越前さんの自作まんがの主人公がはらちゃん(長瀬智也)だ。まったくここから先のストーリーが読めない(笑)。まんがの世界は居酒屋でそこに仲間が数人いる。彼らはこの居酒屋だけが世界のすべてだ。そしてはらちゃんが飛び出してくる現実世界も昭和な感じの港町。2つの世界を行き来するはらちゃん。岡田さんの好みがはっきり出た2つの世界。それらが今後影響しあって行くのだろうか。

脚本のハコ書きをしないといわれる岡田惠和さんだが、この越前さんの自作まんがもまさに行き当たりばったりだ。日々の不平不満を書き連ねるまんがだから。しかし魅力的なキャラクターが自分たちで物語を生き始めるに違いない。ドラマそのもののストーリーの先行き不透明さにプラスして越前さんのまんがの行方もまた気になる。

越前さんの自作まんがは好き勝手に描け、また現実世界での危機を瞬時に回避できるオールマイティなツールともいえるから、ドラマの展開を無限に広げることも出来そうだが、それが逆にご都合主義に見える場面があるかもしれない。どう上手く使われるかも見どころか。

●奥貫薫と麻生久美子は出会うのか!?

そして女優陣。まさにオレら世代のドラマ好きを惹きつける布陣だ。薬師丸ひろ子がかまぼこ工場のパートリーダーだよ。しかし2つの世界の関係性にも気付きそうなキーパーソンにもなりそうだ。そしてまんがの世界に奥貫薫、現実世界に麻生久美子と絶妙のバランス。

奥貫薫といえばこのひとくちメモではある意味常連(笑)で、不幸な正妻を演じさせたら右に出るものが無い(木村多江が同格)という評価が固まっている(勝手にオレが固めているわけだが)。そもそもそんな評価は「彼女たちの時代」や「銭ゲバ」という岡田脚本によって固まったのだ。

そんな奥貫薫が今回はちょっと影のある女役だ。まだどうにでも転がせそうなポジションであり、ぜひ現実世界に出てきて麻生久美子と出会って欲しいなぁ。

麻生久美子について、ひとくちメモでほとんど触れてなかったことに自分で驚いた。こんなに好きなのに!麻生久美子といえば映画「インスタント沼 」を見ておかなければならない。日本人として見ておくべき3大麻生久美子の一本だ(笑)。後の2つは「時効警察シリーズ」と「泣くな、はらちゃん」にしておこうか。しかし何といっても「インスタント沼」だな。

「インスタント沼」で麻生久美子はジリ貧OL役だった。今回のドラマともある意味同じ路線だ。本当は美人なのにイケてない女を演じさせたら右に出るものがない(ダントツで!)といっては失敬すぎるが、その存在感はまさに“掃き溜めに鶴”的空間を演出する稀有な女優さんだ。間がいいんだろうな。

奥貫薫と麻生久美子。こうして並べて書いているだけで興奮する(笑)。飛車角って感じだ。薬師丸は、そうだな、飛び道具という意味で桂馬かな。そんな女優陣がこれからどのような働きをしていくのか、もう楽しみで仕方がない。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/01/21

欽ちゃんの運命論再考

ひとくちメモでは2006年2010年と2回ほど欽ちゃんこと萩本欽一の運命論について書いたことがある。どちらもその主旨はテレビという特殊な世界を生き抜く指針として「欽ちゃんの運命論」はあると考えてきた。いわば「特殊欽ちゃん運命理論」だ。

しかし帰省からの帰りに購入した新書『ダメなときほど運はたまる』を読むにつけ、欽ちゃんの運命論は“運”を中心にすえたひとつの規律に貫かれたもので、あらゆる生活の場面を支配していることがわかった。いわば重力のある世界だ(笑)。そこでこれを「一般欽ちゃん運命理論」と命名し、再考してみようと思った次第だ。

欽ちゃんはさまざまな仕事をしてきたが、基本は5年計画だという。もちろんその仕事に“運”がないとわかれば初期の段階で打ち切ることもある。相場格言でいうところの「損切りは素早く」のようなものだろう。

その“運”を決めるのはスタッフや自分自身や家族の私生活での幸・不幸だったりする。相場で言えば幸・不幸のチャートでブル・ベア判断するような感じだ。そして欽ちゃんは不幸の中に光を見つけてその不幸に投資する。そして成功というトレンドを形成していくのだ。低位株投資法のようだ。テレビ界のバフェットと言っても過言ではない。

●従うべき指針を“運”と呼ぶ!

運命論のもとになるのは欽ちゃんが“運”と呼ぶ感覚だ。“運”は各人の行動や考え方によって溜まったり失ったりする。お金のようなものだが、その溜まり方や失い方は目に見えない。そして日常生活のあらゆる局面でこの“運”は変動する。

相場の話に似てくるのは必然的だ。それは予測の出来ない現在、そして未来を生きるための知恵と規律(ディシプリン)によく似ているからだと思う。考えてみれば相場やテレビの世界だけでなく、世の中には常識の通用しない局面が多々あり、その荒波のなかをどう航海していくかは人それぞれ違う。

しかし一つ共通しているのは、自分なりのルールを厳格に守れる人しか成功しないということだ。そのルールは必ずしも誰にでも当てはまるものじゃない。ほとんどお呪いのような場合もある。だが生き方において何が正しいかを突き詰めると、その根拠はお呪いのようなものだったりする。

例えば倫理や道徳というある種の“常識”が社会にはある。倫理も道徳もその絶対的な根拠はわからない。それを突き詰めようとしている学者もたくさんいるだろうが、現代社会の倫理や道徳が100年前または100年後に通用する保証はどこにもない。

それでも現代社会はある種の規範・規律・公共といった思想を教育し、同時代的な倫理や道徳を“常識”と呼んでみたり法律に盛り込んだりしながら世の中をなんとか運営している。大なり小なり誰もがこの空気を読みながら生活している。

時代が変われば世の中の常識は変化する。戦闘の最前線の“常識”が博愛でないように、時と場合によって生きていくための思想は変化する。絶対の根拠などないのだ。

●“運”という物語は欽ドン賞である

欽ちゃんの“運”は世間の常識の外にある。しかし欽ちゃんにとってこの“運”は絶対的な存在であり規律だ。もちろん解釈する主体としての欽ちゃんのさじ加減ひとつのように第三者には見える。しかしこの運命論こそ常識を突破できる者だけが持つ嗅覚のようなものではないだろうか。

選択肢が複数あり、どれかに決めなければいけないが絶対的な根拠などない場合、占いに頼ってみたり、サイコロを振ってみたり、過去の履歴に軽重をつけて優位性を見出してみたり、家族や仲間や恩師に聞いてみたり、様々なことを行って人はなんらかの判断をする。絶対の根拠がないときにも選択はでき、その選択をした判断の根拠らしきものは何かあるはずだ。

常人はその根拠が毎回異なる。なんとなく選んでしまう。しかし欽ちゃんはあらゆる局面を“運”というフィルターを通して判断するのだ。常に“運”について考えているからこそ独特の勘が働く。それが正解なのか不正解なのかが問題なのではなく、どんな結果になってもその“運”に従うという規律の存在こそが重要なのだ。

欽ちゃんが“運”で判断するとき、その“運”は必ず物語を携えている。非常に美しい物語が“運”には不可欠なのだ。あたかも欽ちゃんがいくつもある選択肢というハガキを読みながら、もっともすばらしい“運”の物語に欽ドン賞を与えているかのようなのだ。

●“運”がポジティブ・シンキングのキーワード

それがウケればそれでいいし、ウケなければ素早く切る。美しい“運”の物語が続く限りその“運”に導かれた仕事は成功しているといえる。もし物語が途絶えたなら、そこからまた次の物語を探す、つまり“運”を溜める生活に入っていく。

不幸のなかで“運”は溜まり、その環境をすねたりせず受け入れることで“運”はさらに溜まる。これって一種のポジティブ・シンキングじゃないか。“運”という抽象的な言葉を使いながら、常にポジティブに前向きに生きる方策が「一般欽ちゃん運命理論」の核だと思う。

一般人が運がいいとか悪いとか言うときは、その運は100%偶然性に左右されていると考える。しかし欽ちゃんは違う。“運”は苦労した人間により多く溜まると説く。この恣意性は“運”についての一般常識から外れている。人生は“運”で決まるといいながら、欽ちゃんの言う“運”は一般人からすると非常識な“運”なのだ。

偶然性に左右されるどころか日常生活のつつましさや実直性、素直さ、謙虚さなどによって人の“運”は左右されると説いている。これはもうお寺の和尚さんの説教に近い。にも関わらず、その“運”が判断の決め手になるときには、恐ろしく独特な解釈なのはなぜだろう。

それはやはり天才的なストーリーテラーとしての萩本欽一が誰にも描けない“運”の物語を紡いでいるからだと思う。タロットカードの絵解きにも似ている。スピリチュアルとまったく無縁なボクが欽ちゃんの運営論を好きな理由もそのあたりにあるような気がする。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/01/13

「信長のシェフ」で志田未来の成長を喜ぶ

テレビ朝日のドラマ「信長のシェフ」を見始めた。最近は23時以降の日本のドラマがにぎやかで、時間帯ではドラマの主戦場といった感すら漂っている。多少冒険の出来る時間帯だからだと思う。

戦国自衛隊の大ファンで糖質制限ダイエット中の身で、ジャニーズに一家言ある(?)我が身としては、戦国時代へのタイムスリップもので流行りのグルメちっくな要素を盛り込んだジャニーズ物件とあらば、一刀両断に切り捨てるという手ももちろんあったわけだが、なんだか期待出来そうな第一回だった。

その大きな期待は志田未来にあるといってもいいかもしれない。志田未来。ひとくちメモ的に懐かしい響き(笑)。前回はいつ書いたか検索すると、2009年の「小公女セイラ」だった。

あれから3年2ヶ月もの間、志田未来がこのひとくちメモに登場していなかったなんて!その後もコンスタントにドラマ出演していたはずなのに。なぜかといえば、ワタクシメがただ韓流にはまっていただけなわけだが。

「信長のシェフ」の謎の女(香椎由宇)を見てKARAのジヨンに見えてしまうレベルのオレだが、そんなオレを日本のドラマ評にゆり戻した女優はやはり志田未来だったということかもしれない。ま、ちょっと前に「東京全力少女」についても書いてるから武井咲と志田未来かもしれない、と訂正しておこう(笑)。

知らないうちに19歳になっていた志田未来。今年は20歳になる。なんだか感慨深い。19歳というのは女優にとって特別な年だ。キムヨナと浅田真央のもっとも輝いたのがちょうど19歳のときだった。女優じゃないけど(笑)。

もう子役とは呼ばせない志田未来。昔から子役として見るには演技が突出していたので、非常にドラマ批評のうえで難しい存在だったわけだが、19歳ともなればひとりの役者として素直に評価しやすくもなるだろう。

「信長のシェフ」では刀鍛冶の青年(を装う女)の夏を演じる志田未来。女なのに男の格好をして戦国の世を生きているなかなか難しい役だ。男装はジャニーズファンからの嫉妬回避策ではない(?)。そのちょっとねじれた役どころが志田未来の縦横無尽の活躍を期待させる。男の演技と女の演技との使い分けも今後出てくることだろう。

セリフも多い。主役級を多くこなす志田未来なのでもともとセリフは多いのだが、今回は快活な役だからこその多弁な感じがうれしい。影の多い役では見れない志田未来の快活な演技を堪能できる。

メインキャストに女性は3人しかいない。ひとりは忍者でひとりは回想シーンの謎の女。セリフの多い女優は志田未来だけのドラマだ。そんな女優の少ないジャニーズ物件の戦国時代劇だが、だからこそ志田未来レベルのパワーが必要だと思う。

志田未来のドラマは昔から志田未来だからこそ見てきたわけで、韓流から舞い戻った私は今回も志田未来の一挙手一投足に日本ドラマの未来を見たいと思っているのだ。志田未来,파이팅!(>ここだけ韓流)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/01/04

糖質制限目線で読む新書『「医療否定」は患者にとって幸せか』

正月に書店に行くとついついいろんな本を買ってしまう。書籍は重くて実家から埼玉に戻るとき荷物になるから出来るだけ軽い本にするよう心がけているのだが、軽いと思って油断すると冊数が増えていく。電子書籍になればこういう偶発的無差別衝動買いは少なくなるかもな。重さが関係ないのに逆説的だ。

そんななかでさっき購入して一気に読んだのが『「医療否定」は患者にとって幸せか』(村田幸生著)という新書だ。平積みされていたので目に付いた。現場の医師がまったく感謝もされず否定され続けているという被害妄想チックな内容だった。

私の場合は特に糖質制限という流行に乗って(笑)、抗コレステロール薬否定派で、在宅看取りを広める中村伸一院長応援派なので、この著者とは真っ向から意見が合わない。著者は日本動脈硬化学会に所属しているため、そのことは読む前から予想できた。そういうバイアスを自覚しながら読ませてもらった。

この新書がもっとも重点を置いている部分は在宅医療や末期医療における自然死願望の否定だ。だからそこに対して書評すべきかもしれないが、個人的にはその部分以前にいくつかの疑問点があったので、そちらを書いておきたい。

●古すぎる食事療法への認識

とくに「第2章なぜ真逆な『医療常識』が、まかり通るのか?」の部分に不満が残った。もっとも大きな疑問は食事療法についてあれこれ述べているにも関わらず糖質制限食について一言も言及していない。白砂糖について「薬がわりどころか、悪者扱いされ、『制限』の時代が来るとは。」と嘆くに留まっている。

この新書は2012年12月10日初版であり、食事療法で糖質制限食に触れないのはあまりに世情に疎い。というよりあえて避けているようにも思える文章の運び方なのだ。

この著者による食事療法への批判の根拠は、いわゆるフードファディズム的な健康食材批判に終始している。ある食材がいいと聞けばそれに異常反応しそればかり食べるとか、健康にいい食材を妄信してしまうような食事療法批判ばかりであり、そういうものの効果は内科医として「わからない」と言っている。

ここが圧倒的に古い。白砂糖を擁護しようとする(あるいは白砂糖の害を説くことを揶揄する)くらいだから、糖質制限食についても言及できるはずなのにそれをやらず、フードファディズム批判という一昔前のくだらない健康食ブーム批判を繰り広げている。

いまの糖質制限食ブームはまったく違う。ブームの火付け役ともいえる江部康二先生は2002年から自分自身の糖尿病と戦うために糖質制限を採用した。もう10年間続けていて一生続けるそうだ(というかそれが普通の生活になっている)。また江部先生の高雄病院での治療実績やその著書に触発された人々が糖質制限食を取り入れて短期間で効果を出している事実があり、それは民間療法といったものではなく、人体の代謝システムと栄養学を土台とした論理的な方法だ。そこへの批判や言及なく、世の中のフードファディズム的な健康ブームを嘆くのは2012年12月出版の書物として説得力がなかった。

●コレステロール論争への反論も古い

同じ章で「『コレステロール値は高いほうがいい』論争、双方の言い分」という見出しのもと、日本動脈硬化学会の反論の声明文はなぜか新聞に載らないなどと不当な扱いをされているようなポーズを見せながら、その主張を提示している。

これも驚いた。2012年12月10日初版の書物である。すでにこの反論に対しては、日本脂質栄養学会から再反論が提出されているのだ(公開質問状のPDFファイル)。いま出版する新書であれば、その再反論に対して新たな反論を試みて欲しかった。

すでに時代は前進しており、自治医大のコホート研究によってバイアスの少ないコレステロール論争が幕を開けようとしているタイミングなのだ。そこに両論併記ですらなく、再反論された元の主張をただ繰り返しても学ぶ姿勢のない医師だなとしか思えない。あるいは会員風情で大御所の再々反論が出る前に出すぎたマネをすべきでないという保身が働いたのかとすら思ってしまった。もしそうなら大御所の再々反論の紹介だけでもしてもらえれば新情報であり得たと思う。

世の中には「血圧は下げなくてよい」「コレステロール値は高いほうがいい」などという本のオンパレードとの記述もあるが、被害妄想とはこのことで、世の中の主流は確実に「血圧を下げなさい」「コレステロール値を下げなさい」である。

低すぎるコレステロール値の人の死亡率が高いという学説は2010年の「長寿のためのガイドライン」(概要のPDFファイル)で注目され始めた新しいものであり異端視されているのが現実だ。おそらく日本の医学会では「コレステロールを下げる薬は無意味」という側はまだまだ圧倒的に不利な状況にある。

特に産業医が反コレステロール派の場合、違う新しい学説を信じたいといって投薬を拒絶した場合、それが事業者に伝わりそこから注意喚起される。これがエスカレートすると給与や賞与による差別も始まる世の中なのだ。ソニーのように産業医が解雇の幇助まで出来てしまう時代なのである。そのような権力に対して異なる学説で戦うのは非常に困難な社会構造であろう。まさにフードファディズムに似たメディスン・ファディズムのような世の中になろうとしているのだ(ちょい被害妄想ちっくに言えばね)。

●かわいそうなお医者さん

糖質制限食への無言及、コレステロール論争での被害妄想、それらを踏まえてからの自然死願望否定論である。とくに中村仁一医師の昨年のベストセラー『大往生したけりゃ医療とかかわるな』への攻撃が多い。というよりベストセラーへのやっかみを本にしたようなものだ。こういうコバンザメ商法本はかならず出てくるものなので、それはそれで面白いとは思う。

その本流の部分よりも、著者の出版に向かう細かい心根の部分にどうにも解せないところが残ってしまうのは、おそらくここまでの前段の章にある種の“書かない嘘”的ないやらしさを感じてきたからだろうか。

中村仁一医師や『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』の著者石飛幸三医師、『がん放置療法のすすめ―患者150人の証言』の近藤誠医師などベストセラー医師は名指しで批判する。売れっ子作家のリリー・フランキー氏や映画化された『神様のカルテ』作品に対してはひがみ根性にあふれた言説を繰り返す。香山リカ氏(こちらもベストセラー作家の医師)に対してはちょい上から目線で特殊事例として分析してみせる。荻原浩氏の『誰にも書ける一冊の本』は何度も引き合いに出して医者への感謝の気持ちが欲しいといいたげな泣き言だ。

その気持ちはわかる。患者やその家族は物語を欲していて、医者は常にその美しい物語を邪魔する存在になっているという考え方も当事者からすればあるだろう。オレだって反コレステロール派の医者には反面教師として感謝はしているが信頼は出来ないし、さまざまな怒りを医者にぶつける患者もきっと多いんだろう。かわいそうなお医者さんだと思う。

いろんな有名人を名指しで批判しているわりには、「病院は“癒しの場”でなければ」といろいろな本のなかで述べている作家を批判するときは「有名な作家のI先生」とイニシャルで逃げている。そこは書けないのか。なぜだ?権威に弱いのか。こういうところに被害者妄想の裏側にある“書かない嘘”根性が透けてみえる。かわいそうなお医者さんだと思う。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/01/02

薬より食事の質を高めよう~コレステロールという指標の扱い方(私家版)~

昨年末から読み始めた『コレステロール 嘘とプロパガンダ』(篠原出版新社)をほぼ読み終えた。ミッシェル・ド・ロルジュリル先生(フランスの心臓専門医かつ栄養学者・国立科学研究センター「CNRS」正規研究員)の著作を日本脂質栄養学会理事長の浜崎智仁先生が訳された労作だ。

浜崎先生はこの翻訳の原稿料も印税ももらわないという。いわゆる“コレステロールを下げる薬”を推進する医者(学会)と巨大製薬会社との利益相反を告発する書物であるためだ。2009年6月初版で2011年8月に2刷が出ている。もっともっと多くの人に読んでもらいロングセラーになって欲しい。

浜崎先生が理事長をされている日本脂質栄養学会は「コレステロールは薬で下げる必要がない」という学説で異端視されながらも孤軍奮闘している。多少野次馬的な感覚でもコレステロール論争は非常に面白いテーマだ。日本脂質栄養学会のWebサイトこれまでの経緯が読める。同学会が発表した「長寿のためのガイドライン2010」で日本動脈硬化学会批判をしたことで話題になった。

論争そのものが2010年に勃発したくらい新しいテーマなので、いまのところ通常の内科検診(血液検査)でコレステロールが高ければほとんど自動的に下げる薬を処方される(ただしその“高さ”もいわゆるメタボ検診という疑問の多い指針を基準にした高さでしかないが)。

自動的に処方されるというと語弊があるかもしれないが、私自身はなんのリスク説明もないまま「どうせ運動もなにもしないんでしょ」という捨て台詞とともにリピディル(フェノフィブラート)やリピトール(アトルバスタチン=ストロングスタチン)を次々処方された。

薬名のリンク先の副作用欄を見れば説明の必要な薬だということは誰でもわかると思う。ただし何の有効性もない薬だということまではわからない()。ここでいう有効性とは「コレステロールは確かに下がるけれども、それが治療になってない」という意味だ。

●コレステロールを下げても無意味。津波が警報機を切っても止まらないように

野次馬的にはスタチン業界のデータ改ざんや意に沿わないデータの隠蔽をする巨大製薬会社と、多額の研究費やお手盛り旅行などを受け取り製薬企業に都合よくバイアスのかかったデータ評価をしてしまう医師との癒着問題も面白いのだが、薬を処方されてしまった身としてはその薬に意味があるのか無いのかがもっとも重要だ。コレステロールが悪玉でなければ悪玉は何なのかを知りたいわけだ。

コレステロール 嘘とプロパガンダ』第五部にそれが書かれていた。この本だけでなく『コレステロールの欺瞞―「悪玉」コレステロールは作り話』(ドイツで26刷のベストセラー)や『コレステロールと中性脂肪で薬は飲むな』(医師でデータ解析の専門家・大櫛陽一先生)などもあわせて読んだ。

「悪いのは悪玉コレステロールです」といった風に、「悪いのは●●です」と簡単に結論がだせればいいのだが、動脈硬化など疾患の要因はコレステロール以外の複数因子が絡み合ったりしているので「これだ!」というのが難しい。そこでそれらの要因群をとりあえず一括してZ因子と呼ぶことにする。上記の書籍ではZ因子がコレステロールと無関係であることを丁寧に検証していくのだが、それは本書に譲るとして概要はこういうことだ。

Z因子という悪の軍団がいて、こいつが動脈硬化や血栓を起こすのだが、同時にコレステロールも変動させるのだ。つまりこいつが血管に悪さをすると、それとは無関係なところでコレステロール値も上昇することが多い。このときZ因子に注目せずに血管の欠陥とコレステロールとに因果関係を見つけてしまったことが悲劇の始まりだ。

私の素人考えでは、このときコレステロール(特にLDLコレステロール複合体)は修復に向かうため体内で多く作られているんじゃないかと思うが、それはたぶんまだ検証されていない。しかし細胞の修復を担うのがLDL複合体である以上、その相対量が増えるのは理にかなっていると思う。

いずれにせよ、コレステロールを下げる薬は確かにコレステロールを下げる作用がある。しかしそれは単にそれだけのことであって、根本的な治療にはなっていないということだ。悪の軍団Z因子という真犯人が他にいるのに捜査本部たる医師はコレステロール犯人説に凝り固まって簡単に抗コレステロール薬を処方する愚を犯す。

その間に何が起こるかといえば、粥状動脈硬化の進行だったり冠動脈の血栓形成だったりする。コレステロールを下げても上げても、そんなことはどーでもいい話だからだ。だからこれだけ薬を飲まされていても心筋梗塞も減らないしいくつもの研究で総死亡率に差が出ないわけだ。逆に下げすぎると身体全体は衰弱する。細胞壁を作る材料のコレステロールを減らすんだから当然だ。字義通り“身を削って”無意味な薬を飲まされているわけだ。

閉塞性粥状動脈硬化巣にコレステロールがあったとして、どんなに多く見積もっても10%レベルだという。コレステロールのプラーク(病巣部)が動脈の中にあるという人は、無能か、間違った情報をつかまされた人か嘘つきだとまで断言されてしまってる。

同じ研究結果を見ても、その手順の正確さや利益相反の有無や開示データの透明性についての厳格さを問うか否かの違いなので、どちらを信用するかは両者の言い分を各自で検討してみるしかない。巧妙に隠された偽薬群のデータが開示されてないとか、総死亡率に触れずに有利なデータだけで結論付けているとか、医者でも騙されるんだから難しいが、それを告発している書籍群とともに読むことで多少は見えやすくなるかもしれない。どの医者がどの製薬企業からどれだけ研究費等をもらっているかまではなかなかわからない。情報開示しているかどうかをチェックすべきだ。産業医に聞いてみようかな?

ただ現在はコレステロール以外に簡単に異常を見つける手段がないのかもしれない。コレステロールと悪のZ因子に因果関係があるならば、コレステロールがある種の指標にはなり得る。コレステロール値が一種のアラート(注意喚起)になる。だからといってコレステロールを直接的に下げてもどうにもならない。主原因であるZ因子をなんとかしないことには、コレステロールが下がっても意味がないからだ。指標をゆがめるような行為は津波警報装置の電源を切るようなもので怖い。

コレステロールは人体のあらゆる細胞の原料であり、LDLコレステロール複合体の減少は肉体の衰弱に直結してしまう。各種ホルモンへの影響は『コレステロールの欺瞞―「悪玉」コレステロールは作り話』に詳しい。とにかく常識が覆されてしまうところがエキサイティングだ。

●結局、糖質制限という解答に行き着く

細胞を作るコレステロールを減らし、カロリーオフで筋肉を作るたんぱく質をも減らし、その割に炭水化物(糖質)を食事の60%も摂らせて過度な運動をさせる。食後血糖を上げておいて運動で落とすというハツカネズミのような生き方のススメは血管に確実に悪影響だと思う。体内にバブルを起こしては下落させるようなものだからだ。

私なら「殺す気か!」と怒って当然だと思うが従順な紳士・淑女は怒らない。おそらくコレステロールしか指標がないために、その指標を下げればなんだか良くなっている気分にはなれるからじゃないか。医者もそれを下げることが目的化しているのでそこしか見なくなる。お互いいいことづくめだ。まるで中学校の中間テストの成績だけで人生バラ色といっているようだ。

だがリアルな病状は進行していくので一生薬漬けのいいお客さんになる。それで丸く収まっていれば問題ない。薬を飲み続けることが幸せへの鍵だと思う。

ただしコレステロール低下薬には発ガンリスク、筋肉融解リスク、認知力低下リスク、肝機能障害リスクも報告されているので無害というわけにはいかないようだ。副作用は誰にでも多かれ少なかれある。だから無用な薬と副作用とのバランスを取る人生を選ぶか、Z因子の低減と健康とのバランスを取る人生を選ぶかはよく考えたい。

個人的には指標としてのコレステロールに介入する薬剤はいっさい拒否し、糖質制限によってバランスを取る人生を選びたい。その結果、多少高コレステロールでも糖尿病にならない、つまり合併症を起こさないように注意するほうがよっぽど有益だと思うのだ。

それでも薬が必要な人はそれでいいとして、Z因子に注目した場合、不整脈や心筋梗塞、動脈硬化が起こるリスクと向き合わなきゃならない。その3大原因は、喫煙、糖質の取りすぎ、慢性ストレスだろう。まぁちょっと譲って運動不足を入れてやってもいい(笑)。これらを改善することが最重要であって、コレステロール低下薬はいうなればお守りだといえる。それもかなり危険を伴うお守りだ。介入されたらZ因子発見シグナルが出なくなるわけだから。

糖質制限食というのは食費がかかる。いまや外食産業は粉モノ業界が大盛況で、これでもかというくらい糖質攻撃を仕掛けてくる。それを食べずに生活するのは至難の業だ。しかしそれらを普通に食べてれば必ず薬のご厄介になり、薬も効かないから最終的には病院のご厄介になり、糖質制限食どころでない医療費が必要になるというロードマップが描ける。

もちろん医療費はこれだけではない。どんなに健康に注意していようが年を取れば機能低下、機能不全は致し方ない。そこが巨大製薬業界や取り巻き医師たちの逃げ道かもしれない。どっちにしろ老衰からは逃れられないのだから、おのおのが信じる生き方をするしかないわけだが。

●運動をする意味も多少わかった

運動についても多少考え方が変わった。糖質制限をしていれば、カロリーオフのような無謀で続かずリバウンド必至の運動をする必要はない。それよりストレッチなどの筋肉トレーニング、とくに大腿部や臀部の筋肉を鍛えることが血流にとってやさしい身体に出来るようだ。スタチンを飲んで筋肉を溶かしてる場合ではない!

二足歩行のヒトは、心臓から押し出された血液が足の先まで行って戻ってこなきゃならない。しかし大腿部の筋肉が衰えていると筋肉によるポンプ機能が低下するため、どうしても心臓が血圧を上げて血液を押し出さなきゃならなくなる。だから筋肉を多少鍛えて血液の循環をスムースにする必要があるようだ。

カロリー消費のための運動でないところがミソだ。産業医には「腹筋でもしましょうかね」と言ったら「それは有酸素運動じゃなくて筋トレですよね」とイヤミを言われたが、まさに筋トレのほうが正しいわけだ。糖質制限食+筋トレという流派とカロリー制限(高糖質食)+有酸素運動という流派と、これは流派の違いであってどちらでもやらないよりはやったほうがいいという話。本来のヒト科らしく生きる派とハツカネズミのように運動する派との違いだ(命名に落差があるのはボクのバイアス)。なんでもやってるといろいろ疑問も出てくるし、そこで考えることがヒトらしさだと思う。

最新の日本の研究では自治医大のコホート研究によって、コレステロール学説への疑問がようやく注目されはじめている。とくに日本脂質栄養学会のガイドラインに対して疑義を唱えていた有名医師の山田悟先生(あまりバイアスのかからない医師だと糖質制限の伝道師江部康二先生も一目置かれている)も、この結果によってスタンスが少し変化しているようでもある。

コレステロール伝説やスタチン幻想がようやく科学的姿勢で問い直されているわけだ。そんなアクティブな時期にスタチンなんて飲んでる場合じゃないだろう。少なくともコレステロール一辺倒の投薬はちょっと様子見して、まずは食生活に糖質制限食を取り入れるほうがリスクは少ないと結論づけたい。

| | | コメント (5) | トラックバック (0)

年末年始は映画でリーマンショックのおさらい

2013年が始まった。2012年の大晦日に間に合うように2本のDVDを購入した。そのひとつは映画『マージン・コール』(2011年・アメリカ)だ。日本で公開されたのかは知らないが、2008年のリーマンショックを元ネタとして、巨大投資銀行のつぶれる前夜に情報を知りえた内部の人間たちの葛藤をエゴイズム丸出しの企業の論理のなかで描いている。

はっきり言って日本で劇場公開しても客はまったくはいらないタイプの映画だと思う。最終的には世の中が金融危機に陥るところで終わるわけで内容が暗くて救いがない。ヒーローも登場しない。そもそもマージン・コールって言葉の意味が投資をあまりしない日本人には伝わりにくい。誰も聞きたくない言葉だ(笑)。

でもボクはこんな業界内幕モノが大好きだ。とくに実話とフィクションが織り交ざったこういう映画は好きだなぁ。いわゆるファクションってやつだね。

昔テレビドラマで「ブル」(2000年)って超面白いウォールストリートモノがあったけど、あれはまだ明るかった。投資銀行やファンドの人々の特異な人間性とかさまざまなエピソードがちりばめられてて。しかしこの「マージン・コール」はとにかく危機回避と企業倫理との狭間で蠢くエゴイズムの戦いだから笑えるところはほとんどない。

映画館で見たいとは思わない。おそらくリーマンショックから4年程度の時間を経たいまだからこそ見ておきたいDVDのひとつ。年末年始という余裕のあるときでもあったし、いまを逃したらもう見ることもない、このタイミングしかない映画だったといえる。そういう意味では良い選択だった。

もう一本はドキュメンタリー映画『INSIDE JOB』だ。こっちは本当にリーマンショックを題材としていて、あのクライシスが起こった背景をわかりやすく映像化しながら、その当時の金融当局者、政府に規制緩和を進言し続けた経済学者、金融マン、投資家、作家、ジャーナリストなどへのインタビューで構成される。

映画『マージン・コール』とセットで見るのが大正解のドキュメンタリーだった。こういう映画もDVD化されるのがいい。セットで視聴すべきだ。同じようなドキュメンタリー映画に『エンロン』というのがあったけど(これは渋谷の映画館でみた)、同じように当時のニュース映像なども入れながらリーマンショックの戦犯に迫ろうという気迫のあるドキュメンタリー映画だった。

いかにもA級戦犯な人々は残念ながらことごとく取材拒否なのだが、その取材拒否という事実を淡々と文字で伝える演出もなかなか技巧派な監督だった。

あるいはクライシスを幇助したB級C級戦犯ともいうべき大学教授なども、評論めいたことを話しているときは弁舌滑らかなのだが、政府や金融企業との癒着(研究費の援助や顧問契約等)の話になると、とたんに顔色が変わり不機嫌になる。

インタビュアーが「例えば医学者の研究費の8割が製薬会社から出資されていたらどうか」といった婉曲(でもないか?)な表現で聞いているところなども面白かった。ちょうど抗コレステロール薬のスタチン剤の嘘とプロパガンダについて書籍を読んでいるので、どの業界も構造は同じなんだということがわかる。

そしてほとぼりがさめた後に彼らA~C級戦犯どもがどんな報酬をどこからもらっているかが表示されるとあまりの厚顔さに怒りを通り越してただただあきれる。このような神経の人々がいわゆる勝ち組に少なからずいるのだ(あるいは負けたけど数億ドルは返さずトンズラ)。米国の闇はどんどん深まるばかりだ。

オバマ政権でもそのような闇は温存されているとこのドキュメンタリーは示唆している。それに追随するしか脳のない日本政府や各種業界にもこの腐敗の闇は伝染していることだろう。資本主義は構造的に暴走しやすい。規制には必ず抜け道がある。抜け道があるからこそ、そこに注目し差異化し資本主義は巨大化してきたのだ。これからも必ず暴走する。震源がアメリカではないかもしれないが。

そんな世界のなかでボクらに出来ることはわずかしかない。腐敗に関わることなく、また巻き込まれることを出来る限り回避しつつ、しかしそういう構造を利用して一儲けできればありがたいと思う元旦であった。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »