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2012.11.25

金八からも猫からも離れて中島みゆきの「世情」を読む

今夜、ちょっと眠れない感じ。いまボクにできる精一杯の答えを出して、クールダウンのつもりで風呂を沸かして入った。身体はホットになったけど気持ちは少しクールダウンできた(confident)。眠れないから何か書こうと思って久々にパソコンに向かったところ。BGMは中島みゆきさんの歌う「本日、未熟者」です…。私、本日、未熟者…。

さてメールチェックをしたらねこみみの原稿料の件だった。今年下半期のボクの頭の中に住み着いていた“中島みゆきさんの歌詞に住む猫”もこれで本当のひと区切りだ。そう思うと「世情」がまた頭の中でリフレインする。

今年は中島みゆきさんのコンサート「縁会2012~3」で「世情」が歌われたこともあり、もう一度「世情」(1978年)を真正面から読んでみたくなった。この作業によって一端思考を猫からリセットし、ノーマルに戻そう。中島みゆきさんのことを考えるにはいい夜だ。

まず、世情という楽曲そのものをドラマ「3年B組金八先生」(1981年)の呪縛から切り離したい欲望に駆られる。「世情」の歌詞はあのドラマと何の関係もないし、あのシーンともまったく関連性はないように思う。某有名通販サイトでは「世情」を金八先生の主題歌と解説していたが、まったくいい加減だ。もちろんあのシーンのインパクトが「世情」を広めたには違いない。妄想するだけなら関連付けも可能だろうがやっても意味がない。今回は金八の話題はここまでだ。

「世情」は1978年4月発表の4thアルバム「愛していると云ってくれ」のラストソングだ。すばらしいアルバムで名曲揃いだしサプライズも多い傑作アルバムだ。

独白調の「元気ですか」という独り語りで始まり、最後は男声合唱団をバックに歌い上げた「世情」で終わる。楽曲のふり幅という観点で言えば、最高にドラマティックなアルバムのひとつかもしれない。

●変わらないふたつの夢

「世情」を聴いたときに何度も出てくる「変わらない夢」が曲者だ。この変わらない夢の主語は誰なのか、一瞬わからなくなる。

最初に

note 世の中はいつも 変わっているから
note 頑固者だけが 悲しい思いをする

とあるので、変わっている世の中が頑固者を排除しようとするのかなとインプットされる。続いて、

note 変わらないものを 何かにたとえて
note その度 崩れちゃ そいつのせいにする

とくれば、(世の中という主語が)変わらないものに例えば「頑固者」などとレッテルを貼り、そいつに失敗の原因を押し付けようとするのかなと思う。この時点で頑固者は保守的な弱者であり、世の中は弱者を生贄(スケープゴート)にしては逃げ続ける卑怯な多数派のような対立構造かと思える。

ところが、サビのリフレインは、

note シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
note 変わらない夢を 流れに求めて
note 時の流れを止めて 変わらない夢
note 見たがる者たちと 戦うため

となるのだ(は田尻補足)。この「変わらない夢」を見ているのは誰ですか?

はシュプレヒコールをする人々であろう。この人々は変わらない夢を流れに求める人々だ。この人々の「変わらない夢」とは何かという疑問をひとつメモしておく。

次の「変わらない夢」は「変わらない夢を見たがる者たち」なのだが、この人々は「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者たち」だと捉えられる。ここにメロディと歌詞とのギャップ(みゆきさんかつオレの好物)がある。

メロディの流れは「流れに求めて」と「時の流れを止めて」とが同じ主語(=シュプレヒコールをしている変わらない夢を持つ人々)に対する述語のような錯覚を生む。しかしもしそうだとすると、変わらない夢を求めるものが変わらない夢を見たがる者たちと戦うことになる。

さらに変わらない夢を流れに求めつつ時の流れを止めるシュプレヒコールというのもなんとなく座りが悪い。最初の流れが時じゃなきゃ、じゃあなんなんだって話になって論理が破綻しつつある。

そうなると変わらない夢と変わらない夢とは異なる人々の夢であり、それらが対立している別々の夢だとわかる。何度もリフレインされるサビの部分に「変わらない夢」という同じ言葉が何度も出て来るのは、人々の変わらない夢の重要性を強調しているかのように見えて、実はそれらはまったく対立した変わらない夢と変わらない夢なのだ。

変わらない夢と変わらない夢とはそれぞれ何かと歌詞の文脈を考えると、変わらない夢はシュプレヒコールをすることで実現させたい何かを“夢見る姿勢が変わらない人々”ではないか。また、変わらない夢は時の流れに流されず“変わらないでいるという夢を堅持したい人々”ではないか。

同じ「変わらない夢」でも見ている夢は真逆なのだ。変化を求める夢と変化を拒絶する夢との対立構造なのだ。

●中島みゆきはどちら側の夢を見るのか

ボクはみゆきさんがずっとシュプレヒコールの側(変化を求める夢)から歌っていると思って聴いていたが、もしこの変わらない夢仮説が正しいとすると、最初の歌詞はどうなる。

頑固者は保守的な夢を持つ弱者であり、変わらない夢を求めている世の中が失敗しては頑固者のせいにするためにシュプレヒコールをしているという構図にならないだろうか。

そうなると中島みゆきさんがどちらの夢に与しているかと考えたときに、ここまでのところ、頑固者である弱者の変わらない夢の味方、つまり保守の側にいるように思える。もしそうならシュプレヒコールは戦う相手の叫びであり、世の中変わらずにこのまま行こうよって話で終わるわけだ。

それってどうよ?そんなことあるだろうか。大衆の声を敵に見立てて歌うだろうか。この当時の中島みゆきは1970年代デビューの若いシンガーであり、フォークソングの旗手なのだ。いやもしかしたら学生運動の挫折で反動に寝返ったのだろうか。

そんな疑念が出てきたところで(ボクに本当はそんな疑念はないんだけどさ ^ ^;)、2番の歌詞が始まる。そして世の中は臆病な猫と喩えられるわけだ。「包帯のような嘘」も秀逸な比喩だと思う。変化を求める世の中は傷ついている。疑心暗鬼になっている。

変わらない夢を求めて傷ついた人々が、別の変わらない夢と戦っている。変わらない夢のなかも弱者ばかりでなく、学者風情が知ったかぶりのコメントを垂れ流す。

なんともややこしい。このややこしさこそが「世情」なのだが。では中島みゆきは世情のどこにいるのだろう。

どちらの側にもいるといえばいるし、いないといえばいない。1番では変わらない頑固者の側に立ち、2番では傷ついた世の中の側に立っているかのようだ。つまりどちらでもないのだ。まるで「変わらない夢」がどちらの夢にも聞こえてしまうように。あるいはどちらでもない第三の敵を見据えているように。

世の中すべて変えればいいというものでもなけりゃ、何も変わらなくていいわけでもないだろう。時にどちらにつくかは違っても、お互いの葛藤のなかで答えを見つけて前進しなきゃ意味がない。どちらも傷つくし、100%の勝利はないかもしれない。でもそれが実は世の中の寛容さかもしれない。

あえてどちらかに与するメッセージを歌わない。聴く人によって中島みゆきはどちらの心にも寄り添える。それがララバイシンガーの矜持かもしれない。

どちらかの側について頑固者と言われ悲しんだり、包帯のような嘘で武装するほど傷ついたりしたとしても、敗者復活の出来る社会のほうが豊かだろうとボクは思う。どのような立場からでも、敗者復活をしようとする者に中島みゆきの歌はしっかりと寄り添い、「ファイト!」と背中を押してくれる。音楽の歌詞が時代を超える。そんな仕掛けの一端が「世情」にもやはりあった。1970年代の歌が、2010年代にも響く。

ふぅ。そろそろ寝よう。クールダウンしすぎて湯冷めしそうだ。今日は「愛していると云ってくれ」を聴きながら寝たい。

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