google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2012年10月

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月の7件の記事

2012/10/29

世情からピアニシモへ 中島みゆきの「常夜灯」を聴く

今年「ねこみみ ~猫と音楽~」というMOOKに「中島みゆきの歌詞に住む猫」というコラムを書かせてもらいました。猫と音楽がテーマなので自然と猫に注目するわけですが、そこでメインテーマに選んだ歌詞は中島みゆきさんの「世情」でした。

「世情」という歌を猫中心に語るということは後にも先にもない試みだったと思います。入り口が“猫縛り”だったからこそ「世情」で歌われた比喩としての猫に注目できたともいえます。

私に与えられたページのなかで、2つの謎かけめいたことを書きました。ひとつは中島みゆきさんがもしいま「世情」を描けば猫は出てこないのではないかということ、もうひとつは欄外のはみだし情報ですが、「常夜灯」に猫は住んでいるだろうか、このふたつです。

「常夜灯」には猫が出てくる歌詞はありませんでした。それはコラムでもある種予測していたことではあります。しかしその予測の根幹にある中島みゆきさんの「世情」への視線は、少し違った様相を呈していたように思います。

そう感じたのは「ピアニシモ」という歌であり、アルバムタイトル曲の「常夜灯」とアルバムラスト曲の「月はそこにいる」との対比であり、3.11以降の日本に提示された「リラの花咲く頃」と「倒木の敗者復活戦」でした。

●シュプレヒコールという言葉の響き

「世情」といえば猫よりもシュプレヒコールのリフレインのほうが印象的かもしれない。テレビドラマ「金八先生」で使われた影響もあるだろう。

それだけに今回「ピアニシモ」という楽曲のシュプレヒコールという単語にドキリとした。文脈を超えて中島みゆきの歌詞でシュプレヒコールという言葉を聴くと、それは「世情」と切り離して考えることができない。それほどインパクトのある言葉だ。

そんなさなか、である。ライブツアー縁会の初日公演で「時代」とともに「世情」が歌われたというのだ。このニュースに驚いた。そしてまた「ピアニシモ」のシュプレヒコールという響きが頭の中でリフレインし始めた。

「ピアニシモ」におけるシュプレヒコールという言葉は、「世情」における猫と似て、説明的・比喩的といえるかもしれない。しかしこの歌でシュプレヒコールという言葉を使うこと、コンサートで27年ぶりに「世情」を歌うこと、そこにはいま中島みゆきとこの世界、この日本とがどんな距離感にあるかが見て取れるように思う。

この点こそ、私がコラムに書いた距離感への懸念をいい意味で裏切ってくれたようで面白く、またうれしかった。

●ピアニシモで歌う中島みゆきが好きだった

ピアニシモで歌う中島みゆきというと、昨今はララバイシンガーといった側面が思い浮かぶ。しかしかつての(80年代前半までの)中島みゆきの名曲にはピアニシモで歌われるやさしくも力強い歌がいくつもあった(当時はピアニシモという言葉では意識していなかったが)。アルバムのラストを締めくくる楽曲も、夜曲や歌姫など叫ぶような歌ではないピアニシモといえる曲がいい。

ただ中島みゆきのメガヒットになる曲はピアニシモな曲ではなかった。「地上の星」も地声のような強さで応援歌のように響く。特に21世紀以降、メディアで聴く中島みゆきの歌は喉が張り裂けんばかりに歌っているイメージが多くなっていたと思う。

ピアニシモの歌詞のなかにもそれをうかがわせる部分がある。ピアニシモで歌ってくださいと言った“あの人”を憎み、屈辱のようで腹が立ったとまで言う。シュプレヒコールもアジテイションもみんなわめかなければ届かないという。つまり届けるために叫んでいたと取れる。こんなに届けようと叫んでいるのに、ピアニシモで歌ってくださいとはどういう了見だと中島みゆきは戸惑ってしまったのだった。

しかし今回の「ピアニシモ」」は、叫ばなければ届かないという意識から、ささやくような歌声や張らない歌声だからこそ届く人々へ、意識が変化している中島みゆきを象徴するような歌に思える。

これまでも声なき声、光の当たらぬ民への目線は常にあったが、ピアニシモで歌う中島みゆきを好きな人々(あるいは特定の誰か)のことを意識してピアニシモという歌詞を書き、そこにシュプレヒコールという言葉を選んで挿入したことの意味をあれこれ考える。

私がねこみみのコラムに書いた「世情」が臆病な猫だった70年代と、いま毎週金曜日に首相官邸前で自主的にシュプレヒコールをやっている市民のうねりと、似て非なる現象だ。70年代は日本そのものが高度経済成長のなかで若い時代の叫びだった。しかし成熟した日本がいままた立たされている岐路には、成長という後押しはなく、破滅か否かという二者択一に迫られての叫びだ。

中島みゆきにピアニシモで歌ってくださいと告げた“あの人”のリクエストに応えて、ピアニシモで歌った中島みゆき。その歌詞には、

大きな声と同じ力で ピアニシモで歌ってください

という核心を衝いた言葉が出てくる。現代は70年代のような成長はない時代だが小さな声でも届く時代だ。それはたった一度出てきたシュプレヒコールという言葉から連想される「世情」の時代の空気にも想いをめぐらせつつ、現代社会の小さな声による連帯感をも視野にいれて、現代の「世情」が歌われたのではないだろうかと思った。

中島みゆきが云われたはずの言葉が、聴いているとだんだん中島みゆきにピアニシモで歌ってくださいと言われているような気分にもなってくる。それは「ピアニシモで歌ってください」という言葉そのものがリスナーに向けた比喩表現でのメッセージのようでもある。

パーソナルを象徴する“猫”こそ出てこないが、小さな声が届く距離感という意味でも「ピアニシモ」の“近さ”がうれしい。この距離感がコンサートで「世情」を歌うことにした中島みゆきの現在を象徴しているとさえ思う。

●「常夜灯」に見える中島みゆきの揺れ

アルバム「常夜灯」には、ピアニシモを封印していたかのように歌う大きな世界観、難解な比喩を意図した部分と、元来中島みゆきの持っていたちいさきものへの洞察力や親近感とがせめぎあっている。これは「36.5℃」を初めて聴いたときと真逆だが似ている感覚かもしれない。

私にとって、中島みゆきのメタモルフォーゼはいつも予想を裏切りながら続いてきた。今回のアルバムもそういうエポックな一枚のようにも感じる。原点回帰のような雰囲気を漂わせ、私小説のようでありながら作家性を充分に感じさせる。

3.11後の世界を思わずにはいれられない「リラの花咲く頃」と「倒木の敗者復活戦」。先だって上柳昌彦さんのラジオ番組にご出演された際、上柳さんは「倒木が東北に聞こえた」とおっしゃっていたが、中島みゆきさんははぐらかしていた。特定の固有名詞や場所ではないとかなり意識して話されていた。詩人としてイメージを限定させたくないということだと思う。

だが受け取る側にはそこに自由があり、やはり時期からイメージするのは震災であり原発だ。特に「リラの花咲く頃」での祖国を離れても咲くリラの花は原発事故で土地を離れて生きる人々の歌に思える。リラ(ライラック)の花言葉は友情、初恋、若き日の思い出。リラの花の寄り集まって咲くイメージが浮かぶ。

「常夜灯」はアルバムタイトルとして最初に感じたのはヘッドライト・テールライトにも通じる人類の光なのかということだった。しかしまったく異なる女歌だった。それが嬉かった。まさに中島みゆきのピアニシモな世界観だったからだ。

ただ「常夜灯」をラストソングの「月はそこにいる」とあわせてみると、これは常夜灯=月という連想も成り立つ。常に空にある月明かりを常夜灯に例えているのかもしれない。そしてあの人とはいまや空にいる人であり、月明かりがあるうちは(つまり永遠に)泣かないし哀しい女の歌だと妄想すると、かなり闇が深い女歌だ。

常夜灯はLEDだったとしてもいつか切れるが、月ならば悠然とそこにいる。小さな比喩と大きな比喩と変幻自在な声色と。魔女中島みゆきは健在である。

ちょっと重くなってしまったから話題を変えて終わろう。「ピアニシモ」のシュプレヒコールにドキリとした後、「あなた恋していないでしょ」にギクリ(笑)としたのは上柳さんと同様だったが、私はこのセリフをバーのママに言われたいという感想ではなく、瀬尾一三さんの洗練された編曲じゃなく、もっと昭和歌謡の匂いのする編曲で日吉ミミのような声の歌手に歌って欲しいと思った。

気をつけなさい女はすぐに 揺れたい男を嗅ぎ当てる

と歌う中島みゆき。「常夜灯」に揺れる中島みゆきを感じた私はここでも一本取られた。だが中島みゆきを揺れさせたい男でもある。もっとピアニシモで歌って欲しい。必ず伝わる。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2012/10/23

糖質制限で6年6ヶ月ぶりの体重減

趣味で始めた糖質制限ダイエット。10月22日朝の体重計の数値は、2006年4月15日につけた直近安値をついにブレイクした。といっても100グラムだけだが(笑)。過去最高値からすると6.5kg減、糖質制限を始めてからは3~3.5kg程度の減だ。

感慨もなくはないが飛び上がって喜ぶほどでもない。なぜなら糖質制限ダイエットを始めてから一ヶ月ちょっと経ち、この日がそう遠くないことは分かっていたから。それほど糖質制限ダイエットは私にとって確実性の高い方法だった。

さらにここが最終目的地でもない。まだまだ始まったばかりだ。特に運動するわけでもなく、薬を飲むわけでもなく、ただ糖質の摂取を少なくするという生活習慣の変更だけ。

目標達成したらやめて結局リバウンドするという通常のダイエットまがいの取組をやらず、糖質制限を普通の生活習慣として身につければ、ダイエットだけに留まらないメリットがあるような気もしている。

科学の力をこんなに身近に感じたことはあまりないような気がする。糖質コントロールのメカニズムは納得できる内容だった。

食後血糖値に注目するというアプローチそのものが割りと新しい考え方のため、古い頭の医者や栄養士にはまだまだ受け入れられないヒトも多いようだ。また日本人は生まれたときから白米を主食としているため、それをやめるのは精神的な抵抗もあるだろう。ある種の洗脳ともいえる。あるいは新説には慎重のうえにも慎重な専門家もたくさんいることだろう。

それはそれでかまわないと思う。しかし新たな臨床や実験によるエビデンスが旧説を覆すことはどんな分野にもあることだ。

特にダイエットなんてのは個人的なものであり、ビールを飲み白米を食べ食後のスイーツに幸せを感じるヒトにはそれが正しい生き方に違いない。

生活習慣病は相場によく似ている。私の尊敬する相場師のひとり、エド・スィコータ曰く「誰もが相場から欲しいものを手に入れる」という。まさに生活習慣病も同じだ。

炭水化物を過食している人々が糖尿病になるべくしてなるのも個人の選択の結果だと思う。糖尿になる前に事故で死ぬかもしれない。だったら好きなように食って太って生きればいいじゃないか。3食しっかり米を食べ薬も飲み適度な運動を続けたい人はそうすればいいだけの話だ。やりたいようにやって生きることが一番幸せだろう。

たまたま私には糖質制限が一番簡単で科学的で実際に結果が出る方法だった。運動なんてしたくない。しても続かない。今年1月には「健康のために運動すべきか否かをディベート思考してみる」なんて記事も書いていた。

●ダイエットのための運動はハムスターに似てる

糖質制限ではダイエットのための運動をする必要がない。これは理にかなっていると思う。これに関して面白い話しを見つけた。

ツイッターで糖質制限本ばかり読んでいてもう読むべき本がないと書いていたら、フォロワーさんから『ヒトはおかしな肉食動物』が面白いと教えてもらって読んだのだが、その中に穀物をよく食べるネズミやハムスターの話が出てくる。

ハムスターが回転カゴのなかを延々と走っているのを見たことがあるだろう。あれは好きでやっているわけではなく「余剰エネルギーの放散」のための本能らしいのだ。穀物の過食によって生じた過剰エネルギーをこうして放散しないと肥満になってしまうのだ。

このハムスターの運動はまさにこれまでのダイエット理論そのものに思えた。炭水化物を過剰摂取することを肯定し、その過剰さを運動によって放散させることでカロリーを使い(そのためのムダな時間も使い)減らしていく。過剰に摂ったカロリー以上の運動をすればやせられるのは一見理にかなっている。

しかしその運動は何も生み出さないし、ハムスターのような本能による行動でもない。本能でないのはなぜなのか。たぶんヒトはハムスターと異なる代謝システムで生きているからだ。穀物を食べなくても良い肉食動物だからだと思う。

摂取した炭水化物(糖質)を使い切り、さらに脂肪も燃やす運動を続けるのは非常にキツイ。現代のように、気をつけなければ必ず糖質を摂りすぎてしまう世の中ならなおさらだ。しかもそれに費やす時間はただキツイ運動のためだけで失われる。

しかしそんな運動をしなくても、そもそもその運動を必要とした原因である糖質を摂らなければ、もともと備わっている代謝システムが体内の脂肪を燃やしてくれる。ハムスターのように運動しなくても、ヒトの代謝システムはそのように出来ているからだ。

農耕文化が人類の発展を生んだのは確かだが、発展しすぎた人類は発展しすぎた体型になってしまった。過ぎたるは及ばざるが如し。もう一度、肉食動物としてのヒト本来の食生活に戻って、発展しすぎた身体もリセットしたほうがいい人類はたくさんいると思う。

薬でコレステロールを下げたり高脂血症を防止したりする前に、糖質制限するほうが身体にいいのは当たり前だ。糖質を制限するというより過剰に摂取しすぎた糖質量をヒトに優しいレベルに抑えるというほうが正しいように思う。

糖質制限を始めると、いかに身近に糖質があふれかえり、それらを無意識に摂取しているかに愕然とする。無意識なうえ、数十年後でなければその過剰摂取による弊害(糖尿病など)に気付けない。普通に生活しているだけで糖質を過剰摂取してしまうのは現代日本社会の怖さだと思う。

いったん体重をリセットすれば、また農耕文化に戻ったっていいと思う。一度糖質制限を経過することで理解力のついたヒトなら、おそらく完全に元には戻らないだろう。適度にコントロールして美味しく食べるのが一番いい。そんな糖質制限という生き方を一度は経験してみるのも、ヒトとして有益だと思う今日この頃だ。

もっとも産業医に糖質制限を勧められたら反発しそうだから、産業医には古いダイエットを説き続けてほしい(笑)。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2012/10/22

確かにディープピープルな仲宗根梨乃!

仲宗根梨乃がテレビに帰ってくる!

というわけで、10/29(月)0:10(日曜深夜)のNHKディープピープルにご出演です!要チェキですな。

ディープピープルという番組は去年もやっていて、様々な業界のプロが3人集まっておしゃべりする番組でした。かなりディープな業界裏話が聞けて面白い番組でした。イルカの調教師とか…。

それが装いも新たに今年10月から新番組としてリニューアルされ、次回テーマは「振付師」なのです。いまや振付師としてもノリに乗っている仲宗根梨乃さんご登場なわけです。

今年もスタジオは関根勉さんが続投で、新たにしょこたんが絡みます。前回の中村慶子アナも好きだったのですが、しょこたん投入によってバラエティ色が濃くなること必至!妄想度もアップすることでしょう。関根さんとしょこたんだと誰が妄想を制止するのか心配です(笑)。

とりあえず、この番組を励みに今週も乗り切ります…。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

東京全力少女を全力で視聴してみたい(笑)

ここ二年くらいは韓流ドラマばかり見ていたが、徐々に日本ドラマにも回帰し始めている。しかし一度韓流ドラマを通ってきた私のドラマ魂には、熱き韓流ドラマの血が流れているような気がする(笑)。

特に意識して日本ドラマ回帰をしたいとか韓流ドラマと比較したいという欲望はなく、たまたま観たいドラマや役者がいれば時間の許す限り観たいと思う。今回は単純に中島みゆきが主題歌を歌うし第一話にもゲスト出演するということで観始めた。

もっとも武井咲主演というところにも惹かれた。そういえば「Wの悲劇」も観ていた。視聴率的には苦戦といわれるこの二つの主演ドラマだが、個人的には高評価だ。視聴率がまったくあてにならないことはこの20年間で重々承知している。

武井咲は正統派のように見えながら結構冒険してると思う。これは本人の希望なのかスタッフの戦略なのかわからないけれども、今後のビジョンを模索する(そこそこ売り手市場な現在の)なかで、意欲作に飛び込んでると思う。視聴率がついてくるかどうかも目先の利益には大切なのかもしれないが、もっと長い目で育てたい逸材であることは間違いない。CMタレント的な消費のされ方でなく、映画やドラマ中心にしっかり育って欲しい気がする。

東京全力少女」を第2回まで見た印象は、なんだか出し惜しみしない脚本だなってことだ。台本も全力っていうか(笑)。もっと引き伸ばせば延ばせそうなエピソードもどんどん解決していく。

そもそも四国から東京に飛び出してきた少女(武井咲)の目的は、かつて自分を捨てたお父さん探しなんだが、大東京に着いた初回でお父さん見つかっちゃうし。初回から目的達成!ストーリーにとってそこは取っ掛かりにすぎなかった。

全力少女はただ全力であるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。お父さんを取り巻く3人の女たちの思惑とか、どんどん類型にはめ込みつつ、どんどん覆したりして。全力少女が行動すればとりあえず物事があれよあれよと進んでいく。もっともほとんどは全力少女の妄想世界なわけだが。

その割に食べ忘れた夕飯を思い出し、夜中の3時までかけてうどんを打ち始めたりする。時間の観念も薄い。ただひたすら全力なだけなのだ。しかしこの全力だけという感じはまだまだ見えにくい。今後どんな風に“全力”に磨きがかかっていくのかまったく想像できない。

また物語とは異次元にありそうな「玉川家」の人々。こういう横展開は私の大好物だ。メインストーリと絡んでくる空間なのかどうか。全力とは無縁なゆるい感じ。しかし何かがありそうな多国籍な空間。

捨てた父と娘の関係、再婚する母と娘の関係、下町風なのに多国籍な人々との関係。ただのドタバタのようでありながらストーリーの柱が見つかるのか、ずっとこのままただただ全力なだけなのか。

全力とは例えば若さ(青春)のメタファなのか。時間観念が薄く、ただひたすらに走り続けるだけの少女。閉塞したこの時代背景のなかで全力であることの意味をこの少女の姿に見つけるべきなのか。そういう見方が正しいのかどうかすら不明だ(笑)。もしかしたら武井咲の全力少女な感じをただ楽しめばいいのかもしれない。

ただ、こんなストーリーのありそうでなさそうな展開は嫌いじゃない。韓流ドラマは全力だけどガチガチの愛憎劇だったし、日本のドラマは流れるようなストーリーだけど淡白でパンチが足りない。展開の見えない日常が全力で描けるのか。伴一彦の全力脚本を全力視聴してみる。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/10/13

糖質制限24時

タイトルは警察特番モノみたいな響きだが、まったくかっこよくない二日酔い。昨日の24時ごろ電車から自分で「かなりの酔っ払いになってしまったが、焼酎のロックと焼き鳥塩しか食べてない!」とツイートしてたのを覚えてなかった。

昨夜は沖縄から仕事で来られたKさんと、埼玉在住のKさんと3人で焼き鳥。ダブルKさんはボクが合流する前に別の焼き鳥屋で完全に出来上がっていた(笑)。それでボクは「とりあえずビール」というジャパニーズルールを気にすることなく最初から焼酎で参戦したのだった。食べるのはサラダと焼き鳥(塩)だ。

その一時間半後、Sさんも駅に着いたという連絡が来たので4人でまた別の焼き鳥屋へ。沖縄のKさんが「焼き鳥が食べたい」とおっしゃっていたそうなのだが、さすがに3軒はしごするのは想定外だったようで、3軒目では最初からアイスクリームを注文されていた(笑)。

というわけで記憶も飛ぶくらい焼酎ロックをジョッキでガンガン飲んでしまい今朝は気持ち悪かったが、ついに糖質制限に目覚めたB級グルメの鉄板麺男と11時に秋葉原でランチ。健闘を称えるためにふすまパンと糖質ゼロハムと糖質制限レシピ本を1冊プレゼントした。

通常なら確実にラーメンかジャポネのスパゲティ(大)という流れなのだが韓国料理店に入り、豚肉スンドゥブのランチセットを頼んでセットのライスを断った。だったら単品を頼めばいいのだが別にドリンクを単品でつけるよりセットのドリンクバーのほうがお徳だったから。

糖質制限宣言をしたB級グルメ鉄板麺男も宣言した日に食べるわけはいかないと2人ともライス抜きのランチセットだ。変な客だと思われたかもしれない。実際変な客だよ。単品頼めって感じだよ。

ライスなしのセットじゃもったいないと思ってくれたのか店員さんが「では無料でプリンをつけましょうか」と提案してくれたけど、もちろんそれも断った。ライスを抜いてプリンをつけたんじゃ糖質制限の意味がない(笑)。

その代わり単品のハーフサラダを注文してちょい多めにしてもらった。これでようやく注文確定!なかなか大変だ。ホッとしてドリンクバーに向かったが、ホッとしすぎて危うくオレンジジュースを入れそうになった。二日酔いだったしな。ほんと気を抜くと世の中トラップだらけだぞ糖質制限諸君(笑)。

ドリンクバーではウーロン茶を入れて一件落着。二日酔いには辛いスンドゥブがとっても暖かい。これからの季節はやっぱ鍋モノがいいな。自宅でも。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/10/07

ドラマ「ヤアになる日」も面白かった!

名田庄診療所の中村伸一院長をモデルにしたNHK BSプレミアムドラマ「ドロクター」を2週連続録画予約するときに、毎週予約としていたため「ドロクター」の翌週にやっていたこの「ヤアになる日」も録画されていた。

たまたま録画していただけなので何の予備知識もなく、それでももともとドラマ好きなので見たのだが、いやぁ面白いドラマだったっすよ!本放送は大雨警報かなにかで画面が縮小したかテロップが流れたので消して、いま再録画中です。

もともと島好きな私ですが、島というとすぐ南国をイメージしてしまいます。でも日本はまさに島国だなと実感しましたね。鳥羽市にこんな独特な風習の残る島があるなんてはじめて知りました。鳥羽は一昨年の夏旅で行きましたが、知ってればこの島も行きたかったなぁ。

主演の倉科カナと平岡祐太が夫婦になるドラマで、プロットだけをなぞるとぶっちゃけ普通のドラマです。ある独特の風習を持つコミュニティに嫁入りすることになった主人公が、その独特さに戸惑い、自分と似た境遇でこのコミュニティに暮らしつつ苦悩しているあるひとりの奥さんを見つけて、その姿に自分自身を重ねていたが、その奥さんの危機に偶然直面し、その奥さんの危機を持ち前の明るさと前向きな姿勢で克服してみせ、自分もその奥さんもみんなもハッピーみたいな。

ちょっと意地悪な評価の仕方だったな。こんだけきちんとしたプロットがあれば充分やんけ(笑)。

言いたかったのは、こういうほかにもありそうなストーリーが「答志島」という場の空気や歴史風俗のなかで、充分に見ごたえのあるいいドラマになったんだということ。説明的な部分はそれほど多くなく、奇異な風習に見える寝屋子制度も、見終わるころにはその独特さもひとつの生きる知恵であり、コミュニティの崩壊しつつある現代には逆に新鮮かもしれないなと思えました。

世界が狭くなればなるほどローカルこそに大切な意味がある。グローバルのなかで真に価値あるものはローカルなコミュニティのオリジナリティだ。グローカルなヴィジョンをもってアピールしていかねばならない。

そんなお題目を並べ立てるよりも、こういう良質なドラマ1本のほうが説得力がありますね。この島の寝屋子制度は鳥羽市無形民俗文化財だそうで、これまでもドキュメンタリーが何本も作られているそうです。ドキュメンタリーは記録として意味があるけれど、なぜか大衆受けは難しい。

ドラマ化する意味はドキュメンタリーとは違うと思いますが、あえてフィクションを交えることが人々の記憶に残すひとつの知恵、仕掛けともいえないでしょうかね。やはり大衆は創作部分に惹かれるんだと思います。事実は事実として心に残りますが、創作による物語をフィルターとすることでこころに沁みるんでしょう。

NHKローカル制作のドラマは小粒だけどもキラリと光る。それは日本各地にはまだまだ魅力があるってことだとも言えませんかね。そういう魅力が心に沁みるドラマを今後も期待したいですね。「ヤアになる日」を見て、なんか得した気持ちです。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/10/06

矢沢永吉の成りあがり魂にも感化されたオイラの糖質制限ダイエット

なんだかタイミングよすぎっ!趣味で始めた糖質制限ダイエットだが、すぐに広告会社の友人ライスくん(いまとなってはこの呼称も糖質多すぎ )から、今月の雑誌「Tarzan」が糖質制限ダイエットだという連絡をもらった。

その日のうちに購入した。正直、初めて購入した。もちろん存在は知っていたが、オレなんかとは違う人種が購入する“あっち側”の雑誌というイメージだった。いくら雑誌好きなオレでも「Tarzan」を買う側の人になるとは思ってもみなかった。

でも食べず嫌いや人種差別はいけませんな。かなり真っ当で情報量の多い雑誌だった。MOOKといってもいいくらい。Tarzan購入までに少なくとも10冊程度は糖質制限本を読んでいたが、「Tarzan」だけでもかなりの情報量は得られる。もっともそれほど多くを学ばなくても出来るところも糖質制限の魅力ではあるが。

ブームということなんだろうか。2年前にK-POPファンになったときも、ちょっと後に大ブームがやって来て、なんだかブームに乗ったミーハーな人間のようなイメージが嫌だった(>自意識過剰なだけ)。

趣味で始めた今回の糖質制限も過去の経験がまずあって、ようやくその経験が「糖質制限」だったと言葉で理解できたのがいまだった。ブームに乗ってダイエットを始めるような素直な人間じゃないのだ。もっともそうやって目について言葉を手に入れたのはブームのおかげかもしれない。

数年前から糖質制限本は江部先生釜池先生をはじめいくつも出版されていたようだ。当時は糖尿病という切り口だったからオレのアンテナにはまったくかかってこなかった。

とはいえ「ダイエット」という切り口でも基本反発してただろうから(笑)、今回のきっかけは本当に偶然だったな。「医学書を読め!」とオレを叱った産業医や、初診から「どうせ(運動も食事制限も)やらないでしょ」とクスリを出した産業医にも礼を言う。

今回、ちょうど時を同じくして「矢沢永吉・63歳のメッセージ」の再放送をNHKで見た。永ちゃんは騙されて35億円の借金を背負ってしまったとき、周囲から馬鹿にされたからこそ「絶対に借金かえしてやる!」と奮起できたという。やはり怒りのパワーというのは瞬発力になる。オレも産業医からはひと言も出てこなかった「糖質制限」とい方法論で成りあがり、溜まった体重を返してやるのだ!

趣味としての糖質制限という視点ではちょっと問題が発生している。もう読むべき本がない!まだまだ出版物は少ないな。ネットでは江部・釜池論争といった初期の論争や権威を纏ったアンチ糖質制限医師への反論などを読んでいるが、出版物で読みたいものだ。レシピ本ばっかりじゃ飽きる(笑)。

しかたがないので最近は糖尿病本にも手を出してる。糖尿病でもないのに。糖尿病本だったらかなりの書物が出ているので、「糖質制限」という視点で読めば批判的読書も可能で楽しめそうじゃないか。医学書を読めと言った産業医とも将来渡り合わなきゃなんないかもしれないし(笑)。

あとは日本動脈硬化学会の『動脈硬化性疾患予防ガイドライン 2012年版』を購入しようかと迷っているところ。これは柴田博先生が今月号の雑誌「選択」の連載で紹介されていたから。6月に改正されて過去の誤りが相当改善されているそうなのだが、専門書でもあるし理解不能な可能性もあるので、かみくだいて誰かが説明してくれるのを待つかどうか悩んでいる。いっそ読みたい医学書があるからって産業医に貸してもらおうかな。持ってんだろ?

ちょっと毛色の違うところでは貝原益軒に興味がある。貝原益軒といえば「養生訓」が有名だが、健康に留まらずあらゆる“学び”という行為において、西洋近代の何でも分析していく方法論とは異なる、東洋的な万物のつながりを包括してゆく方法論が好みだ。日本の学びはもっと豊かであったことがよく分かる。『「学び」の復権――模倣と習熟』(辻本雅史著・岩波現代文庫)がとても良かった。

いっそ食品成分表でも読むかな?最新の糖質制限食情報をメインテーマにした食品成分表をどっか出してくれないかな?

| | | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »