新書が好きっ!
今年の東京国際ブックフェアでは電子書籍などのブースが盛り上っていたが、個人的にはほとんど面白くなかった。あんなものは単なるブックカヴァの展示であり、しかもデザイン(装丁)もつまらないブックカヴァでしかない。電池が切れたらウチワにもならないし。koboウチワよりもパンフで扇いだほうが涼しかった(笑)。
大量の情報、例えば文庫本を何千冊持ち歩けるからといってそれが何になるのか。文字が大きくなれば読む価値が増大するのか。便利さは知的欲求にとって必ずしもメリットではないと思う。どこでもドアがあれば便利になるだろうが旅の面白さは減るだろう。そんな感じを持ってる。買いたいときに買える(買わせる)という消費行動との直結に夢を見ている資本の論理しか伝わって来ないのだ。
だからといって書籍の陳列が面白かったかといえばそうでもない。出版不況と言われて久しいが、それはなにも電子化の波のせいじゃない。隙間時間の過ごし方が多様化しているだけだ。紙で読まない人は電子でも読まない。電子書籍に走るくらいなら出版社をやめてゲーム会社でも作ったほうが理にかなってる。
新しいヒマのつぶし方はなにも電子的である必要などない。ヒマは好き勝手につぶせばいいだけだ(笑)。私のようにハングルを筆ペンで筆記してもヒマはつぶれる。電子化に躍起になっている連中は、書籍がヒマつぶしの道具だと宣言して回ってるようなものだ。そんなもの再販制度で守る必要もない。
そんなブックフェアだったが、有料セミナーのシンポジウムでひとつ面白いキーワードを聞けた。雑誌の衰退曲線がデパートの衰退曲線と重なるといった面白い話の流れで、「現在は新書が雑誌だよね」という話題があった。まさにそんな様相を呈している。
不況下の日本で新書の発行点数はかなり増えた。新書といえば一昔前は老舗出版社が同じ装丁で棚の占拠合戦をするものだったが、現在は新興勢力もかなり力を入れて棚取り合戦を戦っている。内容も大学の先生が自分の学生に買わせるようなものは影を潜め、まさに雑誌記事的な軽さのものが増えた。
新書は私にとって、ヘビースモーカーにとってのタバコのようなものだ。切らすと禁断症状が出る。そしてヘビーなものばかりでは息が詰まるのでライトも楽しみたい。いくつもの新書を並行して読むことは、まさに雑誌的な読み方だと思う。ちなみに電子タバコがタバコに取って代わるという話もあまり聞かない。
同ジャンルのものを複数読んで複眼的に専門知識を横断するのも楽しい。例えばいまなら宇宙モノがプチブームだ。宇宙に関する新しい知識が次々と出てきて面白い。また語学モノはいくつかひとくちメモでも紹介しているが、千野栄一先生の著書を筆頭に見つけたら買いという感じだ。
同じテーマでも視点にオリジナリティが求められるのが新書だし、編集者にとってもタイトルのつけ方、章立てのバランスなど腕の見せ所は多いと思う。そういう作り手の思考回路とダイレクトにつながっている感じが新書にはある。内容に共感した著者にはコンタクトを取ってみるのもいい。新書は著者のパブリシティ、名刺代わりの機能も持っている。
●ジャンルを超えて思考する楽しみ
新書の棚のよいところはジャンルわけが甘いところだ。出版社単位に並んでいるから、まったく無関係と思われるジャンルの本が並んでいたりする。書店の棚がまさにヴァーチャルな雑誌状態なのである。
どれを買うかまったくノープランな状態で新書の棚の前に立ったとき、頭の中でゴングが鳴る(笑)。自分がいま何を読みたがっているのか、それを棚から感じ取り、新書の群れと嗜好性との探りあいが始まるのだ。
新書の棚刺しは馴染みの新書(既刊本)ばかりだが、自分の嗜好性によって目が留まる本が異なる。語学なんてまったく興味がなかった頃の私なら千野栄一先生の『外国語上達法』も目に留まることなどなかっただろう。
最近読んで面白かった3点を並べてみる。
特に意識したわけではなかったが、こうして並べてみると、いまの自分の意識がどこに向かっているのかがおぼろげながら分かるような気がする。日本脱出だ(笑)。
星海社新書については何度か書いてるが、この『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』はマルクス(『資本論』他)とロバートキヨサキ(『金持ち父さん貧乏父さん』他)とが資本主義の正体(原理)について同じ見解を持っていたという気付きから始まる。
資本主義というものの正体を知った後の行動は共産主義父さんと不動産成金父さんとで異なるにしても、「正体見たり!」というその一点のインパクトで引っ張る新書だ。面白かった。結論はハナから求めちゃいけない。数百円で得られるのはきっかけだけだ。だからこそ意味がある。自分で考えろというのが星海社新書からのメッセージなんだからこれでいいのだ。
次に読んだのが『日本を降りる若者たち』だ。日本の息苦しさ(生き苦しさ)からタイのカオサンなどに逃れ“外こもり”をする日本人の若者を取材した新書だった。高度成長の結果、なんとなく社会は豊かになったような気がするが、そのレールに乗れない人々には生きることが出来ない社会になってしまった。
外こもりをする若者は、日本で短期間稼いだ資金でタイに長期滞在する。それはある意味、高度成長した日本の社会システムを利用して狩りをしに日本に短期滞在している人々のように思えた。ただしその先に楽園があるわけでもない。「生きる」のではなく「死なない」という日常だ。痛々しい感じもあるけれど、彼らをただ批判できるほど日本の社会も立派なもんじゃない。負のスパイラルの時代にどう死なない日常をやり過ごすか。
そういう問いのなかで『独立国家のつくりかた』を読んだ。ここにも日本の社会システムからある意味降りた人々が出てくる。しかし、その降り方が奮っている。この社会を変えるのではなく、別のレイヤーに住むという奇策だ。私はこの実践哲学ともいえる新書にも「資本主義の正体見たり!」と似たマインドを感じた。
世の中は多層レイヤーで構成されている。どのレイヤーを意識して生きるかで世の中の見え方はまったく変化する。著者が「匿名のシステム」と呼ぶ既存の社会システム。そのなかにいては見えない空間、あるいは誰もが忘れてしまった隙間を見つけてそこに頭を突っ込んで覗いてみると、実はそこにまったく別の広大なオモシロ空間が広がっているといった趣きだ。
路上生活者の0円ハウス写真集で世に出た人だが、彼のドローイング作品を見ると、まさに異空間に広がり行く別世界のイメージが独特の美しさを持って描かれている。
この3冊は特に似ていると思って選んで読んだわけでなく、なんとなく読んだ内容に共通項を見つけた。そんな偶然性が好きだ。こんな偶然性まで含めて雑誌的読書だろうと思う。ただ購読しようと物色する自分自身がいるから、機械がランダムに選択するのとは異なる。
読書の楽しみとは単に文字を追うことではない。書店で共鳴するところから読書だ。単体の新書なんてもっとも簡単に電子書籍化できそうだが、ヴァーチャル雑誌化した書店の棚と一体となった新書群を電子化するのはなかなか難問だと思う。ただ、そんな私ですらワクワクさせてくれるようなヒマつぶしアイテムが出てきたらうれしいという期待もなくはない。それが電子書籍でないことを願う。本は紙で読む。
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