google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2012年4月

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2012年4月の11件の記事

2012/04/30

音楽という名の光 山下達郎ライブ@大宮

昨日は待望の山下達郎ライブを聴きに大宮ソニックシティへ。ボクにとっては2009年3月21日の大宮以来、3度目の山下達郎ライブだった。

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今回はこれまでで一番いい席が取れて、演奏者の表情やギターの指使いまではっきり見えた。

新作を引っさげての全国ツアーもこの日をいれてあと5日を残すのみ。7ヶ月に及ぶ今ツアーでは、私の実家がある山口県徳山市(現・周南市)の周南市文化会館もがツアー日程に入っていて驚いた。

そこはボクが中島みゆきライブを初めて立ち見で見た場所であり、また高校時代に自主製作映画でここにオフコースを観に行ったテイで撮影に使った場所でもある(笑)。高校時代に来てくれてたらボクの人生も変わっていたかもなぁ。それだけ大規模なツアーだったということだね。

新作を引っさげてと書いたけど山下達郎さんのコンサートは新作プロモーション色が少なく、ライブはライブとして別のコンセプトで選曲されるので、コンサートそのものがベスト盤のようなものになってる。ライブで何年もやってなかった曲を演奏してみたり、いまの自分が歌うべき場所と歌を常に意識してステージが構成されてる。

●選曲の苦労話にひとくちメモ的納得感(笑)

もともと音楽マニアな人なのでリスナーの気持ちをよーく知っている。そして山下達郎に求めるクオリティの高さも充分知っている。ただファン層が幅広く、聞きたい曲も多いがゆえにセットリストでは毎回悩むと話されていた。

もはやどれを演奏するかではなくどれを演奏しないかという消去法になってしまうとか。きっと過去のセットリストともにらめっこしながら、何年もやっていない曲でいまの心境やライブのコンセプトに合致するものに絞り込んでいくのだろう。

その話を聞いて、ちょうど一昨日、このひとくちメモで「自分で弾き語りたい吉田拓郎20選!」をやっていたボクは俄然納得した(笑)。こっちはただブログネタで20曲選ぶだけだが、実際に7ヶ月間の演奏旅行をする楽曲選びという作業は途方もなく大変だと思う。

あくまで新作プロモーションというお仕事感覚でやるミュージシャンなら新作から8割やって、後はかつてのレコードセールス順に“お約束”の数曲でもやれば2時間のライブは構成できるだろう。だがヤマタツはそういう仕事はしない!

新旧すべての楽曲が同レベルに存在し、コンセプトに沿って選択し練り上げて3時間超のライブに仕上げて来る。リスナーの飽くなき欲求に応えるべく考え続けてくれているのがヒシヒシと感じる。だからライブパフォーマンスがすばらしいんだと思う。悩みはコアなファン層と新規ファン層とどちらにも楽しめるステージにすることだそうだ。もっともコアな人々はほっといても行くわけだけど(チケットが入手できればの話だがっ!)。

●一貫したこだわりをガラパゴスと呼ぶ!

選曲だけでなくそういうこだわりが随所にある。セットも毎回楽しみのひとつだ。会場の扉を入ると巨大なセットが目に入る。今回はステージに近かったので開演前の舞台下からまじまじと見上げてみた。

コンセプトは「アメリカの田舎町のストリート」で達郎さんの歌う足許には石畳が敷かれていた。舞台左手にある「MUSIC INN」のなかに飾ってあるギターの銘柄とか、そういうのもそのうち達郎マニアによって明らかになったりするのだろうか(笑)。

今回初参加のサキソフォン奏者宮里陽太さんもこだわりの人選のようだった。都城市から通ってる(?)とか。その地元へのこだわりもいいっすね。

ボクはサックスソロのときに思わず左耳に手を当ててしっかり音を聞いていた(これはとてもよく聞こえるけどずっとやってると難聴になりそうだから要注意です)。達郎さんのカッティングギターとサキソフォンの緊張関係がビビッドに身体に入ってきた。

こだわりといえば会場選びにも相当こだわりがあるのは有名な話。隣のスタジアム(さいたまナントカアリーナ)では絶対にやらないと断言された(笑)。ナマ声でも最終列まで声が届くレベル、3000席クラスの音楽ホールをこよなく愛するのが山下達郎だ。

音楽ビジネスとして効率がいいのは巨大スタジアムだ。一度に1万人超を入れて回収すれば、3000人収容のホールで数回やるより出演者のギャラも経費も1回分で済む。しかしそれでは山下達郎の音楽は届ききらないのだろう。分散コードや歌声の細かいニュアンスまでひとりひとりの観客に届けたいわけだ。

ボクが「自分で弾き語りたい山下達郎20選!」を企画しないのも分散コードの連続ゆえに弾けないからなのだが(笑)、まさにそのニュアンスの機微がアリーナ規模では届かないということだね。ただアリーナを否定はされておらず、あれはパーティ、お祭りと割り切った盛り上がり方はありえる。

個人的には来月、そのさいたまナントカアリーナにKARAを観に行ってしまう私だ。確かにKARAはお祭り気分だ。ただ大会場でスパークルのカッティングギターを聴いてみたい気がしなくもない…。もちろんそのときはお祭り気分で。

また海外進出は毛頭考えていないとも。何度もそういう話はあったそうだ。そりゃそうだろう。どこに行っても通用すると思う。しかしそれも自分の仕事じゃないと断言される。「海外に行く暇があったら大宮に来る!」は超名言だったなぁ。ヤマタツファンの中心層は20~50代の男性なので、日本で頑張ってるコアでマニアなファンに常にベクトルが向いているわけだ。

舞台装置、会場選定、国内至上主義、そしてなかなか終わらない演奏(笑)、すべてが音楽へのこだわりの産物であり、それをグローバル化を否定するガラパゴス化と呼ぶなら呼んでみろというスタンスを貫き通している。不遇の時代からずっと好きな音楽を作り続けて来た自信と裏づけがあったればこそだろう。もしヤマタツが売れなくなってプロデューサにでもなっていたら、このこだわりゆえに会社と衝突するのは必至だ。今後もミュージシャン山下達郎の音楽を聴き続けたい。

●歌詞へのこだわり

ツアーパンフの充実振りもすごい。27000字。楽曲の歌詞について様々な思いがエッセイ風に綴られていた。歌詞解釈マニアの私としてはうれしい限りだ。昨今、歌詞分析や歌詞解釈が静かなブームなのかな。私の妄想解釈がメディアに何回か呼ばれたりするくらいだもんな。

山下達郎さんも歌詞を作るうえでは“妄想”して書いているという話がパンフに載っていた。まさに妄想とは感性の産物、意識してみる夢なのだ。アーティストが描いた妄想を、私はさらに自分の妄想で解釈する。これが私の歌詞解釈の極みであり、妄想コラボレイションなのである。アーティストとの違いはギャラくらいのものだろうか(笑)。

冗談はさておき、おそらく大衆歌謡の歌詞解釈ブームがあるとしたら、これも2011.3.11とかかわりがあるように思う。ポスト3.11の「日本」を意識したときに、大衆芸能における日本語の歌の力が小さな支えとなる場面は多いのかもしれない。

人間は言葉によって生き、言葉によって考える。政治家もそうであって欲しいが、いま言葉が信用を失いつつある。だが大衆芸能は常に人々に寄り添い、そのときの環境や体調、気の持ち方次第で心に小さな光を点せる。

「希望という名の光」(Ray Of Hope)という3.11以降に発売されたアルバムによって、そして今回のライブツアーによって、少なくとも会場にいた私は満たされた。山下達郎が「希望」を光と歌い、私はその「音楽」に光を見つける。

その光は物理的に誰かを救うことはできなくても、気持ちの切り替えスイッチを押す手助けをしてくれる。行動のきっかけになってくれることもある。高ぶる気持ちを落ち着かせてくれることもある。サウンドの力ももちろんあるけれど、いまの日本は言葉に光を当てたくなる時代なんだと思う。

MCでもプロポーズの歌詞についての話なども少し聞けておもしろかった。そこでは「そんなのはポップスの歌詞なんだから」といった発言もあり、基本サウンドの人ではある。でもそれは歌詞をないがしろにすることにはつながらない。

ポップミュージックの歌詞はどのように解釈も出来るところに大衆性があるのだ。だからこそ時代を超えることも出来る。境遇の異なる人にも伝わる。そしてその違いを語り合う楽しさもまたあるわけだ(と、また自分を正当化してみたりして)。

サウンドの人だなと思ったのはギタリスト佐橋佳幸さんとのギター掛け合いセッションのとき。今回表情まで見える席だったからわかったのだが、ギターセッションしているときに山下達郎さんの表情が完全にギター少年に戻ってた。口をとんがらがせてギターの高音に没入するのがギター少年の永遠のスタンダードだ(笑)。そこから逃れることは出来ないのだ!

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2012/04/28

自分で弾き語りたい吉田拓郎20選!

自分で弾き語りたい中島みゆき20選!から早3年、今回は自分で弾き語りたい吉田拓郎20選!を選んでみたいと思います。

というのも4月14日放送のJ-WAVE「東京REMIX族 中島みゆきの歌詞の極み」に出演したとき、一番好きな曲に「永遠の嘘をついてくれ」をあげました。作詞作曲・中島みゆき、歌・吉田拓郎です。そのときふと、そういえば吉田拓郎の歌でこの企画やってなかったなと気付きました。

番組でもうひとつ感じたこと。しょこたんって疑問をもつのが大好きなアイドルなんですよね。「どうして~なんだろう」が口癖のようなのです。妄想好きに共通した資質は疑問を持つことなので妙に納得しました。まさに教育テレビ理科1年生で昔見た“なんだろうくん”のようなタイプなのです。“なんだろうたん”だったのです。

それでボクも「どうして吉田拓郎20選をやってなかったんだろう」と疑問を持ってしまって、この連休にやっちゃおうと思った次第です(笑)。ゴールデンウィークじゃなきゃ出来ないよ!

●選定基準は特になし!

でも始めてから気付きました。20じゃ到底絞りきれないってことを(いつものことではあるけれど)。シングルカットだけでも20を超えてしまう。仕舞いには「なんでこんなに名曲ばっかりなんだよ!」と逆ギレしそうになってしまいました(笑)。

だから途中で数を数えて20曲になった時点でいったん思考ストップ。そこからは文章に書くにあたってエピソードがあるかどうかを基準に若干差し替えを行うにとどめました。だから時代的には相当偏りがあるかもしれません。

また「落陽」だけは入れないと心に決めました(笑)。誰もが選ぶであろうこの曲はフォーク酒場の締めの曲なので、自分で弾き語らないから(笑)。だからある意味弾き語りたさMAXの曲でもあります。しかし20曲しか選べないなかで落陽に1曲割くのはひとくちメモ的にはあまりに王道すぎて気が引けまして。それだけです。

それでは自分で弾き語りたい吉田拓郎20選です。みゆきさんが弾き語りたい20選もぜひ聞いてみたい!2人でジョイントライブしてお互い相手の曲で弾きたい曲を弾き合うってのどうかしら?両者アコギ一本で武道館10番勝負とか。絶対萌える~。

●結果発表

いつも通り順位はありません。ほぼ思いつき順です。

流星
男の純情系バラードとでも申しましょうか。武田鉄矢さんもイチオシの曲ですよね。それで迷ったんだけど(笑)、最初に思いついたのはやっぱりこの曲でした。君の欲しいものは何ですか?

ペニーレインでバーボン

拓郎といえば字あまりソングの元祖。その代表曲といえばこの曲じゃないでしょうか。拓郎の字あまりソングって決して早口言葉じゃなくて歌いやすい。そもそも拓郎自身の語り口調も早口だからね。これ以外の字あまりソングは「FOREVER YOUNG」収録の「大阪行きは何番ホーム」と「7月26日未明」とか、「ローリング30」とか好きです。

吉田町の唄

最初に聴いたのは1993年のNHKのスタジオ101ライブだったと思うけど歌詞に感動したね。家族の大切さや連綿と受け継がれているコミュニティの命の系譜を拓郎の言葉で紡ぐとこうなるんだと思って。あくまで「私の唄」であって「私たちの歌」にしないところが拓郎らしさだと思う。

新潟県西蒲原郡吉田町の若者共和国からの発注で作られた曲だけど吉田町は全国にいくつかある。ボクは2002年四国旅行で愛媛県の吉田町を通過したとき、カーステでこの曲を流したかったけど持ってなかったんだ。でもそれがきっかけで「吉田町の唄」のCDを購入しました。

サマータイムブルースが聴こえる

この歌については、以前「サマータイム・ブルースが聴こえた!小説吉田拓郎」で渾身の記事を書いたのでそちらにリンクします。2006年のつま恋でのステージは忘れられないな。

外は白い雪の夜
春を待つ手紙

この2曲は1979年のシングルでカップリングだったんですね。それも春を待つ手紙がA面なのかぁ。これどっちも対話形式の曲なんですよね。歌詞の極み風に歌詞分析すれば桃太郎と同じで(笑)。

最初に聴いたのは「外は白い雪の夜」で1979年のライブ盤でした。レンタルレコードをカセットテープに録音して聴いてましたね。子どもだったから。このライブ盤は圧倒的にすばらしかった!中島みゆきから吉田拓郎に入ったボクの拓郎体験の原点かもしれません。このライブ盤だけで20選出来ちゃうから悩ましい。

春を待つ手紙は何かのラジオ番組で聞いたんだ。確か。そのときにいかにも拓郎っぽい歌だけど対話型ってところがやっぱ耳に残って。好きなんだな対話形式。歌詞では♪通り通りゃんせオイラだけ通せんぼってところが妙に好きです。

唇をかみしめて
RONIN

この2曲も武田鉄矢さんなくしては生まれなかった楽曲ですよね。「唇をかみしめて」は映画「刑事物語」の主題歌でしたね。中国地方出身者としては広島弁の歌詞が良かったなぁ。中島みゆきさんも歌旅のなかで歌ってますね。方言の持つ土地の臭いのようなもの、きっとお好きなんでしょうね。ボクも大好き。

RONINは「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」という映画の挿入歌でした。この映画は武田鉄矢さんの好きなものを全部入れた武田鉄矢ワールドなのですが、鉄矢さんがBGMをファン目線で依頼してるっぽいんで幕末モノとは思えない楽曲群に度肝を抜かれます(笑)。そんななか、この「RONIN」は映画のオリジナル曲で沁みる一曲です。

3大日本映画挿入歌を選ぶなら、ボクのなかでは「戦国自衛隊」のサンゴーズダウンと「人間の証明」の人間の証明のテーマ、そしてRONINです。主題歌は「ジャスト・ア・RONIN」(作詞・安井かずみ、作曲・加藤和彦)というアッパーな歌でしたが、カップリングのRONINのほうが断然好きです!

旅の宿

ギター弾き語りという観点ではこの曲はイチオシかも知れません。ハンマーリングやプリングオフを多様して、最後にジャズっぽいキメの演奏から6度の音のダウンストロークで締める。これが決まると伴奏が上手に聴こえる(笑)。フォーク居酒屋でもこれは必ず歌いたい。

今日までそして明日から

国際フォーラムのライブではオープニングで歌われて身体が震えるくらい感動しました。この曲は永遠に残したい日本のエバーグリーンですね。映画「旅の重さ」も本当に好きな映画で何度見ても飽きないです。日本は経済大国にはなったらしいけど文化への熱はあの頃のほうが豊かだったなぁ。でもそんなこと言ってちゃいけません。今日までそして明日からです。明日も連休でほーんとうれしいけど!

春の風が吹いていたら
夏休み
恋の歌

3連発にしたのは疲れてきたからではありませぬ!この3曲が代表するのは、よしだたくろうの童謡歌集です。勝手に名付けました。いま名付けました。とっても素朴でチャーミングな歌がたくさんあります。それらのなかから特にギター弾き語り目線で選んだ3曲です。

春の風が吹いていたらは伊庭啓子さんの作詞作曲ですから入れるかどうしようか迷ったのですが、あえて入れました。そもそもが収録アルバム「伽草子」の表題曲もこのジャンルですね。当時の奥さんとデュエットしたり幸せモード全開です。

「夏休み」は修学旅行に持っていくために買ったカシオのミニキーボードを使って簡単な打ち込みでインスト曲にした思い出の曲。かなりいい仕上がりでカセット録音した記憶があります。

「恋の歌」はいまや所ジョージさんの歌ですか(笑)。テレビ番組で共演したときに所さんが拓郎さんに「ください!」って懇願してましたよね。所さんも子ども心そのまんまで生きてる人だからこういう歌好きなんだろうなぁ。ボクも大好き。

拓郎のなかにある母性をくすぐるかわいらしさはこういう曲に表出してるとおもいますね。それは作詞が他の人でも関係なく、拓郎さんの魅力につながってますね。このジャンルは他にも「ポーの歌」や「準ちゃん」など名曲がありますね。どれもギター弾き語り向きだけどあまりに短いので1人3曲までのフォーク居酒屋ではもったいなくて歌えない(笑)。

舞姫

名曲中の名曲ですねぇ。松本隆さんの作詞です。中島みゆきさんの「歌姫」と双璧をなすこの姫シリーズ。なんかこう「覚悟」って文字が思い浮かぶんですよねぇ。B面は隠恋慕(かくれんぼ)でしたが、これも中島みゆきさんの横恋慕と対になってると思っていいんでしょうか。言葉遊びレベルの話ですけれど。

元気です

ものすごく短時間で作ったって話を聞いたことがあります。肩の力が抜けてちょうどいい塩梅で作られた曲なんでしょうか。拓郎節が素直に出ていて、流れるような言葉とメロディがすっと入ってきますよね。

ポーラテレビ小説「元気です!」の主題歌でした。宮崎美子はいつも元気です!「元気です。」ってアルバムのタイトル曲じゃないです。「アジアの片隅で」という傑作アルバムに収録です。

「元気です」って言葉が好きなのかな。手紙に書きそうな言葉ですよね。拓郎さんは手紙も好きだからそういう潜在意識から出てきたタイトルじゃないかと深読みしてます。

I'm in love

これはライブ盤「ONE LAST NIGHT IN つま恋」で聞いたのが最初だなぁ。ほんと好き。やっぱ拓郎はライブが最高だよ。ボクにこんなラブバラードを選ばせてしまう拓郎のすごさ。伝わりにくいコメントで申し訳ない!でもいい曲なんだ。ほんとに。

祭りのあと

これも弾き語りしたいというコンセプトで選んだ曲。祭りのあとの寂しい感じがもの悲しくもあるのだけれど、どうしようもなくいい。「旅の宿」と同じくギターのキメのフレーズが決まるとうれしい。作詞は盟友岡本おさみ。「元気です。」に収録です。

いつか街で会ったなら

ドラマ「俺たちの勲章」の挿入歌で、中村雅俊さんが歌われてましたね。拓郎のセルフカヴァは「ぷらいべえと」で聞けます。

どうしてドラマや映画にこんなにマッチする音楽が作れるんだろう。音楽が先か物語が先かというくらいにマッチするんだよね。相乗効果なんだろうな。「俺たちの勲章」はアマゾンのレビュー書いてるんでDVD-BOXにリンクしときますが、いまはブルーレイ全3巻で出てます。即買い必至!

誕生日

明るくない誕生日の歌であります。ボクのtwitterの自己紹介にはこの歌詞から♪いまどのあたりを歩いているのかさっぱりわからなくなっているの部分を引用してます。それだけ好きな歌詞ってことですわ。20歳の頃もきっとそうだったし今もそうです。

リンゴ

ようやく最後の曲にたどり着いた。リンゴは2分弱の短い曲です。ものすごく日常的な、その日常の中でもほんの些細な、リンゴの皮をむいて食べるところ限定の歌ですけれど、妙に印象的な歌です。マークⅡなんかもこのジャンルに入れたいけど、深読みしたくなる歌詞のひとつですね。いまはしませんが。リンゴでなきゃ成立しないこの感じはなんなんだろう。


というわけで、20曲選んでみましたけれども。あれも入ってない、これも入ってない。こんなことならワースト20を選ぶほうが簡単かも?(んなこたないか)

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2012/04/27

4MINUTEとTHE KOXXでGrooooovin' NOW

4minute(ポミニ)の3rdミニアルバムや音楽番組でポミニが歌う「DREAM RACER」を聴いてすぐに、この楽曲を作詞作曲しているTHE KOXXというグループに興味を持ち、彼らの2枚のCD「Access Ok」と「ENTER」を取り寄せた。なんの予備知識もなく、いや厳密にはポミニの「DREAM RACER」のグルーブだけを予備知識にして聴いた。その感想を一言で言えば「コイツら、すげぇ」だ。

平均年齢はポミニとあまり変わらない5人組だが、その楽曲はK-POPとは一線を画す。ブリティッシュ風のオルタナティブなロックテイストとか、そういうチープな言い回しでは言い尽くせないくらいゴキゲンなドライブミュージックだ(ってこの言い方はもっとチープだな…)。

それにしても2枚ともすばらしいアルバムだった。このグルーブはどこから来るんだろう。打ち込みも多様しているけれど、もっとライブバンド的な要素が強い。圧倒的なのはギターリフを中心とした構成だろうか。サウンドの要がギターになってる。それでいていわゆるロックバンド然としていない。

もちろんロックの要素もあるのだが、そこにオルタナ系やクロスオーバーなサウンドがてんこ盛りされていて。そして楽曲が明るい。陰にこもるタイプの楽曲じゃなくて、もっと太陽の下で聴きたくなるような明るさを持ってる。それは4minuteの「DREAM RACER」で直感した路線につながってると思った。

個人的にはバーサンバ(あるいはOVERSTREET)を聴いたときの衝撃に似てた。かなり好きなグルーブだ。バーサンバよりももっと激しく聞こえるのもギターの効果だと思う。

ギター中心のサウンドともうひとつ、シンセの音がものすごくいい。懐かしい感じの音もうまく練り込んでて、テクノポップ世代(YMO世代)のボクの耳にも心地いい。ホントに二十歳そこそこの連中がこれを作ってるのか!?恐るべき才能だ。

●4minute×THE KOXX その答えは

4minuteとのコラボは誰の発案なんだろう。このコラボを一言で言えば「正解!」だ。大正解といっても過言ではないと思う。

ボクは2010年のひとくちメモで「포미닛! ポミニ! 4minute!」というポミニ、そしてジユン礼讃記事を書いているのだが、その終わりのほうでこんな希望を出していた。

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K-POPの範疇ではダンスチューン中心にならざるを得ないが、ジユンには韓国インディーズシーンとの交流とか世界中の幅広い音楽を吸収して、さらなる表現力の進化を目指して欲しいっ!それが出来る才能があると思う。
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THE KOXXという韓国インディーズ界の新星とポミニのコラボは、この願望がまさに最高の形で実現したなと思える。

もっともボクにとっては、ポミニの新曲を聴くまでは知らなかったTHE KOXXだが、サマソニなどにも出演しているそうだから耳の速いとんがった連中は既に注目していたバンドなのかもしれない。ポミニを聴いていてこんなすばらしいバンドと出会えるなんてうれしいね。

特にポミニにとってジユンにとって、THE KOXXがひとつのジャンルに捉われない多様性を追求しているバンドであったことがすばらしい。このコラボはものすごくプラスになると思う。音を聴けばわかる。よくぞ実現してくれたといいたい。

THE KOXXのアルバムを聴いていてそこに何か足りないものがあるとしたら、それは女性ボーカルだ(何が言いたいかバレバレですが)。

例えば昔のSoul Ⅱ Soulのように女性のゲストボーカリストを入れてやるとものすごく映えるんじゃないだろうか(参考楽曲は2ndCDのPeopleとかA Dream's A Dream)。

そう考えると、4minuteとのコラボはTHE KOXXにとっても新しい発見のある取組じゃないかと思う。

そういう思いに至ったところで、あらためてポミニへの提供曲「DREAM RACER」を聴いてみると、THE KOXXサウンドがポミニのパフォーマンスと邂逅したことに「大正解 」と叫ばずにいられなくなるのだ!

欲を言えばきりがないが、ぜひポミニとTHE KOXXのジョイントライブを見てみたい!!

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2012/04/22

4minuteのVOLUME UPに投票する日々!

韓国で発売された4minuteのサードミニアルバム「VOLUME UP」が昨日ようやく届いたので聴いた。ていうかいまも聴いてる。聴きながら書いてる。

おなじみ신사동호랭이(シンサドンの虎)作曲による活動曲のVOLUME UPとTHE KOXXと組んで話題のDREAM RACERは、日本でも生放送が見れるMCountdownのカムバックステージで見ることが出来ていたので期待は大きかった。日本からも投票できるからVOLUME UPに投票する日々だ。

先週のMCountdownの最後みんなで集まる場面でのガユンは泣きそうな口元をグッとこらえていたように見えた。それは新曲でのカムバックステージのうれし泣きなのか、1位が取れなかった悔し泣きなのかわからなかったけれど。

そのステージを見ながら早くCDをウチのスピーカでちゃんと聴きたいと思った。特に今回の活動曲はエフェクト処理にも深みがあったし、ガユンとジユンのWユンコンビによるボーカルの掛け合いなども確実に深化を感じさせていたから。

ミニアルバムだけど全7曲はバラエティに富んでいてどれも良かった。ひとりひとりの個性が上手く活かされていて。今回の特徴はマンネのクォン・ソヒョンの成長ぶりかもしれないと思う。特にDREAM RACERでのラップ部分は17歳のいましかできないガールズ・ラップに仕上がってる。

ボクはあまりラップが好きではない。特にダミ声のラップは男女ともにちょっと好きになれなくて、2NE1にはまれなかったのもきっとそこなのだ。それは実力とかクオリティとかそういうことではなくてひとえに好みの問題なのだけど。

だからといってK-POPとラップは切っても切れない仲なので、ラップなしというのも寂しいというわがままなボクにとって4minuteの3人のラッパー兼ボーカル(ヒョナ、ジユン、ソヒョン)の声はみんな聴き心地がいい。

ヒョナとジユンは対照的なラップを見せる。静のヒョナと動のジユン。ついでに言えばボーカルの要はガユンとジユンだが、この二人もボーカリストとして対照的だ。ボクの大好きなジユンは4minuteの飛び道具というか、ジユンがいることによってヴァリエーションが格段にアップすると思ってる。最近はジユンのラップはあまり聴かれなくなってきたが、たまにはラッパーもやって欲しいと思う今日この頃だ。

そこにボーカルとラップと両方でマンネのソヒョンが個性を発揮できるようになれば音楽的な自由度もさらに広がるはずなのだ。そしてVOLUME UPでもDREAM RACERでもその可能性の扉が確かに開かれた。そう実感した。

わがままついでに言えば、MCountdownのカムバックステージで最初に魅せたソロパートの"너는 남의 눈칠 보며 한숨 뿌려 놓겠지 다들 품보다는 귀여운 척들만 해대지"くらいの抑えた発声、ウィスパーボイスとまではいわないが声をあえて張らない発声でラップしたほうがより活きると思った。YMOみたいな浮遊感ラップで。

なにはともあれ、この強力な楽曲群で戻ってきたポミニがうれしい。それにしても日本のファンクラブは会員ページで韓国での活動開始後のフォローがほとんどない()。物販よりこっちだろと思うが。

日韓のマネージメントやプロモーションの切り分けとか事情はあるんだろうが、グローバルに展開しているグループのファンは日本の活動と韓国や他国での活動とを分けてみているわけじゃない。グローバルな活動情報をしっかりフォローしてくれたほうがよっぽど意味がある。それがあってこそ日本の活動につながる。運営者にはそれがわかってないのだろうか…。

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2012/04/21

「事務ミス」をナメるな!

日々事務ミスには悩まされている。ボクは元プログラマーでもあり物事の手順を考えるのが趣味みたいなものなので、『「事務ミス」をナメるな!』の著者のお話にはまったく同感した。

ヒューマンエラーは努力と根性では防止できないし、ミスを起こしやすいポイントはいくつもあり対症療法的な取組になりやすいが、ミスの入り込む隙間を少なくする手順の構築は可能だ。

だがあらゆる組織やグループには抵抗勢力が必ずいて、昔ながらのやり方を変えたくない人々の坩堝でもある。そういう人物や集団を説得していくことから始めなければならず、最初のハードルが非常に高い。

職人芸でミスなく仕事をしている人々には、システム変更に対するものすごい不信感があったりする。手順を変えることは自分自身の仕事を否定されたとまで思う人もいるだろう。

そもそも仕事というものは(第三者から見れば)ミスがなくて当たり前なのだ。だから日々ミスのない仕事をしていれば評価はプラスでもマイナスでもない。ミスしたときにマイナス評価になるだけだ。

そういう考えから入るとミスを起こさないためのシステム開発は完璧に作動してもプラスにはならない。せいぜい評価ゼロの継続でしかない。

そういう意識から変える必要に迫られているのが現代社会だ。リスク管理という視点がますます重要になる仕事環境において、凡ミスの防止は急務であり、ミス撲滅のための継続的な取組をシステム化しなければならない。

実務的に考えればシステムの変更によって防げるミスは多い。ミスの発生ルートそのものを根絶し得る場合もあれば、ヒューマンエラーへの注意喚起を促すアラートを示すだけの場合もある。組織においてはそられの取組をしっかり評価する仕組みも必要だろう。

またそのシステム変更によって負荷が増える人々をいかにケアしていくかも重要な要素だ。手順の見える化と同時に成果の見える化も必須事項だと思う。

●お客様は神様でも信頼できる仲間でも信用しない

ミス防止のためにあえて非合理的に見える手順を入れる場合もある。よく引き合いに出したのは昔のカセットテープ録音だ。録音ボタンと再生ボタンを同時に押さなければならない。録音ボタンだけでいいように思うが、あえて再生ボタンも押させることで間違うリスクを低減していたわけだ。「録音する」という動作を意識させるために2つを同時に押すという非合理的な手順になっていたのだ。

ま、いまや「カセットテープの録音ボタン」が通じないわけだが(笑)、例えばHDDレコーダでもキャンセルとOKの位置をあえてパソコンなどと逆にしたり、スポーツウェアでもポケットのジッパーを下から上に引き上げて締める仕様になっていたりする。

つまり無意識の動作と逆をユーザーにさせることで動画を消したり、ポケットからモノを落としたりするミスを防ごうとしてくれているわけだ。もちろんその動作に慣れてしまうと同じことではあるが、日常の便利さとあえて逆の動作で意識付けをしていく効果はある。

先日見かけたのはチケットの発券のために10桁以上の数字を押させる画面があり、そのテンキーの並び順がランダムになっている機械だ。いつものテンキーのつもりで押すことが出来ず嫌でも数字を探して意識しながら押さなければならなかった。非常に面倒なのだが、これも間違い発券のリスクを重く見たのだろう。また物理的なボタンではなく画面上のボタンだから毎回ランダムに表示でき慣れることがない。

いろんな場面でいろんな担当者がリスク回避について考え始めていることは確かなようだ。ヒューマンエラーの起こしやすさからすれば、もっとも信用できないのが一般消費者であり、そういう一般人を相手にする場合は訴えられるリスクもあって、慎重なエラー回避策を日々検討しているのだろう。だがこれが組織やグループでの仕事となると、情報共有も進んでいる(と思っている)し、まだまだリスク管理が甘い。プライドの高い組織ほどその傾向にあるように思ったりする。

●手順化は“ボクの愛した数式”

私自身は仕事のうえで自分自身のミスを減らすために細かい手順のマクロ化や業務フロー化を行い続けてきた。モットーとしているのは「自分自身も信用しない」ということだ。自分をひとりのユーザーと想定し客観視することから始める。構築したいまのことを忘れてしまっているであろう未来の自分へのメッセージとして手順とコメントを残し続けている。「博士の愛した数式」の博士のように。

それらは特に評価を意識することなく自分のためにやっていることだから、ユーザーたる自分自身が納得できるシステムになっている。こんな改善をずっとやっていると、この仕事が他の仕事とどうつながっているかへの視野も広くなる。問題点の発見にもつながる。だが自分だけに見えていて、つながりのある別の業務従事者に見えていないと話が通じにくい。ときにケンカになったりもする。そこに組織のヒエラルキーなどを持ち出されるともう事務ミスから学ぶチャンスは闇に葬られてしまうのだ。

他人に自分の仕事をゴチャゴチャいわれたくないという感情は誰にでもあるだろう。だから結局、他人のミスを念頭にいれて、そのミスが起きたときに自分自身のシステムにアラートを出し、みつけたミスをひとつひとつ指摘しては直させるということをやっている。牛歩の歩みだが、具体的にミスの発生過程とその後のミス発見過程をいちいち示すことで、新たなシステムの必要性を実感させることも必要なのだ。

ただし、このような事務ミスをナメているダメ経営者は多い()。彼らもまた「博士の愛した数式」のようなものだが、彼らは博士のようにメッセージを残さない。昨日のミスはすぐ忘れて今日もまた同じミスを繰り返す。そして重大なミスが起きたときだけ関係者に責任を負わせ逃げてしまうのだ。卑怯だがよくある光景だ。彼らは自分自身を信用している。それが誤りの始まりといえるだろう。経営を根性でやってミスらないことを祈る。

というわけで、この文章のなかにも一箇所タイプミスがある(笑)。二箇所はないつもりだが大丈夫かな。

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2012/04/15

2012年キム・ギドクの旅

3月29日に韓国文化院のハンマダンホールでキム・ギドク監督の「春夏秋冬そして春」(2003年)という映画を鑑賞した。ほとんど何の知識もないまま上映会に向かった。事前情報としては、文化院の上映会案内で「神秘な山奥の湖上の庵を舞台に、ひとりの男の人生を美しい自然の四季と重ね合わせて描いたドラマ。」というリード文だけだった。だがこの一本との出会いは決定的だった。

遅れてきた韓流野郎のボクにとっては2010年のポン・ジュノ監督に続いて惹き込まれた監督だった。しかしその作風はまったく違っていた。どちらも作家性が強く監督の個性そのもののような映画を撮るが、ポン・ジュノ監督は構築していく作家であり、キム・ギドク監督は脱構築していく監督のように感じた。

それは「春夏秋冬そして春」を最初に見たからだとも思える。上映会から帰宅して、どうにもこうにもキム・ギドク監督のほかの映画も観たくなり、すぐ届くDVDを5本注文し立て続けに観た。すると「春夏秋冬そして春」はまさにターニングポイントといえる独特なポジションの映画だったことがわかった。

監督自身もこの映画の前後で意識が変わったことを記者会見で述べられている。翌年の作品「サマリア」(2004年)の日本公開で来日されたときのことだ。記者会見の席でキム・ギドク監督はこんなことを話されていた。

Kim_ki_duk「春夏秋冬そして春」までの映画では、社会に対する怒りや心の叫びを反映させていたが、この映画から「サマリア」「うつせみ」そして「」と続く映画では、もっと美しい部分を見ようとし始めたと言われ、魂との対話をしようという考えの作品になってきたともおっしゃった。自分自身が変わったと。

知り合いに「明るくなりましたね」とも言われたそうだ。「春夏秋冬そして春」以降は世の中を少し楽に見られるようになったと話された。そして、「この先どう変わるかは自分にもわかりません」と今となっては意味深な発言もされたのだが、そこについては後述したい。

●「春夏秋冬そして春」の世俗性

この映画は韓国とドイツとの合作映画で、韓国の美しい国立公園の湖に浮かぶ小さな寺を舞台にしている。この寺はセットだという。半年かけて関係する役所を説得し、湖に浮かぶ寺のセットを組んで撮影された。

別の作品「弓」(2005年)のなかで少女が生活する釣り船と、「春夏秋冬そして春」で少年が暮らす湖の寺とはオーバーラップする。「水に浮かぶ幼少時の生活の場」はキム・ギドク監督の潜在意識のなかに強くあるモチーフなのだろう。

そこは外部と隔絶された空間であり、自分を守ってくれる大きな存在の大人がひとりだけいる。幼児はやがてそこから外部の存在を知り関わりを持っていく。

「春夏秋冬そして春」の寺は、その内部で生活している分には非常に平穏であり、ある種の理想郷かもしれない。何もないが外部を知らない幼児にはその何もなさは苦にならない。春から夏へと季節が移ろうなかで、幼児も少年へと成長してゆく。

舞台が自然に囲まれた山寺であり、登場人物もお坊さんと小坊主の微笑ましい生活である前半は、非常に崇高な文化の薫り高い映画に思える。壁(間仕切り)がないのに扉だけあったりして、いちいちその扉から出入りする場面がある。壁がないんだから何も扉を開閉しなくてもいいのに見えない壁の存在を重んじる。礼節の象徴のような部分なのかもしれない。

しかしそんな教育映画のような物語が秋から冬へとまったく違う映画に一転してゆくのだ。

その湖の寺は小舟で外部とつながっている。小舟に乗って山菜取りなどに出かけるが、たまに来客がある。この来客の存在が俗世間との接点であり、少年が青年へと成長し寺を出て行くきっかけとなる。

夏以降、心を病んで療養に来たひとりの少女によって、それまでの崇高な文化の薫りをまったく打ち消すかのようなゲーセワな問題が次々発生する。性に目覚めた小坊主はその少女とセックス三昧。見えない壁も本当に見えなくなり夜這いもする。早朝から小舟でもやる。やがて少女を追って寺を出て行く。その後、何年も経って青年が寺に戻ってきたり刑事が追ってきたりするわけだが、映画前半とまったく別のゲーセワ映画になってしまうのだ。

この真っ二つに割れた映画が、しかし破綻することなくまた映画として蘇ってくるのが冬の時代だ。そこには中年坊主となって再度寺を訪れたかつての小坊主だけがいる。その中年坊主をキム・ギドク監督が自分で演じているのだが、非常にストイックな修行の連続なのだ。悔い改めるとはどういうことかみたいな教育映画にのめりこんでいくのだ。圧巻は苦役のための重しを腰に巻き仏像を抱いて荒れた山肌を一心不乱に登っていくキム・ギドク…。

なんとも不思議な、他に類のない映画だった。ゲーセワ部分を除いては。しかしこの映画にあのゲーセワさがなかったら、ボクの心にムズムズとした何かを残すこともなかっただろう。なぜこの監督は美しい自然のなかに寺を浮かべてこれでもかとゲーセワな問題を持ち込まなければならなかったのか。そんな疑問がこの監督の他の映画にボクを向かわせた。

●「春夏秋冬そして春」前後のキム・ギドク映画

「春夏秋冬そして春」前の映画では、「受取人不明」(2001年)と「悪い男」(2001)を観た。どちらも非常に力のある映画だった。自伝的な側面もある「受取人不明」と男の妄想ムービー(?)「悪い男」と、どちらも商業映画としての文法を持つ練られた脚本だと思った。

ただしキム・ギドクの文法は普通じゃない。どうしてそうなるの!?という唐突さや強引さもある荒削りな映画でもあった。超短時間で撮影される監督だということもわかった。低予算でもアイデア次第で面白い映画は作れるんだという自主製作映画人に夢と希望を与える監督でもある。

先に書いた監督のコメントどおり、この頃には暴力などの残虐シーンや自虐シーンもあり、社会の闇や韓国の抱える問題点をえぐるようなエピソードが盛り込まれている。

だがどちらも映画らしい映画とはいえる。逆に言えば「春夏秋冬そして春」が、それまでのキム・ギドク映画とはまったく異なる、異質な映画だったといえそうなのだ。

「春夏秋冬そして春」以降の映画は、「サマリア」「弓」「うつせみ」、そして今年イメージフォーラムで公開されていた「アリラン」を鑑賞した。

「サマリア」は「春夏秋冬そして春」以前のキム・ギドク映画に近い。援助交際をする少女二人の物語だが、最初の少女の足跡を追って売春し続ける主人公のその動機が普通じゃないし、まさに映画のような映画だ。

「弓」はまさにキム・ギドクの脳内にあるイメージをそのまま映画にしたような不思議な映画だった。これも設定が異常だし結末も異常なのに、なにか崇高な感覚になる。「春夏秋冬そして春」を逆パターンで撮ったような映画だ。世俗にまみれた現実(海に浮かぶ釣り船)のなかに留まり続ける純粋さを追求したような。

「うつせみ」の設定もよく思いつくなというくらい不自然だが面白い。キム・ギドクの映画文法を堪能できていい映画だった。留守宅を狙って宿にしては記念撮影をする主人公。冷蔵庫の食品は調理して食べるが、必ず家人の衣服を洗濯し、壊れた時計などを修理して出て行く。まるでそれが一宿一飯の恩義のように。

そんな生活のなかでDV夫に軟禁されている人妻と出会い、連れ立って二人でそんな生活を始める。だがそんな生活がそうそううまく行くはずもない。やがてつかまり人妻誘拐犯にされる。しかし人妻のほうも放浪生活の足跡をひとりで辿り始める。それはまるで「サマリア」の少女のようでもある。

これらがキム・ギドク映画のすべてではないだろうが中核となる作品群を見ることができたと思う。どれも世界の映画祭で絶賛された映画ばかりだ。これらの映画にはキム・ギドクのコアにあるイメージ、それは世俗から隔絶された水上の共存関係だったり、不在の友の生き直しだったり、悪や世俗のなかに存在し得る純粋さや正しさの肯定だったり、それらを突拍子もないストーリで描き続けているように思えた。

●自分撮り映画「アリラン」の衝撃

そして最新作かつ問題作「アリラン」だ。キム・ギドク監督は次のステージに入ったように思う。第1ステージは社会への怒りを反映した映画群だった。そして「春夏秋冬そして春」を境に第2ステージ=世俗のなかに美しさを見つける映画を撮り続けた。

しかし第2ステージは「悲夢」で終わる。出演女優のイ・ナヨンが撮影中に死にかける事故があり、以後キム・ギドク監督は映画を撮れなくなってしまった。そして3年が経ち昨年発表された「アリラン」は、その3年間の隠遁生活を自分撮りした作品だった。

真実と演出とが渾然一体となった作品だ。3人のキム・ギドクが登場する。ひとりは完全に弱気な男。もうひとりは聞き役に回って言葉を引き出す男。そしてもうひとりは客観的にその映像を編集する映画監督の男。どれもキム・ギドク本人だ。

時には自分を挑発し、時には映画産業を批判し、時には裏切った助監督を詰り、時には酒にまみれくだを巻き、時には熱く映画について語る。根が饒舌なのはこれまでの様々なインタビューを見ていてわかる。キム・ギドク映画はセリフが少ないが、監督本人が語り始めるととめどなく言葉があふれてくる。

監督として第1、2ステージで世俗の陰陽をいずれも極めて来たが、いま第3ステージに向かって「アリラン」を作り、陰陽渾然一体となった自分自身の恥部をさらけ出す。3年間の隠遁生活が正解だったかどうかは今後の作品次第だ。

ただ「アリラン」によってキム・ギドク監督の意識は確実に変化していることがわかった。思えば「春夏秋冬そして春」の前年に撮った「コースト・ガード」は第1ステージの“怒りの時代”の総決算と考えられる。この路線のつらさの極北だったのかもしれない。

●怒りの春、愛の夏、そして「アリラン」の秋

そう考えると「春夏秋冬そして春」の異質さも理解できる。ここでまったく人が変わってしまったキム・ギドク監督。だが人間には変えようとしても変わらない部分がある。それを信じればテーマが変わってもにじみ出る個性は残るものだ。

キム・ギドクは映画への情熱だけを羅針盤に“怒り”から“愛”に舵を切った。だがそこで作られた映画はまさにキム・ギドクそのものだったのだ。

だがその“愛の時代”は不幸な事故で幕を下ろした。いやもうその前にこの路線の限界は見えていたのかもしれない。それが事故をきっかけに止める決断をしたのではないか。

そして懺悔の3年間のなかで何らかの意志が芽生えたのだと思う。「アリラン」にはキム・ギドク監督が自作をパソコンで見ながら号泣する場面がある。この印象的なシーンで見ていた映画は「春夏秋冬そして春」の過酷な最後のシーンだった。

自分自身で演じたその僧侶の姿を見ながら涙を流していたのだ。その涙には様々な意味が見て取れるが、これは訣別の涙だったのではないかと思う。この作品で始まり不幸な事故で終わった自分の映画人生の第2ステージ=“愛の時代”に別れを告げたのではないか。

“愛の時代”の始まりに「この先どう変わるかは自分にもわかりません」と話していたキム・ギドク監督。次が何の時代になるかわからないが、「アリラン」を発表できたこと自体にキム・ギドクの映画への執念を見た。「春夏秋冬そして春」で考えれば、「アリラン」はキム・ギドク映画における秋の訪れなのかもしれない。

ところで「アリラン」のなかで、マーク2があればどこでも映画が撮れるとおっしゃっていたが、このマーク2とはEOS D5 Mark Ⅱのことだ。「アリラン」はこのカメラで撮られているんだろう。次回作の「アーメン」も、カンヌ国際映画祭で「アリラン」がある視点部門最優秀賞を撮った帰りにこのカメラを使って撮ったロードムーヴィーらしい。荒削りが魅力のキム・ギドクらしい映画が見れそうだ。

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2012/04/14

オンエア後の感想戦と「ホームにて」の解釈で罪滅ぼし(笑)

J-WAVE東京REMIX族「中島みゆきの歌詞の極み」の放送が終了しました!まず最初に感じたのは編集の力!テレビに出たときも感じましたけど、番組作りのキモってやっぱ編集の力だなぁ。プロの仕事ってすごいな。

それと番組終わりの五郎さんとしょこたんの振り返りコメントがめっちゃ暖かかった!まったく極まってないのにフォローしてくれて。全曲集も持って行ってよかった。最後にお二人がそこに触れてくれて。タネあかししてもらえた感じになんだかうれし涙が出てきそうでしたよ

5/2発売のしょこたんのべすとも予約しちゃいましたよ!10周年のことや前に深夜番組で作ったベジータ様の歌詞のことなんかも聞きたかったけど聞けなかったのが残念でした。アジア進出も大成功を期待します。ジャッキー・チェンはボクも大好きです(笑)。

というわけで、一区切りついたので今回も後夜祭ならぬ感想戦という名の反省録を書いておこうかなと。個人的な妄想エンディングトークですわ(笑)。

実際にボクがしたヨタ話は放送された倍以上あって(笑)、そこが反省ポイントだったわけですが、きれいに取り除かれたり再編集されたりして、流れるような番組になってました!胸をなでおろしてますわ。

ツイッターを見てると面白かったという声もあれば、極みっつっても2曲かよ的なコメントもあって。これ事前アンケートでは「中島みゆき(or 歌詞分析)の極み」と、中島さんオンリーでいくのか歌詞分析(歌詞解釈)全般でいくのか、ちょっと決めかねていたんです。

「地上の星」は課題曲だったから必ずやることになっていましたが、それ以外は迷いがあって、「ヘッドライト・テールライト」はぜひやりたいというのと、そこから派生した谷村さんの「昴」も入れておく必然性はあるだろうくらいまでは決めてました。「地上の星」のつばめをラジオ目線で語れたのは今回が初なのでそれもうれしかったです。

これ以外の曲については、いろんなネタをお渡しして作家さんやスタッフさんに進行台本をお任せした感じでしたが、結局すんばらしい編集の力で両方いいとこだけ活かしてもらえてたという感想です。

一言だけいっとくと、「バン・バン・バン」は「そもそも分析しきれない曲はありますか?」という質問の答えとしてむりやり解釈してみたものでした。でもいま放送を聴いて間違ってなかった!と思いましたね(笑)。

童謡については童謡でも何かありますか?ということだったので、昔からいろいろ考えてる太郎系のなかから(笑)「桃太郎」と一般的に知られてる「やぎさんゆうびん」を選んだわけです。このジャンルは入り込むとFM放送じゃなくなっちゃうんで軽めに…。やぎさんゆうびんは「3番4番がなきゃ終われないよ」って部分はカットになってましたね。いずれこのひとくちメモで3番4番の妄想的歌詞追加もしてみましょうかね。

●ホームにて

最後は「永遠の嘘をついてくれ」でした。これはウソのない詞なんじゃないかということで締めましたけど、一番好きな曲やフレーズは何ですかって聞かれるのはとても難しいですよね。ここはとにかく悩んだんですけど、一応ラジオ番組でもあり、いいエピソードもあるし現場にいた強みもあって、この歌を選ばせていただきました。

それでも3曲ですから、極まってるかというとどうだろう?ってボクでも思いますわ。そこでひとくちメモではもう一曲中島みゆきさんの「ホームにて」を少しだけ解釈してみたいと思います。罪滅ぼしっつーんですか。

事前アンケートでは「中島みゆきさんの歌詞が他の歌手とは明らかに違う点ってどんなところでしょうか?」という質問の答えに「ホームにて」を引いて書いていて、放送で触れる機会があれば触れてくださいということだったんですけれど、中島みゆきさん以外の歌詞で舞い上がってしまって触れられませんでした。桃太郎やってる場合じゃなかったよね()。

「ホームにて」のキモは何気なく聞いていると聞き過ごしてしまうような一言の重みではないでしょうか。そのフレーズは歌いだしにありました。

♪ふるさとへ向かう最終に 乗れる人は急ぎなさいと
♪やさしいやさしい声の駅長が 街なかに叫ぶ

この歌はなんらかの事情があってふるさとへは帰れない主人公を歌っているのですが、その事情について説明はいっさいありません。ただ帰りたいけど帰れないんです。

一般的に駅のホームには乗る人と見送る人がいます。素直に聞き流せばホームでそれを眺めている主人公、あるいは乗るか送るかどちらかの当事者としての主人公がホームにいて、そこでの情景描写をしているかと思います。

でもこの歌いだしの駅長の言葉はおかしくないですか?「乗れる人は急ぎなさい」とは言いませんよね。ちょっと日本語として違和感がありませんか。

普通は敬語で「ご乗車されるお客様はお急ぎください」のような言い方ですけれど、語調を整えるにしても「乗られる」といった敬語ならわかります。また安全面を考えれば「急げ」と駅長が言うでしょうか。

そう考えてしまうと歌詞解釈のスイッチが入ってしまいます。この「乗れる」は可能表現であって、駅長の言葉が「乗れる人は急げ。おまえは乗れない人だろう」と問いかけているように主人公には聞こえているんじゃないだろうか。

事情はわからなくても、そういうふるさとの捨て方をしたおまえには帰ることなんて出来ないだろうと、やさしい駅長の声が叫んでいるように聞こえてしまう。急げとせきたてられても乗れない人としての自分が躊躇しているんです。ホームにて…。

美しいメロディで歌いだしからものすごい絶望を歌うんですね。このギャップもまた魅力のひとつだと思います。こういう1フレーズが重要な意味を持っていたりします。ふるさとを捨てるというモチーフは、たとえばその後の「異国」という歌にもつながっていきまよね。

シンガーソングライターの場合は歌詞がいくつもの歌でリンクしたりすると、それがひとつの作家性として立ち現れてきます。そういう楽しみもありますよね。長くファンをやっていると楽曲も溜まるので、そんな心理分析チックなことも楽しいです。あくまでもひとり上手な妄想的解釈ではありますけれども。

それと番組最後に五郎さんとしょこたんが触れてくれた中島みゆきさんと動物との関係につきまして興味がございましたらこちらをご覧あそばせ。以上、番外編エンディングトークでした。いつもながら客観的な編集がないブログだから饒舌すぎるなぁ。違う意味で反省、…するもんかっ(笑)。

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2012/04/12

おもいで避け

♪無理して雇っちゃ いけないと
♪カネを渡して 追い出した
♪慰労金 どうして 二回払い?
♪噂をすれば 払わない…
♪おもいで避けて くれりゃいい

♪紅白にかかった カネを見て
♪そっとそろばん はじく彼
♪あの衣装 どうしてこの値段?
♪業者を変えりゃ 安くなる…
♪おもいつきだけで 口はさむ彼

(3番は特に替え歌にする必要なし)

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2012/04/07

脳内曲名 な行編

ネタぎれのときの定番企画「脳内曲名」です。前回はいつだったかと確認したら、「だ行編」は2010年4月25日だったので二年ぶり。この二年間はまさにハングル学習をはじめた最初の二年間でした。ようやく少し余裕が出来たというわけです。余裕はあってもネタがない!というわけで能書きはこのくらいにして始めます。イモ欽トリオのフツオの「なーっ!」を思い出す世代、「な行編」。

な:ナワ(나와)
に:人間の証明のテーマ
ぬ:ヌードと愛情
ね:ねこのねごと
の:North Wind

書き始めてからここまで約8分、ノープランでメモも取らずに選べたのがうれしい「な行編」です。

」を考え始めた瞬間、チャン・ギハと顔たちの「나와」を真っ先に思いついてしまったのは、この2年間のハングル学習の成果でしょうか(笑)。この曲は彼らのメジャーデビューアルバム「何事もなく暮らす」の1曲目を飾る楽曲で、チャン・ギハと顔たちの勢いを感じさせます。ライブでも盛り上がる曲ですね。とにかく「前に出ろ!」というオレ様感漂う名曲です。

」では「人間の証明のテーマ」を思いついてしまいました。もっといろいろあるようにも思いますが。「ニンジン娘」とか(笑)。でも人間の証明のテーマはカラオケで歌い倒した曲ですから。映画のほうも「これぞ角川映画!」というくらいすばらしく、この曲はこの画像と一緒に見ておきましょう。だんだん明るくなっていく風景と岡田茉莉子演じる女流デザイナーの人生の悲しさのコントラストが美しいです。

松田優作さんもかっこよかったし、森村誠一の原作も良かったし、なによりストーリーの底流にある戦争に翻弄された女の一代記がグッときます。薄っぺらいミステリーが多い昨今ですが、こういうどっしりした原作の日本映画が見たいですね。

」もすぐに思いついたのがVANILLAの「ヌードと愛情」です。これも昔はカラオケで歌いまくってましたね。男にはキーが高いのによく出てたな。客観的には出てなかったという評価もありそうですが無視!ぷんぷんぷんぷん!でももう歌えません。K-POPファンになった私の嗜好性の原点のひとつかもしれません。

「ね」は一転して高田渡の「ねこのねごと」です。さだまさしの「猫背のたぬき」と一瞬迷ったけど、先に思い浮かんだ高田渡にしました。高田渡さんは本当に稀有な才能でしたね。ボクが歌詞解釈を意識的に始めたきっかけも高田渡さんでした。亡くなったのは7年前の4月でした。もう7年になるんですね。

」が一番悩みました。考えた8分弱のうち、半分くらいは「の」を考えてたの~。その結果思い浮かんだのは永遠のアイドル松田聖子のセカンドアルバムにして傑作の「North Wind」からタイトル曲が思い浮かびました。このアルバムはジャケットの聖子ちゃんの天使の輪(髪の艶)から始まって、とてもまとまりのあるアルバムだと思います。North Windという曲はアップテンポな曲ですけど、全体に初冬の雰囲気で少し大人っぽくなった聖子の歌が堪能できます。個人的に胸キュンアルバムです(笑)。ブルースペックCDで再発されたときはとても嬉しかったです。

というわけで、「な行編」でした。脳内曲名とはなんの脈絡もない、あるとすればボク個人の脳内ヒラメキつながりでしかない、そんな楽曲のピックアップなわけです。恣意的に選んでないぶん、後から見直したときに客観的に自分の音楽体験を振り返られると思ってやってます。無意識に作られたプレイリストですね。ま、このあたりの理屈はすべて後付けですけれど(笑)。

ところで私のラジオ出演の件ですが、いよいよ来週土曜(4月14日)放送です。FMのJ-WAVEで17:00から放送の「東京REMIX族」に参加します。お蔵入りにならなくて良かった...。Twitterなどを見ると中島みゆきさんが出演すると勘違いしている人もいると思われます。

そうだよね~。ラジオだと本当に中島さんが出演される可能性のあるメディアだもんね。そういう勘違いをされてしまうのもムリないよね。でも勘違いでお聴きになられると、今回のとっちらかった私のトークが完全に裏目に出ます(笑)。リスナーの皆様におかれましては、おおらかな気持ちで夕刻のひとときを過ごしていただきたいと、このように思う次第でございます。中島さん以外の歌詞についてもたくさん妄想トークしてます。

お題が「中島みゆきの歌詞の極み!」だから、当然中島さんの歌詞を極めているのは中島さん本人に違いないんです。本当に勘違いさんが大正解!でもすみません、私がゲストです()。中島みゆきさんは出演されません ま、聴いていただけるとわかりますが隠れテーマは「嘘」なので(ってオレだけ?)。

J-WAVEはインターネットラジオのradikoでも聴けますよ。ネットラジオは雑音がないのでいいですよ。

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2012/04/01

四月阿呆の元祖!吉本豪三さんの今日の運勢

なんだか5年前に書いた「エイプリルフール廃止法案を米議会が可決」という記事にアクセスが集中してる!「卒業生、答辞」の時期が終わったら四月バカの季節だ。日々のうつろいをブログアクセス数で感じる今日この頃。オレは引きこもりかっ!

ところで、5年前に書いたそのエイプリルフールの記事で、日本の四月バカの元祖となった吉本豪三さん。すっかり有名人かと思いきや、さっき試しにGoogleで検索したら3件しかヒットしなかった!そのうち2件がこのブログひとくちメモだ。

つまり吉本豪三という名前は、世界中から情報を拾ってくるGoogleの世界でも非常に稀有な名前だったのだ。普通、同姓同名が数人みつかったりするもんだろ?でもよかった。本当の吉本豪三さんがいなくて(笑)。うそつきの元祖にでっちあげちゃったわけだからな。

んで、3つのうちの2つはオレの妄想の産物だったわけだが、もうひとつヒットしたのは「名前占い」というサイトだった。なるほど、そういうデータベースには存在するわけだ。

ということで吉本豪三さんの今日の運勢を占ってみたのだ。ヒマだろ!その結果は、


今日は、一期一会の精神で生活してみましょう。人との出会いを大切にすることが、幸運を呼び込むことにつながるのです。たとえあなたの苦手としているタイプの相手でも、真心を持って対応していれば必ず心を開いてくれるでしょう。そして、お互いがわかりあえる関係に発展していきます。性別や年令にこだわらず、気持ちと気持ちが真剣にぶつかり合ったときに、心の友情が芽生えるのです。
吉本豪三さんの今日のラッキーアイテムは「携帯電話」です。

とういうわけで、携帯電話でウソをつけ!ということですね☆
これもウソかな?

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人類の生きる意味は排泄にあり!?

人類が朝目覚めるのは、第一義的には排泄行為のためであることがわかった。

人類に限らず何らかのエネルギーを取り入れて体内処理し排泄する生物の“生きる意味”が排泄にあるとの学説が発表された。これまで人類は子孫を残すことが生きる究極の目的であり生きる意味と考えられてきたが、朝目覚めたときトイレに行きたくなることこそが生きる証しであり、単に個体の排泄が生きる意味とされたことにより、世界的にさまざまな動揺が広がっている。宗教上、倫理上の議論も噴出するものと思われる。

学説によると、あらゆる排泄行為によって地球環境は有機物のリサイクル、リユースが可能になっているという。地球という有機体の一部機能として生物が担う最大の役割が排泄にあり、これら生物は排泄なくして生きる価値がない。

排泄を終えたあらゆる生物はその生命を閉じる。子孫を残せたかどうかに限らず排泄の有無が生命線である所以だ。排泄を行うのは人類だけではないため、たとえ人類が子孫を残せず絶滅したとしても、排泄機能を持つ生物による有機物の循環が途絶えなければ地球の存続は可能だ。

この学説を踏まえ医療業界にも様々な変化が起きている。すでに医薬品業界では夢の不老長寿には排泄システムの延命こそが重要との認識のもと、様々な腸内環境改善の新薬開発競争が激化し始めた。

人類はこの重要な排泄行為を長い間不浄のものとして隠蔽してきた。そのため、食べる行為(インプット)を礼讃し、食べることを本能的な楽しみと考えるに至った。しかし学説によればこれは一種のすりこみ現象と考えられているという。

このすりこみ現象は、食事に興味を集中させ排泄機能を促進させる機能だという。この機能がもっとも突出した一部の人類は、生命の危険を伴ってでも食べ続けるという飽食の時代に突入している。また排泄物の質を高めるために健康という概念が生まれたとされる。

地球にとって人類の排泄物は、飽食による量の確保と健康的生活による質の向上とが同時に計られているともいわれている。まさに地球の意志を感じるが、そのような「意志」という概念は人類特有のものとも考えられており、単に地球による機能回復、自然治癒力の産物とするグループもある。

ただ、なぜこのような飽食や健康が発達したかの全容は未だ明らかになっておらず今後の研究が待たれる。一部研究者の間では、核開発により地球環境の有機的リサイクル、リユースが悪化し始めたことが原因だといわれている。さらに良質な排泄物を同時多発的に量産せざるを得なくなった地球の意志であるとの声もささやかれている。あるいはこれこそが機能不全の表出なのではないかと警鐘を鳴らす研究者もいる。

確かなことは、人類が核開発を進め自らの絶滅を早める行為は、地球による有機物リサイクル、リユースの循環を断ち切る行為であり、人類以外の機能不全をも引き起こすことだ。飽食ブームも健康ブームも地球にとってはありがたい排泄機能の向上といえるが、あらゆる有機物を死に導きトイレのないマンションともいわれる原発開発だけは地球の意志に反した行いといえるのではないだろうか。

●ニュース:排泄こそが生きる意味!?

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