2012年キム・ギドクの旅
3月29日に韓国文化院のハンマダンホールでキム・ギドク監督の「春夏秋冬そして春」(2003年)という映画を鑑賞した。ほとんど何の知識もないまま上映会に向かった。事前情報としては、文化院の上映会案内で「神秘な山奥の湖上の庵を舞台に、ひとりの男の人生を美しい自然の四季と重ね合わせて描いたドラマ。」というリード文だけだった。だがこの一本との出会いは決定的だった。
遅れてきた韓流野郎のボクにとっては2010年のポン・ジュノ監督に続いて惹き込まれた監督だった。しかしその作風はまったく違っていた。どちらも作家性が強く監督の個性そのもののような映画を撮るが、ポン・ジュノ監督は構築していく作家であり、キム・ギドク監督は脱構築していく監督のように感じた。
それは「春夏秋冬そして春」を最初に見たからだとも思える。上映会から帰宅して、どうにもこうにもキム・ギドク監督のほかの映画も観たくなり、すぐ届くDVDを5本注文し立て続けに観た。すると「春夏秋冬そして春」はまさにターニングポイントといえる独特なポジションの映画だったことがわかった。
監督自身もこの映画の前後で意識が変わったことを記者会見で述べられている。翌年の作品「サマリア」(2004年)の日本公開で来日されたときのことだ。記者会見の席でキム・ギドク監督はこんなことを話されていた。
「春夏秋冬そして春」までの映画では、社会に対する怒りや心の叫びを反映させていたが、この映画から「サマリア」「うつせみ」そして「弓」と続く映画では、もっと美しい部分を見ようとし始めたと言われ、魂との対話をしようという考えの作品になってきたともおっしゃった。自分自身が変わったと。
知り合いに「明るくなりましたね」とも言われたそうだ。「春夏秋冬そして春」以降は世の中を少し楽に見られるようになったと話された。そして、「この先どう変わるかは自分にもわかりません」と今となっては意味深な発言もされたのだが、そこについては後述したい。
●「春夏秋冬そして春」の世俗性
この映画は韓国とドイツとの合作映画で、韓国の美しい国立公園の湖に浮かぶ小さな寺を舞台にしている。この寺はセットだという。半年かけて関係する役所を説得し、湖に浮かぶ寺のセットを組んで撮影された。
別の作品「弓」(2005年)のなかで少女が生活する釣り船と、「春夏秋冬そして春」で少年が暮らす湖の寺とはオーバーラップする。「水に浮かぶ幼少時の生活の場」はキム・ギドク監督の潜在意識のなかに強くあるモチーフなのだろう。
そこは外部と隔絶された空間であり、自分を守ってくれる大きな存在の大人がひとりだけいる。幼児はやがてそこから外部の存在を知り関わりを持っていく。
「春夏秋冬そして春」の寺は、その内部で生活している分には非常に平穏であり、ある種の理想郷かもしれない。何もないが外部を知らない幼児にはその何もなさは苦にならない。春から夏へと季節が移ろうなかで、幼児も少年へと成長してゆく。
舞台が自然に囲まれた山寺であり、登場人物もお坊さんと小坊主の微笑ましい生活である前半は、非常に崇高な文化の薫り高い映画に思える。壁(間仕切り)がないのに扉だけあったりして、いちいちその扉から出入りする場面がある。壁がないんだから何も扉を開閉しなくてもいいのに見えない壁の存在を重んじる。礼節の象徴のような部分なのかもしれない。
しかしそんな教育映画のような物語が秋から冬へとまったく違う映画に一転してゆくのだ。
その湖の寺は小舟で外部とつながっている。小舟に乗って山菜取りなどに出かけるが、たまに来客がある。この来客の存在が俗世間との接点であり、少年が青年へと成長し寺を出て行くきっかけとなる。
夏以降、心を病んで療養に来たひとりの少女によって、それまでの崇高な文化の薫りをまったく打ち消すかのようなゲーセワな問題が次々発生する。性に目覚めた小坊主はその少女とセックス三昧。見えない壁も本当に見えなくなり夜這いもする。早朝から小舟でもやる。やがて少女を追って寺を出て行く。その後、何年も経って青年が寺に戻ってきたり刑事が追ってきたりするわけだが、映画前半とまったく別のゲーセワ映画になってしまうのだ。
この真っ二つに割れた映画が、しかし破綻することなくまた映画として蘇ってくるのが冬の時代だ。そこには中年坊主となって再度寺を訪れたかつての小坊主だけがいる。その中年坊主をキム・ギドク監督が自分で演じているのだが、非常にストイックな修行の連続なのだ。悔い改めるとはどういうことかみたいな教育映画にのめりこんでいくのだ。圧巻は苦役のための重しを腰に巻き仏像を抱いて荒れた山肌を一心不乱に登っていくキム・ギドク…。
なんとも不思議な、他に類のない映画だった。ゲーセワ部分を除いては。しかしこの映画にあのゲーセワさがなかったら、ボクの心にムズムズとした何かを残すこともなかっただろう。なぜこの監督は美しい自然のなかに寺を浮かべてこれでもかとゲーセワな問題を持ち込まなければならなかったのか。そんな疑問がこの監督の他の映画にボクを向かわせた。
●「春夏秋冬そして春」前後のキム・ギドク映画
「春夏秋冬そして春」前の映画では、「受取人不明」(2001年)と「悪い男」(2001)を観た。どちらも非常に力のある映画だった。自伝的な側面もある「受取人不明」と男の妄想ムービー(?)「悪い男」と、どちらも商業映画としての文法を持つ練られた脚本だと思った。
ただしキム・ギドクの文法は普通じゃない。どうしてそうなるの!?という唐突さや強引さもある荒削りな映画でもあった。超短時間で撮影される監督だということもわかった。低予算でもアイデア次第で面白い映画は作れるんだという自主製作映画人に夢と希望を与える監督でもある。
先に書いた監督のコメントどおり、この頃には暴力などの残虐シーンや自虐シーンもあり、社会の闇や韓国の抱える問題点をえぐるようなエピソードが盛り込まれている。
だがどちらも映画らしい映画とはいえる。逆に言えば「春夏秋冬そして春」が、それまでのキム・ギドク映画とはまったく異なる、異質な映画だったといえそうなのだ。
「春夏秋冬そして春」以降の映画は、「サマリア」「弓」「うつせみ」、そして今年イメージフォーラムで公開されていた「アリラン」を鑑賞した。
「サマリア」は「春夏秋冬そして春」以前のキム・ギドク映画に近い。援助交際をする少女二人の物語だが、最初の少女の足跡を追って売春し続ける主人公のその動機が普通じゃないし、まさに映画のような映画だ。
「弓」はまさにキム・ギドクの脳内にあるイメージをそのまま映画にしたような不思議な映画だった。これも設定が異常だし結末も異常なのに、なにか崇高な感覚になる。「春夏秋冬そして春」を逆パターンで撮ったような映画だ。世俗にまみれた現実(海に浮かぶ釣り船)のなかに留まり続ける純粋さを追求したような。
「うつせみ」の設定もよく思いつくなというくらい不自然だが面白い。キム・ギドクの映画文法を堪能できていい映画だった。留守宅を狙って宿にしては記念撮影をする主人公。冷蔵庫の食品は調理して食べるが、必ず家人の衣服を洗濯し、壊れた時計などを修理して出て行く。まるでそれが一宿一飯の恩義のように。
そんな生活のなかでDV夫に軟禁されている人妻と出会い、連れ立って二人でそんな生活を始める。だがそんな生活がそうそううまく行くはずもない。やがてつかまり人妻誘拐犯にされる。しかし人妻のほうも放浪生活の足跡をひとりで辿り始める。それはまるで「サマリア」の少女のようでもある。
これらがキム・ギドク映画のすべてではないだろうが中核となる作品群を見ることができたと思う。どれも世界の映画祭で絶賛された映画ばかりだ。これらの映画にはキム・ギドクのコアにあるイメージ、それは世俗から隔絶された水上の共存関係だったり、不在の友の生き直しだったり、悪や世俗のなかに存在し得る純粋さや正しさの肯定だったり、それらを突拍子もないストーリで描き続けているように思えた。
●自分撮り映画「アリラン」の衝撃
そして最新作かつ問題作「アリラン」だ。キム・ギドク監督は次のステージに入ったように思う。第1ステージは社会への怒りを反映した映画群だった。そして「春夏秋冬そして春」を境に第2ステージ=世俗のなかに美しさを見つける映画を撮り続けた。
しかし第2ステージは「悲夢」で終わる。出演女優のイ・ナヨンが撮影中に死にかける事故があり、以後キム・ギドク監督は映画を撮れなくなってしまった。そして3年が経ち昨年発表された「アリラン」は、その3年間の隠遁生活を自分撮りした作品だった。
真実と演出とが渾然一体となった作品だ。3人のキム・ギドクが登場する。ひとりは完全に弱気な男。もうひとりは聞き役に回って言葉を引き出す男。そしてもうひとりは客観的にその映像を編集する映画監督の男。どれもキム・ギドク本人だ。
時には自分を挑発し、時には映画産業を批判し、時には裏切った助監督を詰り、時には酒にまみれくだを巻き、時には熱く映画について語る。根が饒舌なのはこれまでの様々なインタビューを見ていてわかる。キム・ギドク映画はセリフが少ないが、監督本人が語り始めるととめどなく言葉があふれてくる。
監督として第1、2ステージで世俗の陰陽をいずれも極めて来たが、いま第3ステージに向かって「アリラン」を作り、陰陽渾然一体となった自分自身の恥部をさらけ出す。3年間の隠遁生活が正解だったかどうかは今後の作品次第だ。
ただ「アリラン」によってキム・ギドク監督の意識は確実に変化していることがわかった。思えば「春夏秋冬そして春」の前年に撮った「コースト・ガード」は第1ステージの“怒りの時代”の総決算と考えられる。この路線のつらさの極北だったのかもしれない。
●怒りの春、愛の夏、そして「アリラン」の秋
そう考えると「春夏秋冬そして春」の異質さも理解できる。ここでまったく人が変わってしまったキム・ギドク監督。だが人間には変えようとしても変わらない部分がある。それを信じればテーマが変わってもにじみ出る個性は残るものだ。
キム・ギドクは映画への情熱だけを羅針盤に“怒り”から“愛”に舵を切った。だがそこで作られた映画はまさにキム・ギドクそのものだったのだ。
だがその“愛の時代”は不幸な事故で幕を下ろした。いやもうその前にこの路線の限界は見えていたのかもしれない。それが事故をきっかけに止める決断をしたのではないか。
そして懺悔の3年間のなかで何らかの意志が芽生えたのだと思う。「アリラン」にはキム・ギドク監督が自作をパソコンで見ながら号泣する場面がある。この印象的なシーンで見ていた映画は「春夏秋冬そして春」の過酷な最後のシーンだった。
自分自身で演じたその僧侶の姿を見ながら涙を流していたのだ。その涙には様々な意味が見て取れるが、これは訣別の涙だったのではないかと思う。この作品で始まり不幸な事故で終わった自分の映画人生の第2ステージ=“愛の時代”に別れを告げたのではないか。
“愛の時代”の始まりに「この先どう変わるかは自分にもわかりません」と話していたキム・ギドク監督。次が何の時代になるかわからないが、「アリラン」を発表できたこと自体にキム・ギドクの映画への執念を見た。「春夏秋冬そして春」で考えれば、「アリラン」はキム・ギドク映画における秋の訪れなのかもしれない。
ところで「アリラン」のなかで、マーク2があればどこでも映画が撮れるとおっしゃっていたが、このマーク2とはEOS D5 Mark Ⅱのことだ。「アリラン」はこのカメラで撮られているんだろう。次回作の「アーメン」も、カンヌ国際映画祭で「アリラン」がある視点部門最優秀賞を撮った帰りにこのカメラを使って撮ったロードムーヴィーらしい。荒削りが魅力のキム・ギドクらしい映画が見れそうだ。
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