google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2012年3月

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2012年3月の11件の記事

2012/03/31

中島みゆきさんの「強い風はいつも」を思い出す日

今日は強い風が吹いている。雨は降ってなさそうだが音がすごい。こんな日は外に出たくない。食材がないのがいたい!あるのは1カップの米、冷凍うどん玉1袋、パスタ700g、生玉子4個、レトルトカレー4袋。カレー三昧だな()

中島みゆきさんに「強い風はいつも」という歌がある。この歌も「地上の星」のようにさまざまなメタファオンパレードだ。

歌詞解釈魂に火をつける楽曲だが、今日は風が強くて危ないので火はつけない(笑)。外に出たくないからノープランで書き始めたKeonaKeahiの日記に加筆しつつブログに転記してるとこ。

「強い風はいつも」はしかし、「地上の星」のようにそれぞれの比喩が何を示すのかと考えるアプローチよりも、包括的にその「強さ」と“ボク”、もしくは作者、もしくはリスナーとの関係性とから「強さ」について考えはじめたい歌だ。

その「強さ」は“ボク”に様々な思いを残してゆく。その残していく「強さ」の残影の意味を考える。解釈の幅は相当広いが、だからどうなるという結論めいたこともなく、ある種の風景描写のような歌になっている。それは物理的な風景の場合もあれば心象風景のようなものの場合もある。

この抽象的な風景描写は中島みゆきのひとつの特徴ともいえる。ひとつの歌のなかにあるキーワードそのものにこだわるのもいいし、いくつもの歌に現われる同一キーワードのメタファの共通性、差異性、変化または不変などを読み解くこともできそうだ。

そもそも「風」というのは詩人の心を捉えるキーワードのようだ。風の歌10選という企画も出来そうだ。今日はやらないけど。松本隆さんも風が大好きだ。作品集は「風街図鑑」だった。

風といってすぐに思いつくのはボブ・ディランの「風に吹かれて」。いろんな歌手がカヴァしているし、オフコースは同タイトルのオリジナルを作った(これも名曲)。

他にも松田聖子の「風立ちぬ」、はっぴぃえんどの「風をあつめて」、堺正章の「北風小僧の貫太郎」、アルフィーの「風曜日、君をつれて」などなどなど風の名作はたくさんある。

風は向かい風もあれば追い風もあり、留まることのない現象でつかみどころがない。風とどう付き合っていくかは詩人の感性と密接につながっているようだ。

でも今日のように強い風の日に、ボクの思いついた歌は中島みゆきさんの「強い風はいつも」だった。あるいはタイトルに風が出てこないが「断崖-親愛なる者へ」も強い風の歌だった。この歌も歌詞解釈魂に火をつける。今日はやらないけど。

どんな風とどんな風に付き合っていくべきか。詩人にとって風とは何か。今日はやらない。とりあえず今日は外に出たくない。それだけ言いたかった。

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2012/03/26

中島みゆきの歌詞解釈とは上手な嘘にどっぷり騙されたい願望かも

ラジオ収録後から三日三晩考えて、ラジオが大好きな友人にも話してみて、結構あれで良かったかもという気分になってきた。ボクがやってることは歌詞分析じゃなくて歌詞解釈だということを改めて確認できたことは良かった。

KNTVでやってる韓国時代劇「根の深い木」第3話を見ていて、若き王イ・ド(ソン・ジュンギ)が自分の父である上王イ・バンウォン(ペク・ユンシク)の謎掛けに応える場面があった。そこでイ・ドは「真理はどうあれ自分がどう解釈するかだ」と答えた。

まさに王道とはそういうことだ。歌詞分析と歌詞解釈の違いもそこにあると考えていた矢先だったので、非常に印象に残ったシーンだった。

●歌詞分析と歌詞解釈との違い

歌詞分析をしてもその歌詞を超えることが出来ない。分析が有効なのはダブルミーニングの歌詞などに限られるだろう。明らかに作者の意図や書かれた背景が隠されている場合だけだといえる。

もちろんそれを知ることでその歌がより深い感動とともに聴こえてくるという歌はあると思う。昨年末のうたバナーで言えばテレサ・テンさんの歌だったり、作詞家のなかにし礼さんが自伝的小説などで書かれているいくつかの歌のエピソードなどがそれだ。だがドキュメンタリー的に迫ることの出来る歌は限られる。

それにくらべて歌詞解釈はもっとカジュアルかつ独創的だ。歌詞はひとつのお題ともいえる。それを頂戴して、その言葉ひとつひとつから別の物語を創造するゲームだ。一種のパロディともいえる。替え歌ですら歌詞解釈の一形態といってもいいかもしれない。だからボクは替え歌が好きなのかもしれない。

歌詞解釈の試みは作詞者の意図から大きく乖離するかもしれない。しかし流行歌とはそれを内包して作られる。昭和の歌謡曲にはそのような作為的曖昧さが満載されているわけだ。特に指示語や人称代名詞が何を指すのか誰を指すのか、そういう個人的なキーワードはどうとでも取れるし、どうとってもいい。

どう解釈すればどんな世界を構築できるか、そこに面白みがある。これはボクがタロット好きなところにも通じるように思う。タロットは「絵解き」であり、無作為に選ばれた複数の絵に意味(解釈)を与えるゲームだ(占いという人もいる)。

●歌詞解釈の素材としての中島みゆき

中島みゆきさんの歌詞を語るとき、その歌が私小説的であっても寓話的・御伽噺的であっても、その背景を探る週刊誌的な興味はボクにはない。だがその世界観を共有しつつ行間を埋めて物語を再構築したくなるのは確かだ。

特に中島みゆきさんの歌詞は核心部分が幾重もの衣を纏っていて、ときに心地よく、ときに力強く、ときに懐かしく、ときに絶望的で、ときに神々しくもあり、なぜか暖かい。事実が人を感動させるのではなく、レトリックが人を感動させることがある。上手な嘘に救われたりすることもある。流行歌とはそういうものだと思う。

「中島みゆきの歌詞」というタロットカードに自分なりの解釈を与える試みは、そういう上手な嘘としての比喩に騙されていく過程ともいえそうだ。騙している中島さんと騙されているボク。そこには交わることのない断絶がある。シンガーソングライターだが作家性の強い作詞者だとも思う。

歌詞解釈はこの断絶を修復する試みではもちろんない。100%自分勝手にこちら側の論理で理解していくだけのひとり遊びだ。ひとり上手と呼ばれれば本望!あなたのことをこれだけ理解してるんですよという競争ではなく、綺麗に騙されたい願望の吐露だ。ただ少し理屈をこねさせてもらう(笑)。そういう関係にあると思う。そしてやるからには上手くやりたい。上手く騙されたいし騙したい。そういう企みでもある。

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2012/03/24

ネットは玉石混交でも玉を選べるだけテレビマスコミよりありがたい #kinkin.tv

パックインジャーナルがあと2回で放送終了するが、間髪いれず翌週からはインターネットで生放送をするという。それが決まって1ヶ月で放送開始になるわけで、スタッフもてんてこ舞いのようだ。それを応援する気持ちでボクも何度か日記に書いたことをここにまとめて再録しておきたい。

ボクはこの番組が大好きだった。14年間続いた番組で、初期の頃から見つづけて来た番組だった。朝日ニュースターの20周年記念プレゼントに応募してキンキン風呂敷も当たった(笑)。

いまは韓国の番組をみるために入っているケーブルテレビだが、もともとはこの番組を見るために入っていたようなものだった。キンキンいわく「日本で一番わかりやすいニューストークショー」だった。もちろんいまも毎週見ている。

愛川欽也という人はテレビの試験放送の頃からテレビに出演してきたメディアの生き証人のようなタレントで地上波民放テレビの長寿番組の司会をいくつもやってきたが、この番組ほど思い入れの強い番組はなかったと思う。それは番組の画面からも強く感じるし、今月末で終了することに無念の思いがあることも番組で話している。

番組が終わるのは人気がなくなったからではない。おそらく始まった頃よりは数十倍レベルで視聴者は増え続けていると思う。特に震災後は他の(発表報道中心の)メディアが信じられない世の中で、数少ない真っ当な視点からのニュース解説をしてくれるパネラーがいた。政治家や官僚、メディアのなかにもこの番組をこっそり(?)チェックしている人が結構いるようだ。

なぜ終わるのかといえば、朝日ニュースターがテレビ朝日に買収されてなくなるからだ。テレビ局そのものがなくなる。買収後も続けたいなら、毎週2時間の生放送でやっているこの番組を月二回程度1時間の録画放送でと言われたそうで、それならやめるということになったそうだ。

朝日ニュースターの買収についてはスタッフ解雇問題など労働争議も起きているし、非常に後味の悪い買収劇だ。見ている側からは原発反対番組を消すためではないといううがった見方すらしたくなる。

しかしこの番組は出演していたパネラーやスタッフにも続けたいという思いが強かったようで、4月7日からインターネットテレビで放送することに決まった。このダイナミズムは久しぶりにワクワクするような話だし、スタッフや出演者の皆さんの行動力に敬意を表したい。

http://kinkin.tv/

地上波テレビの試験放送から出ていた愛川欽也さんが、時代の最先端といえるインターネット放送のペイテレビという、いわば試験放送に乗り出すわけだ。

ご本人は「私はインターネットが出来ません!」と言い切るアナログの人だが、逆に戦争体験もあり生き馬の目を抜く業界で生きてきた人気商売の達人が、こういう新しいメディアに偏見を持たず参入してくれることが面白い。パックインジャーナルですら最初は誰も見ていないところから始まったのだ。

今日のオープニングトークで、kinkin.tv の登録方法の説明があったので早速登録した。メールアドレスとパスワードを送るだけで簡単に登録できる。4月から始まるこのネットテレビ kinkin.tv は月額500円のペイテレビになるという(4月7日は無料)。これは安いと思う。4月からは毎週土曜のこの時間インターネットで生放送のニュース番組を見るという生活が始まる。

個人的な直感だけど、いまの衛星放送よりも視聴者が増えるんじゃないかという気がする。またペイテレビなので積極視聴となるだろうし、マスメディアという言論空間に一石を投じる試みだと思う。

一昨日書いた米長邦雄永世棋聖vs ボンクラーズの「電王戦」対局のニコニコ動画はその生中継を有料会員で34万人、ミラーサイトの無料視聴まで入れると100万人が視聴したという。

一昔前には、ネットの情報なんて玉石混交で信用ならないとよく言われた。しかしいまやマスコミの信用も失墜している。テレビマスコミのよりどころはもはや許認可事業というそこだけだ。せっかく放送する権利を独占的に握っているマスコミが、その権利を乱用して世論操作のようなことをし始めたときから崩壊の序曲は鳴り始めていたように思う。

ネットはあいかわらず玉石混交だが、そこから玉か石かを選別できるスキルもユーザー側に育まれてきているかもしれない。玉石混交でも玉があることを信じられれば、あとはそれを選択するだけだ。ネットには選択の自由があるだけマスコミよりも優れている。

kinkin.tv はマスコミへのアンチテーゼになり得ると思う。イデオロギー的でなく、個別の議論のできる社会が民主主義への道だ。「知りたいことを聞きたい」というのはもっともシンプルなマスメディアへの要望なのだ。「教えたいことを知らしむる」ばかりの発表メディアにはもう飽きた。ものごとはシンプルに考えればうまくいくと思う。

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2012/03/22

「われ敗れたり」米長邦雄 vs ボンクラーズ 歴史の扉を開く敗戦記

いま米長邦雄永世棋聖の「われ敗れたり」を読んでいる。ついに2012年1月、将棋のトッププロがコンピュータに負けた。その対戦は「電王戦」と命名され、ニコニコ動画で中継された。

コンピュータは日々強くなっている。アマトップを倒し、女流名人を倒し(この対戦も書籍化されていて昔読んだ)、ついにここまできた。

将棋界もコンピュータの進化に協力し続けてきたという。私もその要所要所には常に注目してきたので、今回の歴史の1ページに記される対戦の記録が書籍として残ることに意義があると思う。それをしてくれるのは米長邦雄永世棋聖ならではだと思う。

負けてなお人気の米長邦雄永世棋聖。かつて泥沼流といわれた勝負師だったが、コンピュータを相手にしたときのまったく異なる思考と実践の記録は、将棋を知らなくても読み応えがある。

ちなみに私は将棋はまったく出来ない。弱いというレベルじゃなく、駒が「成る」とどう動かせばいいのかすら知らないレベルだ()。成らないときの動きはなんとか分かるといったレベルだ。

しかし将棋というゲームのあり方には興味がある。すべての手の内がさらされ、すべての駒の動きが記録され、誰もが棋譜を入手可能だ。あらゆる新手・奇手も出現した瞬間に研究されすぐに対抗策が出てくる。

だが他のボードゲームと異なり相手が捨てた駒を再利用できるという画期的なルールによって、読みの手筋が膨大に膨らむ。勝負のあやも生まれる。

ゲームとしての厳しさは尋常でない。ここまで情報を開示したなかでトッププロは勝ち続けなければならない。その精神力と知力、体力、発想力、観察力、決断力、忍耐力、それらすべてを盤上に集中させる集中力。

コンピュータはそんな棋士の姿とは真逆だ。すべての手が点数化され後半には決して間違えず、めっぽう強いらしい。米長邦雄永世棋聖も序盤が勝負の決め手になるという結論に達し、人間相手には一度も指したことのない一手を指した...。そして敗れたのだ。

その一手の意味と敗れた勝負の分析とを読むことで、コンピュータの現在や棋士の思考回路を垣間見ることが出来る。また、他のトッププロや将棋プログラム開発者など関係者が見た解説も読める。対局を離れれば協力関係にある将棋界とコンピュータ業界。非常に建設的な戦いだ。

たとえコンピュータが常に人間を凌駕し続ける時代が来たとしても、人間対人間の勝負というのはまた別の世界だと思う。例えるなら、自動車で走ればいいのにマラソンをするのはなぜなのかというような。もっともズボラな私にはマラソンする楽しみはさっぱりわからないが(笑)。

人間は所詮弱い生き物であり、その弱さを知って知恵を出すことにこそヒトとしての生き様があるのだと思う。単に正解に早く到達することが生きることではない。寄り道や回り道にこそ人生の機微があるのだ。そんな気分もありつつ読んでいるところだ。

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2012/03/20

愛と反省のラジオ収録してきました

六本木から帰ってきた。あれでよかったんだろうか...。なんだか適当なバカ話をやって帰ってきたような気が...。でもテレビより緊張した。

J-WAVEの「東京REMIX族」という山田五郎さんとしょこたんの番組の収録に出演させてもらった。毎週様々な“道を極めた”ゲストを迎えて三人で“○○の極み”というトークをする1コーナーだった。作家さんが年末のうたバナーをご覧になっていてお声をかけてもらえたみたいなのだが、これまでと違って中島みゆきさん以外の歌詞分析も披露した。

パーソナリティのお二人もそうとう妄想スキルに年季が入っているのと、こちらは非常にパーソナルなこだわりを披露してるだけなので、なんだかああいえばこういう的な“抗辯の極み”のような妄想話に終始してしまった(笑)。

ボクの場合、純粋に作品をいわば構造的に切り取っていきながら独自のフィルターで意味世界を脱構築するというポストモダンな妄想派なので(笑)、そうそう共感を得られるシロモノではないと思う。詞を素直に受け止めたい人にはまったく理解不能だったりもするだろうし...。

白いものを赤や黄色に見せる、いわば詐欺師のようなものだ。実はその試みそのものが中島みゆきさんの歌詞分析には欠かせない資質でもあると思っているのだが、詞の味わい方からはもっとも遠い試みをあえてやってるようなところもある。根がシュルレアリストですから。

「地上の星」が稀有だったのは、それでもメディアにうまくはまったということなんだなぁと思った。「地上の星」の納得加減を他のあらゆる歌詞でできるはずはないが、極めると言えるにはこの方法論の先になにがあるのかをおぼろげにでも提示できなきゃダメだよね。まだまだ未熟なボクでした。

これで例えばボクが芸人だったり音楽家だったりそういうバックボーンを持っていればまた違ったかもしれないが。ポジティブに捉えれば夢のようなひととき(笑)、第三者的にはなにがなんだかわからないといったトークになってしまったかもしれない。誰こいつ、何言ってんの?みたいな。めんごでやんす。

でも収録しちゃったしこれはこれでいいのだ!こんなバカ話だったら誰でも出来るかもしれないけど、本当の匠が登場される日もあるんだろうけど、しかし枯れ木も山の賑わいと言うではないか。この場合の「枯れ木」は紅葉なんだろうか(とか、そういうトークに終始しちゃってマス)。

話している時間ずっと、これで大丈夫か、破綻してないか(笑)と探り探りトークしてて、パーソナリティのお二人に助けられつつ(突っ込まれつつ)、作家さんの笑い声やスタッフさんの笑い顔が励みになりましたよ。

でもみゆきさんのところだけはトーンが違ってるので、それなりに伝わってたらうれしい。これだったらテーマを中島みゆきさん限定でも良かったのかなとか、欲張りすぎたかなとかいろいろ反省。

イメージは伊奈かっぺいさんが語るさだまさしさんのステージだったんだけどな(笑)。面白い話、感動させる話、面白い話、感動させる話、という流れで。面白い話のはずが共感できない話になっていたらキツス!

五郎さんとしょこたん、感想は「なんなんだコリャ?」だったと思う。大好きなパーソナリティのお二人の番組だったから受けたとこもあるので、お二人が呆れ果ててないことを願いつつ帰宅したのであった()。せめてキモス生物の末席くらいに連なれてればと。放送は...お蔵入りにならなきゃそのうち報告します。

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2012/03/14

卒業生はただの踏み絵か!卒業生も君が代にコミットしよう(笑)

この時期になると毎年「卒業生、答辞」へのアクセスが増加する。卒業生諸君、あまり役に立たない記事でもうしわけない(笑)。

答辞を読む卒業生にとって卒業式は晴れ舞台でもあり、事前準備にネットを使うのは当たり前の世の中なんだろう。だけど悲しいのは、校長先生は君達ひとりひとりの顔を見ていない。君が代を歌っているかどうか教員の口元をチェックしているのだ。いまは大阪だけの話しだけどね。

大阪の公立学校の教員にとって卒業式は、君が代を歌うか歌わないかがもっとも重要かつ人生を左右する重大関心事になりそうだ。卒業する君たちに意識を集中することなんて出来ない。

だから答辞には楽に挑めばいい。先生方の気持ちは上の空だ。しかし考えてみれば主役は卒業生のはずだろ?それなのに教員の意識は君たちにない。これは失敬な話だ。

それなら、先生方に卒業生への関心を持ってもらえるよう、卒業生も教員の君が代斉唱問題にコミットしていってはどうだろうか。卒業式の主役は自分たちなんだよ。先生、私たちにもっと関心持ってくださいって心の叫びを君が代問題にぶつけてやるのだ(笑)。

どうせ聞いてないんだからトンデモないことを言ってみてもいい。ストレートに「君が代より私たちと一緒に歌ってください!」って長渕の歌を歌うとか。どこがストレートなんだか(笑)。

あるいは「長いものに巻かれる大人になんかなりたくない。私たちは君が代を強制される人生を送りません」と強烈に公立教員人生を否定してみせるとか。強制すればするほど君が代を嫌いな日本人が増えていくという教訓になるかもしれないよ。

それに関連してもうひとつ。「北風と太陽」って童話を答辞で読み上げて、「こんな風に君が代も強制するだけが効果のある方法ではありませんよ。もっとみんなが納得できる解を見つけることが教育ではないでしょうか諸先生方」と諭してみては?

逆パターンも面白いかも。君が代を礼賛して媚を売りまくるとか。「諸先生方の歌う君が代のすばらしい歌声を一生忘れません。大きな口をあけて絶叫してください。今日は無礼講で」とかさ。

偏屈なイデオロギーを捨てて、君が代の君を卒業生の私たちひとりひとりだと思って歌ってください!」と新しい提案をしてみるのも面白い。一見歌わないイデオロギー批判に見せつつ、実は強制する側の偏屈なイデオロギーをも異化してしまう。ひねりの一発だね。

卒業式は先生方の最大関心事が「君が代斉唱」にあるセレモニーだと割り切って、そこにどう卒業生としてコミットしていくべきか。アホらしいが、アホらしさを楽しむこともまた人生には必要な技術だよ卒業生諸君!

●強制でどんどん「君が代」が遠ざかっていく

先日行なわれた東日本大震災の慰霊の式典には体調を崩されたなかで天皇が出席された。出席への強い意向を見せられた。それはたんなる公務を超えた気持ちだったように思う。

幸か不幸か天皇として生きる運命に生まれてきた。考えてみればこれほど強制され選択の自由のない人生はないと思う。私はそのことを思って「君が代」を歌う。歌うことになんのためらいもない。だが天皇以外のアホな連中に強制されるのは気に入らない。そんな「君が代」は気に入らない。

卒業式には必ず君が代斉唱があることについて天皇陛下にお手紙を出してお話を聞いてみたらどうだろう。全国の卒業生がインターネットで団結して、国民の象徴たる天皇陛下のご真意をお伺いして卒業式の答辞でご披露できればこんなすばらしい答辞はないと思う。それが出来る時代でもある。

もっとも君が代強制なんてことを言ってる人々は天皇陛下を軽く見てる。戦争遂行のときも利用し尽くした。だって持ち上げて責任転嫁すればなんでも出来るんだから。無責任国家に成長した日本の根源には責任転嫁の装置として天皇制がある。これは責任転嫁のシステムなんだ。

だから天皇陛下が「(国歌、国旗は)強制でないのが望ましい」と発言されていても関係ないようなんだ。強権的に命令して歌わせる。そんな「君が代」は誰も喜ばないよ。その歌は既に「君が代」ではなく、強権発動の道具に堕してる。

だから構造的には歌わせる歌が「カメカメハ大王の歌」でもいいはずなんだ。強権的に歌わせることが目的であって「君が代」である必要はない。卒業式で主役の卒業生を見ないのと似てる。歌う歌が「君が代」でなくても権威が保てればそれでいい。だがもっともらしい能書きが天皇の衣を借りて言える「君が代」は都合がいいのさ。ここでも利用してるだけなんだよ。

歌いたければ歌えばいい。歌いたくなければ歌わなければいい。国家公務員だろうがなんだろうが、その程度の話だよ。たかが歌だよ。国旗だってたかが旗だ。愛国心の中心はそこにない。しょせんは瑣末な話だよ。

でも責任転嫁のシステムがなくなると困る人々がいる。強権を手放したくない人々がたくさんいる。天皇陛下の言葉すら届かない「君が代」なんて、関東軍の再来かと思っちゃうよ。暴走だよ。この無責任社会を強制力でなんとか保とうとする我欲でしかないのが君が代強制ってこと。だからアホらしい話なんだよ。

先生方も面従腹背でいいじゃない。別に歌ったからってどーってことないよ。ボクは学校生活のどんなときだって歌ってたよ。君が代のアンビエントアレンジもしたよ(笑)。権威を見せつけたいああいう連中には上っ面だけあわせときゃ文句ないんですよ。どうせ戦うならそこじゃないと思うよ。

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2012/03/11

コラボ企画!記録より記憶に残る「女優の歌」10選!

昨日は横浜に用事があり朝から出かけていた。たまプラーザの「ステーキハウス岩下正明」で遅い昼食を取り、代官山蔦屋書店に向かった。そして埼玉に戻ってきて「寿庵」で肉きざみうどんを食べて自宅に戻り、ゴガクルで韓国語のwataruの日記と日本語のKeona Keahiの日記を書いた。

Keonaの日記で「パックイン・ジャーナル」が今月で終了し4月7日から間髪入れずに kinkin.tv というインターネット・ペイ・テレビで放送開始という快挙への賛同を書いてTwitterにも同時に載せたところで、takさんからのTwitterダイレクトメッセージに気付いた。そこにはこう書いてあった。「企画もののお誘いです。gooランキングでこんなのが『歌も上手い女優、あなたのイチオシは?』。上手いかどうかは別にして、10選やってみよっかな。」

kinkin.tvに引き続きこっちの企画にも激しく賛同 そして選考に入りました。オフコース以来の10選企画ですが、単独アーティストでない流れでは、「思い出のジャケ買いトークに参戦!」以来となりましょうか。

takさんの10選はこちら。なるほど。女優としてまず納得のいく面々なのがうれしい10選でした。

●女優の歌ったこの10選!コンセプト作りから

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2012/03/07

自腹で更地にしないと仮設住宅を許可しない役人は復興する気があるのか?

昨日のNHKスペシャルを見ていて、またまたまたまた行政に怒り心頭。今週は震災一周年で毎日NHKスペシャルが特集を組んでいて全部永久保存するつもりで録画してる。

昨日は気仙沼の人情商店街の復興へ向けたドキュメンタリーだった。津波で壊滅的なダメージを受けた商店街の人々が集まり、町の一角の土地を借りて仮設住宅で商店街を復活させようとしていた。

その思いと行動力に比較して行政のまったく思考停止した姿に腹が立ってしかたがなかった。

その最たるものは、仮設住宅の現地視察に来た役人たちだ。すでに商店街復興を目指す人々は土地の地権者と話をつけ、図面も引き、重機を入れて瓦礫の撤去を始めていた。

そこにやってきた役所の人間の仕事はその土地に仮設住宅を建てる可否判断だったのだが、そこでダメ出しをした。

その理由が「15cmくらいの高さのコンクリートの段差があって更地ではないからこのままでは許可できない」というものだった。

そこは大震災で破壊され、その瓦礫を撤去した土地である。これから一日も早く仕事を生み出そうという市民たちが集って土地を見つけ図面を引いたのだ。そこに仮設住宅を建て40もの店舗を入れて商店街を作ろうという具体的な復興を語っているのだ。

そのような市民の取組がまさに始まろうとしているところにやって来て、15cmの段差のコンクリートがどうのこうのと言ってしまう役人はいったい何をしに来ているのか。復興を邪魔しに来ているのか?

だがこのとき、市民の側の対応はすばやかった。目の前に仕事を終えた重機があった。操縦士もいた。役人のダメ出しを聞いた瞬間、重機の会社に電話しコンクリートの撤去を指示した。

追加作業で150万円程度かかる。それを出費してでも目の前に重機のあるときに更地にしてしまうと決断する。その間数分とかかっていない。同時に役人には、自分らでコンクリートを取れば大丈夫かとの確認をして、役人は「はい」というだけだ。

市民のこの決断力とスピード感。そんな住民の渇望から役人は完全に遊離している。この非常時にどう判断すべきかという権限のない役人が来ても意味がない。

一事が万事のように思う。この調子で復興復興と唱えているのだろうか。非常時の予算配分には現場担当者の裁量が必要であるし、アイデアを持って具体策を提示している人々から予算をつけていくことがこの非常時の役人の仕事だ。いっしょになって予算をぶんどってくるくらいの気概が役人にあってもいいくらいの状況だ。

平時ならコンクリート15cmの高さにケチをつけるのもいいだろう。だが被害者たちが懸命に復興を果たそうと動いているのに、そのマニュアル対応はいったいなんなんだ。それでも日本人なのか。

こんなことが続くのなら予算の配分などいつまで待っても出来ないし、復興など夢のまた夢だろう。こんなお役所仕事を継続したまま、原発だけはウソでもいいから収束させて再稼動をもくろむ。頭がおかしい政治家と役人しかいないのか。これじゃニッポンももう終わりだよ。

(ゴガクル日記に書いた内容だけどこっちにも転記した)

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2012/03/05

昔々日本には技術のソニーという立派な会社がありました。 #sony

ぎりぎりの理性を保って言えば「反吐が出るような会社」でしょうか。まさかあのソニーがこんな会社に成り下がっていたとは。

さよなら!僕らのソニー」(立石泰則著、文春新書)は、ライターとして常にソニーを見守ってきた著者による決別の書といえるかもしれません。

ひとくちメモでも何度かソニーのことを書いた書籍を採り上げてきましたが、結局そのたびに失望が大きくなっていたように思います。

それでも若き出井社長が出てきたときには、新しいソニーを印象付けられましたし期待もしました。でもこの新書を読む限り、出井社長誕生のときがターニングポイントだったようです。まるでいまの民主党のようです...。

企業というものは生き物ですから、常に変化していくのは仕方がありません。しかしその変化の方向性が重要でしょう。オリジナリティあふれる独自技術のソニーが失われ、凡百のハードメーカーのひとつになってしまったことも寂しいです。

ただそれだけならあのソニーもただの会社になっちゃったんだぁで終わってました。ここにわざわざ書くこともありません。

●キャリア開発室という闇

ボク自身がもっとも驚愕したのは、ソニーのなかに、あのソニーのなかに、リストラ部屋という非人道的な機能があったことでした。この一点において「反吐が出る会社」に転落しました。

新書の234ページから出てくる「キャリア開発室」がリストラ部屋です。ここまで読み進めてきて「ソニーも普通の会社になっちゃった」と思っていた自分の間違いに気付きました。ソニーは普通を通り越して異常な会社になってしまっていました。

リストラ部屋は名作ドラマ「彼女たちの時代」で椎名桔平が閉じ込められたような人格否定部屋です。間接的な退職強要のための装置であり、いわばナチスのガス室のようなものです。

このような部屋に人を閉じ込めて退職を迫ることが出来るサラリーマンは既に人ではありません。ただの首切りロボットです。ナチスの党員のようなもの、内ゲバで粛清をしてしまう兵士のようなものです。家族にも言えないような仕事ですからきっと言ってないでしょうね。

選択 2012年3月号このキャリア開発室については月刊誌『選択』の3月号がさらに詳細に書いています(P.70 ソニーを蝕む陰湿リストラ -禁じ手の「産業医」まで動員)。リストラ部屋に入れても辞めない人をやめさせるために、産業医に「環境を変えるのが一番ですよ」などと言わせてるそうです。この産業医たちも「悪魔の飽食」における丸太(=人体)実験の医師のように思えてなりません。

こんなおぞましいリストラ技術ばかり話題になってしまう会社がソニーの名を騙っているんです。もうSONYという社名は捨てるべきでしょう。ソニーという会社は既にありません。ソニーを騙る集団がいるだけです。

私は語学のために使うウォークマンを礼賛したりもしてました。そこからアフィリエイトを辿ってウォークマンを買ってくれた方もいらっしゃいます。でも個人的にはもうウォークマンを触るのも気分が悪いです。次のハードを探そうと思っています。

ソニーがただの会社になるだけならまだ良かった。まさかこんな気色の悪い組織に堕していたとは思いませんでした。書いてるだけで本当に反吐が出そうなのでこのあたりでやめます。

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2012/03/03

林輝太郎氏逝く

相場の話を書くと有象無象が寄って来るので書きたくないのだが今日は特別。林輝太郎さんがお亡くなりになった。享年85歳。私にとっては恩師の訃報を聞いたような気分だった。

相場技術論の林輝太郎さんの著作はほぼすべて読んでいる。他の相場関連書籍とは明らかに異なるオーラを発していた。私にとっては文学を読んでいるような感覚もあり「相場師スクーリング」などは何度も読み直す。

最近の書店に並ぶ相場関連の本には読みたくなるものがほとんどない。マニュアルのようなものか、基本的に有象無象が書いた有象無象向けの本が圧倒的に多い。私が感銘を受けたような書籍群はほとんど姿を消していた。

書店の棚を見るたびに「これがそうなのか...」と思う。これが素人を釣る時代の光景なんだなとわかった。昔から素人を釣るような書籍群ばかりだといわれていた業界だが、まさにいま荒涼たる砂漠のような光景が書店の棚に広がっているのだ...。歴史は繰り返すんだなと実感する。

林輝太郎氏の著作から何を感じ何を受け止めるのかは人それぞれだと思う。その文体が嫌いだという人もいた。読む側を選ぶことは確かだと思う。

私はお目にかかったこともなく、林投資研究所にも行ったことがない。20日にあるお別れ会にも行かないけれど、林輝太郎氏の著作はいつでも手に取れる場所にいまも置いてある。

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2012/03/02

大王製紙は正義の主人公とヒロインがいない韓国ドラマだな。泥沼だけ。

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