google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg 「下山の思想」は降りてゆく生き方だった: ひとくちメモ

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2011/12/25

「下山の思想」は降りてゆく生き方だった

2009年の秋に「降りてゆく生き方」という映画に感銘を受けた話を書きました。「降りる」という一見ネガティブな言葉に新しい価値をもたらした日本映画で、いまの日本にもっとも必要な感覚かもしれないと思っていました。

その1年半後の今年、大震災が、そして原発人災事故が起こりました。ある意味第二の敗戦です。3.11以降、ポスト震災、ポスト原発人災事故の世の中を生きることになった“残され島の人々(by 未来少年コナン)”としての私たち。

ポスト震災、ポスト原発人災事故の時代に、著名人や文化人と呼ばれる人たちが何を発言するかに興味を持っています。日本の言説が新しい価値を生み出せるのか、世界を目覚めさせる言葉を持てるのか、これまでの言説に嘘がなかったか。政治に希望を失くしたこの国だからこそ、その危機から生まれる言葉(あるいはその反射としての外圧)に期待してしまいます。

そんなときに書店で見つけた新書が五木寛之さんの『下山の思想』でした。最初「しもやまさんって誰だっけ?」と思ってしまいました)。でも違った。下山とは「げざん」、つまり山を降りることです。登山に比べて下山という言葉にいかに疎いか、書店の平積みに教えられました。このエッセイも最初からそこを突いてきます。シンプルでいいタイトルですわ。

●登った山は降りなきゃ完結しない。

「下山の思想」は結構軽いエッセイでした(笑)。すぐに読み終われます。

そのエッセンスとしては...

登山はずっと登り続けることは出来ず登ったら降りなきゃいけない。

普通の人は登ることには興味があるけれど降りることは頭にないことが多い。

でも降りなければ登山は完結しない。

登山のときには登ることに一所懸命で周りが見えていない。

下山するときは遠くの景色から足元の高山植物まで良く見える。

下山することでまた次の登山に出かけることが出来る。

戦後60年ひたすら登り続けてきた日本も10年前あたりから下山にはいった。

震災は下山途中の大雪崩とも考えられる。

ではこの事故からめざす復興の道はどこへ続くのか。

またここから同じ山を引き返し登り続けるのか?

それとも安全に山を降り、次の山に向かって英気を養うのか?

という感じでした。下山は終わりじゃなくて始まりへの準備行動だという感覚がいいなと思って。最初の登山でめざした山から下りる過程が思索の時間になり次につながると。次の山はきっとより豊かな体験と新しい思索をもたらしてくれるだろうし、そのような登山をまためざさなきゃ人としての進化(深化)がないような。そんな気がしました。

●降りた先にある次の山に向けて

日本はH22年(2010年)までの統計で12年連続で自殺者が毎年3万人を超えているそうです(警察庁統計「平成22年中における自殺の概要資料」)。H10年(1998年)に3万人を越えましたが、統計にある昭和53年(1978年)からでも毎年2万人が自殺しています。H22年はその半数以上が健康問題に起因するそうです。

五木寛之さんは警察発表で3万人なら現実はもっと多いはずだろうと書かれています。ボクもそう思います。しかしこの12年で36万人超が自殺している先進国ってなんでしょうか?

その原因をマクロに捉えることは難しいけれど、この国がもしまだ山に登っているとしたら、めざす頂上に何があるんだろうか。その山とは何だろう。アメリカ型の市場主義経済なんでしょうか?

バブル時代(1980年代後半)を日本登山の頂上と捉えてみると、戦後40年前後で一気に頂上に到達し、そこから下山を始めて約20年の中腹にいるともいえます。その過程で阪神淡路大震災やオウム真理教サリン事件(1995年)や今回の大震災と原発人災事故(2011年)などの大雪崩にあっています。

この下山の過程で登ってくるときに見えなかった様々な景色を見ることが重要で、その景色のなかにある人間の営みへ戻っていく感覚こそが大切だろうと思います。ここからまだ20年しっかりと安全に下山していく自覚が必要だと思うわけです。エコノミックアニマルがルネサンスにパラダイムシフトしていく時代といいましょうか。ちょっと凡庸な言い方ですけれど(笑)。

日本の復興が、市場至上主義の山の中腹から振り返ってまた同じ山に登り始めるのか。一度里に戻って違う山をめざすのか。

おそらく民主党を選んだときは別の山が見えていました。しかし民主党が魅せていた山は単なる絵空事でペラペラの広告でしかありませんでした。安全に降ろすことも出来なくなり、雪崩の後でうずくまってしまいました。キチンと下山しなければ後にも先にも行けません。

●既得権益という山を降りながら世の中を眺める

いま日本はそんな年末を迎えています。この山を既得権益と置き換えても面白いかもしれないですね。例えば登山中のサラリーマン社会での出世や部分最適な組織の行動様式は既得権益の拡大を目的に動きました。登れば登るほど既得権益が拡大しおいしい生活が出来るというインセンティブです。

既得権益は他人には渡したくないものですから老害経営者も増加しますし、その既得権益クラブに入れても大丈夫なメンバーが社畜として増加します。それの普遍化・システム化が現代の労働組合と言ってもいいでしょう。東電をイメージすればわかりやすいです。

しかし下山の時代には、それら既得権益と思われたインセンティブが必ずしもメリットばかりでなく、リスクと直結する時代かもしれません。モラルハザードした経営者と様々な企業犯罪が横行し、より大きなリスクを背負わされるだけで既得権益クラブには入れない中間管理職(ただし民主党の手法のように「入れますよ入れますよ」という追えば逃げるニンジンを目の前にぶら下げられています)。

これまで日本の経営者(特にサラリーマン経営者)がリスクを深く考えずに来れたのは晴天の登山をさせてくれた山があったからです。頂上だけ見て登っていればよかったわけです。でもいま経営者はリスクにさらされて右往左往するか、早くそのリスクを譲って逃げ切りたいと思っています。

そうなるとリスクのバケツリレーがはじまります。そのバケツを受け取ることこそが出世の階段を登ることといえます。もちろんリスクを取ってリターンを得るのは市場の原則ですから、これで正しく回せる組織も出てきます。しかし既得権益の美味しい蜜の誘惑は手ごわく、入れないはずの既得権益クラブにムリに入ろうとすれば必ず人の道に反します。バケツを渡してすらまだ手ぶらで登ろうとあがく者もいます。みっともない。でもそんなかつての優良企業が露見したのも今年のトピックスでした。

そのような登山指向をやめて生きるのが下山指向とも言えそうです。なにもそこで既得権益を守る人々のためにリスクを取って登り始めなくても、別の価値を求めて下山するほうが魅力的だったりします。流行ことばで言えばナンバーワンよりオンリーワンとか断捨離指向でしょうか(笑)。下山指向が増加すれば既得権益は崩壊します。そこに未来はあると思っています。

もちろん別の山に人気が集中すれば、また40年後にはそこに既得権益の山が出来るでしょう。その途上を生きているならばボクの発想も異なるでしょう。しかしいま生きているこの時代を「下山の時代」と捉えるならば、その認識を元に行動するのが、時代に敏感肌のボクにとっては一番自然かなと思ったりしてます。

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コメント

テレ朝のモーニングバードに五木先生がご出演されてましたね。それでアクセスが増えてます。

下山とか降りてゆく生き方をネガティブに捉えないことが大事。そこから始めましょう!

投稿: ポップンポール | 2011/12/30 11:09

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