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2011.07.23

原発狂時代に終止符を

今日も2冊新書を買ってきた。

●小出裕章さんの「原発はいらない」

3.11以降に出版された小出さんの新書としては「原発のウソ」に続く第二弾になる。「原発のウソ」がわかりやすい文章と説得力のある論理展開ですらすら読めたのでこちらも早速読み始めた。

このような反原発の原子力研究者が日本で仕事を続けてこられたことすら奇跡的だと思う。そう思わざるを得ないほど、“原子力ムラ”は原発の根拠のない安全性を主張し、カルト宗教のごとく一方的な安全神話を創り出してきたわけだ。

小出氏本人はまったく後悔がないとおっしゃっているが、冷や飯を食わされての37年間の研究生活は大変だっただろうと思う。いっぽうで原発推進の学者は多額の研究費とお手盛りの出世路線に乗り、他人の生命を脅かしながらおいしい生活をしてきたことだろう。

ようやく小出さんのような原発のない世界を目指す学者の言葉に耳を傾ける日本人が増えてきた。確かにポストフクシマのいまでは遅すぎる開眼かもしれないが、まだ我々は生きている。生きていることの奇跡を感謝しつつ、原発のない世界の実現を目指したいと思う。

●石橋克彦編による「原発を終わらせる」

こちらは週刊金曜日のツイッターで知った。週刊金曜日はこのところ原発事故の検証に多くの紙面を割き、若い読者も増加しているそうだ。定期購読を再開した人も多いと聞く。

私は金曜日の創刊準備号からの読者だが、確かに紙面が変わったと思う。昔の文字だらけのイメージが後退し、(まだ文字量は多いが)読ませる記事が増えたと思う。清濁併せ呑むタイプの佐高信さん(笑)が編集長になってからは特にその傾向が顕著になったと思う。

新書はまだ読んでない。なにせ買ってきたばかりで小出さんのほうから読み始めたので。ただ目次をざっと見た感じでは、さまざまな分野から検証されているので、原発問題を俯瞰することが出来そうだ。

「はじめに」のところでこう書かれていた。「いまこそ日本は原発と決別しなければならない。そう考える者が集まって、ここに『原発を終わらせる』という本を出すことになった。」(中略)「それぞれの紙数が少ないために、個々の論述は必ずしも充分とはいえない。しかし本書を読めば、いまなお原発を続けようとする原子力村や財界の思考が時代遅れで危険きわまりないものであることがわかるだろう。」

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(ここからはゴガクルの日記に書いたことを加筆・再構成して転記します)

●原発依存は過去の成功体験の呪縛

いまだに原発がなければ海外移転すると脅している財界の人々をテレビで何度も見る。ビジネス最優先で生きてきた人々だろうが、それこそまさに過去の成功体験から逃れられない典型のように思う。

自然と人類と、Win-Winの関係を作るためのパラダイムシフトが必要な時代に入っている。たぶん原発をはじめたころから。

第二次世界大戦が終わって捨てるに捨てられない原子力を「平和利用」というレトリックで発電に使い始めたとき、既に人類は誤っていたのではないだろうか。

そのレトリックの代償をチェルノブイリ、スリーマイル、フクシマという失敗の連続で支払い続けている。どこまで耐えられるか命がけの原発ロシアンルーレットをいつまで続ける気か。

高速増殖炉の研究を綱渡りでいまだに続けている日本という国がその最先端にいるのは間違いない。原子力ムラで生活したい人々はどこかに隔離してそこで暮らしてもらいたい。

利権のない原子力ムラを作ってひっそり暮らすなら歓迎しよう。私の命を彼らのおいしい生活のために差し出す気はさらさらない。

●今やめなくていつやめる!

原発が日本で稼動しはじめて40年以上になる。

いまほど反原発、脱原発の知識が世に出た時代はないと思う。
それは原発に物申すとあらゆる圧力によって潰されてきたから。

原発関係の言説では「安全」という言葉が常に使われる。
美辞麗句が使われるほど胡散臭さが増加していく典型だった。

だがようやく「安全」というウソが自然現象をトリガーとして暴かれつつある。
ようやく「原発を無くす」というベクトルで情報を得られる時代が来た。

これを学ばない手はない。
原発事故は他のあらゆる事故とレベルの異なる人災だ。

原発を認めるということは、殺人を認めることと同じだ。
安定稼動してすら原発労働者の被曝を前提に生きることだ。

チャップリンは殺人狂時代のなかでこういった。
「1人を殺すと犯罪者だが、100万人殺せば英雄だ。」

フクシマの最悪の事態を想定すれば1000万人の首都圏が被曝圏内にある。
東電はまさに戦争の英雄か。内戦を仕掛けているのか。節電も情報戦か。

まさに原発は戦争だ。戦犯は裁かれなければならない。
戦争に加担する側に身をおくのかどうか。個人の選択が迫られている。

戦争や事故は悲劇だが、人類はこれまでも悲劇から学んできた。
もちろん悲劇を繰り返す愚も犯して来た。

●単純な選択の問題だ。電力か命か。

電力は他にも選択肢がある。
命をかける前に冷静に考える余地がある。

それは希望と言い換え可能ではないか。
なぜその研究を始めない?予算をつけない?

それは原発を守ることが大前提にあったからだ。
守ることによっておいしい生活をも守れた人々がいたからだ。
まさに過去の成功体験の呪縛としか言いようが無い。

電力行政というシステムに守られているおいしい生活。
その仕組みを転換するだけで日本は変わる。それが政治だ。
誰を救うための政治なのかが問われている。

滅亡する前に気付くことが出来たのは不幸中の幸いだ。
原発をここでやめなくてどこでやめる?

ビジネスに長けた財界の御仁よ。次はない。
損をすばやく切るのがビジネスのセオリーだ。

原発か死か。そこまで引き伸ばす意味がどこにある?
人命を危機に晒して利益を追求するなど企業倫理、商道徳にも反する。

ウソの安全神話が崩れたいま、原発の安全性再構築は時間の浪費だ。
代替エネルギーへの転換を進めるほうが合理的だ。

派遣切りのときにも人々はこう言った。「生きさせろ!」
今度はもっと多くの人々が懇願している。「生きさせろ!」

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