Nスペで飯舘村を見て岡林信康の「手紙」が思い浮かんだ日
今日もゴガクルのハングル日記から転載。
7월23일(토요일) NHK 텔레비전이 방송한 "이이다테 촌(飯舘村)"라는 프로그램을 봤어요.눈물없이 보는 것이 할 수 없었어요.
촌인은 아무것도 나쁘지 않는데,왜 고향에 못살아요? 할아버지와 할머니를 고향에 남기고 고향을 버려야 돼요?
다 후쿠시마 제1 원자력 발전소가 사고를 쳤기 때문이다.이 후에도 일본 중으로 더 비극이 일어날까 봐 마음 졸인다.
눈물없이:涙なしに(副詞)
나쁘지 않는데:悪くないのに
남기고:残して
후쿠시마 제1 원자력 발전소:福島第1原子力発電所
비극:悲劇
마음 졸이다:気をもむ,心配する
NHKテレビが放送した「飯舘村」という番組を見ました。涙なくして見れませんでした。
村人はなにも悪くないのに、なぜ故郷に住めないのでしょうか?おじいさんとおばあさんを故郷に残して故郷を捨てなければならないのでしょうか?
すべて福島第1原子力発電所が事故を引き起こしたせいだ。この後も日本中でもっと悲劇が起こるだろうと思って心配している。
飯館村の100日を追ったドキュメンタリーだったが、番組後半にふと岡林信康の「手紙」という放送禁止歌の歌詞が思い浮かんだ。正しくは替え歌が思い浮かんだのだった。
「手紙」という歌は部落差別のなかで結婚を反対され身を引いた女性の手紙を淡々と歌った曲。私は「放送禁止歌」というドキュメンタリー映画のなかで聴いた。この歌は「差別」を歌うことによって放送禁止というまさに差別を受けた代表的な楽曲だった。
もしも差別がなかったら
好きな人とお店がもてた
という歌詞の「差別」の部分が「原発」という文字に置き換わって頭の中に浮かんできたのだった。これは映画で見たときの強烈な印象も響いていると思う。
「放送禁止歌」は10年前の2001年2月、東中野にある映画館で見た。故・高田渡のミニライブとセットになった鑑賞会だった。放送されなかったがニュース23のインタビューも受けた。
この映画を元にデーブ・スペクター氏が監修した森達也氏(映画監督)の著書もある。それを先に読んでいたが、映画のインパクトはやはり強烈だった。とくに岡林の「手紙」のパートは映画手法としても突出したものだった。
映画なのに延々映像がない。真っ暗な画面に岡林の歌声だけが響く。映像によって限定されるイメージを嫌ったのかもしれない。デレク・ジャーマンの「ブルー」とも違う“風景”だった。言葉だけがイマジネーションを掻き立て、見る者が自分自身の差別意識と向き合わざるを得ない。差別が他人事でなくなる瞬間だった。
その記憶が飯舘村の放射能汚染とダブったのだと思う。ある日突然、なんの罪もない人々がこれまでの生活すべてを捨てさせられる悲劇。誰がもたらした悲劇なのか?なぜこのような悲劇を生まなければならなかったのか?
過疎地に原発を作ることは電源三法で決められているという。過疎地への差別と札びらで原発大国が運営されているということも「手紙」の替え歌が浮かんだ一因だったかもしれない。
東日本の震災復興が進めば進むほどに「原発さえなかったら」と思うことが増えていくと思う。どんなに厳しくとも人は自然となら共存できる。だが原発とは共存不能なのだ。
政府は冷温停止の第一次計画(工程表ステップ1)がもう完了したというが、燃料除去までに東芝案で5年半、日立案では10年以上かかるらしい。スリーマイル島では11年後だった。それまでは冷やし続けなければならない。
メルトダウンどころかメルトスルーしているかどうかの確認も出来ていないのに、冷温停止完了なんて耳障りのいい言葉でごまかされることもまた差別であり悲劇ではないのか。
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