google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2011年7月

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月の3件の記事

2011/07/24

Nスペで飯舘村を見て岡林信康の「手紙」が思い浮かんだ日

今日もゴガクルのハングル日記から転載。

7월23일(토요일) NHK 텔레비전이 방송한 "이이다테 촌(飯舘村)"라는 프로그램을 봤어요.눈물없이 보는 것이 할 수 없었어요.

촌인은 아무것도 나쁘지 않는데,왜 고향에 못살아요? 할아버지와 할머니를 고향에 남기고 고향을 버려야 돼요?


다 후쿠시마 제1 원자력 발전소가 사고를 쳤기 때문이다.이 후에도 일본 중으로 더 비극이 일어날까 봐 마음 졸인다.


눈물없이:涙なしに(副詞)
나쁘지 않는데:悪くないのに
남기고:残して
후쿠시마 제1 원자력 발전소:福島第1原子力発電所
비극:悲劇
마음 졸이다:気をもむ,心配する

NHKテレビが放送した「飯舘村」という番組を見ました。涙なくして見れませんでした。

村人はなにも悪くないのに、なぜ故郷に住めないのでしょうか?おじいさんとおばあさんを故郷に残して故郷を捨てなければならないのでしょうか?


すべて福島第1原子力発電所が事故を引き起こしたせいだ。この後も日本中でもっと悲劇が起こるだろうと思って心配している。


飯館村の100日を追ったドキュメンタリーだったが、番組後半にふと岡林信康の「手紙」という放送禁止歌の歌詞が思い浮かんだ。正しくは替え歌が思い浮かんだのだった。

「手紙」という歌は部落差別のなかで結婚を反対され身を引いた女性の手紙を淡々と歌った曲。私は「放送禁止歌」というドキュメンタリー映画のなかで聴いた。この歌は「差別」を歌うことによって放送禁止というまさに差別を受けた代表的な楽曲だった。

 もしも差別がなかったら
 好きな人とお店がもてた

という歌詞の「差別」の部分が「原発」という文字に置き換わって頭の中に浮かんできたのだった。これは映画で見たときの強烈な印象も響いていると思う。

「放送禁止歌」は10年前の2001年2月、東中野にある映画館で見た。故・高田渡のミニライブとセットになった鑑賞会だった。放送されなかったがニュース23のインタビューも受けた。

この映画を元にデーブ・スペクター氏が監修した森達也氏(映画監督)の著書もある。それを先に読んでいたが、映画のインパクトはやはり強烈だった。とくに岡林の「手紙」のパートは映画手法としても突出したものだった。

映画なのに延々映像がない。真っ暗な画面に岡林の歌声だけが響く。映像によって限定されるイメージを嫌ったのかもしれない。デレク・ジャーマンの「ブルー」とも違う“風景”だった。言葉だけがイマジネーションを掻き立て、見る者が自分自身の差別意識と向き合わざるを得ない。差別が他人事でなくなる瞬間だった。

その記憶が飯舘村の放射能汚染とダブったのだと思う。ある日突然、なんの罪もない人々がこれまでの生活すべてを捨てさせられる悲劇。誰がもたらした悲劇なのか?なぜこのような悲劇を生まなければならなかったのか?

過疎地に原発を作ることは電源三法で決められているという。過疎地への差別と札びらで原発大国が運営されているということも「手紙」の替え歌が浮かんだ一因だったかもしれない。

東日本の震災復興が進めば進むほどに「原発さえなかったら」と思うことが増えていくと思う。どんなに厳しくとも人は自然となら共存できる。だが原発とは共存不能なのだ。

政府は冷温停止の第一次計画(工程表ステップ1)がもう完了したというが、燃料除去までに東芝案で5年半、日立案では10年以上かかるらしい。スリーマイル島では11年後だった。それまでは冷やし続けなければならない。

メルトダウンどころかメルトスルーしているかどうかの確認も出来ていないのに、冷温停止完了なんて耳障りのいい言葉でごまかされることもまた差別であり悲劇ではないのか。

| | | コメント (1) | トラックバック (0)

2011/07/23

原発狂時代に終止符を

今日も2冊新書を買ってきた。

●小出裕章さんの「原発はいらない」

3.11以降に出版された小出さんの新書としては「原発のウソ」に続く第二弾になる。「原発のウソ」がわかりやすい文章と説得力のある論理展開ですらすら読めたのでこちらも早速読み始めた。

このような反原発の原子力研究者が日本で仕事を続けてこられたことすら奇跡的だと思う。そう思わざるを得ないほど、“原子力ムラ”は原発の根拠のない安全性を主張し、カルト宗教のごとく一方的な安全神話を創り出してきたわけだ。

小出氏本人はまったく後悔がないとおっしゃっているが、冷や飯を食わされての37年間の研究生活は大変だっただろうと思う。いっぽうで原発推進の学者は多額の研究費とお手盛りの出世路線に乗り、他人の生命を脅かしながらおいしい生活をしてきたことだろう。

ようやく小出さんのような原発のない世界を目指す学者の言葉に耳を傾ける日本人が増えてきた。確かにポストフクシマのいまでは遅すぎる開眼かもしれないが、まだ我々は生きている。生きていることの奇跡を感謝しつつ、原発のない世界の実現を目指したいと思う。

●石橋克彦編による「原発を終わらせる」

こちらは週刊金曜日のツイッターで知った。週刊金曜日はこのところ原発事故の検証に多くの紙面を割き、若い読者も増加しているそうだ。定期購読を再開した人も多いと聞く。

私は金曜日の創刊準備号からの読者だが、確かに紙面が変わったと思う。昔の文字だらけのイメージが後退し、(まだ文字量は多いが)読ませる記事が増えたと思う。清濁併せ呑むタイプの佐高信さん(笑)が編集長になってからは特にその傾向が顕著になったと思う。

新書はまだ読んでない。なにせ買ってきたばかりで小出さんのほうから読み始めたので。ただ目次をざっと見た感じでは、さまざまな分野から検証されているので、原発問題を俯瞰することが出来そうだ。

「はじめに」のところでこう書かれていた。「いまこそ日本は原発と決別しなければならない。そう考える者が集まって、ここに『原発を終わらせる』という本を出すことになった。」(中略)「それぞれの紙数が少ないために、個々の論述は必ずしも充分とはいえない。しかし本書を読めば、いまなお原発を続けようとする原子力村や財界の思考が時代遅れで危険きわまりないものであることがわかるだろう。」


(ここからはゴガクルの日記に書いたことを加筆・再構成して転記します)

●原発依存は過去の成功体験の呪縛

いまだに原発がなければ海外移転すると脅している財界の人々をテレビで何度も見る。ビジネス最優先で生きてきた人々だろうが、それこそまさに過去の成功体験から逃れられない典型のように思う。

自然と人類と、Win-Winの関係を作るためのパラダイムシフトが必要な時代に入っている。たぶん原発をはじめたころから。

第二次世界大戦が終わって捨てるに捨てられない原子力を「平和利用」というレトリックで発電に使い始めたとき、既に人類は誤っていたのではないだろうか。

そのレトリックの代償をチェルノブイリ、スリーマイル、フクシマという失敗の連続で支払い続けている。どこまで耐えられるか命がけの原発ロシアンルーレットをいつまで続ける気か。

高速増殖炉の研究を綱渡りでいまだに続けている日本という国がその最先端にいるのは間違いない。原子力ムラで生活したい人々はどこかに隔離してそこで暮らしてもらいたい。

利権のない原子力ムラを作ってひっそり暮らすなら歓迎しよう。私の命を彼らのおいしい生活のために差し出す気はさらさらない。

●今やめなくていつやめる!

原発が日本で稼動しはじめて40年以上になる。

いまほど反原発、脱原発の知識が世に出た時代はないと思う。
それは原発に物申すとあらゆる圧力によって潰されてきたから。

原発関係の言説では「安全」という言葉が常に使われる。
美辞麗句が使われるほど胡散臭さが増加していく典型だった。

だがようやく「安全」というウソが自然現象をトリガーとして暴かれつつある。
ようやく「原発を無くす」というベクトルで情報を得られる時代が来た。

これを学ばない手はない。
原発事故は他のあらゆる事故とレベルの異なる人災だ。

原発を認めるということは、殺人を認めることと同じだ。
安定稼動してすら原発労働者の被曝を前提に生きることだ。

チャップリンは殺人狂時代のなかでこういった。
「1人を殺すと犯罪者だが、100万人殺せば英雄だ。」

フクシマの最悪の事態を想定すれば1000万人の首都圏が被曝圏内にある。
東電はまさに戦争の英雄か。内戦を仕掛けているのか。節電も情報戦か。

まさに原発は戦争だ。戦犯は裁かれなければならない。
戦争に加担する側に身をおくのかどうか。個人の選択が迫られている。

戦争や事故は悲劇だが、人類はこれまでも悲劇から学んできた。
もちろん悲劇を繰り返す愚も犯して来た。

●単純な選択の問題だ。電力か命か。

電力は他にも選択肢がある。
命をかける前に冷静に考える余地がある。

それは希望と言い換え可能ではないか。
なぜその研究を始めない?予算をつけない?

それは原発を守ることが大前提にあったからだ。
守ることによっておいしい生活をも守れた人々がいたからだ。
まさに過去の成功体験の呪縛としか言いようが無い。

電力行政というシステムに守られているおいしい生活。
その仕組みを転換するだけで日本は変わる。それが政治だ。
誰を救うための政治なのかが問われている。

滅亡する前に気付くことが出来たのは不幸中の幸いだ。
原発をここでやめなくてどこでやめる?

ビジネスに長けた財界の御仁よ。次はない。
損をすばやく切るのがビジネスのセオリーだ。

原発か死か。そこまで引き伸ばす意味がどこにある?
人命を危機に晒して利益を追求するなど企業倫理、商道徳にも反する。

ウソの安全神話が崩れたいま、原発の安全性再構築は時間の浪費だ。
代替エネルギーへの転換を進めるほうが合理的だ。

派遣切りのときにも人々はこう言った。「生きさせろ!」
今度はもっと多くの人々が懇願している。「生きさせろ!」

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/07/10

入れ替わりドラマの進化形「シークレットガーデン」

韓国語小説シークレットガーデン2韓国語小説シークレットガーデン1“入れ替わりって設定は無限の可能性がある。いろんな二人の入れ替わりシチュエーションコメディが見てみたい。”

そうひとくちメモに書いたのは2007年7月10日のこと。「食わず嫌いはダメ!パパとムスメの7日間」という記事だった。ちょうど4年前の今日のことだった。

その思いが想像以上に出来のいいドラマ「シークレットガーデン」で現実のものとなり非常にうれしい!韓国でヒットしたこのドラマがいまKNTVで放映されてて今日は最終回の前の週だった。

最終回のひとつ前が良いことこそ名作の条件だと「名門私立女子高校」以来主張し続けている私だが、シークレットガーデンもまさにこの条件が当てはまった。もっとも韓国ドラマは週2本なのであと2話残しているわけだが、実質それは最終週1本とカウントできるので、もう揺るがない。

それにしても入れ替わりシチュエーションがこんな風に進化するんだなぁと関心・感動して見ていた。辞書なしじゃ読めない韓国語のノベライズ本(1,2巻)も買っちゃったし。かなりはまったドラマだ。

●入れ替わりの定石をブレイクスルーしたドラマ

入れ替わりドラマはどうしてもその入れ替わりの仕組み(謎解き)やいつ元に戻るのかがストーリーの柱になりやすく、その間は入れ替わることによるドタバタコメディ風になりやすい。もちろんその面白さは鉄板で、演じる役者もこのシチュエーションでしかありえない演技が要求され、そこがまた見どころでもある。

シークレットガーデンもそういう面白さが存分に発揮されているが、それをあっさり途中でタネあかししちゃうところが新しかった。これはまさに逆転の発想、刑事コロンボシステムに匹敵する発想だと思った。

視聴者には入れ替わりのタネをあかし、途中でお互いに近い2人の人物にその入れ替わり状態を見透かされてまさかの告白までしてしまう。その告白した事実がさらに伏線となって終盤戦に突入し、「自らの意志で入れ替わる」という展開まで用意され、そのシチュエーションがまたドラマチック!

宣伝用のドラマ紹介文などにはファンタジーラブロマンスと書かれていることが多い。間違ってはいないけど、もっとドラママニアな目線でも充分鑑賞に堪えられるプロットのしっかりした作品だった。だからそういうデートムービー的な軽い作品だと勘違いしてパスしちゃわないようにして欲しい(って誰に言ってんだか?)。

●二隻の舟を超えるファンタジーの力

例えば私の好きな中島みゆきの世界観には、「決して交わることの無い断絶の果てにも愛が存在する」というようなものがあると思う(個人的見解です)。

そこにある「断絶」というある種のリアリズムは、それを乗り越えたいという願望を一つの作品として結晶させる。状況が絶望であってもその先に希望を目指すのが中島みゆきの持つひとつの世界観だと思ってる。

だがリアリズムの世界ではその希望がほぼ実現できない。だからこそ中島みゆきは精神世界(御伽噺)を使って自身の内面で乗り越えようとする。それはある種のファンタジーといえる。

断絶の先を目指すには今のところファンタジーしかありえない。そして入れ替わりの物語というのもまたひとつのファンタジーであり、断絶を埋める希望なのではないかと思うのだ。

シークレットガーデンがドタバタコメディなのは前半だけであり、最後には生と死をも乗り越えようとするファンタジーとなる。入れ替わりというシチュエーションは断絶を乗り越える魔法であり、これを極限まで突き詰めて見せたプロットが、まさにドラマ王国韓国らしいと思った。

| | | コメント (0) | トラックバック (2)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »