映画「八日目の蝉」も観てきました
4月29日封切りだった映画「八日目の蝉」を朝一番の回で観て来ました。舞台挨拶のない映画館で初日1回目に見たかった映画なんてほかにあったかな?東映まんが祭りまで遡っても思い出せない...。そのくらい待ち遠しかったのです!
もちろんドラマ「八日目の蝉」があり、原作があり、そしてこの映画へという個人的な“物語”があるから、映画が始まるまでは期待と不安がありました。
いまでも多くのアクセスをいただいている「文治さん!『八日目の蝉』最終回」という記事に「ドラマはもう終わってしまったわけですが、この先のパラレルワールドをいくつも夢想してしまいます」と書きましたけど、そのときは映画が出来るとは思っていませんでした。
奇しくも今回映画「八日目の蝉」を見て、そのパラレルワールドを旅することが出来ました。原作の特長なのか、この小説は視点によって描き方によって、同じストーリーからいくつもの物語が生まれるかのようです。
それはおそらく正義と悪、道徳と不道徳、そんな二元論で割り切れない人間という存在の根幹に触れる核を持った物語だからではないでしょうか。
ドラマと大きく違うのは、原作になかった文治さんが出てきません。希和子と薫(恵理菜)のつながりだけに集中してます。より原作に近い設定といえます。また構成が現在の恵理菜(井上真央)の生活や視点を中心に描かれています。
雑誌『ユリイカ』で「八日目の蝉」が特集されていて、そこで原作者の角田光代さんと成島出監督との対談を読むと、法廷劇としての『八日目の蝉』という視点も紹介されていました。
しかしドラマと映画、同一だった部分にこそ物語の核が潜んでる気がします。ディテールで言えばエンゼルさんの家はなければならなかったし、逃亡先は小豆島でなければならなかったし、恵理菜(薫)は未婚の母として子どもを生む決意を固める必然があったのです。
原作、ドラマ、映画、そのいずれにも共通する母性へのこだわり。映画では恵理菜の置かれた現在の不安定な心情が、小豆島行きによって安定へ向かい始めたのではないかと思います。その心は未婚の母として、生まれ来る子を愛せるかに収斂していたように思います。
物心つく前に父の愛人に誘拐され、4歳になってようやく本当の両親のもとに戻ってきた恵理菜。マスコミの餌食となった誘拐事件後の父は誘拐犯の愛人として職を失う。崩壊した家庭で誕生日もクリスマスも何もなく育った恵理菜を救ったのは父と同じような不倫男でした。そして身ごもります。
恵理菜には子どもを愛するという感覚がわからないのです。愛された経験がなかったから。しかし短くも濃い小豆島での生活を思い出すに連れ、そこで愛された自分自身を少しずつ思い出します。それは誘拐犯との生活だったけれど、薫という偽の名前での生活だったけれど、恵理菜にとって確かに愛情に包まれた季節だったのではないでしょうか。
よく「無償の愛」といいますね。「八日目の蝉」は無償の愛というものの在り処が現実世界の様々な困難や環境を乗り越えて、あるいは次元を違えて存在することを描いた作品だと思います。それは角田作品における家族というものの危うさと表裏一体なわけですが...。
役者では小池栄子が非常に良かったです。ライターの安藤千草役で恵理菜を小豆島へ連れ出すわけですが、彼女もまたこの現実社会に生きにくさを感じつつ、しかし恵理菜の子を一緒に育てたいとも言います。千草の部屋で焼きそばを食べながら自分の生い立ちを語るとこもちょっと泣けました。
映画としてはかなりアップの多い映画でした。これは今後のテレビ放送を意識してそうなったのか、あるいはほとんどノーメイクに近い女優陣の踏ん張りを際立たせる意図だったのか?映画的なシーンとしては、ラスト近くの写真館での静かなやり取りが印象的でしたね。
でもなにより、ドラマも映画も、原作を裏切らない作品になっていたことがありがたかったです。
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