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3 posts from April 2011

2011.04.30

映画「八日目の蝉」も観てきました

4月29日封切りだった映画「八日目の蝉」を朝一番の回で観て来ました。舞台挨拶のない映画館で初日1回目に見たかった映画なんてほかにあったかな?東映まんが祭りまで遡っても思い出せない...。そのくらい待ち遠しかったのです!

もちろんドラマ「八日目の蝉」があり、原作があり、そしてこの映画へという個人的な“物語”があるから、映画が始まるまでは期待と不安がありました。

いまでも多くのアクセスをいただいている「文治さん!『八日目の蝉』最終回」という記事に「ドラマはもう終わってしまったわけですが、この先のパラレルワールドをいくつも夢想してしまいます」と書きましたけど、そのときは映画が出来るとは思っていませんでした。

奇しくも今回映画「八日目の蝉」を見て、そのパラレルワールドを旅することが出来ました。原作の特長なのか、この小説は視点によって描き方によって、同じストーリーからいくつもの物語が生まれるかのようです。

それはおそらく正義と悪、道徳と不道徳、そんな二元論で割り切れない人間という存在の根幹に触れる核を持った物語だからではないでしょうか。

ドラマと大きく違うのは、原作になかった文治さんが出てきません。希和子と薫(恵理菜)のつながりだけに集中してます。より原作に近い設定といえます。また構成が現在の恵理菜(井上真央)の生活や視点を中心に描かれています。

雑誌『ユリイカ』で「八日目の蝉」が特集されていて、そこで原作者の角田光代さんと成島出監督との対談を読むと、法廷劇としての『八日目の蝉』という視点も紹介されていました。

しかしドラマと映画、同一だった部分にこそ物語の核が潜んでる気がします。ディテールで言えばエンゼルさんの家はなければならなかったし、逃亡先は小豆島でなければならなかったし、恵理菜(薫)は未婚の母として子どもを生む決意を固める必然があったのです。

原作、ドラマ、映画、そのいずれにも共通する母性へのこだわり。映画では恵理菜の置かれた現在の不安定な心情が、小豆島行きによって安定へ向かい始めたのではないかと思います。その心は未婚の母として、生まれ来る子を愛せるかに収斂していたように思います。

物心つく前に父の愛人に誘拐され、4歳になってようやく本当の両親のもとに戻ってきた恵理菜。マスコミの餌食となった誘拐事件後の父は誘拐犯の愛人として職を失う。崩壊した家庭で誕生日もクリスマスも何もなく育った恵理菜を救ったのは父と同じような不倫男でした。そして身ごもります。

恵理菜には子どもを愛するという感覚がわからないのです。愛された経験がなかったから。しかし短くも濃い小豆島での生活を思い出すに連れ、そこで愛された自分自身を少しずつ思い出します。それは誘拐犯との生活だったけれど、薫という偽の名前での生活だったけれど、恵理菜にとって確かに愛情に包まれた季節だったのではないでしょうか。

よく「無償の愛」といいますね。「八日目の蝉」は無償の愛というものの在り処が現実世界の様々な困難や環境を乗り越えて、あるいは次元を違えて存在することを描いた作品だと思います。それは角田作品における家族というものの危うさと表裏一体なわけですが...。

役者では小池栄子が非常に良かったです。ライターの安藤千草役で恵理菜を小豆島へ連れ出すわけですが、彼女もまたこの現実社会に生きにくさを感じつつ、しかし恵理菜の子を一緒に育てたいとも言います。千草の部屋で焼きそばを食べながら自分の生い立ちを語るとこもちょっと泣けました。

映画としてはかなりアップの多い映画でした。これは今後のテレビ放送を意識してそうなったのか、あるいはほとんどノーメイクに近い女優陣の踏ん張りを際立たせる意図だったのか?映画的なシーンとしては、ラスト近くの写真館での静かなやり取りが印象的でしたね。

でもなにより、ドラマも映画も、原作を裏切らない作品になっていたことがありがたかったです。

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2011.04.10

「男はつらいよ」というファンタジー映画

今日は統一地方選挙の日だった。地上波各局が選挙速報を流す中、テレビ東京が「男はつらいよ 純情編」を放送している。これは第6作目(1971年)の作品。山田洋次監督の監督生活50周年記念の一環で、14日には「幸せの黄色いハンカチ」も放送される。

この時代の日本映画の名作をゴールデンタイムに見る機会が激減しているだけにうれしい企画だ。純情編のゲストは若尾文子、森繁久彌、宮本信子と豪華だね。

昔はよかったというつもりはない。連合赤軍の集団リンチ殺人も同時代の出来事だった。「裸の十九才」の公開も70年だった。

「男はつらいよ」は一貫してアウトサイダーの映画だったと思う。変化していくのはつねに寅じゃなく社会のほうだったが、どんな社会にも寅に安住の地はなかった。

そんな寅の放浪と一期一会の物語は、21世紀日本においてファンタジー度を増している。どこにもなかった「あの頃」を思い出させる原風景がそこにあるが、昔も今もそして未来にも「あの頃」は存在しない。

寅にはますます生きにくい世の中になった。こんなファンタジー映画を作れる映画人もあまり見当たらない。それだけに「男はつらいよ」が心のオアシスとして残っていって欲しいと思う。

この映画のどこに、だれに、どのように感情移入しながら見るか。見る側にリアルな家族の現実を想起させる。笑いながら。それがファンタジー映画「男はつらいよ」、そして山田洋次監督作品のように思う。そしてボクは常に寅に感情移入しつつ生きにくい社会に違和感を感じながらいまも生きてる。

追記:
ゴガクルの日記のほうにも日本語で関連した内容を書いたのでリンクしときます。そっちにはメディアと日本人とアウトサイダーについてみたいなことを書きました。
http://gogakuru.com/mypage_196030/diary/2011-04/10.html

そこでちょこっと紹介した本が、内田樹さんの『街場のメディア論』です。

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2011.04.09

さくら心中は錯乱心中だったのか!?

とうとう最終回を迎えたさくら心中。最終回はジェットコースタードラマだった前半と同じ勢いで、みんな幸せになっていくなか、桜子だけが不幸だったなぁ。

いま書きながら思ったのだが「ジェットコースターのようにみんな幸せになる」というドラマはあまり見たことがない。最初からどんどん幸せになって幸せを競い合ってそれでも誰も脱落せず幸せの行き着くとこまで行ってしまうというそんな縁起のいいホンが書ける人はいないものだろうか?

そんなの誰も見ないか...。人の不幸は蜜の味というからな。嘘のような幸せはほんとにうそ臭いからな(笑)。誰もが不幸を求めてるんだ。幸せの絶頂にいてもmore!more!ともっと先を求めてしまうのが人間の業というもの。
だからほどほどに幸せを感じつつ悩みもあるくらいがちょうどいい。

●嗚呼!ケンちゃんが幸せになってゆく

今回、「ケンちゃん!いいのかそれで?『さくら心中』」へのアクセスが妙に多いので、締めの一文も書いておこうと思ったわけだが、ケンちゃんが思いのほか幸せな結末で物足りない(笑)。

高利貸しでうなるほどの金持ち(それも祖父の遺産を引き継いだだけ)なうえ、さくらと不倫(さくらの論理では不倫ではなかったが)したうえ、その不倫はなんの波乱も起こさず(陸雄が嫉妬したが丸く収まったわけだし)、最後は囲っていた芸者(陸雄の血のつながらない姉)を身受けしてすでに赤ちゃんを授かっている。

ケンちゃん、なんでも手に入れちゃうんだね...。幸せって言葉はケンちゃんのためにあったんだねぇーーー!

ケンちゃんにはぜひ地獄に落ちて欲しかったけど、桜子が不幸を一身に背負わなければ話に収拾がつかないだろうからこれはこれでよかったんだろうな。

ボクのシナリオでは、さくらに振り回されたあげくケンちゃんが陸雄と関係を持ち、さくらの樹の下で男二人の心中騒ぎというのを考えていたんだけど外れたね!コメディじゃないもんね!

ありえる線としては、陸雄とさくらが心中してさくらだけがまた生き残り、さくらは何食わぬ顔でケンちゃんと幸せに暮らすというのも考えたんだけど、さすが親子3代女だけ生き残るというのはやりすぎだもんね。

●さくらの精神と肉体との分離は秀逸な対比だった

ほんとにお騒がせ女に育ってしまったさくら。しかしそれも仕方がないと思うのだ。さくらの境遇をここで一度おさらいしておきたい。

3歳までは売り飛ばされたり買い戻されたりしていた。祖母も母も心中騒ぎを起こして相手の男性だけ死んでる。そしてそれを売りにした小料理屋を営業している。さらに母の桜子は夫の父と再婚していた。しかも前の夫は桜子のかつての親友と不倫関係にあり、その家族と二世帯住宅で暮らした。母の恋敵にはめられて強姦されそうになり、それがトラウマとなって男性恐怖症に...。

さくらが新興宗教に走らなかっただけ立派だったと思う。あのエキセントリックな性格は確実に新興宗教行きだ。たぶん幹部になれるだろう。しかし陸雄の100%プラトニックな結婚という提案に乗って陸雄と結婚し、お騒がせぶりをエスカレートさせていく。

さくらがおかしくなっていったのはプラトニックゆえだと思う。このドラマは一貫してエロ礼賛ドラマだ。そんななかでプラトニックを貫こうとすることは悪なのだ。悪は精神的にもおかしくなっていくものなのだ。そしてエロ(=性=生)がトラウマとなったさくらは、心中(=死)へとまっしぐらに突き進む。

ここには精神的ジェットコースターが存在している。このドラマの秀逸なところは登場人物の行動学的ジェットコースターぶりだけではなく、精神的にも性と死、生と死の間をジェットコースターのように行き来する人々の葛藤がこれでもかというくらい薄っぺらく描かれているところだ。

エロへのトラウマの果てにあったのは陸雄とのプラトニック結婚生活とケンちゃんとの肉体関係。精神と肉体との完全分離へとさくらは突き進んだ。その葛藤の末に精神の力によって陸雄と心中未遂を起こすのだ。そして失敗する。

心中失敗によって「憑き物が落ちたように」正気を取り戻したさくら。新興宗教心中教から脱会できたわけだ。死への挫折が生への復帰を成功させた。

●陸雄という男の人生

こうなってくると、困るのは陸雄だ。精神が肉体と一体化したさくらに陸雄はいらない。いや、まだいるかいらないかわからない存在になってしまった。そうなると陸雄は不幸になってもいいはずなのだが、ここに小説家としての成功という飛び道具が出てきた。

この飛び道具もひとえに桜子=不幸を際立たせるための仕掛けだ。明らかに不幸なはずの陸雄が、一転して小説家としての成功を約束される賞を受賞するのだ。

この成功を機に、陸雄は東京へ出て行く。もちろん単身でだ。さくらは気持ちの整理がついたら東京に出て行く予定だが、正気に戻ったとはいえ性格までは直らない。この女が東京へ行くことなどないと思う。去るもの日々に疎しだ。

だが陸雄も小説家として成功し、東京で別の生活を始めるだろう。さくらを必要としない生活を。それがいい。子どもの頃の思い出を引きずってあんなヒステリック&エキセントリック女と暮らすことはない。世界はその程度には広いし、陸雄には明るい未来が広がっているのだ。正直、陸雄に一番感情移入しやすい(笑)。オレもヒステリックな美女が好きだった時期があったがもう懲り懲りだ!!!

●そして桜子が主人公だったことを思い出す

おおとりは桜子だ。オレも笛木優子主演だから見始めたわけで。桜子は桜の木と心中した、と書けばブンガク的かもしれない。

「さくら心中」は桜子という女の一代記だったのかもしれないが、それもまたジェットコースターのようで,終わってみれば特に感慨もない一代記だ...。

最後は若いものどもをぜんぶ幸せにして独り死んでゆく桜子。「しあわせ」って「幸せ」って書くけど「死逢わせ」でもあるんだよ。“なんちゃってブンガク”の類いを語ってしまったなオレ。

だがみんなを幸せにしたのは実は桜子ではなく、桜の木の功績なのだ。そして死に行く桜子の前で桜子のことを「桜の精だった」と言っては近しいみんなが納得してる図。そこに美学があるようなないような...。みんな桜の木真理教に入っちゃった!死んだのは桜子なんだよー。もっと人として悲しんでよー!

木の精と聞いて、ヤン・シュヴァンクマイエル監督の「オテサーネク」を思い出した。シュルレアリストの映画なので非常に特異な映画ではあるが、そこにある母性の狂気には、さくら心中と通じるものがある...かなぁ?これも書いてみたかっただけ。

いや、しかし昼ドラというジャンル的にはもちろんアリ!こんな世界感もあっていい。笛木優子はこれからも好きです!

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