一夜明けて
地震直後はビルの中階層にいて、棚からモノが落ちた時点でこのまま倒壊したら死ぬなと思い、ヘルメットとコートとかばんをもって非常階段へ歩きました。その後まだフロアにいた人にあとから聞くと、ロッカーや棚がすべて倒れパソコンは吹っ飛んでいたようでした。そうなると導線確保も難しくなるので、とにかく初動が肝心だと思いました。
都内は結構地震が多いため、逃げるタイミングが遅れがちなのです。ちょっとした地震程度で逃げると笑われることもあります。しかし今回は最初の揺れが縦揺れだったので、いつもと違うなと分かりました。また先日も大きな地震があったので、今回はいつもと違う地震だと確信し、ヘルメットを持っていち早く逃げ出しました。iPhoneの地震速報で宮城沖の震度がどんどん上がっているのを見て逃げた人もいました。
しかし非常階段に出たところで立っていられない状態になり尻餅をつきました。揺れはどんどんひどくなりもう立ち上がることもできなかったので、そのままの体勢で揺れが収まるのを待ちながら、非常階段が一番強度があると信じて、どうすれば生き延びられるか考えていました。私以外の誰も非常階段まで出て来ていないことも不安でしたが、ともかく座ったままヘルメットを被りコートを着て、財布と携帯をポケットに入れて、揺れが引いたらとにかく外に出ることだけ考えていました。
揺れが小さくなったので階段を降りて外に出ました。大勢の人がいて1セグテレビでニュースを見ていました。お台場の火事の映像を見てこれは大変なことになると思いました。携帯からメールをしても返信はなく(数時間後にランダムに届き始めました)、電話もつながらないのですが、ツイッターは生きていたので、そこで無事の連絡を入れました。ブログにもモブログで無事の連絡だけいれましたがメールなのでツイッターほど速くはなかったです。発信すればツイッターで返信が来たりもして、私を知っている人にとりあえず情報発信できるツイッターの威力を感じました。
しばらくは広場で動けませんでしたが、16時ごろまだ明るかったので自宅が同方向の仲間を見つけて4人で歩き始めました。交通機関は麻痺していましたが車は流れていたので、「レンタカーで帰れないかな?」と提案したら皆が賛同してくれたので店に入ってみました。
歩いて帰ろうとしていた他の仲間も私がレンタカー屋に並んでいるのに気付きこの案に乗ることになりました。しかしこの時点で8人になったので1台には乗れない可能性が出てきました。すると私の前に並んでいた見ず知らずの方が、同じ方面の人がいたらご一緒にと声をかけてくださり、2名がそちらの車に乗る事が出来ました。私たちも6人乗れる車を借りることが出来ました。
都内から埼玉へは荒川の橋を越えなければなりません。歩いて橋を渡る人もたくさんいました。そこまでは渋滞していましたが、川口側までたどり着くと、早い時間だったせいか、驚くほどスムースに走ることが出来、19時ごろには帰宅できました。実家にも連絡がつき、こちらからのメールは届いていたようでしたが、その直後に返信されたメールは3時間後くらいに届きました。今日、佐野元春ライブに行くはずだった仙台の友人の無事も確認できました。
コンビニで食料とお茶を買い込み自宅に入りました。マンションなのでライフラインが途絶えていないか心配でしたがなんとか無事でした。室内の耐震ラック以外の棚は倒れていて、どの部屋も本とCDが散乱していましたが、うちはその程度の被害ですみました。
テレビで「ここに町があったんです」という記者のコメントを聞いて胸が痛みました。比喩でなく心臓が痛くなりました。CGのような光景が現実のニュースだとはとても信じられませんでした。
誰もが経験したことのない事態。まだまだ油断はできません。いつでも逃げられる準備ととにかく食べて体力を保つことが先決。
マグニチュード8近い余震が来る可能性もあるともニュースで聞きました。9世紀以来となれば1200年というタームの大災害なので、余震の警戒も数日レベルではないように思います。なにをどうするという判断も経験があまり役に立たないようにも思います。ここからは自立した意識・判断でとにかく慎重に行動しなければならないと思います。復興のために体力と冷静さが必要だと思いました。
| 固定リンク | 0
コメント