google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg 民主主義という握り箸: ひとくちメモ

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2010/10/05

民主主義という握り箸

最近デスクトップPCを開く機会がめっきり減り、もっぱらノートPC(それもB5サイズ)を開いている時間が長い。それでブログ更新頻度が減っている。ツイッターなら隙間時間を使ってできるけど、なかなかノートPCのキーボードで文章を打つのは億劫だ。ケータイほどではないけど...。いまもノートで打ってる。

たまには何か書かないとと思って思いついたのが民主主義を疑うというしょーもないテーマ。

なんかいまの民主主義って居心地悪くて、なんでなんだろうと思ってるところ。

例えるなら、躾のなってない子どもたちの“握り箸”を正すオトナがいなくて、だれも正しい箸の持ち方を知らないまま、大多数の“握り箸”こそ民意だといって、“握り箸”という正義がまかり通っている感じ。

識字率も高く、学校教育も高度化して、そこそこ賢い人々ばかりの平和な社会。本当に豊かでつまんない悩みばかりで嫉妬深くて、歴史上稀に見るいい世の中なんだと思う。それでも人間はなにか争いや悩みごとを作り出さないと生きていけないようだ。

そこそこ賢いからこそ見えない“握り箸”があるような気がする。あるいは、謙虚になったとたんにエセ宗教やらトンデモ業者にはまったりして、バカ丸出しになってしまう人々もいる。俯瞰でみればそれもまた豊かで退屈な日常のアクセントかもしれない。そういう不幸をあえて苦しむゲームのなかで人生をやり過ごすみたいな。

強いリーダー待望論も、幻想を追い求める少年少女のような無邪気で賢い市民の娯楽のひとつだ。波紋さえ起こって日常に変化があれば喜んで受け入れるが、それ以上の干渉は許さない。そんな態度がセーフティゾーンにあることを知ってるから、安心してバッシングも出来るし、応援することもできる。無責任の幸せが末期日本にはある。

強いリーダーにみっちり躾をされるのはいやだけれども、自分の生活に干渉しないヤツならマスコミと一緒に徹底的に遊んで捨てる。市民の要求はただひとつ。「娯楽を提供して!モアモアモア!」それだけ。見えない命も、聴こえない声もあるけど、見ないし聴かない。楽しくないから。自分が切られなければオッケー。切られないためならなんでもする。そういう正義が平和の中に内包されてる。

くそっ!パンとサーカスのまんまやんけ。歴史は繰り返すってことか?パックス・ジャポニカも遠い昔の話なのに。

でもそれが握り箸民主主義の本質だと思う。最大多数の最大幸福ってヤツはそういう小ざかしい人々にもっともフィットする思想なんだろうなぁと思う。サンデル教授じゃないけど違和感ある。

「握り箸でも食えりゃいいじゃん!」って声が聞こえる。そういう誘惑は実に強力な魅力を持ってる。だからこそ握り箸を突破してメタレベルの正義の存在を求めなければ、もっと大きな危機に直面したときに対応できなくなる。

もっとも人間には寿命があり、たかだか100年弱の時間のなかで存亡の危機や価値のパラダイムシフトに当たる可能性は少ないのかもしれない。悩ましいことだ。当たればいいな。パラダイムシフトのほうに。

とりあえず、こんなもんでいいかな。ゴミのような言葉の破片を撒き散らしてみました!

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