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2010.05.23

上映後40周年目の「裸の十九才」を観る

本田靖春著『誘拐』を読了した二日後、銀座シネパトス秋吉久美子映画祭で「あにいもうと」を鑑賞し、おとといフォーク酒場昭和で撃沈しつつも熱唱し、いままた“昭和”の香りを欲している自分に気付く。1960年代から1970年代にかけての昭和の空気感を求めていた。

そんなところに原田大二郎氏が今度の参院選で民主党から出馬するというニュース。ボクの故郷でもある山口県での出馬だし、こりゃ渡りに船(?)だと思い、原田大二郎主演映画「裸の十九才」(1970年)をホームシアターで観た。選挙とは特に関係ないわけだが、きっかけはそんなもの。なんでもきっかけに使っていくのがオレ流(笑)。

この映画を観るのは二度目だ。最初に見たのはいつだったか忘れてしまったが、そのときに感じた音楽の斬新さが強烈に残っていた。今回はちょうど教育テレビで坂本龍一の「スコラ 音楽の学校」がフリージャズについてやっていて、「裸の十九才」と連続して観たのでより強烈なフリージャズのパッションを感じることが出来た。

壊れてゆく主人公と疾走感のある音楽が適切に配置されていた。その教科書どおりの適切さとは真反対に劇中何度も流れる校歌の不自然さ。不自然というと語弊があるか。意図された居心地の悪さとでもいおうか。

どっちかというとこの校歌の使い方のほうが特筆ものだと思う。この校歌がともかく不気味で哀しい雰囲気なんだ。フレーズの最後のコードもなにか違和感なのだ。すんなりキレイに終わらずトゲがある。挑発するような居心地の悪さだ。

そこで深読みしてみる。主人公のなかには音楽と呼べるものが校歌くらいしかなかったのではないかと。

人は音楽に救われる。特に10代の頃は音楽の存在が大きいものだ。私は大学生時代に音楽と世代の関わりについて世論調査したことがある(ゼミで)。当然のように若さと音楽との密接度には相関関係が見出せた。

主人公にはどんな心境のときも思い出せる音楽が校歌しかなかったのかもしれない。場面によって明るくも哀しくも響くこの校歌はいつまでも耳に残る。集団就職、淡い恋、姉のレイプ事件、離職、裏切り、嘘、放浪、犯行、どんなときも、たった一度ヒーローとなった校内マラソン大会優勝の思い出とそのときの校歌のメロディだけが救いだったのではないか。そうだと仮定してみると、こんなにさびしい青春時代はない。

この映画を語る上で母親役の乙羽信子を抜きにして語ることは不可能なのだが、あえて触れない。公開から40周年目の今年ぜひ観て欲しい一本。これは昭和を生きた母親の映画でもある。同時に現代の若者の置かれている状況を照射する映画でもあろう。

●発言を聞きたい時代に彼がいない

「裸の十九才」は連続殺人犯で後に死刑執行された永山則夫の実話を元にした映画だ。事件から2年後という記憶も生々しい1970年公開。監督の新藤兼人は事件後すぐに調査を開始したという。

永山則夫の死刑執行については当時新聞で読んだ(1997年)。髭面の優しそうな表情が犯行当時の写真とあまりにも別人のようだったのが強烈な印象だった。

そのとき彼を死刑で殺したのはもったいないとも思った。自らをここまで客観視できる(ようになった)凶悪犯は稀だ。犯罪と貧困の問題をもっと深く長いスパンで捉えるケーススタディが可能だったのではないか。

獄中で28年間死刑囚として生かし続けたあげくの執行だったが、死刑が制裁ならばもっと早くてもよかった。生かすことが罪の報いであるなら無期でよかった。28年間死刑の恐怖に怯えながら生かすことが刑罰だったのだろうか?

読み書きが不自由だった19才の永山少年は、48歳で死刑となるまでの28年間の獄中生活で初めて学ぶ時間を獲得した。むさぼるように学んでいった。貧困に学習機会を奪われた少年の犯行。だが貧困だからといって誰もが殺人者にはならない、と思う。そこについて監督の新藤兼人は入念な取材を通してこう言う。

-----(引用ここから)----------
理由なく四人の無縁の人を殺害した罪だが、永山則夫が犯した罪は貧しさのせいだ。それをわかる人はいない。それは永山則夫ほどの貧しさを味わった人も知った人もいないからだ。
-----(引用ここまで)----------

貧困と犯罪の関係性については、前に読んだ『誘拐』の小原保と共通する。時代背景も同じ高度成長期。社会のひずみが大きかった時代。正のエネルギーが充満していたとき、負のエネルギーもまたふつふつと燃え上がっていた時代。

翻って21世紀の現代はどうだろう。永山則夫や小原保の時代よりは物質的に豊かになったが、確信的な格差社会創出を目論んだ旧自民党政権末期(新自由主義的政権)が相対的な貧困層の増大を内包し始めた。

政治にも経済にもモラルがなくなり社会への無関心を生み続ける。市民は政治にあきれはて関心を失っていくわけだが、これがはからずも愚民化政策と似た効果となって社会全体の教育の貧困にもつながっている。それは現民主党政権にも受け継がれてしまった。さらに政治主導という甘言でセーフティネットとしての官僚組織も瓦解寸前だ。物事には順序がある。段取りを間違えた仕事はやらないより始末が悪い。

バブルが弾けて20年になろうとしている。大多数はモノを考えなくても食っていける分、貧困層はどんどん見えなくなってゆく。もっと俯瞰してみれば、もう高度成長期のような右肩上がりの“オモテの世界”すらない。新たな、そして深刻な「裸の十九才」を生む土壌がないだろうか。

そんなことを考えていると、2008年に起こった秋葉原の無差別殺人と永山則夫を重ねている記事を見つけた。この記事の主旨はメディアスクラム(集団的加熱報道)に向けられている。

また現役家裁調査官が永山則夫少年を分析しようと試みた「永山則夫 聞こえなかった言葉」(日本評論社)という書籍もあった。これは知らなかったので早速注文した。秋葉原事件よりも前(2006年)に出版されているのも興味深い。

いま獄中に永山則夫がいたら何を発言するだろう。しかしもう彼はいない。新たな永山則夫の誕生を待つなんてありえないが、凶悪犯罪は繰り返されるだろう。少しずつでも社会が学んでいくしかないのだろうが、社会そのものが集団ヒステリー気味で病いの進行が速い。だから歴史は繰り返すのかもしれない。悲劇を増大させながら。

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