『誘拐』 犯罪者は社会的弱者である
今年上半期もっともはまったドラマは「八日目の蝉」だった。もうひとつのNHKドラマで「チェイス」も今週最終回だが、どちらも誘拐がドラマのベースにあった。今年はそういうめぐりあわせなのか、書店の平台で本田靖春氏の『誘拐』(ちくま文庫)が目に付いたので購読した。
その筆力に圧倒された。事実の積み重ねが、ひとつの物語としても小説を凌駕する。虚構だったらこの迫力は出ないように思う。さらにこの緻密な構成力。登場人物は多いけれど、そのひとりひとりが丹念に描かれ、誘拐殺人事件の背景となった社会状況や人物像が行間からにじみ出てくる。
著者は文庫版へのあとがきでこう書いている。
---(引用ここから)-----
私は十六年間の新聞社勤めの大半を社会部記者として過ごした。そして、その歳月は、犯罪の二文字で片付けられる多くが、社会の暗部に根ざした病理現象であり、犯罪者というものは、しばしば社会的弱者と同義語であることを私に教えた。
---(引用ここまで)-----
『誘拐』は著者がフリーになったあとの作品だが、記者生活で得た「犯罪者は社会的弱者である」との確信が作品に練りこまれている。それが単に犯罪者への同情を引く浅い色づけなどではなく、社会病理の根源とそこに不幸にも遭遇してしまった人間たちを描ききろうとする意志によって貫かれている。
この誘拐殺人事件は私が生まれるより少し前、高度成長真っ只中に起こった。沸き立つ社会の片隅に生きていた陽のあたらないひとりの弱者の姿を、誘拐殺人事件という悲劇のノンフィクションによって知る。本田靖春氏がこのテーマを選び描かなければ小原保は極悪非道なだけの誘拐犯としてしか残らない。21世紀の今、その名や事件から何かを感じるということもなかっただろう。
しかし読み終えて、ここまで精緻に迫らなければ社会的弱者である犯罪者への想像力は持ち得ないこともわかる。昨今のジャーナリズムにその力や意志があるだろうかと不安になる。だからこそ、死刑に懐疑的でなければならないし、扇情的なマスコミに懐疑的でなければならないし、忘れられた民への目線を忘れてはならないと思う。
誘拐事件は減ったように思うけれど、格差拡大に歯止めがかからない現代、新たな社会的弱者は日々量産され、無差別殺人など現代的ともいえそうな事件はなくならない。豊かさの裏側で忘れられてゆく人々。政治が忘れ社会が置去りにし救いもなく孤立し先が見えない人・人。
服装の乱れとか有名人の不規則発言とか噛み付きやすい話題には異常なバッシングを繰り返す豊かな社会の一方で、行き場のない犯罪が生まれ裁かれる社会の怖さ。このようなノンフィクションによって知りつつも、もう元には戻れない日本の現状をどうすることも出来ない。せめて事象の背景への想像力だけは失くさないようにしなければ。
本田靖春氏のこの著書はノンフィクションの金字塔と言われていて、文庫の解説を書かれている佐野眞一氏の著作等でその存在は知っていたけれど、重そうな内容なのでずっと読む時期を先延ばししていた。それがちょうどいま、佐野眞一氏がダイエーの中内功社長に迫った『完本 カリスマ』(ちくま文庫)の上巻を読んでいたタイミングでもあり、ドラマ「八日目の蝉」を見終わった時期でもあり、書店平台で目に付いた偶然の出会いもあって、読もういう気になった。確かに必読の書だった。
死刑囚となった小原保が最後に拠り所とした土偶短歌会は顧問格に中西悟堂がいて、小原保の俳句掲載が可能となったという。そこに掲載された句は胸を打つ。ふいに中西悟堂の名前が出てきて驚いた。またもう一方の主人公でもある、小原保の自供を引き出した平塚刑事は、小原処刑の日、三億円事件特別捜査本部にいたそうだ。三億円事件は私が生まれる三日前に起こった事件だった。本筋とは別に人物の名前や時代背景が登場することで、そこに書かれた事件が決して絵空事でない、すぐ隣にある世界だと感じる。ノンフィクションならではといえる。
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